3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2014年09月

『NO』

 1988年、ピノチェト独裁政権下のチリ。国際的な批判も高まる中、ピノチェトの任期延長の是非を問う国民投票の実施が決まる。広告プロデューサーのレネ(ガエル・ガルシア・ベルナル)は任期延長反対派「NO」陣営のキャンペーンを依頼される。監督はパブロ・ラライン。
 時代感を出す為にざらっとした画質にしてあるので、作中に挿入される実際に当時放送されたというCMや、ニュース映像との違和感がない。あれっここ当時の映像だっけ?と混乱したところも。それくらい、当時の雰囲気を再現しているということだろう。
 レネはどちらかというとピノチェト任期延長には反対だけど、体制に楯突くほど主義主張がしっかりしているわけではない。政治的活動を続け、警察に捕まることもしばしばな妻とは対照的だ。そんな彼が、一貫して「広告屋」として勝負していく。「アメリカのCMかよ!」と非難されたりするけど、まずは見る側の関心を引けなければ負け、というところが徹底している。彼の上司はピノチェト派のYES陣営にいるので、投票キャンペーンでは敵同士、しかし社に戻って一般企業のCMを作る際には一緒に現場に行く、というなんとなく奇妙な関係も、正に「仕事」という感じで面白い。YES派がNO派の宣伝をパロディ化して乗っかっていくところなど、まさに広告合戦という感じ。世界を変えようとする戦いを描いていると同時に、オーソドックスなお仕事映画でもあるのだ。
 NO派は、楽しくてユーモアのあるものを、ということで音楽やカラフルな映像を多用して攻めていく。やっぱり音楽や映像のインパクトってバカにできないんだろうけど、悪用もできるってことだよなぁと少々複雑な気持ちにはなる。楽しさにごまかされることも結構あるだろうし、実際、ピノチェト側もレネと同じような手法の広告で反撃してくる。人間て、必ずしも正しさで動かされるわけではないんだよなという皮肉も感じた。
 それにしても、尾行・スパイが日常茶飯事で、ちょっと問題視されるとすぐに体制側がプレッシャーかけてくる(当然家族の所在も筒抜け)世界というのは恐ろしいな・・・。

『イヴ・サンローラン』

 フランスが世界に誇るファッションデザイナー、イヴ・サン=ローランの半生を描く伝記ドラマ。1953年、クリスチャン・ディオールの後継者に選ばれた21歳のサン=ローラン(ピエール・ニネ)は、デビューコレクションで一躍脚光を浴びる。彼の才能にほれ込んだ実業家ピエール・ベルジェ(ギョーム・ガリエンヌ)は公私共にサン=ローランを支え、ついに独立したメゾン「イヴ・サンローラン」を設立。しかしプレッシャーに耐えかね、サン=ローランは徐々に薬物やアルコールへの依存を深めていく。監督はジャリル・レスペール。ビエール・ベルジュ本人やイヴ・サン=ローラン財団の協力を得て、実際に財団が所有する衣装が使われていることでも話題になった。
 映画冒頭から、タイトルが出るまで結構かかるのだが、これがよかった。この人の活躍がこれから始まるぞって感じがする。対して後半は起伏に乏しく、終わり方はここで終わっちゃうの?って感じだった。サン=ローランのキャリアのうちで最も劇的な部分だけ切り取ったってことなんだろうか。伝記映画としてはかなりあっさり目で物足りないが、まだ他界してそれほど年数経っていない人だし、各方面への配慮とかあるのだろうか。
 数年前(サン=ローランが亡くなって間もない頃)、サン=ローランのドキュメンタリーを見た時に受けた印象と、本作中のサン=ローランの造形に対する印象はそんなに変わらない。これがオフィシャル版のサン=ローランということなんだろうと思う。サン=ローランは神経質で付き合い難い面があっても、それほど破天荒というわけではなかったんじゃないかな。むしろ生真面目かつ正直な性質で、オフィシャルな場では面白みには欠ける人だったのかもしれない。作中で取材を受けるシーンがあるが、お世辞にも洒脱とは言い難く、ベルジェに「つまらないことを言うな」と釘を刺されたりする。対してベルジェは空気を読む能力に長けていて人当たりがよく、そつがない。
 サン=ローラン本人の印象が意外と残らず、むしろ舞台裏の人であったベルジェの人となりの方が立ち上がってきた。元々ファッションにはそれほど興味なかったところ、サン=ローランに惚れてメゾンを立ち上げるまでになる。美しいものを愛する面と商売人としてのこすっからい面とが絡み合っていて、これはこれで魅力的な人だったんじゃないかなと思わされた。ベルジェはサン=ローランに「君はデザインをしろ、それ以外は私がやる」と約束する。相思相愛の若い頃にした約束だが、お互いに心が離れても約束を全う したあたり、彼のサン=ローランに対する筋の通し方だったんだろう。ビジネスマンとして非常に優秀だったってことでもあるだろうが。演じるガリエンヌの力でチャーミングさが増したというところもある。ただ、ベルジュがモノローグを入れていく構成は野暮だったと思う。それをいちいち言うのか!って感じで。
 

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』

  トレジャーハンターの自称「スター・ロード」ことピーター・クイル(クリス・プラット)は、惑星モラグの廃墟で正体不明の球体「オーブ」を盗み出し高値で売ろうともくろむ。しかしオーブには銀河を滅亡させるほどの力が宿っており、その力を狙ってザンダー人の滅亡を企むロナン(リー・ペイス)が動き出す。監督はジェームズ・ガン。原作はマーベルコミックスの同名作品。
 映画として精緻によくできているというわけではないし、SFや冒険ものとして新しい要素があるわけでもない。むしろなんとなく(挿入歌の効果もあり)レトロな雰囲気。でもすごく楽しかった。作る側の楽しませよう!という意欲をすごく感じる。ジェームズ・ガン監督、『スーパー!』の屈折感はなんだったんだよ!あれで憑き物が落ちたのか(笑)!
  オーソドックスな少年漫画的な良さと強みがある作品だと思う。王道の「チーム」による冒険譚でもあるし、クイルが子供時代をようやく昇華させ、一歩踏み出すまでの成長物語でもある。 クイルに限らず、彼の仲間になる人たちは基本問題ありのトラブルメーカーだし、さまざまな形で傷ついたり屈折したり、自分の人生をあきらめたりしている。そんな人たちが本当の「仲間」に、そして本当の「ヒーロー」になろうとするシーンには、不覚ながら涙してしまった。負け犬のリベンジというカタルシスはもちろんあるのだが、人は人を助けようとするものだ、というような、人間の善良さをシンプルに信じるスタンスが根底にあるように思った。クライマックスの総力戦など、まさにそれだと思う。近年のアメコミ原作映画としては、このオプティミズムはむしろ珍しいんじゃないかなー。でも少年漫画としてはすごく正しい。
  いわゆる懐メロである挿入歌の使い方がちょっとマヌケで笑っちゃうのだが、でもばっちり合っている。ちょっとマヌケ、でもばっちりというスタンスが本作のあり方を象徴している気がした。

『るろうに剣心 伝説の最期編』

 『るろうに剣心 京都大火編』の続編。明治政府転覆を企む志々雄真実(藤原竜也)の戦艦から海に逃れた緋村剣心(佐藤健)は、かつて剣術の師匠であった比古清十郎(福山雅治)に助けられる。志々雄を倒すために奥義を会得したいと、剣心は清十郎に頼み込む。一方、志々雄は戦艦の威力を示し、政府に対して剣心を捕え、処刑しろと要請する。原作は和月伸宏の漫画。監督は大友啓史。
 京都大火編に比べると、そんなに上映時間は変わらないのにコンパクトに収まっている印象。こなさなくちゃならない要素がこちらの方が(まだしも)少ないからかな?ただ、アクションシーンはどういうわけか前回よりも見難くなっている気がした。俳優の技術的な問題もあるのかもしれないけど、なぜここで(漫画で言ったら)コマ割るのかな?みたいな部分が多かったように思う。1ショットが短すぎ、つなぐところも不自然で動きの連続性が分断されているような印象を受けた。私のアクションに対する好みの問題もあるのだが、もっと長めのショットで、カメラ寄りすぎずで見てみたかった。カメラをがちゃがちゃ動かしすぎだし細部に寄りすぎなんだよ・・・。
 ストーリーの組み立て・落としどころとしては、原作との兼ね合いを考えても妥当だったのではないだろうか。志々雄一派の個々の面子の紹介とか、蒼紫(伊勢谷友介)の扱いなどなげやりもいいところなのだが、原作を読んでいることが鑑賞の前提になっているんだろうし、そんなに難点にはならないのかな。
 大友監督にとっては、ドラマ『竜馬伝』と対になる作品という気持ちがあるんじゃないのかな。『竜馬伝』は大河ドラマ、本作は歴史ファンタジーとでもいうような作風だが、終盤の志々雄の言葉や明治政府の態度を見ると、表裏関係は意識していたんじゃないかな思う。『竜馬伝』は時代の先端に立った(そして歴史に残った)人の話だけど、本作は時代のメインストリームから振り落とされた人たち(クライマックスの5対1バトルなんて全員貧乏くじひいた組だよなと)の話とも言える。最後の伊藤らによる「あれ」は、真面目にやってる設定なのかもしれないけど茶番や皮肉にも見えた。どっちのつもりだったんだろう。まあ本作、厳密に史実を踏まえているわけではないから別にいいといいえばいいんだけど・・・。

『リヴァイアサン』

 アメリカ東海岸、マサチューセッツ州の港町ニューベッドフォードから出向した、底引網漁船アテーナ号。カメラは船と共に絶海へと向かう。監督はルーシァン・キャステーヌ=テイラー&ヴェレナ・パラヴィル。2人は映像作家であると同時に、ハーバード大学「間隔民族誌学研究所」所属の人類学者でもある。
 底引網漁漁船に密着したドキュメンタリー、ではあるものの、底引網漁がどういったものか、どういう魚が捕れるのか、漁師たちの生活はどのようなものか、といった普通のドキュメンタリーに出てきそうな要素に対する解説はほぼない。漁船、という対象から想像するものとはかなり違った映像体験だと思う。
 フィクションにしろノンフィクションにしろ、映画における「目」は、大概の場合人間にとっての世界を見る「目」、人間が見るように見る「目」だと思う。そもそも映画は人間が撮るものだから、そうならざるを得ない。しかし本作はGR-PROという超小型カメラを使用、カメラを船からつりさげたり水中に突っ込んだり床に転がしたりすることで、撮影者がカメラをコントロールすることを放棄し、偶然性に任せた。撮影できた映像を編集する過程で撮影者の作意が反映されるが、個々の映像に関してはこう撮ろうとかこれを見せようといった作意が極薄い(ように見える)。何かがそこに「ある」という状態のみが、映像を見ている側にインパクトを与えるのだ。
 目の前で大量の魚が引き揚げられ、内臓を取られて水槽に投げ込まれて、といったなかなか見る機会がない映像を、それこそ魚目線で見る、不思議な体験だった。人間以外の目線で世界を見る、という要素が本作の最大の面白さだろう。人間である船員も登場するが、圧巻は、海鳥の群れと海面とをいったりきたりするショット。なぜだか見ていると解放感を感じるのだが、人間の目線の制約から逃れているからかもしれない。

『フランシス・ハ』

 ブルックリンで親友ソフィーとルームシェアしているフランシス(グレタ・ガーヴィグ)。モダンダンサー志望だがいつまでたっても「研修生」のまま。彼氏との同居に乗り気になれず破局し、更にソフィーとの同居も解消となって八方ふさがりに。監督はノア・バームバック。脚本はバームバックとガーヴィグの共作。
 フランシスはいわゆる「ちゃんとした大人」というわけではない。社交的な場での空気は読めないし、定職があるとも言い難い(ダンスカンパニーには所属しているが、正団員ではないのでおそらく身分も収入も不安定)。ソフィーに「喧嘩ごっこしよう!」と誘う様は学生時代の気分をずっと引きずっているように見える。でも、実際のところ「ちゃんとした大人」なんているのか?皆そんなにちゃんとしていないけど、なんとかちゃんとしている風にみせているだけじゃないのか?フランシスは良くも悪くも正直者なのだ。
 フランシスは気は強いのに頼りないし、だらしないし、見ていて心配になるのだが、それでも応援したくなるのは彼女のその正直さ故かなと思った。何より、ものになるならないは別として、自分の好きなものからは逃げないところ。形はどうあれ、好きなままでいいじゃないかという気分になる。本作のラストはわりと楽観的というか、幾分ファンタジーではあると思う。が、経済面はともかく気持ちの上ではそんなにファンタジーじゃないんじゃないかな。リアルに寄せすぎるとシビアすぎて直視できなくなりかねないだろうし・・・と思っちゃうところが本作の限界なのかという気もするが。
 1人の女性のある時代の終わりを描いたようでいて、実はそうじゃないよなと思った。そもそも「時代」ってなんだ!フランシスはフランシスで別の人になったわけじゃない、ずっと続いているんだよなーと。彼女が走る姿はともすると大人げないが、大人が走ったっていいじゃないか。

『世界の果て、彼女』

キム・ヨンス著、呉永雅訳
21世紀韓国文学の担い手と言われ、ベストセラー作家である著者の中編集。ベストセラーというと、読んだ人が共感できる、一般化されたわかりやすさが書かれている気がするのだが、本作で描かれるのはむしろ、他人と分かち合えない感情ではないか。どの作品でも多かれ少なかれ、自分が感じていることを他の人に説明できない、理解してもらえないもどかしさや孤独感が描かれる。自分の体験や思いの大半は、他人から(完全には)理解されることはない、お互い同じように感じることはできない、という諦念がベースにあるように思った。人生には美しさや喜びはある、しかしそれは本来、他人とわかちあうものではないのではないか。それがさびしいとか哀しいとかいうわけでもなく、淡々とそういうものだろからそれでいいんだ、と納得していく感じがした。

『刑事たちの四十八時間』

アレックス・グレシアン著、谷泰子訳
英国中西部の炭鉱村で、幼い子供と両親が行方不明になった。スコットランド・ヤードのディ警部補とハマースミス巡査部長は地元の警官に請われて捜索に出向くが、猶予は2日間。しかも村では奇妙な病気が蔓延していた。発見された目玉や血痕のついたドレスは誰のものなのか。『刑事たちの3日間』に続くシリーズ2作目。前作はボリュームのある警察(といっても組織としてはまだ出来たてって感じだったけど)小説的だったが、本作は48時間というリミットもあって、ジェットコースターのようなスピード感あるサスペンス。村の因習や迷信といったオカルト的な雰囲気が目くらましとなり、寒さと雪にも捜査を邪魔される。それでも実直に捜査を続けるディとハマースミスが魅力的。特にハマースミスは、女性がつい長めに見てしまうくらいハンサム(笑)という設定なのだが、本人に全く自覚がなく身だしなみが下手(笑)かつクソ真面目というキャラの立ち方。悪気はないがトラブルメーカーな宿屋の主人や、何か訳知りらしい兄妹など、脇役の造形もいい。訳もこなれていて、生き生きとしており読みやすかった。

『フライト・ゲーム』

 ニューヨーク発ロンドン行の旅客機に搭乗した、航空保安官のビル(リーアム・ニーソン)。いつも通りの業務のはずだったが、携帯電話に「1億5000万ドル送金しなければ20分ごとに機内の人間を殺す」と匿名メールが入る。いたずらだと思ったビルだが、実際に死人が出る。更に送金先口座の名義がビルのものだと判明し、テロリストの疑いをかけられてしまう。監督はジャウム・コレット=セラ。ニーソンとは『アンノウン』に続いてのタッグとなる。
 『アンノウン』は主人公の言動が客観的に見ていまいち信用できない、語りの根っこがずっと揺らいでいるような構造だったが、本作も似たところがある。ビルは犯人捜しに必死なのだが、必死になればなるほど行動が荒っぽくなるので、結果彼自身が一番怪しく見えてしまうし、実際、彼にはあまり信用できない要素も盛り込まれているのだ。ビルに対する不安感を引きずりつつも疾走するストーリーテリングは、ミステリとしての強引さを(少なくとも映画を見ている間は)気にさせないスピーディーなもの。犯人の計画が回りくどすぎというか、事態に対するコントロール力がありすぎて変なバランスになっているのだが、そこも気にはならなかった。こういう理詰めの部分を「まあいいか!」と思わせる力って大事なんだろうな。
 いわゆる犯人当て要素のある作品だと、キャスティング上この人が犯人だろうなと察されてしまうことが往々にしてあると思うが、本作はそのあたりはクリアしている。そもそも「犯人は絶対わからない」と宣伝で謳っているいるだけのことはあって、確かにわからない。ミステリとして超絶技巧だからではなく、強引すぎるからなんだけど・・・。
 リーアム・ニーソンがアクションスターとして定着したのが意外でもあるのだが、製作側にとっていてくれると助かるポジションの俳優になったんだろうな。本作ではビルが自分の無実を証明し事件を解決しようとするという物語と、彼が自分の人生自体をもう一度やりなおそうとする物語が重なっており、こういうところでニーソンの起用が活きる。彼が演じると単にアクションヒーローというだけではなく、もうちょっと陰影がある役柄への説得力が増すのだ。



『ローマ環状線 めぐりゆく人生たち』

 ローマを囲む環状高速道路GRA周辺に暮らす人々の姿を映す、ドキュメンタリー。2013年の第70回ベネチア国際映画祭で、ドキュメンタリーとしては初めて金獅子賞を受賞した。アパートに住む老父と娘、シュロの木に寄生する害虫の研究と駆除に熱意を注ぐ植物学者、昼夜問わず奔走する救急隊員、移民の妻と暮らすウナギ漁師、かつては豪奢だったであろう屋敷に住む没落貴族など、様々な人たちの生活の一面が垣間見られる。監督はジャンフランコ・ロージ。
 他人の生活を垣間見ることは、下世話ではあるが覗き見するような楽しさがある。特にマンションの住民たちを映したパートは、カメラは室内に入ることなく窓の外から撮影しているので、「覗き見る」テイストが一番濃い。彼らの話を聞くうち、この父娘は会話が一方通行なようでいて意外と仲が悪くないなとか、どうもちょっと前に洪水があったらしく、代替住宅として使われている物件らしいなとか、彼らの生活や背景が垣間見える。この「ちょっと見える」という感じに、なんとなく安心する。ここでも人は生活しているんだなという当たり前のことが実感されるのだ。
 一方で、植物学者や没落貴族のような、この人は一体何をやって生活しているんだろう、というような浮世離れした人たちもいる。どちらもある種の世捨て人のようにも見えるのだが、植物学者は自分の生活に満足しているんだろうなという様子が見て取れるのだが、貴族の方は過去の歴史にすがって生きている感じで、どうにもやるせない。あえて時代から距離を置く人と、時代に置き去りにされた人という対比に見える。
 印象に残ったのは、ウナギ漁師の夫婦のどうということない会話(というか夫の一方的な話しかけ)。劇的なものはなにもないが、2人の関係がちゃんと成立している感じがする。そして料理がおいしそうだった。本作で一番和んだ部分かもしれない。また、救急隊員と、おそらく痴呆が進んでいる母親のやりとりも陰影が深い。「行かないで」と繰り返したり、息子が幼い頃にやったであろう手遊びをする母親の姿にはしんみりとした。親が老いていくってこういうことなんだろうなぁ。

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