3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2014年07月

『あのとき、この本』

こうの史代漫画、「この絵本が好き!」編集部編
71人の様々の人たちが、自分にとって大切な1冊の絵本を紹介する。この人がこの本を選ぶのか、そういう読み方をしていたのか、という楽しさがある(絵本作家の場合は自作にまつわるエピソードを紹介していたりも。五味太郎が自著を某所で見かけた話は、それ自体が「お話」っぽい)。何より、馴染みのある題名が次々と出てきて、そうそうそこがいいの!と執筆陣と握手したくなる。子供のころに読んだ本、子供に向けた書かれた良質な本は心への定着率が高いなぁ。シンプルで物事の芯の部分をつかんでくるからだろうか。具体的にどうこうというわけではないが、ずいぶん影響を受けたし、自分の読書の下地にもなっていると実感する。

『思い出のマーニー』

 札幌で養父母と暮らす12歳の杏奈(高月彩良)。学校では周囲から浮きがちで、持病のぜんそくも悪化していた彼女は、海辺の村の親戚の家で療養することに。村の子供たちとも馴染めず一人でスケッチに出かける毎日だったが、ある日古い屋敷に住む金髪の少女マーニー(有村架純)と出会い友人になる。原作はジョーン・G・ロビンソンの児童文学。監督は米林宏昌。
 少女2人の絆、という面が言及されがちだし、宣伝上もそこを強調している(宣伝としては正解だと思う)が、実際のところ、そこが肝というわけではない。2人の関係は男性同士でも男女間でも成立しうる(少なくとも原作はそうだが、映画は2人の年齢を若干上げているので、男女間だとニュアンス変わってきてしまうかもしれないけど)ものだろう。杏奈にとってマーニーとの友情はもちろん重要だ。しかしそれ以上に、マーニーと交流することによって引き起こされ変化や、それによって見えるようになった風景の方が、彼女がこの先生きていくうえではより大切だろう。マーニーは杏奈にそれを気づかせる為に来てくれたとも言えるのだ。本作のコピーである「あなたのことが大好き」という言葉が意味するものが、映画を見た後にはより広がりを見せると思う。
 杏奈の言う「輪の外」の状態にはひしひしと共感するし、同世代の人の目に触れたくないとか、相手が親切でやってくれていることをそうは受け取れない(七夕祭りのエピソードはまあ身につまされて身につまされてな・・・)など、ジブリアニメのヒロインらしからぬメンタリティだが、杏奈に共感する人は大勢いると思う。映画としてのクオリティ云々を超えて、その他人事でなさが迫ってくる。逆に、杏奈の心情にあまり共感するところがない人にとっては、物足りない作品なのかもしれない。
 私は原作にすごく愛着があって、もし変な映画化されていたらどうしようと心配だったのだが、古典少女小説のような、かつての「ハウス名作劇場」を彷彿とさせる、こじんまりとした良作でほっとした。舞台を北海道に置き換えていることも特に違和感なかったし、原作をそれなりに尊重していると思う。米林監督の前作『かりぐらしのアリエッティ』では、キャラクターの演技・デフォルメが時にやりすぎで品がなくなる点が気になった(監督本来の作風じゃなかったんじゃないかなという演技が目立った)が、本作はその点は改良されていたと思う。全体的に落ち着いたトーンで安定感がある。また、食事がちゃんとおいしそうなところは美点だと思う(宮崎駿の食事シーンは、燃料投下みたいであんまりおいしそうではない!)。
 ただ、アニメーションとして気になる部分もあった。やはりコメディチックな演出が苦手なんじゃないかと思う。叔父さん夫婦の車の中jがごちゃごちゃで揺れると物が転げだすシーンは、ずいぶん取って付けたようなことをやるなぁと思った。また、自動車にしろ電車にしろ、乗り物の書き方がぎこちない。わざとなのかもしれないがずいぶん寸づまりな車体だった。また、脚本上でも、原作よりも登場人物の設定が上がっているせいか、会話に不自然なところも。中学生くらいならもうちょっと違った言い方をするんじゃないかなと思った。

『マレフィセント』

 ディズニーが作った『眠れる森の美女』(1959年)に登場する、邪悪な妖精マレフィセント(アンジェリーナ・ジョリー)。彼女がなぜオーロラ姫に眠りの呪いをかけたのか、マレフィセント側から物語を語りなおす。彼女はかつて、大きな翼を持ち仲間を愛する、妖精たちの森の守護者だった。監督はロバート・ストロンバーグ。
 ストロングバーグは『アバター』(ジェイムス・キャメロン監督)や『アリス・イン・ワンダーランド』(ティム・バートン監督)のプロダクションデザインを手掛けた人。アバターはともかくアリス~の美術は作り物的すぎて正直苦手な方向性だった。本作も倦厭気味だったのだが、テーマパークっぽさは否めないものの、そこまで気にはならなかった。アンジェリーナ・ジョリーが纏う衣装がどれもとても似合っているし、頬のこけたメイクもばっちりで、彼女のビジュアルだけでも見て得した気分にはなった。
 ただ、映画としては話の展開の仕方が単調かつ直線的で、なんだかメリハリがないなと気になった。エピソードをどんどん消化してはい次、はい次、という感じ。同じディズニー映画の『アナと雪の女王』を見た時も同じことを感じたので、最近のディズニーはあえてこういう傾向にしているのかな(確かに子供にはわかりやすいとは思う)。
お話としては「本当は○○な昔話」的なもので、これはこれで面白いとは思う。政治的に正しい解釈もできるよ、ということか。が、このやり方はやり始めるときりがないし、ディズニーにとっては自分の首を絞めることになりかねないんじゃないかとも思う。じゃあ白雪姫でもシンデレラでもやるんですか、とか、そもそも今後どういうスタンスで古典作品を見ればいいんですかって気分になってくる。まあディズニーはそのへんあんまり頓着しなさそうだけど・・・
 『アナと雪の女王』を引き合いにする感想をちらほら目にしたが、それは頷ける。確かに、男性に対するスタンスや「愛」のあり方には通じるものがあるなと思った。ただ、本作の方がより男性不在、というよりも男性、男女間の愛に対する憎しみがはっきりと描かれていて、そこはだいぶ違う(アナもエルサも男性を憎んでいるわけでも男性不信というわけでもないから)。本作は社会との関係性というより、異性(というか自分をセックスの対象とする存在)から辱められた人が回復する話と言った方がいいのかも。それが女性同士の絆や愛で回復するものなのかというと微妙だが。

『ママはレスリング・クイーン』

 服役を終えて出所したシングルマザーのローズ(マリルー・ベリ)は息子のミカエルと再会するが、ミカエルは里親に懐き、彼女を拒絶する。息子がプロレス好きと知った彼女は、興味を引く為にプロレスを習おうと決意し、スーパーマーケットの同僚であるコレット(ナタリー・バイ)、ジェシカ(オドレイ・フルーロ)、ヴィヴィアン(コリンヌ・マシエロ)を誘って特訓を開始する。監督はジャン=マルク・ルドニツキ。
 そんなにストーリーの進め方が巧みであるとか洒脱、しゃれているというわけではない(むしろダサい寄り)、どちらかというと素朴な映画だ。一部、登場人物のキャラクター造形が大ざっぱで一貫性がないのも気になった。しかし、4人の女優がとにかく生き生きとしている。そこが本作のもっとも良いところ。まさかナタリー・バイが女子プロレスの衣装を着て登場するなんて!
 息子との問題を持つローズはもちろん、4人の女性は、現状に何かしらの問題や物足りなさを感じている。コレットはいわゆる良妻賢母といってもいいくらいなのだが、夫の浮気が絶えない。ジェシカは“ビッチ”キャラを自認しているがどこか地に足がついていないし、ヴィヴィアンは変わり者として周囲から遠巻きにされがち。4人とも全然タイプは違うのだが、周囲が「こういう人だろう」「こうあるべき」と思っている自分像に、ちょっと疲れ気味なところが共通しているように思った。自由そうに見えるジェシカやヴィヴィアンも、本当は純情な恋心を持っていたり、皆に好かれたかったりするのだ。
 そんな彼女たちが、周囲が自分たちに見ている「キャラ」から自由になっていくと同時に、その「キャラ」を放棄するのではなく、逆に自分たちのものにしていく様が、単なる「ありのままの自分」探しとは違って、大人(というか世間と折り合っていこうという)な感じがした。プロレスもリング上である「キャラ」を演じて闘うものだろうから、そことの対比がちょっと面白い。この舞台だったら自分のこの面を出してもいいじゃない、という感じの演じ方のように思った。特に、“ヒール”役を嫌がるヴィヴィアンに少女が掛ける言葉がいい。例えの事例も映画ならではのものでニヤリ。


『火の馬』

 パラジャーノフ生誕90周年映画祭にて鑑賞。セルゲイ・パラジャーノフ監督の第1回長編監督作品。1964年の作品だが、当時、ソ連で禁止されていた宗教色や民族色が濃厚だということで、再編集を要求されたが、それを拒んだために生涯不遇をかこつことになったとか。カルパチア山脈の奥地に住むイワンとマリーチカは幼馴染同士で、やがて愛し合うようになる。しかし2人が生まれた一族はお互いに憎み合っており、やがて2人を悲劇が襲う。
 ロミオとジュリエットのような悲恋物語。後のパラジャーノフ作品に比べるとかなりドラマらしいドラマで、『ざくろの色』などがイコンなら本作は絵巻物のよう。ともすると乱暴にも見える撮影(カメラが空を映してぐるっと反転するのには笑ってしまった。そっちの方向かよ!と)には躍動感がある。特にイワンとマリーチカの子供時代のパートは、どこを切り取っても本当にキラキラとしていて美しい。野山の風景の美しさもいいが、子供2人の表情もすごくいい。2人にとって、この時代が一番幸せだったのかも、と思えてくるようなキラキラ感に満ちている。
 ただ、2人が離れ離れになると、トーンは一気に地味になる。さまようイワンの姿は亡霊のようだし、他の女性と結婚して所帯をかまえるものの、映画の流れは緩慢で印象もぼんやりしている。
しかし終盤、「彼女」が窓ごしに姿を現すシーンでびりっと締り(「嵐が丘」みたいだなと思った)、イワンが「彼女」を追う一連のシーンはめくるめくようなエネルギーが感じられて素晴らしかった。イワンの人生は、マリーチカとの青春時代と共に既に終わっており、この瞬間までは幽霊のようなものだったのではないかと思う。幽霊として余生を生きざるを得なかったイワンが哀しいが、幽霊に付き合わされてしまった彼の妻もまた気の毒だ。本作で一番割を食っているのは彼女だろう。
 地域に根差した風俗色が濃厚で、生活様式にしろ服装にしろ、冠婚葬祭の様子にしろ、これらを見ているだけで物珍しい。海外で公開された当時も、映画そのものとしてはもちろん、エキゾチズム的な面白がられ方をしたんじゃないかなと思う。

『アシク・ケリブ』

 パラジャーノフ生誕90年映画祭にて鑑賞。セルゲイ・パラジャーノフ監督、1988年の作品。ロシアの詩人レールモントフによる恋物語を原作としている。吟遊詩人のアシク・ケリブ(ユーリー・ムゴヤン)は、裕福な家の娘・マグリと愛し合い、結婚を望むが、マグリの父親はそれを認めない。アシクは1000の昼と夜の後、必ず戻ると約束して修行の旅に出る。
 パラジャーノフ監督の作品としては『ざくろの色』と同系列、同じ文化背景にあるのだろうか。『ざくろの色』ほどの徹底した様式美ではないが(本作は一応セリフもあるしドラマ性もある)、意匠の使い方や額縁のように固定された画面の作り方(本作は結構カメラも動くのだが)は似通っている。民族衣装の装飾などが華やかで、あまり動きが揃っていなくて素朴な踊りも楽しい。映画というよりもお芝居を見ているみたい。
 多分、音楽の気持ちよさと、作品内に流れるテンポが一定だからか、どうにも気持ちよく眠くなってしまって困った。『ざくろの色』もそうなんだけど、何か天上の映画みたいな雰囲気があって、美しくてふわーっと気持ちよくなっちゃう。磨きこんだ美しさとはちょっと違って、もっと泥臭いし手作り感満載なんだけど、なぜか夢の中のような雰囲気がある。物語の見せ方がかなり抽象化されているというのも一因かもしれない。

『エンリコ4世』

 仮装行列中に落馬して頭を打ち、自分をエンリコ4世(ヘンリー4世)だと思い込む男(マルチェロ・マストロヤンニ)。彼はエンリコ4世として中世の衣装をまとい、同じく中世の服装をした家来たちと古城に引きこもって暮らしている。そこへ、かつての友人たちが訪ねてくる。マルコ・ベロッキオ監督、1984年の作品。原作はノーベル文学賞受賞者であるルイージ・ピランデッロの戯曲。音楽はアストル・ピアソラ。
 男本人はエンリコ4世のつもりなので、会いに行く側もエンリコ4世の縁者として、中世のコスプレをして会いに行かないとならないという面倒くささ!男の「狂気」は真に迫り過ぎていて、(エンリコ4世としての)正気と、だんだん見分けがつかなくなっていく。まともなはずの客たちの方が、彼の世界への闖入者であり、奇妙な存在に見えてくるのだ。リアリティと、正気かどうかがあんまり関係なくなっていく。この先更にひとひねりがあるのだが、それによって更にボーダレス感が強まる。男を「狂人」と断定することは、かえってことを見間違えることになってしまう。更にそういう物語を「芝居」として映画にして見せるという、入れ子のような構造で、「演技」が何重にも重なっているというややこしさ。
 主演のマストロヤンニのくどさ、濃さがさく裂している。役柄自体が結構なくどさなのに、そこにさらにくどい芝居を乗せていくので、見ているとなかなか疲れる。が、妙に面白い。ベロッキオはちょっとヒステリックな人を物語の中心に置く傾向があるのだろうか。
 舞台となる古城は、多分本物の古城。イタリアすごいな・・・。現役で機能している感があって、舞台を見るだけでも結構楽しい。

『ポケットの中の握り拳』

 青年アーレッサーンドロウ(ルー・カステル)は盲目の母と兄アウグーストウ(マリノ・マーゼ)、妹ジューリア(パオラ・ピタゴーラ)、知的障害のある弟と暮らしている。家族を養っているのはアウグーストウだが、ジューリアもアーレッサーンドロウも働かずぶらぶらしていた。ある日、アーレッサーンドロウは母親と墓参りに行き、彼女を崖から突き落としてしまう。監督はマルコ・ベロッキオ。1965年の処女作となる。
 長編監督デビュー作だそうだが、当時はさぞ鮮烈な登場だったろう。今見てもみずみずしいし、初期衝動に突き動かされるような勢いのある作品。何より、こんなに現代に通じるところのある作品だとは思っていなかったので、びっくりした。
 アーレッサーンドロウは「大人」としてふるまう兄に引け目と嫉妬を感じており、多分に自意識過剰。ジューリアとは激しい言い合いをしつつも、奇妙に深い絆がある。そして無気力な母親に対しては軽蔑と嫌悪を隠さない。今だったらライトノベルの主人公にでもなりそうなキャラクター属性のてんこ盛りだ。しかも兄と妹はど美形、自分はファニーフェイスときたら、そりゃあコンプレックスもむくむくと膨れるでしょうね!というご丁寧さ。いつの時代もこじらせた若者はめんどうくさいのだ。
 アーレッサーンドロウが母親を殺した動機は、自分たちが母から自由になりたい、母の遺産が欲しいというところだろうが、兄に自分の力を見せつけたい、という気持ちも強い。彼はとにかく、兄にも妹にも自分を認めさせたいし、優位に立ちたい。実際のところ、母親を殺したからといって彼に貫録がつくわけではないし、兄も妹も彼に感謝しようとはしないのだが。アーレッサーンドロウの行動も気持ちも、空回りに見えるのだ。
 人物の手先や脚先、体の末端に妙に意識のいくショットが印象に残る。アーレッサーンドロウがてんかん持ちで、手や足にその症状が印象的に現れるということもあるかもしれない。

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』

仁木稔著
“妖精”、やがて”亜人”と呼ばれるようになった人口生命体が、人類により使役されている未来。最初は労働力として使われていた亜人だが、やがて亜人同士を戦わせエンターテイメントとしての戦争が提供されるようになる。人間より一段階下位の存在である亜人を存在させることにより、人類は絶対平和を確立していた。暴力を亜人に担わせることで人類は暴力から解放され、他人への思いやりを維持することができる、というのだが、それは暴力の当事者でないということになるのだろうか。エンターテイメントとしての戦争、そしてそれに伴う物語を享受する行為は、読者である私たちの行為そのものでもある。人類の「繁栄」が行くところまで行きつき、やがて破たんの兆しが見える最終章「“STORY” Never Ends!」は、景気のいい題名とはうらはらに、物語を求め続け消費をやめられない“読者”、そして創作者の業とリンクしていくかのようだ。


『収容病棟』

 南雲省の精神病院。心を病んだ人たちだけではなく、軽犯罪の常習者や思想犯なども収容されているそうだ。その病院の内部で、収容者たちを見つめ続けるドキュメンタリー。前編122分、後編115分の大長編だ。監督はワン・ビン。
 監督の方針として、ナレーションは全くなく、テロップによる解説もほぼない(日付と場所、人の氏名くらい)。カメラはじっと病院内の人たちを見つめ続ける。病院側の許可はとってあるにしろ、よくこの近さで、初対面(もちろんずっと通って話し合ったりはしているのだろうが)の人に普段の姿を撮影させてくれたよなぁと、まずはそこに感心した。ワン・ビン監督の作品を見ると、毎回そう思う。監督へのインタビュー等を読んでいると特に変わったことはしていないようだが、撮影対象者との間にある程度の信頼関係がないと、カメラがないかのような自然(に見える)な振る舞いはできないのでは。カメラ目線になる人があまりいない、というところが毎度すごい。カメラが意識されないくらいになじんでいるってことだもんなぁ。これは監督のノウハウもあるのだろうけど、人柄のたまものなのだろうか。
 病室の出入りは、同じ階の中では自由みたいだし、夜遅くまで灯りもついている。日中は中庭に面した廊下でひなたぼっこしている人も少なくない。とは言っても、暴れれば懲罰があるし、外出は基本できないみたいだし、自由とは程遠い。医者や看護師も登場するが、そもそも治療の為の施設ではないのではないのかと思う。一旦入所したら、再び出所するのは難しいみたいだし、外に出す気があまりない(だから思想犯とかも入所させているんだろうけど)のだろう。とにかく収容する、という為の施設のようだ。
 そんな環境の中でも、人の生活は続いている。社会があり、情愛があるのだ。表出の仕方は独特だったりわかりにくかったりするのだが、それでも人は人であるんだなぁと妙に納得してしまった。中と外との境目が、そんなに明確なものではないと感じられていく。
 それにしても、撮影期間は冬(年末から年始にかけて)なのだが、室内でもすごく寒そう!部屋は掃除が行き届いているようには見えないし、これは治るものも治らなくなりそう・・・。汚い布団とまずそうな食事をみると、なぜこうも気がめいるのだろうか・・・。

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