3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2014年06月

『ノア 約束の舟』

 世間から離れ、家族と共に細々と暮らしていたノア(ラッセル・クロウ)は、ある日神のお告げを受ける。世界を飲み込む大洪水が起きると確信した彼は、生命が途絶えぬよう、あらゆる種類の生物を乗せる箱舟を作り始める。しかし箱舟を奪おうとする勢力が現れる。監督はアーレン・アロノフスキー。聖書の非常に有名なエピソードを、独自に解釈し映像化した大作映画。
 物語は聖書の大分始めの方、世界がまだ新しかった頃の話だと思うのだが、本作で描かれる世界は荒れ果て、「北斗の拳」かよ!と突っ込みたくなるような荒み方だ。土地が荒れて食用の動植物がないとか、伐採しすぎて山が丸裸とか、神話の世界というよりも近未来SFみたいな世界。爬虫類とも哺乳類ともつかない変な動物とか出てくるしね・・・(洪水で滅んじゃった動物もいたんだよ!ってことなんでしょうが)。ノアたちの衣服もなんとなく人間社会崩壊系未来SFっぽかった。この状況で箱舟を作れるとしたらどんなふうなのか、何が必要か、という部分を意外と地道に推察しているところに妙な律義さを感じた。
 前半、ノアが啓示を受け箱舟をつくっていくまでの流れは、正直ちょっとかったるい。パノラマ絵巻のようなシーンは多々あるのだが、アロノフスキーはあまり広い空間を使った絵作りが得意ではないのか、全体的にのっぺりとしていて、スケールの大きな情景を描いているはずなのにあまりスケール感がない。ちょっと飽きたなーと思ってしまったが、舞台が箱舟内に絞られる残り3分の1くらいになると、俄然緊張感が増して面白くなってくる。アロノフスキーの本領はやはり追い詰められた人間、何かに取りつかれた人間の心理を描くことなのだろう。
 ノアは神の啓示を聞いた、と信じているが、その内容については、実はノア以外の人にはわからず、彼独自の解釈(おそらく言語としての啓示ではないので)になる。彼の解釈、そして解釈に基づき啓示に従う行動は、家族には受け入れがたいものだ。ノア自身も何度も自問自答し、精神的に追い詰められていく。強固な信仰は時に狂気と同じように見えるのだ。キリスト教文化圏の方、キリスト教徒の方が見たらどんな感想を持つのか気になった。

『GF*BF』

 1985年、戒厳令下の台湾。高校生の美宝(グイ・ルンメイ)、忠良(ジョゼフ・チャン)、心仁(リディアン・ボーン)は学校の管理体制に反発しつつ、青春を謳歌していた。やがて台北で大学生になった忠良と心仁は民主主義を訴えるデモに参加、美宝も仕事のヒマを見つけては合流していた。しかし、彼らの危うい関係は、忠良の秘密が明らかになると共に崩れていく。監督はヤン・ヤーチェ。
 自分が好きな人は絶対に自分を(自分が望むような形では)好きにならない、という三角関係というよりも矢印が一方方向の円環のような関係を描く。3人の男女の10数年間を描いているが、この関係は維持していくには結構きついよなーと思ってしまった。実際、だからこそ忠良は美宝と心仁から離れていく。しかし美宝と心仁が関係を続けていくのも、どうにもしんどそう。今現在の2人の思いによる関係というよりも、あの頃の自分たちを保存する為の関係のようでもあった。思いのサークルが固くなりすぎて、もう変えようがないということか。
 3人の関係の変遷よりも、背景となる台湾の社会情勢の変化が激しすぎて、こっちの方が只中にいたらついていくのがきついんじゃないかなと思った。日本で言ったら、最初は70年代から一気にバブル期を経て現在へ、というくらいのスピードが10数年で起きている感じ。友人の結婚パーティのバブリーさには笑ってしまった。この変化のスピードのなかで彼らから失われたものも大きかったんじゃないかなと、特に心仁を見ていると思う。ただ、急速な変化があったからこそ、冒頭の女子高生たちの反乱が見られたという面もあるんだろうけど。やっぱり、「これを着るべき」みたいなものから自由な方がいいよなぁ。
 なお、日本文化がかなり浸透しており、会話の節々で日本語を挟んでみたり(それがしゃれている、ちょっとユニークという感じだったのかん)、セーラームーンのあの決め台詞が出てきたりと、ちょっと面白かった。

『300 帝国の進撃』

 紀元前480年、100万人のペルシア帝国軍に300人で立ち向かったスパルタ軍の戦いを描いた、フランク・ミラーのグラフィックノベル原作『300』の続編。ペルシアとスパルタが戦っていた頃、アテネのテミストクレス将軍(サリバン・ステイプルトン)も仲間を募り、ペルシャ軍との戦いに赴く。ペルシャ軍を率いるのは、ギリシャの奴隷出身で、天才的な海軍指揮官アルテミシア(エヴァ・グリーン)だった。監督はノーム・ムロ。  前作未見のまま見たが、完全にセット商品的なつくりで、前作のダイジェスト的な説明もないので単体としてはちょっとわかりにくいかなと思う。  独特のビジュアルが評判になった前作だったが、本作もビジュル面の方向性は同様。ただ、多分前作の方が面白かったんじゃないかな・・・。本作、これを見せたいんだろうなという要素はわかるのだが、ドラマとしてちゃんと盛り上げようという意欲があまり見受けられず、危機は迫り戦いは過酷なはずなのに妙に平坦という、ぱっとしないことになっている。3D字幕で見たのだが、3Dもあまり効果的ではない(ただ、2Dで見ると相当のっぺりしそうなビジュアルなので、見るのなら3Dをお勧めするが)。とにかく男の体!血!肉!エヴァ・グリーンのおっぱい!という感じの作品なのだが、なぜそこに拘るか、そこをどう見せたいのか、という部分はあまり見えてこない。ビジュアル重視の本作のような作品では致命的だが、あんまり絵心のない作品だと思う。  モノローグで物語がどんどん進んでいく方式は、ギリシア演劇風を意識したのかな?と思ったが、あまり効果的とも思えなかった。

『トランセンデンス』

 人工知能研究の第一人者であるウィル(ジョニー・デップ)と妻のエヴリン(レベッカ・ホール)。しかし反人工知能を掲げるテロリストの犯行により、ウィルは余命わずかとなってしまう。エヴリンは彼の意識をスーパーコンピューターにインストールし延命を図る。意識だけの存在として再生したウィルは、オンラインにつながり、あらゆる情報と技術を手に入れ進化していくが。監督はウォーリー・フィスター。製作総指揮はクリストファー・ノーラン。
 デップ主演ということはかなり前からアナウンスされていたが、脇にポール・デタニー、キリアン・マーフィー、そしてモーガン・フリーマンという私にとっては非常においしいキャスティング。事前情報を全然持っていなかったので、見始めてからおおそうか!と一瞬テンションあがったのだが、以降気持ちはあまり盛り上がらなかった。
 盛り上がらない最大の要因は、(一応)SF的な設定なのにSFマインドがあまり感じられなかったからかもしれない。SFの醍醐味って、こういう要素のある世界だったらこの先こうなる、というような「この先」の作り方だと思うのだが、本作は「この先」が何でもアリすぎて、ストーリー上のハードルとか条件付けみたいなものが弱い。万能すぎてストーリーをこういう方向に引っ張ってくる必然性も感じられなくなってしまったというか・・・(ネタバレしないようにしているので曖昧な言い方で申し訳ない)。もうちょっと、ここまではできるけどこれはできない、みたいな限定条件があった方がスリリングな面白さが出る気がするんだけど。
 一か所なるほどなと思ったのは、反テクノロジー思想がテロリズムと一体化した組織が現れるというところ。これは結構説得力があった(宗教的な要素が薄い日本のような国だと、ここまで過激な思想としては出てこない気がするが)。


『グランド・ブタペスト・ホテル』

 東ヨーロッパの名門ホテル「グランド・ブタペスト・ホテル」。伝説のコンシェルジュと呼ばれるグスタヴ・H(レイフ・ファインズ)は、ある日懇意にしていたマダムD(ティルダ・スウィントン)が殺され容疑者として逮捕されてしまう。彼は無実を証明しホテルの威信を取り戻す為、ベルボーイのゼロ(トニー・レボロリ)と共に立ち上がる。監督はウェス・アンダーソン。
カ メラが平行移動、水平移動しかしない映画を久しぶりに見た(笑)!アンダーソン監督のカメラ移動へのこだわり、画面の切り取り方へのこだわりはなみなみならぬものがある。美術面の精度の高さ、ビジュアルのキュートさ、洗練度合は予想を裏切らないものだった(そこが嫌いという人も多いと思う)が、予想外にエモーショナル、かつ箱庭的なビジュアルでありつつ箱庭感がそれほどないという、意外さを感じた。
 箱庭的なビジュアルなのにそれほど(少なくとも前作『ムーンライト・キングダム』ほどには)箱庭感を感じなかったのは、本作は作中時間の射程範囲が結構長いからかなと思う。本作は、まずある作家の彫像を読者である少女がお参り(なのか?)するシーンで始まる。次にその作家が老年の時の語り、そしてその語りの中、若いころの思い出として「グランド・ブタペスト・ホテル」に滞在し、そのオーナーと出会う。そしてホテルのオーナーの思い出話として、グスタフ・Hの冒険が語られるのだ。グスタヴ・Hの物語を見せるだけなら、こんなに手間のかかることをする必要はないだろう。じゃあなんでわざわざやったのか、というと、今に至るまでの距離というか、歴史がそこにあるんだよということを見せたかったのではないか。
 グスタフ・Hの物語の舞台は、明確にはされていないがおそらく第二次大戦前、ヨーロッパでファシズムが影を落とすようになった頃だろう。実際、ナチスという名称ではないがそれらしい組織も登場する。ぱっと見可愛らしい世界だが、世界を覆う空気は不穏なものだ。こういう設定、空気感の中でのグスタヴ・Hの振る舞いがどういう意味を持ったか、彼がやったことがその後何につながったか、というところまで映画の中でやりたかったんじゃないかなと思うのだ。
 グスタヴ・Hは有能なコンシェルジュであると同時にジゴロで、立ち居振る舞いはやりすぎなくらいエレガント。仕事はできるがどこか胡散臭い(まあ登場する人全員胡散臭いですが)。ベルボーイからキャリアをスタ-トしたという彼は、決して生まれながらにエレガントな紳士だったわけではないだろう。ただ、彼は徹底して紳士であるかのように振る舞う。そのうちに、本当に紳士になったのではないか。ホテルのオーナーが回想するように、グスタヴ・Hの美学は当時から既に時代遅れであり、彼が理想した世界は滅びつつあった。しかし、彼の、美しさがそこにあるという「振り」が、実際に美しさを延命させていたのではないか。人工的で「ニセモノ」っぽいアンダーソン監督の映画も、それと似ているのではないかと思った。


『地図と領土』

ミシェル・ウエルベック著、野崎歓
 アーティストのジェドは、道路地図を撮影した写真作品で一躍有名になる。静物写真からやがて肖像画へと方向転換したジェドは、作家のミシェル・ウエルベックに個展カタログ掲載向けの開設、そして絵のモデルを依頼する。ウェルベックは了承したが、思わぬ事件が起きる。どのように「売れる」のかというお金事情も垣間見える、現代美術を取り巻く世界を描く。企業や個人がいろいろと実名で登場するし、著者本人まで登場する(この人、オフィシャルイメージがこんな感じなのか?訳者あとがきを読むとそうみたいだけど、相当偏屈に見られてるってことなのか)。実在のものをフィクションにどんどん引きずりこんでくる強引さだが、固有名詞が使われている場所がぴたっとはまっている感じ。また、ジェドの青春小説としてもどこかせつなさが漂う。彼は友人や恋人がいなくはないが、常に孤独だし、自分から人との絆を深めようとはしない。彼は自分の「領土」を広げるが、そこに他人は入ってこないのだ。・・・というようにしんみりしていたら第三部でまさかの展開が。小説のジャンル変わっちゃったよ!それはありか!

『闇のあとの光』

 山間で牛の放牧をしている、裕福そうな若い夫婦と、2人の幼い子供。平穏な彼らの暮らしに、ある日「それ」が現れる。監督・脚本はカルロス・レイガダス。
 予告編の段階ですごく期待しちゃったんだけど、期待しすぎだったか・・・。映像美(はそもそもそんなに目指していない気もするけど)も不穏さも中途半端で、こじんまりとまとまっている。
 「それ」に象徴されるようなわけのわからないものがふっと出現するのかと思っていたら、「それ」の部分のみが異色で、あとはあくまで人の世の話だ。悪も不可思議さも、あくまで人間の中にあるものにとどまっているように思った。平和に見える日常の中に、突如暴力が発生するというシーンが度々挿入されるが、どちらにしろ人間の想定内のものだ。じゃあ森や海に囲まれた舞台設定にする必要ってなかったんじゃないかな~。
 取り囲む世界に対して出てくる問題が矮小すぎるとでもいうか、マジックリアリズムを期待していたらマジックなかったわ!みたいな感じだった。私はもっとわけのわからないものが見たい。こういう方向性だったら、もっとうまく、斬新にやる人がいるんじゃないかなと思ってしまった。

『ハミングバード』

 元特殊部隊の兵士だったジョゼフ(ジェイソン・ステイサム)はある事件により軍事裁判にかけられたが遁走。ロンドンのホームレスとして身をひそめていた。彼はホームレス仲間の少女を気にかけていたが、彼女はある日拉致される。少女の行方を追って、他人に成りすましマフィアの用心棒をするようになったジョセフは、ホームレス支援をしているシスター・クリスティナ(アガタ・ブゼク)と知り合う。監督はスティーブン・ナイト。
 全くノーマークの作品だったが、監督のナイトが『イースタン・プロミス』『堕天使のパスポート』の脚本家で本作が長編監督デビュー作と知り、しかも主演はステイサム(この人は中堅規模の出演作の選び方が結構うまいと思う)なので頑張って初日に見に行った。いわゆる名作傑作の類ではないが、私の好みに合ったいい作品で満足。地味目でちょっとリリカル(笑)、かつ説明しすぎないハードボイルドが好きなのだ。舞台がロンドンというのもいい。更に100分という適切な長さ。
 題名(原題も同じ)は、ジョゼフが見るハチドリ(ハミングバード)の幻影から。ジョゼフは戦場での体験からおそらくPTSDにかかっており、幻影や幻聴に苦しむ。ハチドリは、彼の傷そのものでもある。ジョゼフは過去に深い傷や後悔を持つ。彼と惹かれあうクリスティナもまた(ジョゼフのものとは全く質が違うものだろうが)傷や後悔を持つ。2人とも、自分の過去に何らかの決着をつける為、「良きこと」をしようとしているように見える。そして、「良きこと」をする間だけはまともな人間でいようとしているようにも。ジョゼフがことを終えた後に町へ戻るのは、もう「まとも」でいる必要もなくなったからのようにも思えて、それがどこか悲しい。まともな自分を見せる為の相手がもういないということだから。
 ジョゼフとクリスティナは、(お互いに好意はあるのに)どこかちぐはぐでかみ合わない。2人は徐々に心を通わせていくが情感は抑え目に描かれている。こういう、情感が抑え目でお互い別の世界の人であるという男女の描き方は、スティーブン・ナイトの好みなのかな。2人のありかたが『イースタン・プロミス』に登場する男女とちょっと似通っていたように思った。
 ステイサムはアクション俳優というイメージが強いし、本作でも肉弾戦を十分に見せてくれるのだが、非常に抑えた演技、細やかな演技も実はちゃんとできるし、いい味わいを出す。本作ではゲイのBFになりすますシーンがちょっと茶目っ気あってチャーミングだった。

『沈まない3つの船』『お兄ちゃんは戦場へ行った?!』

 カリテ・ファンタスティックシネマコレクションにて鑑賞。中野量太監督作。川に落ちた幼い息子を釣り上げようとする若い母親、両親が離婚することになった姉妹、病気の叔父を見舞い続ける少女とその母親。3組の家族を描く中編。
 本作は若手俳優のためのワークショップを元にして製作された作品だそうで(中野監督のワークショップは大変人気があるとか)、前作『チチを撮りに』よりも劇作品としては散漫、かつこぢんまりとしているのはそのためだろうか(映画の尺、予算の問題もあるだろうが)。出演者は皆、なかなかの好演。特に両親が離婚することになり、父親か母親かどちらについていくか悩む姉妹役の2人は、いわゆる美少女なないけどちょっと味があっていいなと思った。
 3つの家族は分散しそうだったり、欠員が出たり、最初の形からは変わってしまっている。完璧でも理想的でもないし、今にも崩壊しそうな時もある。しかし、「沈まない」。ここを「沈まない」と言い切ってしまうところに、監督の、続いていく人間関係としての家族に対する信頼感が見受けられる。ここ、特に若い人だと家族を全肯定するのに何か気恥ずかしさみたいなものを感じる人も多いんじゃないかとおもうけど(笑)、そういう部分でのてらいのない作家性なんだろうなと思う。家族限定というより、人間のタフさとか、優しさに対する信頼感があるという感じ。
 川に落ちた息子を釣り上げようとする母親に、夫(子供の父親)が声をかけ、一緒に帰ろうとする。その時、妻の問いかけへの夫の答えに、わかってるなー!って思った。相手のペースを尊重している、いきなり変わるのは無理なんだとわかってるってことだろうなと。
 なお、併映された短編『お兄ちゃんは戦場へ行った?!』はひきこもりの兄とどこか目的が定まらない妹の話だが、元々は『沈まない3つの船』用のエピソードだったそうだ。だが、『沈まない~』にはうまくはまらず、別作品にすることになったのだとか。確かに、『お兄ちゃん~』の方がコミカルというか、ポップな雰囲気だった。家族を描くという共通のテーマはあっても、それが親子であるのか兄妹であるのかでだいぶ色合いが変わる。


『ゴジラ 60周年記念デジタルリマスター版』

 1954年、本多猪四郎監督作品。太平洋沖合で船舶の沈没事故が相次ぎ、生存者からは謎の巨大生物の目撃証言が得られた。古生物学者の山根博士(志村喬)と娘の美恵子(河内桃子)、美恵子の恋人でサルベージ機関所長の尾形(宝田明)は現場付近の島に派遣された。彼らの目の前に現れた巨大な怪獣は「ゴジラ」と名付けられ、古生物の生き残りが水爆実験の影響で変質したと推測された。しかしゴジラは東京に上陸し街を火の海に変えていく。
 いわずとしれた元祖ゴジラだが、今年60周年記念、さらにハリウッド版『GODZILLA』公開を控えてリマスター版が上映された。実は初めて見たのだが、こんなに面白いのか!と新鮮だった。ゴジラ本体の露出時間は実はそんなに長くなく、怪獣映画というよりもむしろ災害、パニック映画に近い面白さだ。ゴジラの造形は今見るとさすがにしょぼいのだが、その周囲の作り方、ゴジラが通った後の村の崩壊や、火災、逃げ惑う人々、そしてそれを目の当たりにする人々の反応から怖さがぐっと伝わってくるのだ。演出がしっかりしているってこういうことなんだろうな。
また、戦争の影がまだ色濃く残っているということにも(本作に限らずこの時期の日本映画を見ていると感じることだが)はっとする。ゴジラが水爆実験の影響で生まれたと知った町の女性が「せっかく長崎で生き残ったのに」ともらすシーンがあるのだが、まだそういう時代だったんだなぁと。ゴジラによって東京都内が次々火災になるシーンも、空襲を体験した当時の観客にとっては、生生しい記憶を呼び起こすシーンだったのかもしれない。更に、当時のアメリカの水爆実験が背景にあるのだろうが、それが日本にとって相当ショックな出来事だったということもうかがえる。禍根を呼びそうな技術は残すべきではない、というある登場人物の判断にも、それが影響しているのではないかと思う。
 なお、ゴジラの造形がしょぼいと前述したが、ミニチュアを使った撮影のクオリティには驚いた。日本の特撮技術ってこんなにレベル高かったのか!と。家屋のつぶれ方とか、本当によくできている。モノクロ映画かつ若干画面が荒れているから粗が目立ちにくいという理由もあるかもしれないが、影響受けた後の映画人が大勢いるというのもうなづける。

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