3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2014年05月

『砕かれた鍵』

逢坂剛著
麻薬密売を捜査中だった警官とその同僚が射殺され、麻薬常用者の元警官に婦警が刺殺された。麻薬にからんだ陰謀が警察内で動いていると踏んだ倉木は、一人捜査を始める。一方、家庭に降りかかったある悲劇により復讐に燃える美希も、独自に動き始め、警察を退職して探偵になった大杉に助力を仰ぐ。捜査線上に上がってきたのは、“ペガサス”という謎の名前だった。“百舌”2作からはひと段落したが、登場人物は同じ、シリーズ3作目。ある仕掛けを毎回使っているのが、このシリーズの特徴なのだろうか。ただ、本作は1,2作ほどトリッキーではなく、むしろ冒険アクション小説寄りの派手な雰囲気。登場人物たちも今まで以上に体を張っている。彼らが警官という枠からどんどんはみ出ていく(大杉はすでに民間人だが)から、冒険小説っぽい雰囲気になっているのかもしれない。大杉というキャラクターの良さが本作で一番活きているように思った。女性キャラクターが型にはまっていていまひとつ魅力、説得力がないのは書かれた時代のせいなのか著者の特徴なのか。



『幻の翼』

逢坂剛著
『百舌の叫ぶ夜』に続くシリーズ2作目。かつて断崖に消えた“百舌”は北朝鮮の密航船に助けられ、北の工作員として再び日本に潜入した。一方、稜徳会病院で起きた大量殺人事件は突然捜査打ち切りとなり、背景には政治的な駆け引きがあるのではとマスコミに取りざたされていた。事件を追っていた倉木警視は、何者かの妨害を受けながらも大杉警部補、明星部長刑事と共に事件を追い続ける。前々から、「『百舌の叫ぶ夜」と『幻の翼』は必ず順番に読め」とは聞いていたのだが、それも納得。一応単体でも読めるが、事件の内容が『百舌の~』と直接関連があり、一部前作のネタバレになっている。また、2作で使われているあるトリックに連続性があり、そこがシリーズの醍醐味になっていると思われるので、極力セットで読むことをお勧めする。1作目同様、面白くて一気読みしてしまった。倉木、大杉、明星の間に、ある種の絆が生まれている所も見どころ。なお、この頃の逢坂先生は、色っぽいシーンを描くのがあまりうまくない(笑)。その部分だけ取って付けたようで苦笑してしまった。

『ウィズネイルと僕』

 1969年、ロンドン。売れない役者のウィズネイル(リチャード・E・グラント)と“僕”(ポール・マッギャン)は酒とドラッグに興じる自堕落な日々を送っていた。しかしこのままではだめだと思い、気分転換の為にウィズネイルの叔父モンティ(リチャード・グリフィス)が所有している田舎の別荘へ向かう。監督・脚本はブルース・ロビンソン。1987年の作品。
 ウィズネイルと“僕”はどうも同居しているらしいし友達と言えば友達なんだろうけど、お互いに思いやりを示すでもなし、信頼し合っているという風でもない。ウィズネイルは“僕”をだしにしてモンティから別荘を借り、酒や食料をせしめる。むしろ“僕”にとってウィズネイルは迷惑な存在でもある。実際、“僕”はウィズネイルに我慢できずつかみかかったりもする。
 しかし“僕”はウィズネイルとくっついている。自分でも何故だかわからないけど縁が切れない腐れ縁みたい。お互いが自分の一部、2人で1人の人間のような感じなのかもしれない。もっとも、“僕”の方はかろうじてオーディションを受けたり家賃を払おうとしたり、「社会」にかかわろうとしている。ウィズネイルは仕事が舞い込んでも自分には合わないと断ってしまう。多分、彼に「合う」仕事はないのだろう。ウィズネイルはずっとこのまま留まりたいのだ。最後、“僕”がウィズネイルと別れるシーンは、“僕”が自分の青年時代=ウィズネイルを過去においていくようにも見えた。
 ウィズネイルよりもさらに一歩踏み込んで世間に背を向けているのが、彼の叔父モンティだ(ゲイであることがかなりカリカチュアされているのが気になったが)。彼は優雅な隠遁生活とでもいうのか、完全に自分の世界に生き、この世に自分の居場所はないという諦念に至っている。しかしこの世に居場所がほしくないわけではないというところに哀感が漂う。この人も“僕”にとってはかなり迷惑な存在となるのだが、その背後には寂しさが見え隠れしてやるせない。


『花嫁三重奏』

 西村乾物店店主の平吉(柳家金語楼)には3人の娘がいた。長女の照子(草笛光子)は商売を切り盛りし、父親の反対を受けつつも電気技師の岡本と交際していた。次女の信子(根岸明美)はレビューガール、三女の妙子(団令子)は洋裁学校に通っている。ある日平吉は、友人に上手いこと乗せられ、区会議員選挙に出馬することになった。平吉は選挙への影響も考え、照子を区会議員の黒川も息子に嫁がせようとする。監督は『ゴジラ』で有名な本多猪四郎。1958年の作品。
 気はいいがちょっとそこつな親父と、しっかり者の長女、マイペースな次女、ちゃっかり者の三女というベタだが安定感ばっちり、王道のキャラクター配置による王道のホームコメディ(当時としてはラブコメ寄りなのかもしれないけど、今見るとあんまりラブ要素はない)。特に照子のジレンマ、鬱屈みたいなものには、「ザ・長女」感を感じてかわいくもありもどかしくもあり。
 照子は責任感が強く、父親思いなため、岡本と交際していると父にははっきり言えず、父親が期待している縁談をきっぱり断ることもできずにいる。妹に黒川との縁談は嫌だとこぼすくらいなら、最初からはっきり断っておけばいいのにと思うが、それを言えないところに時代を感じた。岡本に対しても自分の事情を告げずにそっと寄り添う(岡本は研究に夢中で彼女は放置されているんだが・・・)あたり、「古風な女性」といった感じだ。
 一方で、三女の妙子は、お金を貯めていずれは(今で言ったら)起業しようと計画している。この2人の結婚観、女性としての人生観は対照的だが、お互いを否定しているのではなく、照子は妙子側に行きたくもあるが思いきれない、といった感じのところ、時代と時代の過渡期だったのかなと思った。ちなみに次女の信子は一貫してマイペース、時に夢見がちで、こういう人はいつの時代もいるだろうな(笑)。


『プリズナーズ』

 妻グレイス(マリア・ベロ)と長男、そして幼い長女と平穏に暮らすケラー・ドーヴァー(ヒュー・ジャックマン)。ある日、娘とその友人の少女が失踪する。自宅近くで目撃されていたキャンピングカーを運転していたアレックス・ジョーンズ(ポール・ダノ)が誘拐の容疑者として浮上するが、証拠不十分で釈放された。彼が誘拐犯だと確信するケラーは、娘を見つける為に一線を越える。一方、事件を担当するロキ刑事(ジェイク・ギレンホール)は過去の失踪事件を洗いなおしていた。監督はドゥニ・ビルヌーブ。
 娘を取り戻そうとする父親の執念と戦いといえば、最近だと『96時間』を連想するが、予告編がいい意味でフェイクになっていた。父親の戦いというよりも、ある執着・信念に囚われていく人たちの姿を描いているように思った。「プリズナーズ」という題名は、誘拐された子供の状態を表すと同時に、この事件に囚われた人たちの精神状態を表すものではないだろうか。ケラーの行動は娘を思うあまりとはいえ、犯人を合理的に推理しているとは言いにくいし、むしろ彼が犯人であればいいのにという願望に囚われすぎて他のことが見えていないようでもある。
 冒頭、(キリスト教への)信仰・祈りに関わる言及がしばしば出てくる。これが後々の伏線になっていき、犯人の真意がわかったときには納得。そういう戦いをめぐる物語で、犯人捜しのサスペンス部分はむしろ付随といってもよかったんだなと。どこまでやれるか、ではなく、どこで踏みとどまれるか、という話だったのかもしれない。だとすると、ケラーは一線を踏み越えた時、既に敗北していたのだ。一方、ロキ刑事は事件により神経を消耗するものの、犯人の思惑にははまらなかった、部外者として事件を見ていたように思える。彼がケラーとは異なり、敬虔なキリスト教徒ではないらしいという所も面白い。
 それにしてもビルヌーブ監督は、前作『灼熱の魂』といい、陰鬱で緊張感絶えず、神経消耗する(しかしめっぽう面白い)作品を作る監督だ。情念と情念、あるいは情念と信念が拮抗する様に惹かれる作家性なんじゃないかと思う。

『バチカンで逢いましょう』

 ドイツからオーストラリアに移住して、長年連れ添った夫に先立たれたマルガレーテ(マリアンネ・ゼーゲブレヒト)。彼女はローマ法王に謁見してある心残りを果たす為、娘の反対を押し切り一人バチカンへ。詐欺師のロレンツォ(ジャンカルロ・ジャンニーニ)と出合った彼女は、とある事情で彼の甥が経営するドイツ料理店のシェフとして店の建て直しをすることに。一方娘のマリー(アネット・フィラー)もマルガレーテを心配してローマへ向かっていた。監督はトミー・ビガント。
 『バクダッド・カフェ』のマリアンネ・ゼーゲブレヒト久々の主演作ということで楽しみにしていたんだけど、作中のファンタジーの度合いが一定しておらず、いまひとつ乗れなかった。口当たりはいいが、中途半端でもったいない。作品内世界の構築がいまいちユルい。『バグダッド・カフェ』は一種のファンタジーの方向に振り切っているから成立していた(今見るとかなり古臭いけど)んだろうなぁ。監督もスタッフも全然別だから、主演女優が同じというだけで比べるのも変なんだけど。
  マリーの家庭の状況は、結構「あるある!」と言いたくなる感じのもの。幼い息子2人が母親よりもしっかりと現実認識しているのも愉快。マリーはちょっと度の過ぎた心配性で、子供たちがちょっといたずらしただけで大騒ぎするし、マルガレーテのことも一人では何もできないみたいに扱う。自分自身が飛行機に乗るのも不安でしょうがない。かなり具体的に描かれているだけに、彼女の不安の根っこがどこにあるのか後々言及されるのかしらと思っていたらあっさりスルー。マルガレーテの過去よりむしろこっちの方が気になったのに・・・。
何より、法王に会わなくてはいけない理由に、ちょっと無理があったように思う。マルガレーテは敬虔なカソリックなので法王を深く敬愛しているのはわかるのだが、その内容だったら普通に教会に行って懺悔すればよかったんじゃないかなー。
 ちなみに、マルガレーテが得意としているのは伝統的なバイエルン料理なのだが、作っている様子を見る限りではものすごく油っこそう。お肉もスイーツもほぼ油で揚げている感じで、見ているだけでもたれそうだった。

『ある過去の行方』

 離婚手続きの為、故郷イランからかつて住んでいたパリに戻ってきたアーマド(アリ・モッサファ)。妻のマリー(ベレニス・ベジョ)は幼い息子のいるサミール(タハール・ラヒム)との再婚を考えており、もう同居を始めていた。アーマドはかつて自分が暮らしていたマリーの家に泊まることになるが、マリーと子供たちとの関係はぎくしゃくしている。家に帰ってこない長女リュシー(ポリーヌ・ビュルレ)の話を聞いてほしいと頼まれたアーマドは、彼女の話を聞こうとするが。監督・脚本はアスガー・ファルハディ。
 前作『別離』は構成が見事で唸ったが、本作も情報の構成の仕方が上手い。登場人物が多く関係が入り組んでいる分、『別離』よりも若干間延びした感じはするが、十分面白いしスリリング。
 本作では冒頭から、何が起こっていて誰と誰がどういう関係なのか、具体的な説明はほとんどない。やり取りの中で、徐々に誰が何をいつしたのか明らかになっていく。前作同様、ミステリとしての構造を持っているのだ。ミステリの中心にいるのは、サミールの妻。彼女は自殺未遂を起こし意識の戻らない状態でいるのだ。彼女がなぜ自殺をしたのか、という謎が中心にある。しかしこの謎は、解けるようで解けない。実際のところ何を思って行動したのかは本人にしかわからないだろう。
 この本人にしかわからない、というのはサミールの妻に限ったことではない。登場する人たち全員に言えることだ。しかし身近な人であればあるほど、相手について「てっきり~だと思った」「~のはず」と考えてしまう。この予断や思い込みが、出来事の一部を見えなくしている。この心理が、登場人物にとってだけではなく、映画を見ている観客にとっても働いている。だから最後にあっと驚くのだ。
 アーマドもマリーも子供たちも、口数少ないというわけではないが、肝心なことは言葉にされない。これが面映ゆく、もどかしくもある。リュシーにしても、母の再婚の何が気に食わないのか言えばいいし、その方が問題が早く解決したかもしれない。何を思っているのか、何をしてほしいのか、部外者から見たら早く言ってしまえばいいのにと思うけど、そうはいかないのが人間というものなのだろう。本作では、なんとなく言いそびれてしまうというよくあるシチュエーションに加え、ある理由があるから言えないという設定の仕方がうまい。
 作中、アーマドが旧友に「どちらかしか選べない」と言われる。アーマドはマリーと暮らしていた頃に故郷であるイランに帰り、それがきっかけで別れたらしい。実は彼だけではなく、マリーもサミールもどちらかを選べずに事態がこじれているとも言えるのだ。「どちらかしか」って本当かなという気もするが、これはお国柄なのかもしれない。

『ダーク・ブラッド』

 旅行中に車が故障し困っていた俳優の夫婦、ハリー(ジョナサン・プライス)とバフィー(ジュディ・デイビス)は、ネイティブアメリカンの血をひく青年ボーイ(リバー・フェニックス)に助けを求める。ボーイはかつて核実験場だった砂漠に住み、世界の終りに備えシェルターを作っていた。ボーイはバフィに執着し、夫妻を砂漠に閉じ込める。監督はジョルジュ・シュルイツァー。撮影中の1993年にリバー・ファニックスが死亡し、未完成のままになっていたが、撮影できなかった部分をナレーション等で補足し公開にこぎつけた。
  リバー・フェニックス幻の遺作ということで見に行ったのだが、元々未完成だっただけあって、1本の映画として見るには結構つらいものがある。映像が足りなかった部分はナレーションとイメージ映像的なものでつないでいるが、結構肝心な場面が抜けていたりするので、カクっとつまずくみたいな感覚になる。 ただ、仮にこの映画が完成していたとしても、あんまりおもしろくはならなかったんじゃないかなという気がする。ボーイのシャーマニズムへの傾倒や核への恐怖が取って付けたような感じ(製作当時はこれが時代の空気だったのかもしれないが)で今見ると興ざめだ。また、ボーイのバフィへの執着も唐突で、サスペンスとしては3人の関係性の緊張感やストーリーのうねりみたいなものに乏しく、弛緩している。ハリーとバフィーがあまり魅力的に見えず、ボーイがなぜバフィーに執着するのかぴんとこないというのも一因だ。
 ただ、リバー・フェニックスってハンサムだったんだよなぁとしみじみ再確認したし、全盛期の彼の姿をまた見ることができたという意味では、貴重な1作かもしれない。 ところで、シュルイツァー監督って『マイセン幻想』撮った人だったのね。本作といい、何かにとりつかれた人の姿、人間の妄執を扱っているところは共通していると思う。

『聖者の午後』

 サンパウロに住む80年代生まれの男女。年金暮らしの祖母と同居しているルカ(31歳)、あと2週間で薬局を解雇されるルイス(29歳)、熱帯魚店で働くルイスの恋人ルアラ(30歳)。ぱっとしない生活に出口は見えず、不安はつのるが動き出せない。監督はフランシスコ・ガルシア。
 ブラジルといえばサッカー!サンバ!という陽気なイメージがあるが、本作にはサッカーもサンバも出てこない。モノクロ画面でどんよりとした空気が漂っている。3人の男女のメンタリティや陥っている状況は、むしろ日本の同年代(全員じゃないだろうけど)とよく似ている。ルアラに対して下心みえみえの中年男性客が、「今の若者には野心がない。私が若いころは~」と話し出したのには、ブラジルのおじさんも日本のおじさんと同じことを言っている!と笑ってしまった。 そもそも時代背景や置かれた環境といった前提条件が違うのに、昔と同じような感覚で言われても困るよなと。若者は確かにどの時代でも若者ではあるのだが、それぞれ違って当然、野心を持つも持たないも自由だし、野心のあり方自体が変わってきているだろう。むしろ、欲望が多様化しすぎてどれが自分にマッチするのかわからないという面もあるかもしれない。
 次のステップへ走り出せない(ドライブに行こうとしたら車すら故障する!)ルカたちの日々を描くので、雰囲気はどんよりとしてはいるものの、彼らに注がれるまなざしはきつくはない。監督の彼らに対するシンパシーもあるのかもしれないし、ルカの祖母に対して3人が見せる優しさによるものかもしれない。祖母もまた、3人とは違った形で世間から取りこぼされているが、彼女の存在が陰鬱さを緩和している。


『そこのみにて光輝く』

 仕事をやめ、ふらふらと過ごしていた佐藤達夫(綾野剛)は、荒っぽいが人懐こい大城拓児(菅田将暉)
と知り合う。やがて拓児の姉・千夏(行け脇千鶴)とひかれあうようになるが、千夏は家族の生活を支える為、過酷な暮らしをしていた。原作は佐藤泰志の同名小説。監督は呉美穂。
 幾分古臭い風貌、そして物語の映画だなと一見思ったのだが、それが一周回って現代の貧しさにマッチしている。また、物語そのものや演出がそんなにひねっていないことで、却って俳優の力が前面に出ている、最近見た映画の中でも珍しいくらい、俳優が引っ張っている映画になっていたと思う。
 主演の綾野はわりと抑え目の演技で、菅田と池脇が映える。特に、菅田の動物的な動きと切れのよさが際立っていた。粗野だがどこか純真さも感じさせる青年の輪郭が、くっきりと見える。方言も板についていて、耳のいい俳優なのかなと思う。見るたびに上手くなっているのでびっくりした。
 また、池脇は背中の肉が余っていたり髪の毛もぼさぼさだったりで、決して「美しい」役ではなく生活感に満ち満ちているのだが、その生活感に説得力がある。最初、えっ不細工なんじゃ・・と思わせる撮られ方なのだが、最後のショットではちゃんと美しく見えるところが(撮る側も演じる側も)さすが。
 綾野の演技が抑え目と前述したが、存在感が薄いということではない。むしろ彼のフィルモグラフィーの中ではベスト級ではないか。どこか所在なさげにそこにいる、ということがこの映画にとって大きな要素なのだ。
 物語の舞台は函館だが、観光地らしい美しい風景はほとんど出てこない。どんよりとした海や場末の飲み屋街ばかりだ。達夫や拓児、千夏が置かれている状況も、突破口が見えない袋小路のようなものだ。しかしそんな生活にも、美しい瞬間が訪れる。3人が関わりあううちに生まれるそんな瞬間が、作品の題名に象徴されているように思った。


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