3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2014年05月

『とらわれて夏』

 アメリカ東部の小さい町に住むアデル(ケイト・ウィンスレット)とヘンリー(ガトリン・グリフィス)親子。アデルは離婚後、鬱病に悩まされており外出の頻度も減っていた。ある日、買い物に出たアデルとヘンリーは脱獄犯のフランク(ジョシュ・ブローリン)と遭遇し、強要されて自宅に匿う羽目になる。フランクは危害を与えないと約束し、家の修理や家事を手伝う。徐々にアデルとフランクは惹かれあい、ヘンリーもフランクを慕うようになる。原作はジョイス・メイナードの小説。監督はジェイソン・ライトマン。
 ジェイソン・ライトマン監督って、今まで撮った(日本で公開された)映画ほぼ外れなしだと思う。恐ろしい打率の高さ。今回は、今までとは打って変わってメロドラマ風(邦題のせいもあるだろうが)なのでどうなのかなと思ったら、相変わらずの安定感で感心した。
 ひょんなことから自宅に転がり込んできた男が、日曜大工も車の修理も料理も掃除もこなすという、まさに王道メロドラマ!どこのハーレクィン小説だよ!という設定ではあるのだが、これを中学校進学を控えた少年の目を通して描いていることで、ちょっと距離感が生じて落ち着いたトーンになっている。性の興味も芽生える年齢の少年なのでもっと生々しくもなりそうなところ、わりと品よくまとめていると思う。アデルとフランクが一緒にパイ生地をこねるシーンなどもっとエロティックになりそうなものだが、そうでもない(子供の前でやっているからってことかもしれないけど)。
 ジェイソン・ライトマンの監督作はどれもそうだけど、ちょっとしたシーンで、この人はこういう人だ、こういう状況にいるんだという提示の仕方が巧みな作品だと思う。冒頭、アデルが車を出そうとするがうまくいかない、彼女が後ろを見たすきにヘンリーがギアをRからDにこっそり直すというシークエンス。たいして長くはないのだが、アデルが精神的にかなりまいっていること、ヘンリーが彼女を守ろうとしていることがさらっとわかる。情報のまとめ方がうまいのだ。
 ヘンリーはアデルに対して良い息子であろうとし、さらに夫の代りもしようと懸命に彼女をフォローするのだが、自分では無理だという自覚もある。そこにフランクが現れることで、父親のように相手をしてもらうことで心が浮き立つ一方、アデルにはもう自分は必要ない、邪魔者として取り残されるのではという不安も抱くところが、まだ子供らしい。その不安が思わぬ結果を生むことにもなるのだが。
 ヘンリーはアデルのことをとても思いやっているが、アデルもまたヘンリーのことを、彼女なりのやりかたではあるが思いやる。そしてフランクも、短い時間ではあるがアデルとヘンリーを思いやり、愛する。2人の人生を守るための彼の行動、そして「その後」には胸が詰まる。「その後」は物語上やりすぎだと思う人もいるかもしれないが、私はこの「その後」をあえて加えたことにこそ心をうたれた。誰かを思いやる気持ちと、それを受けて誰かの人生が変わることもあるということを信じたくなるのだ。

『マイ・マザー』

 高校生のユペール(グザヴィエ・ドラン)は母親(アンヌ・ドルヴァル)と2人暮らし。しかし母親にはいら立つばかりで、愛していないわけではないのについ言い合って罵倒してしまう。『わたしはロランス』が評判となったグザヴィエ・ドランの監督デビュー作(2009年)。本作では監督・脚本に加えて主演もこなしている。
 ユペールは学校へ行くのに母親に車で送ってもらうのだが、その車中でさっそく言い合いになる。彼のイラつきは、はたから見ると言いがかりにしか見えなかったりするのだが、その身勝手なイラつきがティーンエイジャーらしい。結局相手が何やっても癇に障るんだろうな(笑)。ユペールは母親に対する愛情はあり、自撮りのビデオ作品の中ではその思いを吐露したりもするのだが、実際に母親と相対すると、愛情ある態度を維持できない。素直じゃないというよりも、愛情をさえぎる感情が並行して存在しているという風だ。
 とは言っても、ユペールの母親も難点は多い。彼女はあまり愛情こまやかなタイプではないし、いわゆる「母親」的な振る舞いがあまり得意でなさそうなのだ。母親としての責任は果たそうとするが、基本、「私」としてしかふるまえない、ある意味すごく正直な人だ。息子も母親も我が強く非情に面倒くさい人なので、親子の組み合わせとしては相性が悪いとしか言いようがない。この母、この息子でなければ、もう少し穏やかに生きられたのかもしれない。
相性が悪いから愛がないというわけではない。愛さずにいられないのにお互いに憎らしい、だから苦しいという、ヒリヒリした感じが全編に満ちている。
 ドランは主演こなすだけあってルックスはいいし、華もある。本作といい『わたしはロランス』といい、「私が自分を愛するようにあなたも私を愛してほしい」という傾向が強いと思ったのだが、彼のルックスをみるとなんとなくその傾向にも納得してしまう。本作中、ユペールと恋人のシーンに妙に多幸感があったり、寄宿先であっさりイケメンと仲良くなったりするあたり、役得すぎだろ!と若干突っ込みたくもなるが。

『手紙と秘密』

キャロリン・G・ハート著、長野きよみ訳
第二次大戦中のアメリカ。男性たちが兵士として徴兵された為、どこも人手不足だった。女性達が工場や警察で働き始める中、13歳の少女グレッチェンは新聞記者として働くことになる。ある日、近所に住む同級生バーブの母親が殺され、父親が容疑者として指名手配された。バーブの母親には不倫の噂があったが、グレッチェンは信じられず、真相を突き止めようとする。老年になったグレッチェンがある手紙を受け取るという導入部分から、少女時代と老年時代、そして送られてきた手紙の内容を行き来するという構成。悲劇の気配がそろりそろりと忍び寄ってきて緊張感がある。実はミステリとしてはちょっと変な構成(というか、事件自体を謎にしようという工夫はあんまりないという感じ)なのだが、ミステリとしての真相解明以上に、グレッチェンが成長していく過程が読ませる。自分の「仕事」に対する手ごたえと責任感を持つようになり、祖母の老いに気付き、母親も1人の女性だということに気づく。苦さは深いが、グレッチェンが次の一歩に踏み出す様は清々しい。それにしても、この時代の女性(男性もかもしれないけど)はつくづく不便だよな・・・ダンスくらい自由にやらせてよ・・・

『たまこラブストーリー』

 2013年にテレビ放送されたアニメーション『たまこまーけっと』の劇場版。TVシリーズの続きとなる物語だが、単品でも一応大丈夫だと思う。餅屋の娘、北白川たま子(洲崎綾)は高校3年に進学した。友人たちは進路のことを考え始めるが、たま子は新作餅のことで頭がいっぱい。一方、たま子の幼馴染で彼女にずっと片思いをしている大路もち蔵(田丸篤志)はたま子への告白を決意する。監督は山田尚子、脚本は吉田玲子。キャラクターデザインは堀口悠紀子という、『けいおん!』スタッフの再集結。
 ちょっと見てみるかな、くらいの気持ちだったのだが、これは思わぬ自分内ヒット!TVシリーズの続編というハードルはあるものの、今年上映されるアニメーション映画の中でもかなりいい線なのでは。山田監督といえば『けいおん!』なのだろうが、私は本作の方が好き。キャラクターが老若男女登場するというのもあるが、何より、『けいおん!』劇場版よりも本作の方が、より映画であろうとしているように思ったからだ。
 『けいおん!』劇場版は確かに楽しかったが、映画というよりもすごくよくできたキャラクター商品、まずはキャラクターありきの作品だった。本作はそれほどキャラクターの「キャラクターらしさ」みたいなものにウェイトがかかっていない(キャラクターを軽視しているというのではなく、「こういう人」という軸がブレなければ自由に動かせる)ので、作る側も自由度が高かったんじゃないかなと思う。少年少女たちが人生の次のステージに踏み出す瞬間をはっきり描けたというところが、一番大きな違いだろう。物語としてはやっぱりこの方が盛り上がるな(笑)。
 今回、カメラによって撮影されている、画面に映る対象との間にカメラが介在していることを見る側に意識させよう(作る側もかも)とする絵の作り方をしていたと思う。特に、映研所属のもち蔵の視点、特にたま子を見ている視点になったときは、ちょっと手持ちカメラっぽく、気持ち画面にざらっと感を増やしている感じで、あっ映画撮ってる!って気分になる。カメラが切りかえしてもち蔵を映すショットになると、ちゃんと固定カメラになっていたりするので、やっぱり意識しているんだろうなぁ。ここまで「カメラで撮っている」意図を出しているアニメーションは珍しいんじゃないだろうか。アニメーションはカメラを動かして撮影するというわけじゃないから、どのようにカメラが移動するかという意識は見ていても持ちにくい。少なくとも実写映画におけるカメラの動きに対する意識とはちょっと違うと思うし、そこが面白いところでもある。そこをあえて、「カメラで撮っている」感に拘るところがまた面白いなと思った。
 一方本作、物語はびっくりするほど直球だった。ある人とある人の関係が変わる、というより変わり始めるまでの心の動きを、見ている側が気恥ずかしくなるくらい初々しくストレートに描いている。そのストレートさ、てらいのなさが却って良かった。ラストのすぱっとした終わり方も、最近見た映画の中ではホームラン級でツボだった(私はスパっと終わる映画が好きなので)。

『ひそやかな花園』

角田光代著
年に一度、家族ぐるみのサマーキャンプで顔を会わせていた7人の子供たち。天国のように思われたキャンプだったが、ある年から突然なくなった。大人たちにとっては「天国」ではなかったのか、そもそも何の集まりのキャンプだったのか。大人になった7人はそれぞれの事情から当時の事情を探り始める。いやー面白くて一気読み。そして最後には深い感動が・・・というと陳腐だが本当にそうなんだもんね(笑)。なぜ子供が欲しいと思うのか、なぜ自分の出生を知りたくなるのか、知ったことに傷つくこともあるのか、他人を思いやるって、子供を愛するってどういうことか。ぎゅうぎゅうに濃縮されている。7人それぞれが、それぞれの形で変化・成長していく様には本当に心を打たれる。作中、何人かが相手にある「事実」を語りかけるが、言葉の使い方はそれぞれだが、相手のことを本気で思いやって考えに考えて絞り出した言葉だということが伝わる。その言葉が相手に届くだけではなく、その言葉を発したということが発した本人を救うものになりうるというところに撃たれた。

『世界が終ってしまったあとの世界で(上、下)』

ニック・ハーカウェイ著、黒原敏行訳
大量破壊兵器「逝ってよし爆弾」を使った「逝ってよし戦争」によって壊滅的なダメージを受けた世界。“ぼく”は親友のゴンゾーらとわずかに残った可住ゾーンで危機管理会社のスタッフとして働いている。可住ゾーンを維持する装置ジョーグマンド・パイプで火事がおき、その対応にかりだされるが、思わぬ困難が降りかかる。災害から一気に時間をさかのぼり、“ぼく”らの少年時代から青春時代へと、どんどん飛躍していくしその飛躍の中からまた脇道へ脇道へと脱線していく。しかも“ぼく”がやたらと饒舌。しかしその脇道がちゃんと本筋に必要なのだとわかっていく後半までたどり着くと、そういうことだったのかと軽いカタルシスがあった。ちょっと突飛に見えたり言葉づかいのノリが軽かったりするけど、スタンダードな冒険成長物語を愛してきた人が書いた作品だなぁという感じがする。加えて、カンフー映画とかコミックとか、著者が好きなものを全部突っ込んだ集大成でもあり、そこが微笑ましい。

『フラニーとズーイ』

J.D.サリンジャー著、村上春樹訳
名門大学の学生フラニーと、その兄で俳優のズーイ。フラニーは聡明ゆえに世界が欺瞞に満ちていることに耐えられず、自宅に引きこもる。ズーイは皮肉やで毒舌だが、フラニーを心配し彼女を助け出そうとする。サリンジャー作品はあまりに若々しくてナイーブで昔からどちらかというと苦手だったのだが、翻訳が違えばまた印象が変わるかなと思い、村上訳で読んでみた。あまり印象自体は変わらないけど(笑)、読みやすいことは読みやすい。また、今回改めて読んで、ここまで問答小説、そして宗教小説だったとはと目から鱗。フラニーの状態が拒食症プラス引きこもりだというのも今読んだ方がぴんとくる(当時はそういう認識ってあまり普及してなかったのかしら)。読む時代が変わるとまた新しく見えてくるものがある。ズーイは確かにフラニーを愛しているし彼女を手助けしようとしてはいるが、アプローチの仕方が斜めすぎて、これだったらやらない方がましだよ!お前がむしろ悪化させているわ!と突っ込みたくもなる。しかし、理屈をこねまわす彼の言葉が、徐々にストレートな思いやりが感じられるものに変化していく、本気でフラニーの為にしゃべっているのだと伝わってくる終盤はやはり迫ってくるものがあった。ただ、若いころに読むべき小説だなという感は否めない。この年になってから読むと、グラス家の母や兄たちの気持ちの方がわかるんだよね・・・。うちの子たち正論は正論だけど面倒臭いわ!って・・・。ズーイは母親を根っこでは愛しているがおおむね馬鹿にしているし、フラニーも母とはお互い理解がないけれど、このお母さん結構強いよな~。



『ワールズ・エンド 酔っ払いが世界を救う!』

 高校卒業を控えたゲイリーと仲間たちは、一晩で12軒のパブを飲み歩く「ゴールデンマイル」に挑戦するが失敗。そして20年後、ゲイリー(サイモン・ペッグ)再びゴールデンマイルに挑もうとかつての仲間、アンディ(ニック・フロスト)、スティーヴン(パディ・コンシダイン)、オリヴァー(マーティン・フリーマン)、ピーター(エディ・マーサン)を招集する。もっとも、それぞれ家庭も仕事もある身で、仲間たちは迷惑顔、はしゃいでいるのはゲイリーだけだった。故郷の町ニュートンヘイブンに帰郷したゲイリーたちは、町の様子がどこかおかしいことに気づく。監督はエドガー・ライト。
 同監督、同主演の『ホット・ファズ』と同じく、平和な田舎町が実は・・・というコメディで、話がどんどん大層、かつバカらしい方向に進んでいく。ただ、そこに爽快感があった『ホット・ファズ』と比べると、本作には「なんだかなぁ・・・」という思いをぬぐえなかった。面白いことは面白いし見ている間は笑えるのだが。
 ゲイリーは18歳の自分はとびきりクールだったと思っているのだが、そんなに「あの頃」の自分のことって好きになれるものか?と不思議になるのだ。確かに高校時代が楽しかったんだろうけど、振り返ったら赤面したくなるようなものじゃないのだろうか(少なくとも私は18歳に戻りたくはないしあの頃が最高だったとは全く思えない)。自分の人生のピークをそんな早い時代に設定しちゃっていいのだろうか。確かに現在のゲイリーは無職でうだつが上がらない。それでも、世界が終ることでもない限りもう楽しいことなんてないんだよ!というのは悲観的すぎるように思った。本作、ウディ・アレン監督『ブルー・ジャスミン』と同じ日に見たのだが、奇しくもどちらも過去に生きる人が主人公だった。
 もうひとつ違和感があったのは、この人たちはなぜつるみたがるのかということだ。ゲイリーにとってはあの頃の仲間も含めて「黄金時代」だったんだろうけど、あの頃仲良かった人が今も仲良くできる人だとは限らない。あの頃だからよかったって側面の方が大きいんじゃないかな。



『ブルー・ジャスミン』

 実業家のハル(アレックス・ボールドウィン)と結婚し、セレブとして華やかな生活を送っていたジャスミン(ケイト・ブランシェット)。しかしハルが逮捕され一文無しに。サンフランシスコに住む妹ジンジャー(サリー・ホーキンス)の家に転がり込むが、庶民的なジンジャーの暮らしが肌に合わず、見つけた仕事にも慣れず、神経をすり減らしていく。それでもセレブに返り咲こうと奔走する。監督はウディ・アレン。
 アレンの女性に対する視線は大概辛辣だが、本作でも同様。ただ、ジャスミンは確かに「イタい女」ではあるのだが、私はどうも嫌いにはなれなかったし、本作における彼女に対するまなざしは、下に見てあざ笑うという風ではなかったように思う。
 ジャスミンは自分はジンジャーのような安い女ではない、歯科医院の受付の仕事など自分にふさわしくない、自分にはそれ相応に扱われる価値があると思っている。しかし彼女がかつてセレブとして獲得していた価値は、彼女自体ではなく、彼女が纏う衣服やアクセサリー、住んでいる屋敷やそのインテリアなど、彼女の外側、身も蓋もなく言えば彼女の夫のお金に付随するものだ。彼女自身に付随する価値は外見の美しさくらいで、それもうまく役に立つとは限らない。セレブであることは彼女のアイデンティティであり、だからこそセレブ生活に返り咲きたくて必死なのだが、アイデンティティが自分の中にあるのではなく自分を取り囲むものによって形成されていると、一旦周囲が崩れた時の、自分自身の何もなさが際立ってしまう。
 ただこれはジャスミンが「勘違い女」だから、というだけではなく、誰しも多少はこういうことあるよなというもので、彼女をイタいと思うと同時に、彼女を見ている自分にもそのイタさが降りかかってくるものなのだと思う。裸一貫で戦える人はなかなかいないだろう。
 ジャスミンは過去の華やかな生活を諦められず、現在の状況に適応しようとしない、過去の自分が自分のあるべき姿だと信じる人だ。しかしそんな彼女が、返り咲くチャンスをつかもうとした時、「過去の時分と今の自分とは別、過去は関係ない」と主張せざるをえない。あんなに過去にこだわっていたのに、なんとも皮肉だ。過去は彼女の回想として現れるので、そもそもそういう過去は本当にあったのか?とも思えてくる。

『まぐだら屋のマリア』

原田マハ著
東京の料亭で板前見習いをしていた紫紋は、死に場所を求めて、北の港町「尽果」バス停に降りた。そこで出会ったのは、小さな食堂「まぐだら屋」の女主人マリア。マリアが作った食事に救われた紫紋は、店を手伝うようになる。マリアは紫紋の過去について何も聞かなかったが、マリアにも消せない過去があるようだった。題名や登場人物の名前は聖書から取られたものだが、聖母も救世主も登場しない。マリアは一見聖母のような、包容力のある女性だ。しかしその包容力は、彼女もある罪をおかし、その償いの為に生きてきた故のものだ。「まぐだら屋」は。過去を断ち切れない人々が、その過去と共に生きられるようになるまでの咀嚼の場のような、保留の場のようだ。固有名詞を聖書から取っているので寓話ぽさが漂い、いわゆる「いい話」もすんなりと読める。何より登場する料理に全部手ごたえがあっておいしそう!
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