3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2014年04月

『THE NEXT GENERATION パトレイバー』

 1980年代末期から2000年初頭に漫画・TVアニメ・映画としてメディアミックス展開された「パトレイバー」シリーズ。過去何度か実写化の噂がたったが、今回初の実写化となった。舞台は原作(アニメ・マンガ版)の「未来」である2013年の東京。特車2課第二小隊も隊員が代替わりして3代目。初代と名前が似ていたりするが、全くの別人たちである。何より、都市開発の終焉と度重なる不況によって、汎用人間型作業機械“レイバー”自体がコスト的に割に合わなくなり、“レイバー犯罪”も減少、特車二課も第一小隊は解散、第二小隊のみが運用スキル継承の名目でかろうじて存続していた。
 パトレイバーファンとしては実写ってどんな実写だ、イングラム(第二小隊が使用しているレイバー)は本当に動くのかと半信半疑、戦々恐々だった。総監督はアニメ劇場版を2作手掛けた押井守だが、押井監督の実写映画は(私は)ちょっと心配なのよね・・・。ということで楽しみ半分心配半分で見に行ったが、結論から言うと、悪くない。初期のOVAシリーズに近い味わいがある。1章の監督・脚本は押井守なのだが、押井作品ではおなじみの軍隊メシ(食事描写に拘りを見せるが決しておいしそうに見せる為のものではない)、ここぞという所でスベり気味のギャグ(コメディセンス自体はある人なのになぜスベるのか不思議なんだが・・・)もほんのり懐かしい。
 本作、何が勝因かというと、一番はイングラムが(ほぼ)「動かない」というところではないか。年期の入った機体で動かすだけでひと騒動、という設定(Windows98を2013年に使っているような感じだろうか)なので動かなくてもドラマ上問題がない。セットとしては良くできているので、動かさなくてもそれなりに見栄えはする。また、キャラクターを原作とはテイストは似ているが別人にしたことも良かったと思う。原作キャラクターを再現してほしかったという声もあるようだが、再現したらしたらで、絶対に「違う!」ってなると思うのね・・・。


機動警察パトレイバー アーリーデイズ [Blu-ray]
冨永みーな
バンダイビジュアル
2010-07-23


『ジュリアン・ウェルズの葬られた秘密』

トマス・H・クック著、駒月雅子訳
犯罪・虐殺行為を取材し続けてきたノンフィクション作家のジュリアン・ウェルズが自殺した。ウェルズの幼馴染の友人・フィリップは、新刊の出版も間近だった彼がなぜ死を選んだのか疑問に思い、ジュリアンの妹と共に彼の足跡を追い始める。ジュリアンは身近で消えたある女性を探していたらしいのだが。著者の最近の「人名」シリーズは、ある人、そして語り手の過去の罪を辿っているが、本作は特にやりきれない思いにさせられた。彼の「罪」の大本が決して悪意によるものではなく、ちょっとした出来心が発端なのだ。彼が善良であり、守りたいものがあったからこそ苦しんだと言える。彼の歩んだ道を受けてフィリップがたどり着く境地もまたやるせない。ジュリアンの言動の端々に見えてくる、彼にとって何が悪であり罪であるかということが、真相に直結しており、流石の構成の上手さ。


『know』

野崎まど著
2040年に情報インフラが革新的に飛躍し、2053年、超情報化対策として人間の脳に「電子葉」が植えられた。電子葉が一般化した2081年、情報庁所属の若き官僚・御野・連レルは、情報素子コードの中に行方不明の研究者であり恩師でもある道終・常イチが残した暗号を発見する。暗号を読み解き恩師と再会した御野は、少女・知ルを託される。SFが今の世界の行く先を想像する、この路線の上だと世界がどう変容していくのか思いめぐらす文芸だとするなら、本作は正にSFだろう。情報化社会の行きつく先の描かれ方は、なるほどという説得力をもつものだった。人間の本性に「知る」ことへの欲望が含まれているのなら、これも進化の形なのだろうと。ただ、本作が最後に示唆する世界は、ある種のディストピアにも見える。ここまでいっちゃうと「個人」の意味はなくなるのではないか。

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『トラフィック』

 ジャック・タチ映画祭にて。オランダでの見本市に出品するため、フランスの自動車メーカーから商品のキャンピングカーを持っていくことになったユロおじさんだが、道中はトラブル続き。
へっぽこロードムービーとして大いに楽しんだ。何でそんなに時間がかかるの!目的地にいつたどり着くの!見本市終わっちゃうよ!と突っ込みまくりたくなる。ドタバタコメディで、小ネタの詰め込み方がくどいくらいなのだが(そこもうちょっと端折って時間短縮してくれませんか・・・と言いたくなる)、特にタチが動きによる笑いをすごく意識していると思った。冒頭の見本市会場の整地シーンで、区画整備用に張られたロープを、作業員がいちいちまたいで移動している様など、単純なことなのだがなんだかおかしくなってきてしまう。
 また、ビジュアルの美しさ、色彩のビビッドさには随所ではっとさせられる。車の車体や窓に風景が映り込んでいるシーンなど構図が楽しいし、何よりクラシックカーが続々登場するので車好きにも楽しいと思う。
 「商品」のキャンピングカーは、こんな車あったらいいな!という見ているだけでウキウキしちゃうもの。これは欲しいなぁ(笑)。一旦は取り締まったものの、警官達が次々とキャンピングカーに夢中になってしまう気持ちもわかる。
 ユロおじさんを(結果として)引っ張り回すのが、広告担当の女性。彼女はこれみよがしに有能ぶりを披露しようとするが、実際は全く役に立たないし、彼女のせいでむしろ事態が悪化してるんじゃないの?!というくらい。このあたりの女性造形には、タチのうっすらした悪意を感じるのだが気のせいだろうか(笑)。シチュエーションに合わせて次々と着替えていくあたり、やる気あるのか!って感じなのだが、格好がいちいちキュートだった。

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『アクト・オブ・キリング』

 1960年代のインドネシアで、共産党とみなされた人たちが100万人規模で殺されていた。実行者は“ブレマン”と呼ばれるギャングや民兵たちだった。彼らは今でも英雄として扱われている。映画作家ジョシュア・オッペンハイマーは、人権団体の依頼で虐殺被害者の取材をしていたのだが、政府の妨害を受け、逆に取材対象を加害者にして「あなたがたが行なった行為を演じてみませんか」と持ちかける。
 まあよく撮ったな!そしてよく公開にこぎつけたな!と唸ってしまう問題作。取材対象が映画を作っている様を撮ったドキュメントで、映像的としてそんなに斬新だったり美しかったりするわけではない。しかし、カメラの向こう側で行われている行為、その行為を取り巻く状況は、部外者から見るとかなり特異だ。
 カメラを向けられたギャングたちは、過去の殺人行為を嬉々として再現し、「こうやると血があまりながれないんだ」とテクニックの解説までやる。彼らにとって殺人は公的なもので、罪悪感はないし当然隠すべきものでもない。国営放送で堂々と「共産主義者は殺さないと」と発言しているのには唖然とした。彼らが行なった行為はもちろん恐ろしいのだが、それが公然と(未だに)認められている世界だということも同じくらい恐い。殺人者達の過去の認識にも差異があって、全く疑問を持たない(少なくともカメラの前では見せない)者がいる一方で、これが公になったらさすがにまずいな、という認識を持っている者もいる。ただし、どちらも過去を悪びれることはない。殺人が絶対的な悪である、というお約束がここにはないのだ。
 これは彼らが特殊なのではなく、人間はやってもいい、責任を問われない、むしろ称揚されるんだと言われたら、大抵のことは倫理に関係なくやってしまうのではないかと、自分たちがいる地点と彼らとの地続き感を強く感じた。善悪はそんなに絶対的なものではないのだ。また、彼らからは、自分たちの言動が世界からどう見られるか、という俯瞰視点がほとんど感じられない。自分たちが見ているように世界も自分たちを見るだろう、という前提で話している。彼らの視野が狭いというよりも、国自体が「そういう世界」として価値観をガッチリ作り上げてきたんだろうなとうっすら寒くなった。
 殺人者と被害者を「演技」として繰り返すうち、彼らの心境に変化が生じたように見える。しかしそれすらも「演技」、カメラの向こう側の観客を意識したものではないかとも思える。彼らの認識が本当に変わることはあるのだろうかと。これは、この人たちは何なんだろうな、と見つめ続けざるを得ない作品だった。

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『リベンジ・マッチ』

 若い頃にプロボクサーとして競い合ったヘンリー・“レイザー”・シャープ(シルベスター・スタローン)とビリー・“ザ・キッド”・マクドネン。1勝1敗の対戦成績で、ファンの盛り上がりも最高潮に達した第3戦の前夜、シャープは突然引退発表し、第3戦は幻となった。その後30年。若いプロモーターから幻の第3戦の決着をつけないかというオファーが舞い込む。ギャラのために渋々引き受けるビリーだったが。監督はピーター・シーガル。
 『ロッキー』のシルベスター・スタローンと『レイジング・ブル』のロバート・デニーロが今になってまさかの対戦!という、往年のファン向けのお祭り的な企画。それほど期待はしていなかったが、案外楽しめた。なお『レイジング・ブル』も『ロッキー』も見たことなくても大丈夫。
 割と荒っぽいというか、雑(笑)なストーリーの組み立て方で、シャープとマクドネンが会う度にどつき合いになるというくだりも、ギャグにしてはもたもたしていて笑えない。プロモーターのチャラも取ってつけたようなチャラさで、この人違うジャンルの映画から来たみたいだなと思ってしまった。今時の映画でこんな黒人キャラなかなかいないと思う(笑)。
 また、キム・ベイシンガー演じるシャープの元恋人の造形や、シャープとの関係の見せ方が大雑把なように思った。これだったら別に出てこなくてもなぁ・・・。せっかくベイシンガーが演じているのに勿体無い。場をかき乱す為だけに投入されていて、彼女がどういう人でどういう人生を送ってきたのかという部分が、あまり見えないのだ。
 それでも、主演2人に華があるせいか、徐々に盛り上がってくる。デ・ニーロってやっぱりスターなんだなと実感した。一見、スタローン演じるシャープの方がボクシングに思い残しやわだかまりが強い風だが、実は金も名声も手に入れて安泰の老後を送っているマクドネンの方が、ボクシングから離れられない、何かとボクシングを天秤にかけることができない人だということが露になるシーンでは、ちょっとぐっときた。

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『大きなハードルと小さなハードル』

佐藤泰志著
明言化できないいら立ちを抱えながらも、日常を生きようとする青年と家族を描いた連作集。一部は、同棲する男女が結婚し、やがて子供ができ、子供が成長していく連作。二部は、一部の変奏曲とも言える、様々な男女と家族の姿。どちらも、主人公が自分の中に暴力的な衝動を抱えつつ、それと折り合いをつけようとする姿が共通している。一部の主人公は、どうも妻子と暮らす中でアルコール依存症となり、一度は別居もしていたらしいことが窺える。なんとか関係を維持するものの、日々の生活が幸福だとは明言できない。それでも、美しく輝く瞬間はあるのだ。そこを目印にハードルを越えていく人たちの姿は、かっこよくはないが、はっとさせられる。

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『彼女の倖せを祈れない』

浦賀和宏著
ライターの銀次郎は、同業者の青葉が殺された事件を取材することになった。殺される直前まで、青葉は特ダネを追っていたようなのだ。手がかりはカメラに残されていたコスプレ姿の女性。銀次郎は真相に迫っていくが。「彼女」シリーズ(と勝手に呼んでいる)は、1作目2作目以上にある意味まさかの展開。そして、読んでいる間感じていた違和感は、なるほどそういうことか!と、本格ミステリとしては王道のサプライズ感を味わえた。これこれ!これですよ!って感じ。浦賀作品は人間のうっすらとしたマイナス感情を描いていくことが多いが、粘着質なものを描いていても描き方(文体)自体は粘着質じゃないので、やりきれない話でも意外とさらっと読めるという、不思議な特徴があると思う。

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『アデル、ブルーは熱い色』

 読書好きの高校生アデル(アデル・エグザルコプロス)は青い髪の美大生エマ(レア・セドゥー)と出会い恋に落ちる。2人は一緒に暮らすようになるが、徐々に気持ちはすれ違っていく。監督はアブデラティフ・ケシシュ。原作はジュリー・マロのコミック。第66回カンヌ映画祭パルムドール賞受賞作。ケシシュ監督だけでなく主演のセドゥーとエグザルコプロスにもパルムドールが授与されたことでも話題になった。確かに、主演の2人によって成立している部分が非常に大きい作品だと思う。
 恋愛の喜び苦しみをストレートに描いた(ストレートすぎて、いやもういいです、みたいな気持ちにならなくもない)、女性同士の恋愛ということで奇異の目で見られがちだが、普遍的な物語だし、映画のスタイルとしても案外オーソドックス。瑞々しいが斬新かと言われるとちょっと、と思った(それが難点というわけではない)。
 2人がどうしようもなく惹かれるという部分よりも、すれ違っていく部分の方に説得力があるように思った。アデルは高校卒業後に教職を目指し、幼稚園の先生になる。エマは画家としての道を進むが、アデルが文才を活かさないことに納得がいかない。エマの両親はいわゆるインテリで、娘の画業にも理解があるし、「創造的な仕事」を称揚している。一報、アデルの両親は地道に稼ぐのが一番、絵では食べられないだろうという考え方。経済的にもそれほど豊かなわけではない。2人がお互いを実家に招くシーンでは、自宅の内装から食事のメニューまで対称的(エマの家では生牡蠣、アデルの家ではトマトソースまみれのパスタ)。
 特に、エマが主役のパーティでのアデルの所在無さや、やたらと料理に力を入れて振舞ってしまう様子は、見ていていたたまれなかった。芸術に詳しい周囲の人たちの話にはついていけないし、エマは友人らと親しげだ。俳優をしているという青年と、芸術以外の話をできてようやく、ほっとしたように見えた。エマにも悪気はないんだろうけど、なまじ親密な間柄なだけに、相手が居心地悪い思いをしているとは思い当たらないんだろうなというのもわかる。暮らしてきた世界が違う、と言ってしまうと実も蓋もないが、そういう部分の差異って埋めきれないものなんだろうなと思う。だから相手に歩み寄るないし、差異は差異として相手に説明するないし、努力しないとならないんだろうけど、この時のアデルにもエマにも、そこまではできなかった。多分破局の芽になるであろう要素が、2人が出会った時から見え隠れするところが、その先の展開を予感させ切ない。
 なお、セックスシーンは女優2人の体当たり演技といった感じで、話題になるのはわかるが、延々と続くのでセクシーさよりもくどさが先に立ってしまい、正直飽きた。これもっとカットしておけばもうちょっと短めで見やすくなるのに・・・。なにより、作品の為の要素というよりも、撮っている側の執拗な目線の方が前に出てしまっている。アデルの食べるシーンや寝るシーンをあえてきれいには撮らないところにも、身体に対する執着が滲んでいるように思った。女性と女性の物語だが、それを見る視線は異性愛者の男性的なのでは。



『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』

てれびのスキマ著
愛読しているブログ「てれびのスキマ」執筆者による芸人たちの肖像。メルマガに書き下ろしを加えたものだそうだが、ブログを含め様々な媒体で著者が言及していた内容が多く、さほど新鮮感はなかった(単に私がスキマさんの連載を積極的に読んでいたからですが・・・)。ただ、著者があくまでTVや雑誌インタビュー等で「見聞きした」内容に終始している、関係者への聞き取りや取材は一切ないという点で、いわゆる芸能関係本としては独特の、一視聴者、記録者に徹した立ち位置だと言える。まあよくTV見てるし本読んでる(相当掘り起こしてる!)なと感心する。理想の視聴者だよなぁ・・・。下手をすると下世話だったり思い入れ過多でうっとおしくなりそうなところ、ぎりぎりでそうはならないのは、著者が持つある種の品の良さ(ブログ「てれびのスキマ」読者ならおわかりでしょうが、人柄の良さが漂っていて嫌みがない)によると思う。取り上げられている芸人(題名の有吉の他、爆笑問題、オードリー、オリエンタルラジオ他)を好きな人にはおすすめ。


有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方 (コア新書)
タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?

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