イタリア文化会館主催のイベント「アントニオ・タブッキ 水平線の彼方へ」での、タブッキ作品原作映画の上映会にて。ファシズムの影がしのびよるポルトガル。新聞社の文芸欄主任ペレイラ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、著名人の死亡記事を事前に書くアルバイトに、1人の青年を雇う。青年の恋人は反ファシズム運動に身を投じているらしい。やがてペレイラも予期せぬ事態に巻き込まれていく。1995年、ロベルト・ファエンツァ監督作品。原作はアントニオ・タブッキの同名小説。
日本では未公開だったが、主演にマルチェロ・マストロヤンニ、音楽はエンリコ・モリコーネというなかなか豪華な布陣。なお、マストロヤンニの起用はタブッキの指名だったそうだが、元々さほど予算の大きい企画ではなかった為に出演料の高さに難儀し、監督とプロデューサーが自宅を抵当に入れて資金調達したそうだ。タブッキも自腹で援助したそうで、本作にかけた思いが垣間見られる。そもそも本作、びっくりするくらい原作小説に忠実(ナレーションが多い!)という、小説の映画化としては割と珍しい作品なのだ。
時代背景は、スペインでフランコ政権が台頭し、ヨーロッパでファシズムが蔓延しつつあるころ。反フランコ運動に身を投じる若者たちもいる。ペレイラはそういう若者の1人と知り合い、助けを求められる。ペレイラは文芸欄の担当だから中立なのだ、政治に興味はないと言う。青年の恋人や汽車で行き逢ったユダヤ人女性からは、あなたは何かをできる立場にあるのになぜ何もしないのだとなじられる。彼女らの言葉は耳に痛い。ペレイラの、「自分がやることではない」という他人事感、当事者であることへの面倒くささは、身に覚えがあるものだ。アルバイト青年のように恋人に感化されすぎるものちょっと問題だけど、ペレイラの無関心さも、しっかりしろ!と言いたくなる。そのしっかりしろ!は見ている自分に跳ね返ってくるものだし、見ている側はこの後のヨーロッパがどういう状態になるか知っているから言える(渦中にいたら逆に危機感沸かないかもしれない)のだが。
原作では、ペレイラが自覚がないままどんどん巻き込まれていく、ちょっとホラーっぽさも感じたのだが、映画では、彼がある決意を持って選択し、行動したと感じられる。これは予想外に感動的だった。最後、歩いていくペレイラは若々しくさえ見える。
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供述によるとペレイラは… (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
日本では未公開だったが、主演にマルチェロ・マストロヤンニ、音楽はエンリコ・モリコーネというなかなか豪華な布陣。なお、マストロヤンニの起用はタブッキの指名だったそうだが、元々さほど予算の大きい企画ではなかった為に出演料の高さに難儀し、監督とプロデューサーが自宅を抵当に入れて資金調達したそうだ。タブッキも自腹で援助したそうで、本作にかけた思いが垣間見られる。そもそも本作、びっくりするくらい原作小説に忠実(ナレーションが多い!)という、小説の映画化としては割と珍しい作品なのだ。
時代背景は、スペインでフランコ政権が台頭し、ヨーロッパでファシズムが蔓延しつつあるころ。反フランコ運動に身を投じる若者たちもいる。ペレイラはそういう若者の1人と知り合い、助けを求められる。ペレイラは文芸欄の担当だから中立なのだ、政治に興味はないと言う。青年の恋人や汽車で行き逢ったユダヤ人女性からは、あなたは何かをできる立場にあるのになぜ何もしないのだとなじられる。彼女らの言葉は耳に痛い。ペレイラの、「自分がやることではない」という他人事感、当事者であることへの面倒くささは、身に覚えがあるものだ。アルバイト青年のように恋人に感化されすぎるものちょっと問題だけど、ペレイラの無関心さも、しっかりしろ!と言いたくなる。そのしっかりしろ!は見ている自分に跳ね返ってくるものだし、見ている側はこの後のヨーロッパがどういう状態になるか知っているから言える(渦中にいたら逆に危機感沸かないかもしれない)のだが。
原作では、ペレイラが自覚がないままどんどん巻き込まれていく、ちょっとホラーっぽさも感じたのだが、映画では、彼がある決意を持って選択し、行動したと感じられる。これは予想外に感動的だった。最後、歩いていくペレイラは若々しくさえ見える。
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