3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2013年06月

『バレット』

 腕利き殺し屋のジミー・ボノモ(シルベスター・スタローン)は、ある仕事の後、何者かに相棒を殺された。復讐に燃える彼は、事件を追う若い刑事、テイラー(サン・カン)と協力することに。ジミーが殺したターゲットの男は、テイラーの元同僚の刑事で、汚職により退職したのだ。事件を追う2人はある陰謀に巻き込まれていく。監督はウォルター・ヒル。
 冒頭のクレジット部分だけで、これは自分の好きなタイプの映画だなとわくわくしてきたのだが、期待は裏切られなかった。すごくおもしろい・出来がいいというのではなく、いい塩梅に気軽に見られるあっさり風味がいい。一応アクション映画ではあるが、スピーディ・スタイリッシュなアクションではなく、動きはもったりと、ドタドタした印象を受ける。体の重さ、重力を感じるアクションシーンだ。こういうのが好きなんだよなー。ストーリー自体も決して派手ではなくスケールもそう大きくはない。そのスケール感に、アクションの地味さが丁度良く合っていたと思う。
 警察のデータベースが万能すぎないか(前科者について調べるなら案外あんなものかもしれないけど)、皆の勘が良すぎないかという気はするが、話がさくさく進んで気分がいい。短絡的というよりも、必要な部分だけ見せてあとは省略するという手際の良さを感じた。キャラクターについても必要以上のキャラ付けはせず、過剰なサービスはせず、必要な部分だけ見せている。贅肉がない娯楽映画という感じだった。
 ジミーもテイラーも、共闘はするものの、自分はそもそも犯罪者である/警察官であるという部分はブレない。自分の分をわきまえている、自分自身を知っているところがいい。ジミーは自分を正当化したりしないし、テイラーも甘ちゃん扱いされても正義の存在を信じている。それを踏まえた上で、ジミーがテイラーに対して気持ち保護者っぽくなる感じにぐっときた。
 それにしてもここ数年でのスタローンの巻き返しぶりはどうしたことか・・・。体のキレがいいとは言えないが、却って老兵ぽさが醸し出されていい味になっている。共演のサン・カンも、青二才ぽくもある若々しさがよかった。キャスティングに華やかさはないが、脇役も皆いい面構えの人たちだったと思う。




『イノセント・ガーデン』

 18歳の誕生日、少女インディア(ミア・ワシコウスカ)は最愛の父親を事故で亡くす。葬儀の日、彼女と母親(ニコール・キッドマン)の前に音信不通だった叔父チャールズ(マシュー・グッドマン)が現れ、屋敷で一緒に暮らすことに。その日から彼女の周囲で奇妙な事件が起こり始める。監督はパク・チャヌク。監督にとってはハリウッドデビュー作になる。
 ハリウッドデビュー作でいきなりの豪華キャストなのでかなり気負った作品になっているのかと思いきや、きれいにまとめた小品という印象。とはいっても、オープニング部分のクレジット表示のさせ方や、流暢なカメラの動き(葬儀後の屋敷内での一連のシーンとか、すごく計算されていると思う)、衣装や車による時代感の消し方など、監督の美意識が徹底されている感じ。ちょっとやりすぎで最初は鼻についた。作中世界も箱庭的なので、余計にそう思ったのかもしれない。美しくきっちり整備されているが、この世界の外側への広がりは感じられない。そもそも外側なんてないのでは?と思えてくる。
 インディアは父親と親密な娘で、母親との間に愛情は薄い。母親とは全く違うタイプの人間同士で、分かち合えるものは少ないのだ。そんな所に、叔父だというチャールズがやってくる。チャールズはインディアに親密さを求め、2人は似た者同士だと示唆していく。インディア役のワシコウスカとチャールズ役のグッドマンは決して外見が似通っているわけではないのだが、インディアとチャールズははっきり「似ている」ように見えるところが面白い。役者の力なのか演出の力なのかわからないが、そう見せてしまうところがプロの仕事のすごさだなと思う。
 ただ、よく似ていることと、同じであることとは違う。パク・チャヌク監督作品の主人公は、基本的に1人で行動し、共闘とか連帯とかは保たないという印象がある。彼らにとっては、孤独であっても自由であること、自分が自分として独立していることの方が大切なのだろう。インディアの母親は彼女のことを理解はしなかったが、彼女と自分は別の人間であり、意のままにはできないということはわかっていた。だからああいう選択になったのではないかと思う。
エロティシズムが濃厚だが、それを醸し出すもの、セックスの暗喩の見せ方が結構露骨というかあからさまで、うっかり笑ってしまいそうになる。さあ見せますよ!という意気込みで見せられてもなぁ。そういうものじゃないだろうと思うのだが。




『白雪姫には死んでもらう』

ネレ・ノイハウス著、酒寄進一訳
11年前、連続少女殺人事件の犯人として逮捕された男が、刑務所から出所してきた。彼は冤罪だと主張していたが、誰も信じなかった。11年ぶりに戻った故郷でも、殺人犯の親として父親は阻害され、母親は村を去っていた。そして空軍基地跡の貯蔵庫から人骨が発見される。検視の結果、11年前の事件の被害者だと判明した。刑事オリヴァーとピアは捜査担当となる。『深い疵』に続くオリヴァー&ピアシリーズ。あいかわらず一気読みする面白さ。男女コンビの「仕事上の相棒」としての立ち入りすぎない関係性がいい。こういう部分がうまく書けている警察小説って(特に海外ミステリでは)案外ないように思う。今回はオリヴァーの家庭問題もからんでくる。憔悴するオリヴァーは気の毒ではあるのだが、その傷つきかたはちょっとムシがいいよな~とも思った。洞察力はあるのにちょっと鈍い(というかプライヴェートにおいては自分に都合の悪いことはあまり直視していない)んだよな・・・。それはさておき、前作と同じく、人間の身勝手さ、弱さが捜査の中で浮かび上がってくる。村社会という親密な世界だからこその怖さがあった。ただ、人間の醜悪な部分を描いても、悪意が鼻につくような作品ではない。醜悪さと同時に、人間のチャーミングさがきちんと描かれているからだだと思う。




『三姉妹 雲南の子』

 中国、雲南省の小さな村に住む、10歳の英英(インイン)、6歳の珍珍(チェンチェン)、4歳の粉粉(フェンフェン)の3姉妹。父親は出稼ぎに行き、3人だけで暮らしている。幼い2人の面倒は長女の英英が見ているのだ。その生活を追うドキュメンタリー。監督はワン・ビン。
 3姉妹だけで暮らしているのか!と本作を知った時点ではびっくりしたのだが、実際には近所に叔母一家や祖父が住んでおり、食事の世話などはそこそこやってくれる(いつもではなく、英英が芋をやいてご飯にしていたりもする)。とはいっても、寝起きは3姉妹だけでしているので、大変なことには変わりない。英英は実によく働く。家畜にえさをやり、放牧(豚の放牧って初めて見た・・・)し、燃料用らしい羊の糞を集め、洗濯などもする。もちろん妹たちに食事をさせ、寝かしつける。その合間に学校にも行っている。
 ただ、英英が特別に良く働くというわけでもなく、他の家の子供達も皆、家畜の世話や羊の糞集めは日常的にやっているみたいだ。子供が労働力としてカウントされているし、子供の方でもそれが当然だと思っている。とはいっても、英英が芋を洗ったものの水切りが足りなくて怒られる(多分、毎回言われてそう)ところなどは、子供のお手伝いといった感じ。同級生の男の子も、糞集めの籠の背負い方や中身の詰め方がどことなく不器用でこなれていない。子供はよく動くというイメージがあるが、いわゆる「作業」として効率のいい動きは習得していないんだなと思った。
 カメラは被写体に対して非常に近いが、対象に対してすごく思いいれがある、感情的であるという風には見せない。かわいそう、とか、大変だ、とかいう思いいれはなく、単に「生活している」様を撮っているという感じ。子供も大人も動物も、同じようなスタンスで撮影されているように思った。被写体もさほどカメラを気にしておらず、そこにいるのにいないような振る舞いだ。ワン・ビン監督の作品を見るたび、どうやってこの段階まで相手との関係性をもっていけるのかと不思議に思う。父親が帰省してきた際の、三姉妹の反応の差異など、よく撮ったなと唸った。英英の一見すると無愛想な振る舞いには、かえって父親への思いが滲む。妹2人みたいに単純に喜べないくらいには、家庭の事情、父親の事情もわかってるんだろうし、わかっちゃうって辛いよなと。
 撮影場所となった村は、中国国内でも特に貧しい地域だそうだが、ガスもろくに普及していなさそう(竈で調理しているがTVはあるのがアンバランスで面白かった)だし、水道はあるのだろうが主に使っているのは庭の手押しポンプだ。農作業は人と馬とで行う。交通手段はバスのみ。中国といえば経済成長みたいな昨今だが、こんな地域がまだあるんだなとカルチャーショックを受けた。また、ワン・ビン作品を見ると毎回、布団の使い込まれ感にショックを受けるのだが今回も同様。シラミがすごそうだった・・・。





『言の葉の庭』

 靴職人を目指す高校生タカオ(入野自由)は、雨の日が好きだ。雨の日には学校をさぼって、公園のあずまやで靴のスケッチをするのが習慣だった。ある雨の日、あずまやには女性の先客がいた。その女性ユキノ(花澤香菜)と徐々に親しくなったタカオは、雨の日を心待ちにするようになる。謎めいて見えたユキノだが、彼女もとある事情を抱えていた。監督・脚本は新海誠。
 新海監督の作品では初めて、「アニメ」の模倣ではないアニメだなと思った。今までの作品では、風景や室内などの背景部分はすごくよく観察されているのに、キャラクターの演技は過剰にアニメっぽく、演技の演技のような違和感を感じていた。今回は、表現したいものと演技方法とがようやくかみ合ったという印象を受けた。いやー、ぶーぶーいいながら毎回劇場に足を運んだ甲斐があった・・・。ドラマとしても、今まででは一番そつがない。
 ただ、やっぱり難点(というか自分と相性が悪いなーと思う部分)も。相変わらずポエジー過剰で辟易した。映像、セリフ(モノローグ)、音楽とこれでもかと情感を盛ってくるので、逆にひとつひとつの味わいがわからなくなってしまう。映像にこれだけ詩情があるなら言葉の使い方はもっと控えめでいいし、音楽だって無音の部分が多くてもいいのになと思ってしまった。テーマ曲として、大江千里の『Rain』を秦基博によるカバーを起用していて、おおっ!とおもったのだが、あまりにもドヤ顔でクライマックスと被せてくるので少々ひいた。もっと引き算に引き算を重ねる感じでもいいのに・・・。監督の手の入っていない脚本だとどういう雰囲気の作品になるのか、一度見てみたい。
 タカオとユキノが会うのは雨の日だけという設定なだけに、雨の表現には気合が入っている。ここまで雨に特化したアニメーション作品は初めて見た(笑)。ただ、ここまでやる必要があるのか(技巧を凝らすことが表現としては必ずしもプラスではないのでは)という気もしなくはないが。色々なバリエーションを見られるという意味では面白かった。




『覇者と覇者 歓喜、慙愧、紙吹雪』

打海文三著
近未来の日本を舞台とした応化戦争記、最終章。戦争はいよいよ終結に向けて動き始める。常陸軍孤児部隊司令官の佐々木海人をはじめとする各軍隊、マフィアのトップたちは、終戦とその後の処理の為奔走する。戦争(内戦)シュミレーション小説としてもジュブナイル小説としても本当に面白かった。著者が亡くなったことで完結しなかったことが悔やまれる。戦争をやるにも、戦争を終わらせるのにも、戦争から日常に帰還するのにもとにかく金!金がかかる!どうやって資金を捻出するか、融資を受けるかという、妙に地に足のついた部分が面白い。元兵士たちの再就職の問題など、現代のアフリカ等の内戦後の問題になっているものなので説得力がある。ただ、逆に金で解決できる部分は解決しやすい部分なんだよなとも。理屈の通らない憎しみやイデオロギーによる反乱の方が始末が悪い。そこに粘り強く立ち向かっていく、理解しあわなくてもとりあえずは共存できるようにしていく、そして各派閥の利権をすり合わせていくという、終わりの見えない、新しい戦いが描かれる。本当に、著者が予定していた最終章まで読みたかったなあ。




『愚者と愚者 (上 野蛮な飢えた神々の叛乱)、(下 ジェンダー・ファッカー・シスターズ)』 

打海文三著
「裸者と裸者」に続く、応化戦争記シリーズ。強制徴兵された孤児兵だった佐々木海人は、軍で頭角を現し3500人の兵士を率いる司令官になっていた。一方、月田椿子率いる女性マフィア、パンプキン・ガールズも事業拡大に励んでいた。第一部を読み終えた後になんとなく中断してしまって、ようやく第二部を読み始めた。読めばしっかり面白いんだけど(笑)。小説であれ映画であれ、戦争ものはあまり好きではないのだが、本作には、こういう状況になったら事態はこう動くだろう、という部分の手ごたえがあって引き込まれる。軍事的な描写に関してはあまりわからないのだが、人(の集団)の憎悪の醸成のされ方に説得力がある。本作の世界では国境や自治体、会社や学校などの枠組み、境界線はかなりゆるくなっている。そういう状況で憎しみの元になるのが、ジェンダーと人種というのには、嫌な説得力がある。個々の肉体に付随してひきはがせないものだから最後まで火種として残るのだろうか。私は「黒い旅団」や「我らの祖国」のイデオロギーに強い反感を感じるけど、国籍・民族・ジェンダーという境界を横断する常陸軍や、女の子のマフィアであるパンプキン・ガールズに対して、こんなの許せないと思う人もいるんだろうなー。著者の視線は(もちろん海人や椿子に近いものではあるが)どの集団に対しても比較的フラットなので、余計にそういう人もいるんだろうな、と思わせる。




『リアル 完全なる首長竜の日』

 浩市(佐藤健)は自殺未遂により昏睡状態に陥った恋人・淳美(綾瀬はるか)とコンタクトをとるべく、センシングと呼ばれる最新医療技術を使って、彼女の意識内に入る。意識内で会った淳美は、浩市が子供の頃に淳美に贈った、首長竜の絵を探してほしいと頼んでくる。浩市は絵を探す一方でセンシングを続けるが、幻影に悩まされるようになる。原作は乾緑郎の小説。監督は黒沢清。
 冒頭、ベランダのカーテンが揺れているシーンだけで、おおーきたきた!と嬉しくなってしまった。人気俳優を起用し、ヒット小説が原作ではあるが、やっぱり黒沢清の映画だ。黒沢作品では風や音が不穏さを煽るが、本作でも同様。ここで風が吹いたら不自然だというところでも風は吹き(終盤の中谷美紀のアップシーンとか)、音で充ちる。音の使い方は特に印象的。作中に満ちる不穏さはここから生まれると言ってもいいくらいだ。風の音や、建物がきしむような音がそこかしこで聞こえる。現実的に聞こえるノイズというよりも、「ここ」の外側を感じさせるような怖さのある音なのだ。原作はホラーではないのだが、この音と風の存在感で、ジャンル:ホラーと言ってもいいくらいの薄気味悪さが醸し出されている。また、黒沢といえば廃墟だが、本作でもナイス廃墟が連発される。廃墟に特化したロケハン能力って何なんだろうなー(笑)。
 センシングによって入り込む意識内の世界は、一見、現実の世界と変わらない。変わらないので、どこからが意識内の世界なのか、境目がだんだんシームレスになってくる。この曖昧さには、実際、そういうものかもしれないなと思わされた。意識内の世界に入るというと、最近の映画では『インセプション』がインパクトあったが、あれは意識内の世界がフィクションとして完成されすぎていて、(意識内という設定に関しては)あまり説得力を感じなかった。一見いつも体験している日常世界だが、メッキがペラっとめくれて異質なものが見える、何か妙なものが混在しているという方が、心の中の世界らしいんじゃないかと思う。全く別の世界、リアルと非リアルなのではなく、どちらも同じくリアルだ。脳内の出来事も、当事者にとっては「現実」なのだ。リアルだと感じられる方がその人にとってのリアルなのだと言ってもいいかもしれない。
 佐藤と綾瀬も好演している。2人ともすごくスタイルがいいというタイプの俳優ではないが、体のパーツが印象に残る。特に佐藤の足が妙に大きく感じられた。2人とも、体がよく動き、運動神経の良さが感じられた。佐藤に関しては昨年の『るろうに剣心』で動ける人だというのは織り込み済みだが、綾瀬が予想以上に身体能力が高い。黒沢清の映画であのような身体性を目にするとは思わなかっただけに、インパクトがあった。




『グランド・マスター』

 1930年代の中国。南北のカンフー流派の宗師(グランド・マスター)たちは、南北に分かたれた流派を統合しようとしていた。引退を決意した八卦掌の宗師・宮宝森(ゴン・バオセン/ワン・チンシアン)は、一番弟子の馬三(マーサン/マックス・チャン)と、詠春拳の宗師・葉門(イップ・マン/トニー・レオン)を後継者の候補と考えていた。しかし、野望に目のくらんだマーサンがバオセンを殺害。バオセンの奥義を受け継ぐ娘の宮若梅(ゴン・ルオメイ/チャン・ツィイー)は、父の復讐を誓う。監督はウォン・カーウァイ。
 まさかカーウァイがカンフー映画、しかも実在のグランド・マスターたちを主役にした作品を撮るとは、と意外に思ったが、見終わってみたらやっぱりカーウァイ作品だった。映像は美しいがとりとめがなくて、話の主軸をどこにおけばいいのかぼんやりしてしまった。止め絵や色あいは美しいが、カンフー映画としてはあまり楽しくない。アクションシーンがあまり見やすくないのだ。ここがもっと見たいのに!という部分の手前でカットされてしまう、カットが小刻みで全体の動きを堪能できないという感じ。これは俳優の能力的な限界もあるのかもしれないが、アクション映画としては物足りない。やっぱりアクションシーンのセンスはないんじゃないかなー。また、構成も何か意図があって時間軸が前後しているというより、適当に処理しているだけに見える所が、まあいつものカーウァイぽいというか・・・。
 時代背景が、カーウァイ作品の中では一番色濃い。時代に翻弄された人々の物語とも言える。彼らはカンフーの世界の中では「グランド・マスター」だが、時代の流れや運命にはあらがえないただの人間でもある。
 グランド・マスター3人それぞれの「縁」は、ちょっと触れるという程度で、深く絡み合いそうで絡み合わない。縁を織りなす、というところまではいかないのだ。その儚さが却って味わい深い。






『はじまりのみち』

 若き映画監督、木下恵介(加瀬亮)は、監督作『陸軍』の終盤が国策に反すると政府の怒りをかい、企画していた新作も中止に。納得できず映画会社を辞めて故郷の浜松に戻るが、空襲が迫り、病身の母を連れて疎開することに。監督は原恵一。木下恵介生誕100周年記念作品となる。
 数々の名作を残した、日本を代表する映画監督・木下恵介の若き日のエピソードを、原恵一監督が初々しい物語として映画化した。原監督にとっては初の実写映画だ。初の実写映画で木下恵介生誕100周年記念作品とは、大分荷が重かったんじゃないかとも思ったが、オーソドックスだが瑞々しい、力作だった。ところどころ絵が決まりすぎている(雨の中リヤカーをひくシーンなど)なぁと思うところはあったが、全般的に落ち着いていて、見ていてほっとする。
 母親をリヤカーに乗せて峠を越える、というだけの話なのだが、なぜか広がり、豊かさを感じた。ロケーションのよさはもちろん、役者が皆、好演している。恵介役の加瀬には、本当に良い俳優になったなぁとしみじみ。とつとつとした喋りが、昔の日本映画っぽさを感じさせた。その他の役者も、演技は抑え目。特に恵介の兄役のユースケ・サンタマリアには、この人こんな方向性の演技もできるんだ!と感心した。真面目さや、少々変わり者の恵介とは対称的な、常識人らしさが滲む立ち居振る舞いだった。また、コメディリリーフの便利屋役の濱田岳が、単調になりがちなストーリーのアクセントとなっていて、軽やか。最初、ちょっと「キャラ」寄りすぎの造形かなと思ったが、見ているうちに存在が馴染んで落ち着いてきた。
 便利屋はコメディリリーフというだけでなく、本作の中では重要な役割をはたす。彼の存在が、恵介の映画監督としての「はじまりのみち」への道しるべとなるのだ。川辺で便利屋が語るシーンは、こうであってくれという映画を作る側の思いでもあるだろうし、同じ道を行く人たちへの励ましでもあるだろう。一方で、映画を見る観客にとっては便利屋は代弁者である。そして、自分が映画を見ることが、本作の恵介に対して便利屋が果たしたように、誰かの心の支えになればいいなという願いも投影されているように思った。映画を作る側の思いと見る側の思いが、支え合っているのだ。
 本作では、作中で木下恵介監督の『陸軍』を10分近く、そのまま引用している。またエンドロール前に、木下監督全作品の映像が流れる。映画本編よりも引用部分の絵の力の方が強くて、ちょっと反則だなぁという気もするが、生誕100周年記念イベントとしてはこれでいいのかなとも思う。本作のあのシーンは、あの作品へのオマージュだったんだな等、確認できるのも楽しかった。




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