3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2013年06月

『更紗の絵』

小沼丹著
敗戦直後、復興に向かおうとしている日本。妻の父親が再建しようとしている学校で、中学主事になった吉野。生徒たちや教師同士のいさかいに手を焼いたり、学校の近くの工場で英語の通訳を請け負ったりと、忙しい。しかし吉野君は淡々と日々を生きる。主人公を常に「吉野君」と君付けしているのがほのぼのと好ましい。吉野君は、ごくごく普通の、少々うかつでだらしないところもあるが根が真面目な善人であり、その妻も同様だ。妻の方がちゃっかりとしていて、2人のやりとりもまた楽しい。吉野君夫妻の、出来ることをやる、欲張らない生き方がいい。普通の人の、普通の生活の味わい深さが描かれていてしみじみする。とはいっても、吉野君の日常の背後には、戦後の混乱があり、物資の足りなさ、行方不明者の多さ、また敗戦国としての鬱屈等が見え隠れしてはっとする。吉野君はのんびりとした人で、そういうものに相対した時の反応も苛烈なものではない。しかし、「嫌だな」くらいの静かな反応には、却って彼の悲しみや苦さが滲んでいるように思う。




『おっぱいとトラクター』

マレーナ・レヴィツカ著、青木純子訳
元エンジニアの父(84歳)が、ウクライナから来た50歳年下の美女と結婚すると言い出した。母親の遺産問題で不仲だった娘2人は、美女の目的は財産とヴィザだと睨み、一時休戦して美女撃退に乗り出す。イギリスでベストセラーになった小説だが、こういう話、どこの国でもあるんだなーと妙に感心した。父親の恋愛真っ最中なのぼせ方がおかしいけど、必死すぎてちょっと笑えない。年とるとのぼせ方が極端になっていくみたいなんだよなー。本人は楽しいんだろうけど・・・。娘2人の、共通の敵が出来ると関係が修復されるというところも、万国共通で「あるある!」。ただ本作、父親の恋愛騒動を追う一方で、ウクライナからの移民である両親の歴史を追うという一面もある。両親が自分たちの歴史を子供達に伝えたがらなかったという部分には、歴史との向き合い方を考えさせられる。「歴史を後世に
残す」というのは正しいとは思うが、その歴史を構成するのは個々の人間で、それぞれ過去への思いは違う。一律に過去を見ろ、語れとは強制できないだろうと。歴史の語り方、残し方も人それぞれ(末梢してしまうことも含め)だ。むしろこの部分が、広く共感を呼んでヨーロッパでヒットしたのではないかと思う。






『3人のアンヌ』

 韓国の海辺の町を訪れたアンヌ。1人は成功した映画監督、1人は浮気中の人妻、1人は夫に浮気され離婚したばかり。3通りのアンヌをフランス人女優イザベル・ユペールが演じる。監督はホン・サンス
 3通りのアンヌは、毎回同じコテージに泊まり、同じライフセイバーに出会う。演じているのは前述の通り毎回ユペール。しかし舞台と道具立てと俳優は同じでも、毎回違った様相を見せる。冒頭、脚本家女性が登場し、彼女が書いているエピソードとしてアンヌのお話が始まるのだが、こういうのはどうか、いやいやこういうのは・・・といくらでもバリエーションが増えそうだ。ちょっとした違いであっても、全然違う人の話として見える。ユペールの技量によるところも大きいのだろうが、 仮に同じ主人公の話だとしても、違う流れの中にいれば違って見えるというのが、お話というものかもしれないなと思った。
あっさりとした絵なのだが、所々、びっくりした。ロングからクロースショットにするときに、ショットを切り替えずそのままカメラが機械的に寄って行ってしまうところとか、えっそれでいいの!と。また、最初に出てきた脚本家の作品としての構造が、途中で立ち消えてしまっている。でも映画としてはちゃんと成立しているし、しかもいい感じ(笑)。映画ってこのくらい自由でもいいんだよなーと再確認した。エリック・ロメールがやっていたことと似ていると思う。なんて言ったらロメール好きないしはロメール本人は怒るかしら・・・。多分、ホン・サンスはロメール好きなんだろうと思うけど(男女のぐだぐだ感、無軌道な感じも似てる)。
 イザベル・ユペールが、いままでの出演作のイメージとは大分違う雰囲気。わりとクール・知的なイメージが強かったが、本作の3人はどれもちょっとうかつだったり、情けなかったり、気弱だったりする普通の女性だ。動きもあまりエレガントではなくドタドタしているところがおかしい。不倫相手との調子にのっちゃってる感もユペールがやると何か新鮮だ。
 海辺のちょっとうらぶれた感じとか、ライフセイバーの調子の良さとかが妙に楽しい。登場する人たちが、あまり事態をどうこうしよう、この人をどうこうしようとは思っていないところが気楽でよかった。流されていても別にいいじゃない、みたいな軽やかさがあった。




『f植物園の巣穴』

梨木香歩著
植物園の園丁「私」は歯痛に悩まされていた。通い始めた歯医者の妻は、前世は犬だったので切羽詰まると犬の姿に戻ってしまうという。ナマズの神主や烏帽子をかぶった鯉、稲荷狐らとも遭遇する。不思議な領域に足を踏み入れていくうち、私は徐々に子供の頃を思い出す。「私」は異界とごく自然に交流している。こっちの世界とあっちの世界の境界はあいまいで、ゆらゆらしている。頻繁にたちあらわれる水のモチーフはそのゆらゆら感を強めていく。「私」の彷徨は、こっちとあっちの境を仕切り直していく作業にも見える。「治水しろ」というのはそういうことだったのかなと。同時に、仕切り直すことによって自分の記憶とも向き合い、「私」はもういちど「こっちの世界」で歩き始める。そこに至るまでの細かな伏線の収束の仕方が、小さな流れがやがて本流に合流して、大きな川になって流れ出すようだった。




『空気の名前』

アルベルト ルイ=サンチェス著、斎藤文子訳
北アフリカの港町モガドールで、若い娘ファトマはぼんやりと外を眺めるばかりだった。彼女の祖母は占いにより、ファトマの中に「欲望」が生まれたことが原因だと知る。ファトマの変化はモガドールの人々の噂となり、彼女の視線の行方に対する解釈は勝手に広がっていくのだった。ファトマ以外にも様々な人々が登場し、彼らもまた欲望を抱く。が、それぞれの欲望はほぼ一方通行で欲望の対象の意図と重なり合うことはない。欲望の矢印はあっちこっちに飛んでいくのに、飛んでいきっぱなしだ。艶めかしいモチーフ、狂おしい思いを扱っているのにどこか茫漠としているのは、この矢印のおぼつかなさ、希薄さのせいかもしれない。欲望の主体も何を欲望しているのかわかっていないような、漂う空気の名前を追い求めている(そして空気に名前などつかない)ようなあてどない気分になる。




『ハル』

 恋人ハル(細谷佳正)と大喧嘩をしたくるみ(日笠陽子)。しかし仲直りする間もなく、飛行機事故でハルを失ってしまう。くるみの祖父は、ハルそっくりのロボットをくるみの家に送る。ロボットのハルは、引きこもったくるみを支えようとするが。脚本はドラマで活躍する木皿泉。キャラクター原案は『アオハライド』等が人気の漫画家・咲坂伊緒。監督は牧原亮太郎。
 1クールのアニメを90分くらいのダイジェスト版にまとめたような、物足りなさ、言葉足らずさを感じた。本来ならもうちょっとゆっくりとした尺で作った方が効果的な物語だったと思うので、惜しい。ハルとくるみの関係の変化の仕方や、失ったものは戻らない、しかし残るものはあるというテーマには、時間が少々足りなかったと思う。ストーリー上、ある仕掛けがされているのだが、そのサプライズ感を強めるにも、もうちょっと時間が欲しかった。じわじわ進む方が向いている物語なのだ。木皿泉って中短編には向いていないのかもしれないなー。
 また、アニメの脚本とドラマの脚本とは、今まで作法にそんなに差異があるとは思っていなかったのだが、本作を見て、やっぱり違うのかもしれないなと思った。木皿泉脚本のドラマは、キャラクター造形とかセリフの抽象具合など、世界の箱庭感がちょっとアニメっぽいなと思っていたのだが、いざその脚本でアニメとなると、何かしつこい気がする。実写だと印象に残っていた言葉が、アニメだと上滑りしていたりする。アニメは実写よりも抽象化された表現だから、抽象に抽象を重ねると印象がぼやけるということだろうか。
 舞台は近未来の京都だが、京都である必然性はあまりない。私が京都の町並みにあまり馴染みがないからかもしれないが。祇園祭の描写などかなり作画的に力が入っているのだが、それが作品にとってプラスかというと何とも言えない。何をどうしたいのか、どう見せたいのかというのがいまひとつぴんとこない作品だった。




『華麗なるギャツビー』

 1920年代のNY、ロングアイランドに引っ越してきた作家志望のニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)。彼が借りたコテージの隣には、ジェイ・ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)なる謎めいた大富豪の屋敷があった。毎夜のように華やかなパーティがひらかれ様々な人が出入りしていたが、彼の素性も財産の出所も謎なままだった。徐々にギャツビーと親しくなったキャラウェイは、彼からある頼みごとをされる。キャラウェイの従姉妹で社交界の花であるデイジー・ブキャナン(キャリー・マリガン)に会いたいという。ギャツビーとデイジーはかつて愛し合っていたのだ。原作はスコット・フィッツジェラルドの小説。監督はバズ・ラーマン。
3 Dで鑑賞。バズ・ラーマンが「華麗なるギャツビー」を3Dで映画化と聞いた時は、なぜ3D?と思うと同時に、これは相当バカバカしく派手派手しいビジュアルになるに違いない!とワクワクしていたのだが、実際に見てみると、意外とハメを外していないなという印象だった。パーティーシーンなど、もっとはっちゃけた、下卑たものになるのかと思っていたらそうでもない。これは原作にひっぱられたかなー。3Dに関しては、光の差し込み方の立体感は非常によく出来ていたと思う。冒頭のカーテンが風に揺れる様なども美しかった。3D映画って、リアルというよりもリアルさの誇張と言ったほうがいいような見え方なので、ギャツビーという人物のうそ臭さと美しさを見せるにはふさわしいフォーマットだったのかな。
 ギャツビーの現実見ない人ぶりが切ない。ラブストーリーとしての切なさよりも、過去の中に生きる、ないしは希望を見過ぎる人の哀切さが、予想外に染みた。案外、原作の核の部分をちゃんととらえているのではないだろうか。作家を目指していたキャラウェイがギャツビーに惹かれたというのは頷ける。ギャツビーの、自分の理想としての虚構をどんどん強化していく才能は、小説を書くことにちょっと似ていると思うから。ただ、デイジーが言うようにギャツビーは「多くを望みすぎる」。彼の目指す完璧な世界に周囲はついていけないだろう。でもだからこそ、キャラウェイが言うように「君だけが本物」なのだ。
 ディカプリオはギャツビーを演じるにはちょっと年齢が高いんじゃないかと思ったが、意外と悪くない。ギャツビーの胡散臭さ、薄っぺらさ(最初にキャラウェイに名乗るシーンなど嘘臭くて笑ってしまった)もいいのだが、それよりも、ギャツビーの妙に生真面目な部分、理想家的な部分が上手く引き出されていたと思う。キャラウェイのお茶会でデイジーを待つ様は、滑稽だが胸を打つ。キャラウェイと最後に別れるシーンでの笑顔の「本物」感が、最初に登場した時と全然違うのには感心した。キャラウェイとの関係性が変わったということがちゃんとわかるのだ。




『キャサリン・カーの終わりなき旅』

トマス・H・クック著、駒月雅子訳
新聞記者のジョージは、かつて幼い息子を誘拐・殺害された。ある日、20年前に失踪したキャサリン・カーという地元女性の話を聞く。彼女に興味を持ったジョージは、とある経緯で知り合った難病の少女アリスと、キャサリンが残した小説を手がかりに、失踪事件の真相を追う。冒頭、船上での2人の男のやりとりから始まり、そのうちの1人が語りだすキャサリン・カーにまつわる物語、その中で挿入される、キャサリンが残した自作の小説という、入れ子状の物語だ。誰かが語る誰かの物語という形式は、物語るという行為、フィクションの効能について考えさせられる。ジョージとアリスはキャサリンの物語を調べ、彼らなりの物語を構築していくことで、ある境地にたどり着いたように思えた。そしてそこからまた次の物語が始まる、さらなる入れ子になっているようにも。語り口の魅力が感じられる作品だった。




『ティンカーズ』

ポール・ハーディング著、小竹由美子訳
80歳のジョージ・ワシントン・クロスビーは死の床についていた。彼の頭には過去の思い出が次々と浮かんでくる。ことに父親・ハワードの記憶は鮮明に蘇ってきた。11歳のクリスマス、発作を起こしたハワードは、自分の頭を押さえていたジョージの指を強く噛み、傷口を縫うほどのケガをさせたのだ。ジョージの記憶、貧しい行商人だったハワードの記憶、そして終盤には牧師だったハワードの父親の記憶と3世代に渡る男たちの記憶が入り乱れる。更に、18世紀の時計修理手引書からの抜粋なども挿入される。それらの断片が徐々に組み合わさり、一つの物語が立ち上がってくる。3人各々の記憶が、お互いに支えあい補完し合い、それぞれの傷が昇華されるように思った。ティンカー=修理という題名も、ジョージが修理屋だったからというのもあるだろうが、記憶・関係性の修理という側面も強いのでは。ピュリッツァー賞受賞も頷ける繊細な作品。森や草花など、自然の描写の鮮やかさも印象に残った。




『華竜の宮』

上田早夕里著
ホットプルームの活性化により陸地の多くが水没した25世紀。人類は危機を乗り越え、陸上民、海上民に別れて確執は絶えないものの、再び繁栄を謳歌していた。日本政府の外交官・青澄は海上民との対立を改善する為、海上民の長の一人、ツキソメと呼ばれる女性と会談する。2人には通じ合うものがあったが、政府閣僚同士、また国際機関のしがらみにより計画は頓挫する。一方、国際環境研究連合(IERA)は地球の変調により人類がかつてない危機に直面すると予想、ある計画を密かに実行に移す。第32回に本SF大賞受賞作。受賞も納得の力作。特に、こういう環境化でこういう条件があったら、こういう社会になるだろうというディティールの詰め方に説得力がある。科学と生きる側、自然と共存する側というような安易な対立軸をつくらず、各派閥の動向がそれぞれ呼応し、連鎖した結果としての現状という、どうにもならなさと格闘し続けなければならない、ある意味逃げ場のない話なのだが、その中で人間の強さと弱さとが繰り広げられる。人間の人間らしさとは何か、という問いへの答えにもなっているようなラストだったと思う。壮大な話ではあるが、青澄の外交官としての動き方、矜持にはお仕事小説としての面白さも。




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