3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2013年05月

『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』

 ススキノのバーを根城にする探偵(大泉洋)と相棒の高田(松田龍平)。ある日友人だったオカマのマサコちゃん(ゴリ)が殺された。警察の捜査は進まないまま数ヶ月が過ぎ、とある事情で仕事どころでなかった探偵も、独自に調査を始めることにする。事件を追ううち、マサコちゃんがファンだったバイオリニスト弓子(尾野真千子)と遭遇。さらに新進気鋭の議員・橡脇(渡部篤郎)の影がちらつきはじめる。監督は橋本一、原作は東直己の小説。
 シリーズ2作目になるが、前作よりもハードボイルド風味は薄くなり、探偵のキャラクターもむしろ大泉本人のコミカルさに近づいているように思った。そして濃厚になっているのが、妙な懐かしさ。80年代東映ぽさというか、子供の頃に昼間TVで見た映画や2時間サスペンスのような味わいがある。取ってつけたような(そして撮り方が巧みとは言えない)お色気サービスとか、一人称ナレーションのかっこつけ感とか、今は本当に2010年代ですか!と叫びだしたくなる懐かしさ。ダサさが一周してキュートになっているが、10代~20代の人が見たら懐かしさもへったくれもなく単にダサいと思うのではないだろうか。視聴者層をかなり絞り込んできた印象を受けた。原作の読者層からすると正しい絞込みではあると思うが(原作も、90年代の作品とはいえやたらと古臭いと思った)。
 それらしきエピソードがめくらましになっている、ミステリとしては割とスタンダードな方法だが、ミスリード部分が結構なボリュームで、この部分だけで1本映画が作れそう。むしろこの部分を描きたかった!という勢いの脚本なのだが、ちょっとした会話が、真相の伏線になっている、また真相とフェイクの構造の類似点を示唆している等、丁寧な部分も。
 探偵のキャラクターは、限りなく3枚目寄りの2.5枚目。前作よりも3枚目化が進んでいるが、かっこよさげな振る舞いに見ている側がツッコミ可能なキャラクターだからこそ、反則技ともいえる冗長な一人称ナレーションが成立している。これで主人公が本気の2枚目だったら、ちょっとこそばゆくて耐えられなかったかも。また、高田が前作以上に大活躍する。やっぱり探偵には強力かつキュートな相棒が必要なんだよ!また、マサコちゃん役のゴリが予想外にチャーミングで、マサコちゃんの人となりがよく現れていたのでは。探偵にしろ高田にしろマサコちゃんにしろ、雑多な人たちが暮らす世界の中での優しさを身に付けている人たちで、見ていてほっとする。




『機龍警察 暗黒市場』

月村了衛著
機龍兵(ドラグーン)の搭乗員であるユーリ・オズノフ警部は警視庁特捜部との契約を解雇され、旧知のロシアマフィアと手を組み武器密売に手を染める。そんな中、近々有人搭乗兵器の見本市が密かに開催されるという情報が流れる。出品される兵器が機龍兵の同型機ではないかと疑う沖津特査部長はブラックマーケットの壊滅を狙うが。1作目2作目でも、特捜部全体の動きと平行して、機龍兵搭乗員のうち1名にスポットを当ててきた本シリーズだが、本作では元・ロシア警察官だったユーリにスポットが当たる。彼は3人の中で唯一警官としてのメンタリティを持っている。そして最も普通の人だ。もちろん優れた能力はあるものの、姿やライザのように肉体的にも精神的にも超人的ではなくズタボロになるし、警察に身をおきながらも周囲からはよそ者扱いという立場に対する忸怩たる思い、そして過去に対する鬱屈を抱えている。自分はまだ警察官なのか、警察官でいていいのかと迷い悩む人なのだ。なので本作は、警察小説としての側面がシリーズ3作の中で最も濃厚だし、一警察官が何をもって己を警察官とするかという物語としても最も心を打つ。今後への伏線らしきものもちらほら見えて、ますます続編が楽しみになった。




『アイアンマン3』

 「アベンジャーズ」の戦いから1年。経営者の立場をペッパー(グウィネス・パルトロウ)に譲ったトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr)は新型アイアンマンスーツの開発に明け暮れると同時に、悪夢にうなされ眠れない夜を過ごしていた。一方、テロリスト集団“マンダリン”はアメリカ各地でテロ行為を起こし、スタークの部下も巻き込まれて重傷を追う。激高したスタークはTV中継でマンダリンを挑発し、自宅を襲撃されてしまう。監督はシェーン・ブラック。
 今回はアイアンマンスーツが複数登場するのだが、個々のスーツの差異、それぞれの活用方法があまり見られないのは勿体無い。一応、パワー重視タイプがあるらしいのはわかるのだが(笑)、外見で差異が判断できたのはそれくらいだった。アクションシーンの見せ方はあまり上手くないシリーズだなと思っていたが、本作も同様。アイアンマンスーツが分割・遠隔操作できるようになったことで、あっそんな使い方が!という新鮮さはあるのだが、あまりダイナミックな絵にはならない。飛び道具を使うのかどつき合うのか、戦い方が中途半端だからだろうか。面白くないわけではないのに面白いとは言い切れない、実に微妙なシリーズになってきてしまった(笑)。
 今回、スタークの行動原理がよくわからない、また最後の選択がそんなものでいいのかというところがひっかかるのも、面白がりきれない一因だった。スタークは「私がアイアンマンだ」と言い切るに至るが、なにを持ってそう言い切るのかという、底に至るまでの説得力に欠ける。アイアンマンが基本「スーツ」であって誰でもなれるということがはっきりしたので、余計にそう思う。ここ以外も、ペッパーの扱い等、いろいろと脇が甘い脚本だった。
 敵の設定がまどろっこしいのだが、現代の「悪役」の設定ってこういう形にならざるを得ないんだろうなとは思う。なお敵ボスが悪の道に踏み込んだきっかけの出来事には、心が折れる時期が早すぎるよ!と突っ込みたくなった。




『新世界より(上・中・下)』

貴志祐介著
 1000年後の日本。人間は「呪力」と呼ばれる力を手にし、子供達は徹底的に管理され、集落を囲む注連縄の外に出ることは禁止されていた。12歳の少女・早季は、友人らと共に注連縄の外に出て、太古の遺産である「ミノシロモドキ」に遭遇する。禁じられた知識を得たことで、早季らは自分達を取り囲む世界に疑問を抱いていく。アニメ化されたものが面白かったので原作も読んでみた。なんで発売当時に読んでおかなかったのか!と自分を責めたい。食わず嫌いってよくないわー。第29回に本SF大賞受賞も納得の内容。物語は大人になった早季の手記と言う形をとった一人称なので、文面から見えてくる視野はさほど広くないし不自然な部分もある。しかし一人称の隙間から、実は(早季は与り知らぬことだが)こういうことだったのではないか、とチラチラ見えてくる部分がある。今の私達の世界と早季の世界とを結ぶ線が読者には見えてくるのだ。作品世界の作りこみには気合が入っている。今の私達の世界で、将来的にこういうことがあれば1000年後にはこういう社会になっているだろう、という組み立て方が巧み(その筋道の展開の仕方が本格ミステリ的なところも著者らしい)。特に動植物の進化のしかた、バケネズミの造形の丁寧さには、これを本当に書きたかったんだろうなと思った。SFやファンタジーに近い世界だが、「異世界」ではなく、まさに「この世界」であるという時に冷徹な書きかただが、それだけに題名に込められたものが重い。




『朝食、昼食、そして夕食』

 スペインの巡礼地であり、世界遺産にも登録されているサンティアゴ・デ・コンポステーラを舞台にした群像劇。飲み明かして朝食を取る2人の男は、恋人を待つ役者の家に突撃する。夫と幼い息子に朝食を食べさせる主婦は、朝からビールを飲んでいる。ゲイのカップルは兄を昼食に招いたものの、関係を隠し通そうとする。監督はルイス・トサル。
 あちらへこちらへと、複数の登場人物それぞれのパートへと目線が順次切り替わっていくが、よくまとまっていて気持ちいい。といっても、登場人物たちの人間関係、抱えている事情は、決して良好なものばかりではない。主婦とかつての恋人のエピソードにしろ、ゲイのカップルとその兄のエピソードにしろ、人生のやるせなさ、割り切れなさが感じられほろ苦い。理屈じゃないのよ、というところが余計に苦みを濃くしていたと思う。どちらのエピソードも「ランチに人を招く」シチュエーションなのだが、気まずい空気になったとき、食事の場だと逃げ場がないのでほんとに息苦しい(笑)。さっさと食事を切り上げようよ!と言いたくなるが、なまじ血のつながり、過去のつながりがあると切るに切れないというのもわかる。ゲイのカップルのエピソードでは、弟がゲイであることを隠していた、というのはそんなに許せないのか(ゲイであることを許せないのか隠されていたのを許せないのかが微妙。多分両方なんだろうけど)と不思議でもあった。
 息苦しいエピソードの一方で、健気に恋人を待つ俳優の、悲哀が漂いつつユーモラスなエピソード、ひたすら賑やかな酔っ払いたちのエピソード等、息抜きになるものも。また、サンティアゴ・デ・コンポステーラの町の古い建物がそのまま残された風景が素晴らしい。さすが世界遺産。町の中を歩き回りたくなるし、住んでみたくなる。すぐに停電するという挿話があったりもするので、住むには不便なんだろうけど。
 本作で登場する食事は、殆どが誰かと一緒に食べる為のものだ。食事で関係を再構築しようとしたり、ぎこちなさを補おうとしたりする。人間関係の円滑剤なのだ(もちろん効能を発揮しないこともあるが)。確かに自分だけの為だとちゃんとした料理ってしないし(する人も多いだろうけど、それは料理好きな人だろうから)、食べることプラスアルファの、誰かの為に作る、誰かと食べるという部分の方が大事なのかもしれない。




『ジャッキー・コーガン』

 「優しく殺す」ことをモットーにする殺し屋ジャッキー(ブラッド・プット)は「ドライバー」(リチャード・ジェンキンスから賭博場強盗とその黒幕の捜索・処分を依頼される。ジャッキーは容疑者として前科持ちのマーキー(レイ・リオッタ)を探し出すが、真犯人は別の3人組だと判明。ジャッキーは関係者全員を抹殺することを提案する。監督はアンドリュー・ドミニク。
 宣伝を見た限りでは「ブラッド・ピットが主演のかっこいい映画」として売っていきたいみたいだ。省略できる部分はざくざく省略し、ここぞという見せ場ではねっとりとスローモーションを使うスタイルは、クールと言えばクールだが気負っていて気恥ずかしいと言えば気恥ずかしい。が、まあかっこいい、いや、かっこよくしたいということはよくわかる映画ではある。ただ、「ブラッド・ピットがかっこいい」映画かと言うと、ちょっと微妙だと思う。少なくともピット主演のスター映画だと思って見に来た人は期待を裏切られるだろう。
 ピット演じるジャッキーはプロの殺し屋で腕には定評がある。しかしその腕が発揮されるのは大分後になってからだ。それまで何をしているのかというと、地道な調査と打ち合わせと値段の交渉。殺し屋というとなにやらアウトローな響きがするが、彼の立ち居地はマフィアの下請け会社的なもの。組織の仕組み、そして資本主義の仕組みにがっちりと組み込まれているのだ。外注の殺し屋と値切り攻防に励むジャッキーの姿には悲哀すら感じる。外注の殺し屋が使い物にならなくて「ええー」ってなるピットの顔芸も面白すぎた。映画としてはかっこいいが、ピットのたたずまいは決してかっこよさには徹しておらず、時に滑稽だったり情けなかったりする。
 丁度、オバマVSブッシュが大統領選を繰り広げていた頃が背景になっており、彼らの演説がバックに流れていたりするが、ジャッキーやドライバーの「商売」の前ではなんとも白々しく皮肉に聞こえる。アメリカが言う自由とは、結局こういうことなんだよと。
 とにもかくにも、仕事相手は選べよ!(時には仕事の内容以上に!)という話だった。賭博強盗実行犯たちの使えなさには殺意すら覚える(笑)。近年見た映画のなかでも、相当手際の悪い強盗っぷりだったと思う。




『ウィ・アンド・アイ』

 ニューヨーク、ブロンクス。高校の学期が終わり、明日から夏休みだ。生徒達は下校バスの中ではしゃいで大騒ぎしているが、人数が減るにつれ、それぞれに違った面が見えてくる。監督はミシェル・ゴンドリー。彼の作品の中でも最も地に足が着いていると思う。
 ほぼスクールバスの中でだけドラマが展開されるというアイディアがいい。最初は集団になったガキらの騒々しさ、始末の悪さに見ていて辟易とした。こういうのが嫌で学校嫌いだったんだよ!とげんなりしてくる。しかし徐々に、彼らはその場に応じて「We」の一部として振舞っていることがわかってくる。バスを降りると、あるいはバス内の人数が少なくなってくると、「We」の縛りがゆるんで、「I」として振舞うことができるのだ。なんと面倒くさい!日本で言うところの「キャラ」制度がアメリカの学校でも成立していて、こういうティーンの集団内ロールプレイング的な振る舞いってどの国でも大体似た感じなのかなと思った。どこの国でも、もう10代には戻りたくないよ・・・。
 それぞれ学校内でのキャラが固定されているので、本心は違ってもキャラ通りの振る舞いをしなくてはならない。“クール”なマイケルは悪ガキ仲間とつるんでパーティや悪ふざけにあけくれているが、実際はさほどはしゃぎたいわけでもはないらしい。幼馴染のテレサが皆にバカにされているのを気にしつつも、バカにする側の筆頭であり続ける。それが学校での彼のキャラだからだ。
 しかし、「振り」だけのクール、悪ぶりはあっさり揶揄それる(それも、それまで一度も話をしたことがなかった人に)。キャラはキャラでしかないのだ。一方、テレサは最初から最後まで、振る舞いが比較的一貫している。彼女が学校内で浮いているのは、彼女が「キャラ」にはまりきっておらず、「I」でい続ける(い続けたいのかもしれないし、上手く「We」として振舞えない子なのかもしれない)からだろう。




『ハナ 奇跡の46日間』

 1991年。女子卓球のスター選手ヒョン・ジョンファ(ハ・ジウォン)の人気により、韓国では卓球ブームが巻き起こっていた。しかし韓国チームは強豪・中国に勝てずにいた。そんな折、世界選手権に向け、韓国と北朝鮮とで統一チーム「コリア」が結成される。ジョンファのライバルである北朝鮮のリ・プニ(ペ・ドゥナ)も参加していた。しかし生活環境や練習方法の違いにチームワークは乱れるばかりだった。監督はムン・ヒョンソン。
 実話が元になっているが、今時珍しくド直球・正統派のスポ根ドラマだった。リアル「敵(ライバル)と書いて友と呼ぶ!」な熱気に盛り上がらずにはいられない。ストーリーに目新しいところは殆どないのだが、運命のライバルであり、卓球を通じて心を通わすようになるジョンファとプニの関係に加え、ロミオとジュリエット的な淡い恋があったり、男同士の友情があったり、上層部からの圧力があったり(これは『かぞくの国』見た後だと洒落にならないのだが)と、王道展開を全部盛り込みましたと言わんばかりのサービス精神。何より、本番に弱かった若手選手が、プレッシャーをふっきり成長していく様には燃えた!序盤での「私より強いわよ」という言葉がちゃんと伏線としてきいてくるのだ。
 メインの女優2人がとても良い。特にジョンファ役のハ・ジウォンが強く印象に残った。普段はやや野暮ったい(私服がダサい!)のに、試合中はシャープな美人に見えるところが素晴らしかった。この人、人気高いだけのことはあって、やっぱり上手いんだなー。その他の選手役の俳優たちも、試合中のシーンが一番輝いて見えるところがすごい。説得力をこういうところで出すのか!と唸った。
 スタンダードなスポ根ドラマとして楽しめるが、その熱さ、選手達の努力の痛切さを強める要因として、朝鮮半島が置かれている状況がある。彼らは例外的に合同チームになったにすぎず、この先同じチームでプレイすることはないだろうし、一緒に泣いたり笑ったりすることもないだろうことを、皆がわかっているのだ。全員がこの1回に賭けているという熱量が、本作をよりドラマティックにしている。言うまでもなく未だ南北は分断された状態で、実在のヒョン・ジョンファ選手とリ・プニ選手は翌1992年の大会以降、未だ再会できていないそうだ。




『セデック・バレ 第一部 太陽旗/第二部 虹の橋』

 1985年の台湾。日清戦争で清が破れ、台湾の山岳地帯に暮らすセデック族にも日本の統治が及ぶようになった。日本統治下で35年が過ぎ、セデック族の中には伝統的な暮らしから離れて日本人文化に同化しようとする者も出てくるが、日本人による差別や暴行は後をたたなかった。一族の頭目モーナ・ルダオ(リン・チンタイ)は村人たちに耐えるよう説くが、日本人警官と一族の若者の衝突がきっかけで、抗日暴動に火がつく。監督はウェイ・ダーション。美術監督として種田陽平が参加している。
 日本統治下の台湾で起こった、先住民族セデック族による抗日運動「霧社事件」を2部にわけて描いた超大作。1部「太陽旗」は一族に火がつき暴動が起きるまで、2部「虹の橋」は暴動が山岳ゲリラ戦へ移行したものの、日本軍に制圧されていくまでを描く。恥ずかしながら台湾に先住民族がいるということすら知らなかったのだが、日本が台湾を統治していた時代があるという程度の知識があれば、さほど不自由なく見られると思う。
セデック族を演じる俳優たちの殆どが、演技経験のない、実際に台湾先住民の人たちだそうだ。セデック族の生活様式や芸能、食文化等、かなり丹念に取材してあるのではないかと思う。加えて、集落まるまる作ってしまった種田陽平によるセットは、よく予算出たな!とびっくりするくらいの力の入り方。監督にとって入魂の一作だということがよくわかる。決してまとまりがいい作品だとは思わないし、少々長すぎるのだが、熱量で乗り切っている。
 普通、映画にしろ小説にしろ、異文化を描いても、主人公は観客が共感しやすいように造形することが多いと思う。しかし本作は、部分的には共感できる(圧制に耐え忍んで~とか)のだが、彼らには彼らの価値観・倫理観があるという部分にブレがない。彼らが日本警察の暴行に耐えかね、暴動を起こすという流れは現代の日本人である私達が見ても、まあ納得がいく流れだろう。ただ、その後の蜂起と、日本人、そして日本人に協力的な部族民に対する容赦ない殺戮や、誇りを守る為に自ら命を絶っていく人たちの姿は、大分やりすぎ、トチ狂っているように見えるかもしれない。
 しかし、彼ら(少なくとも成人男子のセデック族)にとって一番忌避すべきことは、敵の首を取ることなく(文字通り、狩場を争う敵を殺して首を取る)死に、死後に「虹の橋」を渡れなくなることなのだ。彼らの最終的な目的は、虹の橋を渡って「セデック」(真の人)になることだ。そこを踏まえておかないと、彼らの行動は理不尽、ファナティックに見えてしまうだろう。
 異文化理解と簡単に言うけれど、なんとも難しい。自分達にとっては感情的に受け入れがたい習慣を「異文化」として許容できるか、それを踏まえた上で交渉を続けられるかというと、やっぱりハードル高いと思う。本作に出てくる日本人たちの場合、「理解」するという気持ちはそもそもあんまりないのかもしれないが・・・。日本人側としては「野蛮人に文明を与えてやったのに反乱なんて」と思うのだろうが、セデック族はそもそも自分達のことを野蛮とは思っていなかっただろう。モーナが日本人に対する反乱を「文明対野蛮」と言うが、これは皮肉なんだろうなぁ。




『ハッシュパピー バスタブ島の少女』

 アメリカ、ルイジアナ州の湿地帯。「バスタブ」と呼ばれる小さな集落に住む少女ハッシュパピー(クワベンジャネ・ウォレス)は父親ウィンク(ドワイト・ヘンリー)と気ままに生活していた。しかし大嵐が来てバスタブは洪水になり、人々もはばらばらになってしまう。さらに、ウィンクが重い病気にかかっていることがわかる。監督はベン・ザイトリン。
 これは予告編詐欺物件なんじゃないだろうか・・・。ファンタジックはファンタジックだけど全然ほのぼのじゃないし「可愛い子供と動物の映画」的なものでもない。過酷な状況を子供の目を通すことでファンタジーに転化させるという点では『パンズ・ラビリンス』を思い出したが、本作のヒロインは、その過酷な現実に立ち向かい乗り越えていこうとする。より力強く、腹を括っていると思う。
 また、本作に登場する人たちは、客観的には社会の底辺にいる人たちだ。彼らがバスタブから出て行かないのは、そこに強い愛着を持っていると同時に、出て行っても行く場所がない、他所では生きる術がないからだろう。他人から見たら結構悲惨な状況だ。危険な地域だから非難して、病気なら病院に入院して、という外部からの指導は合理的だし正しいのだろう。ただ、そういう正しさでは掬い上げられないものがある。だからハッシュパピーたちはバスタブに固執するし、病院に収容されることを拒む。
 ハッシュパピーの存在感が強烈だが、彼女の父親・ウィンクの完璧とはいえない父親ぶりも印象に残った。ウィンクは父親としてハッシュパピーに生き残る術を教えようとする。台風に立ち向かうウィンクの姿は滑稽だが、すごく父親だという感じがした。もっとも、彼は娘に死や恐怖を見せないように守ろうとするが、守りきれるものではないというところが悲しい。それも親の宿命なのかもしれないが。




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