3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2013年05月

『きっと、うまくいく』

 父親の意向によりエンジニアになる為、超難関の理系大抱くICEへ入学したファルハーンは、型破りな天才ランチョー、苦学生ラージューと出会う。自由人なランチョーに徐々に感化され、ファルハーンとラージューも成績を競っていい企業に就職しろという大学の方針に疑問をもっていく。監督はラージクマール・ヒラニ。
 インドの娯楽大作映画、いわゆる“ボリウッド”作品で、本国では大変なヒットをしたそうだ。歌あり踊りありでとても華やかで楽しい。かといってインド国内向けに特化しているというわけでもなく、間口は広い。インドの学歴主義(作中では誇張されているものの、いい大学を卒業=いい就職先で間違いないらしい)や、学力そのものよりもいわゆる点数が取れる勉強を強いる大学教育への疑問も呈されている。
ただ、楽しい部分は色々とあるのだが、私にとっては気分が乗り切れない作品だった。ひとつには、音楽(歌曲ではなく、劇奏の部分で)の量が多すぎ、効果音入れすぎで煩く、気分がそがれたこと。俳優のリアクションのひとつひとつに効果音がつくのがつらかった。
 そして何より、笑い所であろう部分で全く笑えなかったこと。本作では、「嫌な奴」設定されている人物が2人出てくる。学長と、点取り虫の同級生だ。彼らは2人とも頭が固く、権威主義的で、イヤミだ。自由奔放なランチョーをいつも目の仇にしている。まあ確かに嫌な奴ではある。ただ、嫌な奴であっても、その人格を貶めるようなおちょくり方をするのは、逆にいじめているみたいでいい気がしない。彼らは嫌な奴らではあるが、決して不真面目にやっているわけではない。彼らには彼らの理がある。式典のスピーチでのいたずらなど、そこまでやらなくてもいいのにと不愉快だった。他人をいじって笑いをとるのは比較的簡単だが、笑いの取り方としては志が低い。ランチョーが一貫して悪気がない風で安全圏にいる(自分の身を切って笑いをとるようなことはしない)ので余計にそう思った。
 また、大学の方針に反旗を翻して自分らしく生きる、というテーマがあるものの、本作の主人公である3人は結局、世間で言うところの“勝ち組”で、既存社会の中で成功している人たちだ。社会的に成功しなければいけない、という前提自体は変わっていないので、今までのあれこれは何だったんだろうという徒労感に襲われた。「自分らしく」というなら、もっと違った幸せの価値基準を見出すべきなのではないか。




『ビル・カニンガム&ニューヨーク』

 ニューヨーク・タイムズ紙でファッションコラムと社交コラムを長年担当している、名物フォトグラファーのビル・カニンガム。50年近く撮影とコラム執筆を続けており、彼に撮影されることはニューヨーカーたちにとって名誉なこととされている。しかし業界関係者であっても、そのプライベートを知る者はほとんどいないと言う。そのカニンガムに2年にわたり取材したドキュメンタリー。監督はリチャード・プレス。
 私はファッションのことには疎いので、カミンガムの名前は何となく知っている程度だったし、彼の写真や撮影スタンスは本作で初めて知った。彼の審美眼、作品の凄さは正直よくわからないのだが、美しいものを撮ろうとする情熱はすごく伝わってくる。撮影にしろ編集作業にしろ、彼独自の審美眼、ファッションに対する信念があって、それを忠実に、的確に捉える為にエネルギーの全てを注ぎ込んでいる感じがする。彼の私生活も垣間見えるが、そもそも私生活らしいものが殆どない人なんだろうなと。本作撮影当時はカーネギーホールのアトリエに住んでいるのだが、ごく小さい部屋で家具はベッドのみ、他はフィルムをしまうキャビネットに占領されている。バスルームは共同で、おおよそ快適な住まいとは程遠い(同じ建物に住む女性写真家のアトリエと対称的だった)。もちろんパートナーはおらず長年一人暮らし。食事もサンドイッチばかりで質素だし、自分が着る服はブランドものというわけでも、際立ってオシャレというわけでもない(が、長年気に入った同じようなものを着続けていることで、独自のスタイルが確立されているところが面白い)。基本、名誉欲も物欲もあんまりない人なんだろうが、本当にストイックでびっくりする。
 カミンガムは好きでこういう生活をやっていて、満足しているのだろうが、愛する世界を追求する過程では、切り捨ててきたものも多かったのではないかと思わせる場面もあった。映画終盤で、撮影者が彼にある質問を投げかける場面なのだが、カミンガムのしばしの沈黙が重い。やはり思うところあるんだろうなと。また、デリケートな内容だけに、よくこの質問をさせてくれたなと思った。はぐらかしつつも彼がちゃんと回答しているということからも、撮影者との間に信頼関係が築かれているとわかる。こういう、クリティカルな質問をどこでどう切り出すか、回答を引き出すかというところは、ほぼ撮影者の人柄、倫理観に左右されるのだろう。良質なドキュメンタリーを作ろうとすると、どのように撮るか、編集するかという倫理は必ず問われてくると思う。




『水晶玉は嘘をつく?』

アラン・ブラッドリー著、古賀弥生訳
ジプシーの女占い師に占ってもらったフレーヴィアは、アクシデントで彼女のテントを燃やしてしまう。お詫びに自分の屋敷の敷地内の林に彼女の馬車を招く。しかしその夜、屋敷に侵入していた村の男を追いかけると、占い師が大怪我をしているのを発見する。11歳の科学マニア少女・フレーヴィアを主人公としたシリーズ。レトロな時代背景(1940~50くらい?)も味わい深い。血なまぐさい事件が大好きで探偵気取りのフレーヴィアは、聡明な少女ではあるが、年齢相応に物を知らずに視野が狭いところもあり、勘違いも多い。それって本当はこういうことじゃなかったの?と読者に垣間見えるところが微笑ましい。が、彼女の視野の狭さや勘違いは、家族に対してもはたらいている。フレーヴィアは自分が家族の中で一人ぼっちだ、姉たちは自分を憎んでいると思っているが、そうでもないんじゃないだろうか。父親は確かに愛情表現が苦手みたいだから、これは誤解されてもしょうがない気がするけど・・・。姉たちはしょっちゅうフレーヴィアをバカにするが、それはお互い様(フレーヴィアの姉たちに対する悪事は結構なものだ(笑))だし、姉妹の仲ってそんなもんじゃないかなとも思う。一家のぎこちなさの根っこには母親の死、そしてフレーヴィアが知らない当時の事情があるみたいで、シリーズ内で言及されていくのかなと思う。




『ラストスタンド』

 元ロサンゼルス市警の刑事だったオーウェンズ(アーノルド・シュワルツネガー)は、市警を退職し、メキシコとの国境に近い田舎町で保安官をしている。ある夜、不審な車輌を見つけた部下が狙撃され死亡、更に脱獄した凶悪犯とその仲間がメキシコへ逃げる為に町に向かっていると知らせが入る。警察やFBIが後手に回る中、オーウェンズは町に残された部下と銃器オタクと協力し、凶悪犯たちを迎え撃とうとする。監督はキム・ジウン。本作がハリウッド進出作となる。
 『エクスペンダブルズ2』ではシュワルツネガー老いた!とショックを受けたが、本作で主演しているのを見ると、やっぱりスターの風格が漂う。もちろん全盛期のような華はないが、いいおじいちゃん俳優になってきたんじゃないかと思う。のたのたした動きにもむしろ味がある(笑)。実際本作ではモロに「元凄腕のおじいちゃん」な役柄だったし。田舎町の風景が妙に似合うところもよかった。
 目抜き通りの左右に商店が並ぶだけという町並みや、よそ者から町を守るという展開は西部劇を彷彿とさせる。キム・ジウン監督は『グッド・バッド・ウィアード』でも西部劇を下敷きに使っていたので、かなり好きなのだろう。一方で、町の人々も警察もFBIも凶悪犯一派も、一目で移民ないしはその子孫と分かる人たちが多く、作品内のいわゆる「白人」人口が極端に低い。白人代表のシュワルツネガーも「移民の子孫」という設定だ。自分達は「いい移民」、凶悪犯たちは「悪い移民」というわけだ。このあたりは今のアメリカを反映しているんだろうなと思った。
 しかしアメリカで銃規制が進まないのも頷ける作品だ。お前ら、本当に銃大好きだなー!若干の悪ノリ感もあるアクションシーンは楽しいが、やっぱり現実世界では銃規制しておいたほうがいいな!と納得する作品でもあった(笑)。




『鉄西区 第一部 工場/第二部 街/第三部 鉄路』

 1999年から2003年にかけて製作された、前3部作のドキュメンタリー映画。3部あわせると実に9時間近くになる。日本占領下の満州・奉天に設立され、後に一大重工業地帯となった瀋陽の鉄西区。しかし20世紀末からの解放経済の波に乗れず、国営工場は次々に廃止され、労働者たちは仕事も家も失っていく。第一部・工場では鉄西区の3つの工場を記録。第二部・街ではこの土地で生まれ育った若者たちにスポットをあてる。第三部・鉄路では、鉄西区の交通網である鉄道の乗務員たち、そして線路沿いに住む一家が記録される。監督は王兵(ワン・ビン)。
 さすがに9時間近く続けて見るのはきついので、3回にわけて鑑賞した。それぞれ、独立した作品として見ることができるが、3部あわせて見るとやはり圧巻。よくこんなもの撮ったな!と唸る。全くの赤の他人、自分とはあまり縁のない世界を撮っているのに、カメラがその場に溶け込んでおり、撮影対象の人たちも、カメラを気にしている様子がない。カメラ目線だったり、カメラ(監督)に向かって話をしたりするが、ごく自然な振る舞いだ。風呂上りに裸で出てくる人もいる。自宅の中等、非常にプライベートな空間にまでカメラは入っており、どうやって交渉したのか気になった。ドキュメンタリー作家はそもそも人柄が誠実で信頼を得られる人じゃないとなれないのではないだろうか。
 20世紀が終わり、21世紀が始まる頃の期間が撮影されているが、新しい時代が来る晴れやかさみたいなものは皆無だ。特に第一部、第二部では、工場閉鎖の噂は絶えず、住民の立ち退きも決まり、不安な空気が濃厚だ。仕事量が圧倒的に減少しているというのは、第一部で暇を持て余した工員達が麻雀やトランプに興じる様子(誘い方が強引!パワハラか!)、そもそも自宅待機を命じられて出勤もしていない様子からも察せられる。また、第二部では鉄西区の街に住む若者達が登場するが、就職先の目星もつかず、皆雑貨店にたむろっている。本当かどうかわからないが、失職してから10年という人も。どうやって今まで生活してきたんだ・・・。ここは本当に21世紀になるのか?と呆然とするような、前時代的な光景も見られる。特に工場や一般家屋の古さ、汚さは衝撃だった。特に室内の暗さには気がめいる。時代がある地点から止まってしまったような印象を受ける。
 中国経済が急成長した、世界を圧巻する勢いがあるとは言っても、それは中国国内の一部のことであって、その影には本作で記録されたような地域が多々あるのだろう。「取り残された」感がひしひしと伝わってくるのだ。本作はひとつの時代の終わりのタイミングを捉えているのだろうが、人々にとっては、「終わり」などなく、生活は続いていく。一緒に終わることが出来た方が、ある意味楽なんだろうけどそうもできない。明日があるって場合によってはきついよなぁと思った。特に、明日どうすればいいのかもよくわからない、第二部に登場する若者達にとっては。
 見ていてなかなか気分の重くなる作品だが、重さ一辺倒ではない。クビになるんじゃないかと嘆きつつも、工員たちは仕事に励み、ちょっとでも黒字を出そうと社員一丸となって頑張っている会社もある。職場によって雰囲気が雑だったり和やかだったり、休憩室の整い方にも結構差異があるところが面白い(女性が多い職場の方が和やかだし部屋もきれいだった。業種の違いも大きいんだろうけど)。また、第三部で映される鉄道員たちは、詰め所で一緒に食事を作ったりするのだが、結構和気藹々としている。物資、人双方にとっての交通網である鉄道は“現役”感が他の工場などと比べて強いのだろう。




『パリ仕込みお料理ノート』

石井好子著
シャンソン歌手であり料理を得意とする著者による、料理エッセイ。「フランス仕込み」とあるが、いわゆるフランス料理のレシピ本というわけではなく、思い出に残る料理と簡単なレシピ紹介が主。美味しいもの好き、料理好きだが、家庭料理かくあるべし、という格式ばったところはなく、手軽にできるならそのほうがいい、使えるものはどんどん使いましょう、というフットワークの軽さ、頭の柔らかさがいい。電子レンジが普及し始めたころのエピソードがあるが、最初は眉をひそめていたものの、買ってみたらさっと加熱できて便利!とさっそく使いこなしている。料理の思い出だけではなく、交流があったフランスの歌手たちとのエピソードも収録されている。浮き沈みが激しい業界で常に全盛期とはいかない、ほろ苦さが滲む。しかし著者の視線は一貫して優しいし、フェアだ。そういう部分が周囲から愛されたのではないかと思う。




『L.A.ギャングストーリー』

 1949年、ロサンゼルス。町の覇権を握った大物ギャング、ミッキー・コーエンは、政治家や警察も操っていた。腐敗を嘆くパーカー市警本部長(ニック・ノルティ)は、ジョン・オマラ巡査部長(ジョシュ・ブローリン)をコーエン打倒の為に抜擢。仲間を集めてギャングを一掃するよう命じる。しかしその行為に、警察当局は一切の責任を負わないと言う。命がけの任務に6名の警察官が挑む。監督はルーベン・フライシャー。
 実際にあった、ギャングと警察の抗争を題材にしている。過去のノワール小説や映画でも頻出する題材だが、本作の場合はその描き方は非常に平明。ノワールのほの暗さ、奥行きはなく、つるっとした手触りだ。娯楽作である、という指針が明確で、わかりやすく、簡潔に、見やすく、に徹している。その割りきりがいっそ潔い。実際には、警察側もギャングと持ちつ持たれつで、コーエンも本作で描かれているようないわゆる「巨悪」だったか疑問だし、白黒はっきりつけられない、グレーな世界だったのだろう。ノワールの魅力はそのグレーさ、ほの暗さによるところが大きいのだろうが、本作にそれはない。
 警察官たちにしても、ギャング駆逐の為にギャングと同様の陰惨な行為を行っている。それに対する「自分達とギャングとどこが違うのか?」「正義の為なら何をしてもいいのか?」という疑問も当然出てくるだろう。しかし、本作はそこには踏み込まない。セリフでさらっと触れる程度だ。なので、題材からしてホワールっぽいかな?と期待すると肩透かしをくらうことになる。ノワール「ごっこ」映画と言ったほうがいいかもしれない。それを楽しめるかどうかで、好き嫌いが分かれそう。
 ギャングに立ち向かう6人は、それぞれちゃんとキャラ立てされていて、『7人の侍』みたいなメンバー集め過程にわくわくする。老ガンマンとメキシコ人巡査との師弟関係には、最後のオチが泣けた。人選をしているのがオマラの妻コニー(ミレイユ・イーノス)というところもいい。本作のヒロインはコーエンの愛人でジェリー・ウォーターズ巡査部長(ライアン・ゴズリング)と恋に落ちるグレイス・ファラデー(エマ・ストーン)なのだろうが、魅力的だったのはむしろ、聡明さと肝の据わり方が印象深いコニーだった。




『ビトレイヤー』

 警察官のマックス・ルインスキー(ジェームズ・マカヴォイ)はかつて大物犯罪者ジェイコブ・スターンウッド(マーク・ストロング)を取り逃がし、脚を撃たれたこ。以来、仕事への情熱は薄れ、警察組織からも浮き気味だったマックスだが、ジェイコブが久しぶりにロンドンに戻ってくるという情報を入手する。ジェイコブの息子が何らかのトラブルに巻き込まれ、死亡したのだ。ジェイコブ逮捕に燃えるマックスだが、事件の背後には巨大な陰謀があった。巻き込まれたマックスとジェイコブは事態を切り抜ける為協力し合うことに。監督はエラン・クリービー。製作総指揮はリドリーー・スコット。
 裏社会の小競り合いかと思いきや実は・・・という大陰謀サスペンス、のはずなのだが、何か妙な映画だった・・・。個々の事件の関連付けが、言われればああそうねと思うけど、よく考えるとその程度の情報でよく結びつけたな!と思っちゃう(私が途中で寝ちゃって見落としている可能性もありますが)。何より、陰謀の目的からすると、やっていることの効率がすごく悪そうで、少々的を外しているような気がした。そういう話なのねと飲み込みはするが、微妙に納得できない(笑)。マックスとジェイコブがあまりにも2人で全部処理してしまうので、陰謀のスケールがあんまり大きく見えなくなってしまった。
 ビジュアルは青みの強いクールな雰囲気。びっくりするほど全編青い。ただ、これがちゃんとかっこよさとして機能しているかというとそうでもない。全般的に、かっこいいことをやろうとしている映画だというのはわかるが、その試みが全部「やろうとしている」止まりで、「かっこいい」まで届いていない気がした。唯一全般的にかっこいい、というか無双状態で笑えてしまうのはマーク・ストロングの活躍ぶり。
 脇役のキャスティングが、味のある顔の人を多用していてなかなかよかった。こういう顔の人を出すなら、もっと渋めで落ち着いた作風にしてほしかったなぁ。ロンドンが舞台なのだが、舞台と映像の味わいがあんまり噛み合っていないように思った。




『17歳のエンディングノート』

 17歳の少女テッサ(ダコタ・ファニング)はガンで余命わずかと宣告される。生きているうちにやりたいことをリストにしたテッサは、友人の協力を得て「お酒を飲む」「セックスする」等やりたいことをやっていこうとする。そんな折、隣に越してきたアダム(ジェレミー・アーバイン)と恋に落ちる。監督はオル・パーカー。原作はジェニー・ダウンハムの小説『16歳。死ぬ前にしてみたいこと』。
 こんな話、他にもあったような気がするなーとそれほど気乗りせずに見たが、悲劇性を盛りすぎず、無理に泣かせずで、あっさりとした作風に好感を持った。難病ものではなく、あくまで青春映画の一種(TODOリストの内容自体が中2病こじらせている感あってニヤニヤしちゃう)というスタンスの作品だったと思う。また、アダムとの出会いといい、彼のルックス(そしてファニングの美少女感)といい、うわー少女漫画ぽい!とこそばゆくなるところも。そのこそばゆさも含めて好ましかった。親友の「ちょいワル」感も少女漫画のテンプレっぽいなと思った。
 テッサとアダムの恋愛は初々しくキラキラしているのだが、テッサの病状が急激に悪化し、家族もアダムもうろたえてしまうのが辛い。しかし最もこれは辛いなと思ったのは、余命僅かであることを実感しいっぱいいっぱいになっているテッサが、最も詰んだ状況で、親よりも大人として振舞わざるを得ないというところだった。本当なら親に支えて欲しいところだろうが、彼女の父親(パディ・コンシダイン)は娘がほどなく死ぬということを受け入れられずにいるし、母親(オリビア・ウィリアムズ)は病状自体をよくわかっていない。普段はそれなりに子供らしく、親らしく双方振舞っているだけに、痛々しかった。テッサはアダムに大分多くを求めるよなと見ていて思ったのだが、両親が頼りにならない分、恋人に期待してしまうのかもしれない。ただテッサの父親が言及するようにアダムもまだ子供で、状況を背負いきれるわけではないのだ。
 舞台はイギリス南部の海辺の町、ブライトン。以前行ったことがある場所なので、そこかしこに見覚えがあって楽しかった。




『藁の盾』

 幼い少女を殺害した容疑者として清丸国秀(藤原竜也)が手配される中、財界の大物・蜷川(山崎努)が清丸を殺したら謝礼として10億円払うという新聞広告を出す。被害者は蜷川の孫だったのだ。身の危険を感じた清丸は福岡県警に出頭。警察は警備部SPの銘苅(大沢たかお)と白岩(松嶋菜々子)、捜査一課の奥村(岸谷五朗)と神箸(永山絢斗)、福岡県警の関谷(伊武雅刀)ら5人を派遣し、清丸を福岡から 警視庁へ移送させることに。しかし次々と賞金狙いの刺客が襲ってくる。原作は木内一裕の同名小説。監督は三池崇史。
司法のあり方に挑む硬派な作品、あるいは派手なアクション・爆発シーン満載のサスペンスかと思いきや、そうでもなかった。予告編でどーん使われていたトラック爆破シーンも、「まあこんなもんだろ」感が漂う。脚本も割りとユルく(そもそもこういう状況でわざわざ容疑者を移送するかなーとも思うし)、一応大作なのに大作っぽくない、いい意味でのいい加減さがある。変に気負われるよりも、このくらいスカスカしている方が見えていて気持ちがいいんだよなー(みっちり詰めるならマイケル・ベイレベルの火薬量使ってくれないとつまらん)。観客って現金なものだと思う。
 勢いに乗せてガーっとやっちゃおう!と言わんばかりの前半の展開はスピーディで飽きない。後半、正義を巡る問答が頻出するようになると、物語の流れが停滞し始めるのが勿体無い。「そんなクズを命をかけて守る必要があるのか?」と銘苅らが何度も問われるが、彼らが守っているのは清丸個人ではなく、彼を裁く司法そのものだ。清丸がクズであろうが、刑罰を受けても何も変わらなかろうが、それは関係ない。司法の側にいる警察官らにしてみれば、何をいまさら、な問いではないだろうか。また警察官たちのキャラクターに共感できるほどには心理面の掘り下げはないし、そもそも掘り下げる気はないのだろう。そんなにシリアスな問いを投げかける気は多分ないんだろうなー、むしろ娯楽に徹している気がする。
 大沢たかおはどちらかというと苦手な俳優なのだが、本作で初めて悪くないと思った。体を動かす役だといいのかな。そういえば松嶋も本作で初めていいなと思った。加齢感がほどよく出てきている気がする。




ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ