3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2013年04月

『楡家の人びと(第一部、第二部、第三部)』

北杜夫著
精神科医・楡基一郎が一代で築いた脳病院を舞台に、楡一族の人々の悲喜こもごもな人生を、大正から昭和への時代の流れの中で綴る年代記。著者の他の作品はいくつか読んだことがあったものの、本作は長さに恐れをなして敬遠していた。ようやっと手にとって見たのだが、真面目な中に妙なおかしさがあって、ついつい笑ってしまう部分も多々。そもそも、「楡」とはまた優雅な苗字ですこと・・・と思っていたら、おいっ!第一部の前半でいきなり突っ込んでしまった。初代の基一郎は患者人気は高いが妙に楽観的で基本でたらめだ。もっともそうなことを言うのでなんとなく周囲が従ってしまうという、ある意味運と思い切りのよさだけで成功したような人だ。その基一郎の陰から、子供達は抜け出せなかったように思う。もっと普通の父親だったら子供たちも楽だったのかもしれない(長男の欧州など、むしろ現代的なメンタリティだ)。登場する人たちはどこかエキセントリックで、強迫観念に駆られたりしている。彼らの稼業は脳病院(精神病院)だが、彼ら自身、現代だったらカウンセリングを勧められるような人たちなのがおかしい。一族の没落物語としても面白いが、ある時代の流れの中で、市井(とはちょっと言い難いところもあるんだが・・・)人たちがどう生活していったかという部分も印象に残る。特に第二次世界大戦に突入し、徐々に敗戦へと向かう過程は、とにもかくにも食べ物の乏しさが強烈だった。このひもじさ描写だけで反戦小説として成立するんじゃないかというくらい。




『舟を編む』

 玄武書房の営業部社員だが全く成果を出せない馬締光也(松田龍平)は、新しい辞書「大渡海」編纂事業に着手するべく辞書編集部へ移動となる。編集部は辞書一筋の上司・荒木(小林薫)、辞書編集部にはそぐわぬ軽い先輩・西岡(オダギリジョー)、ベテラン契約社員・佐々木(伊佐山ひろ子)に馬締を含めた4人のみ。辞書監修を勤め荒木とは長年の付き合いである松本先生(加藤剛)を頭に、辞書作りが始まる。原作は三浦しをんの同名小説。監督は石井裕也。
 今年は中堅~若手監督による日本映画の当たり年かもしれない。『横道世之介』の沖田修一監督にしろ、『ぼっちゃん』の大森立嗣監督にしろ、この監督こんなふうに撮れるようになったのか!と感心した。本作の石井監督も、私は『川の底からこんにちは』以来久しぶりに監督作を見たのだが、こんなに腰の据わった作品を取れるようになったのか。原作やスタッフ、キャストに恵まれたという側面もあるだろうが、非常に健闘していると思う。老若男女にお勧めできる好作。
 辞書編纂という地味なわりに時間とお金がかかる(辞書や百科事典を出版すると出版社の経営が傾くといいますが・・・)事業が実際どんな手順で行われていくのか、お仕事映画としてすごく面白い。まずは掲載する言葉の選定から始めるわけだが、新しい言葉の用例採取も当時に行われる。用例記載用紙をさっと取り出す松本や荒木の姿には、言葉に対する愛や情熱が滲んでいる。映画のトーンは淡々としているのだが、この情熱が物語の軸になっている。辞書編集部を引っ張っていく松本の情熱は、西岡に青春か!と突っ込まれるくらい清清しい。好きなことに対して好奇心を失わない、ずっと好きでい続ける、貪欲でい続けられるってすごいなと思う。それだけで生きる力だよなと。彼の情熱が馬締に火をつける瞬間には、ぐっときた。そして馬締の火が、西岡をはじめとする周囲の人々に感染していく。大きな仕事を成し遂げるというのは、次の人へと情熱を伝播し続けることなのかもしれない。私はあまり情熱的とは言えない、何事にも情熱を燃やし難いタイプなので、彼らのひたむきさは眩しくもあり、ちょっと羨ましくもあった。
 辞書が出来上がるまでの15年間を描くが、省略の仕方が上手い。ざっくり数年間を飛ばしたりするだけでなく、普通なら泣かせるシーンであろう部分をあっさり省略する等、情緒を盛り上げすぎない品のよさがあった。淡々としすぎだという人もいるかもしれないが、私にはこのくらいが丁度よかった。
 主演の松田は、鈍くささとキュートさが一体となった好演。動きのぎこちなさなど絶妙だった。そしてオダギリジョーが最近の出演作の中でも突出して良い。かっこよさ、軽さ、だらしなさが板についている。かっこいいことはかっこいいが、度が過ぎずに、こういう先輩いそう!というラインに落とし込んでいるところがいい。しかし何と言っても加藤剛が素敵すぎる。こんな先生の下で働きたい!とうっかり思ってしまった。




『ヒッチコック』

 サスペンス映画のヒットを飛ばし続けていた映画監督ヒッチコック(アンソニー・ホプキンス)は、新作『サイコ』の製作に取り掛かる。しかし斬新すぎて資金は集まらず、制作会社も手をひく始末。資金は自分達で用意するがトラブルは絶えず、最大の理解者である妻アルマ(ヘレン・ミレン)との関係も溝が深まっていく。ヒッチコック監督の映画『サイコ』(1960)の舞台裏を絡めた伝記映画。監督はサーシャ・ガバシ。
 ヒッチコックの伝記映画で、冒頭とラストにヒッチコックといえばこれ、という客席に語りかけるシークエンスも挿入しているものの、さほどヒッチコックの内面に切り込んだという風ではないし、『サイコ』の制作秘話としての側面も薄い。ヒッチコックが主人公の映画ではあるが、ヒッチコック個人、あるいは彼の作品に対する思いいれがさほどかんじられなかった。むしろ、普遍的な夫婦の危機のドラマとしての側面が強い。ヒッチコック夫妻を演じるホプキンスとミレンも、ご本人に似せようとはそれほどしていないのではないか。あくまで「ある夫婦」としてのリアリティの方が重視されているように思った。
 (本作中の)ヒッチコックは、妻にも脚本家としての自己実現欲があり、彼女なりの考えがあるということには思いが至らない、そもそもそういう設定が自分内にない人物だ。妻は自分に協力して当然なのだ。主演女優に対しても同様で、彼女らには彼女らなりの幸福の基準がある、という発想を持ち合わせていない。自分では女性のことをよくわかっている、と言っているが、ある種の女性のことをわかっているのであって、それ以外の女性のことはわかっていない、というより女性の範疇には入れていないのかもしれない。
 そんな人なので、よき妻をやっていくことはアルマにとってはかなりストレス溜まったんじゃないかと思う。彼女はヒッチコックの「仲間」ではあるのだろうが、女性としては既に扱われていないらしい、ということが冒頭の服装に関するやりとりで窺える。熟年夫婦ではよくあることだろうなとは思うし、それはそれで、夫婦として成立する関係ではあるだろう。ただ、相手は自分の付属品ではなく別個の意思のある人だと自戒しておかないと、そりゃあ上手くいかなくなる。ヒッチコックのようになまじある分野で才能があって成功した人だと、皆自分に尽くしてくれて当然!と思ってしまうのかも。
 映画の内幕ものとしては物足りないが、当時の撮影所や一般家庭のたてつけの再現度や、衣装などは見ていて楽しい。秘書役のトニ・コレットのかちっとした洋服が好みだった。




『グッバイ、ファーストラブ』

 1999年、パリに住む高校生カミーユ(ローラ・クレトン)は恋人のシュリヴァン(セヴァスティアン・ウルツェンドウスキ)が南米に旅立つと聞いてショックを受ける。旅立ったシュリヴァンと手紙のやり取りは続いていたものの、やがて別れを告げられ自殺未遂を起こすカミーユ。そして2003年、建築学を学ぶ大学生となったカミーユは、大学教師と恋に落ちる。監督はミア・ハンセン=ラヴ。
 初恋の尾を延々とひきずってしまうカミーユは、かわいらしくもあり愚かしくもある。カミーユだけでなく、シュリヴァンも大学教師も、そしてカミーユの両親も、どこかしら愚かしく、あんまり学習能力なさそうだが憎めない。カミーユとシュリヴァンの仲のまさかの展開には、お前ら学んでないのか!と突っ込みたくなった。それでも皆どこかかわいらしく憎めないのは、本人たちにはコントロールできずどうしてもそうなってしまう、なんともしがたい感が漂っているからだろう。特にシュリヴァンは、最初は彼女を置いて延々と海外生活なんていい加減な奴め!と思ったのだが、後々再登場すると、この人本当に都会(というかパリ)の暮らしが肌に合わなかったんだろうなぁ、それじゃあパリっ子のカミーユとの生活はきついよなぁと納得した。更に言うなら、カミーユが重い(笑)!そ、そこまで思われると却って退くわ・・・。正直南米へ逃げたシュリヴァンの気持ちの方が理解できる。思いの深さと持続性がすごいのだが、シュリヴァンのどこにそんなに惚れているのかはいまひとつわからない。まあ、第三者から見たらどの恋もそんなものなんだろうしそこが面白いんだろうけど。
 カミーユが建築学を学んでいるという設定で、課題を提出したりするのだが、いかにも気負った学生が作りそうなプランなのが微笑ましかった(実用性が薄いと指導されたりする)。またドイツに研修旅行に行くというエピソードがあり、バウハウス建築等も目に出来るのが楽しい。一方で、バカンスを過ごす南フランスの野山も美しかった。監督の前作『あの夏の子供たち』でも思ったが、夏のキラキラした空気感を捉えるのが上手い。1シーンだけでもああ夏休みっぽい!と思える。




『アントン・コービン 伝説のフォトグラファーの光と影』

 主にロックミュージシャンのポートレートで有名な写真家アントン・コービン。被写体や家族ら関係者へのインタビューを通して、4年に渡り彼を追ったドキュメンタリー。監督はクラーチェ・クイラインズ。
 U2、アーケイドファイア、デペッシュ・モード、ルー・リードにメガデスと早々たる顔ぶれが登場するので音楽ファンにも楽しいだろう。私はアントン・コービンの作品は知っていたが、彼自身については殆ど知らなかった。オランダ出身だということも本作を見て初めて知ったくらい。しかし、生い立ちの話や故郷の風景を見ると、人間が育った環境(家庭環境、風土)からの影響を払拭するのは相当難しいのではないかと思った。コービンが育ったのは田舎の牧師館(父親が牧師)。周囲の風景は彼が撮影場所としてしばしば好む、だだっ広い野山だったり殺風景な町並みだったりする。牧師館、教会の中の薄暗さ、明暗のコントラストも、モノクロを好む作風に影響しているように思った。私はコービンが映画監督として撮った映画『コントロール』『ラスト・ターゲット』が結構好きなのだが、風景の好みがコービンと似ているからかもしれない。実在の場所、人物が基にある『コントロール』はともかく、『ラスト・ターゲット』はロケ地をコービンが選んでいるわけだが風景がすごくよかった。
 コービン自身「プロテスタントっぽさを払拭しようとしてみたけど無理だったね」と苦笑するシーンがある。彼の話から窺う限りでは厳格な家庭だったみたいだし、故郷は結構辺鄙なところっぽいので、ロックを愛し写真家を目指すような人にとっては、結構生きにくい環境だったのではないだろうか。写真家という彼の職業についても、理解を得るのは難しかった様子が窺われる(老いた母親に「写真家になることをどう思った?反対しなかった?」と聞くと「反対しないわけないじゃない!」と言われていた)。彼の映画監督デビュー作である『コントロール』はジョイ・デヴィジョンの伝記映画ではあるが、彼自身の青春時代の鬱屈も重ねられているのかなとも思った。
 一方で、気難しい人なのかと思っていたら、U2の面々と冗談言い合っていたり、現場は結構和やか。ポートレートを撮る写真家にはコミュニケーション能力が必要というが、一見シャイそうな人なので意外といえば意外。ただ、U2のボノが「(コービンの撮る)写真のような自分になりたい」と言っているので、相手の一番魅力的な部分を割り出す能力に優れているということなのだろうか。相手に心を開いて親しみ合うというのとはまたちょっと違う様子。コービン本人が「写真の仕事はあんまり相手と深く関わらないから・・・」といったことを口にしているし。




『天使の分け前』

 トラブルばかり起こしている青年ロビーは、あわや刑務所送りになるところを、恋人の出産が間近なことを考慮され、社会奉仕活動300時間を課せられた。奉仕作業指導者のハリーはウィスキーマニアでロビーにもその面白さを教えてくれる。そしてロビーには、意外な才能があることが発覚する。監督はケン・ローチ。
 持たざるものの一発逆転劇として、後半は『オーシャンズ11』か!と突っ込みたくなる意外な展開を見せる。ケン・ローチ監督にしては珍しく軽いコメディ風の作品に仕上がっているが、根が真面目なのでコメディ、軽さが板についていない感じもした。ロビーが仲間達と企む計画も、あれっそんなんで成立するの?と突っ込みたくなる部分が多々ある。話の線を成立させることに意識が向いていて、線を構成する点の一つ一つは「とりあえず体裁整っていれば」という印象が強い。単に、ローチがウィスキーに興味ないだけかもしれないが・・・。そもそもロビーたちの計画って犯罪だよな、そうでもしないと一発逆転なんてムリというシビアな話なのかと、楽しい話なのに落ち込んでしまう。
 しかしよくよく考えてみると、監督は後半の「計画」にはあまり重きを置いていない、本当に描きたかった部分は他にあるのではないかなと思った。ハリーはそう裕福というわけではなさそうだが、子供の誕生祝にロビーにとっときのウィスキーを振舞ったり、ウィスキー醸造所への見学ツアーに連れて行ったりする。また、ロビーが恋人と赤ん坊と一緒に、一時的に部屋を貸してくれるという恋人の知人宅を訪ねるエピソードがある。瀟洒な家を案内して、自由に使っていいのよと言う知人に、ロビーはなぜ親切にしてくれるのかと訪ねる。知人は、「私も昔、人に助けられたから」と答える。非常にシンプルではあるが、自分にちょっと余剰が出来たときには人にちょっと分け与える、助け合って生きることしか、現実の貧困を打開する術はないのでは、というが、本作の中心にあるのではないか。だからこその「天使の分け前」(本来はウィスキーの長蔵中に蒸発する成分のことを言う)なのかなと。
 ケン・ローチ作品はどれも主人公のたたずまいに説得力がある、この世で生きて生活している手ごたえがあるのだが、本作もそこは同様。ロビーがどういう境遇にいてどんな問題を抱えているのかということを、冒頭の短時間でサラっと見せていて手際がいい。家を借りる金がない、定住所がないから就職も難しいし、本人によれば「顔の傷のせいで」面接では門前払い。生活を立て直したくても、立て直す土台部分のバックアップがないとどうしようもないというリアルな部分が描かれていた。




『コズモポリス』

 投資会社で成功し富豪となった青年エリック(ロバート・パティンソン)はリムジンでマンハッタンを走り回る。資産家の娘エリーズと結婚し順風満帆だったが、投資していた元が暴落し、状況は悪化していく一方だった。監督はデヴィッド・クローネンバーグ。原作はドン・デリーロの同名小説。
 エリックはリムジンで床屋を目指すが、次々に邪魔が入りなかなかたどり着けない、それだけと言えばそれだけの話なのだが、やたらと不穏な雰囲気が漂っている。テロの予告があったりデモが起きたりとリムジンの外の世界は騒がしいのだが、リムジンの中に喧騒は届かずエンジン音すら聞こえない。また、エリック本人の資産にも深刻な問題が起きているはずなのだが、エリックがそれを実感している風でもないし、リムジンに乗り込んでくる人たちも、思わせぶりなことを言うばかり。見ている側もゲームのようで実感がない。リムジンの中はSF映画のように無機質で清潔で、何ら疵がない空間なだけに一層現実味がない。ただ、何かがどんどん悪い方向に転がっているのでは、という予感があるばかり。むしろわかりやすく破滅的なことが起これば、この嫌な空気もなんとかなる、諦めがつくのに!と思ってしまいそうだ。
 エリックは外に出ない方が安全なところ、わざわざ外に出て行き、自ら墓穴を掘るような行為に及ぶ。彼は自分が「ひどいことになっている」という手ごたえが欲しかったのかもしれない。エリックがちゃんと死にに行くまでの物語にも見えてきた。パティンソンは『トワイライト』シリーズでヴァンパイア役としての白塗りメイクをしていたが、ノーメイクでも色白で、なんとなく死人っぽい風貌。だからこそのキャスティングだったのか。
 ここ数作は比較的ドラマとして筋を追いやすい作品を撮っていたクローネンバーグだが、今回は抽象的で、あえて退屈に徹しているように見える。ビジュアルの無機質さ、ペラっとした感じもあえてだろう。身体の実感の薄い作品を作ってみたかったのかなとも思ったが、その割には、パイを投げつけられたエリックの髪の毛がベターっとして気持ち悪そうだなーとか(床屋でまず髪の毛洗えよ!と気になって仕方なかった)、最後に出てくる部屋の汚さが生々しかったりとか、妙なところで身体のウェットさを意識させられた。




『スカイラブ』

 夫と幼い子供達と一緒に列車旅行に出たアルベルティーヌは、自分が11歳だった1979年の夏を思い出す。彼女の祖母の誕生日パーティーの為、親戚一同が田舎に集まったのだ。おりしも、衛星「スカイラブ」が落下する予定の頃だった。監督は女優でもあるジュリー・デルピー。
 夏休みの匂いがする、懐かしく楽しい作品だった。田舎で親戚たちと過ごす夏休み、というシチュエーションは、実体験がそんなにあるわけでもないのに、なぜか懐かしい気分になる。親戚同士の親しさとわずらわしさ、賑やかなお祭り気分が入り混じる。林に囲まれた古い屋敷で、広い庭があってというロケーションも、理想的な「田舎」だった。庭にテントを張って子供達だけで泊まったり(当然夜中に会談をする)、面倒見のいいお姉さんがいて、不良気取りのお兄さんがいて、何かとつっかかってくる従姉妹がいて、という子供達の布陣も、ああ親戚の集まりってこんな感じだろうな、と普遍的なものを感じた。あと下ネタも万国共通なのかな・・・。
 少女時代のアルベルティーヌが、ぽっちゃり体型で特に美人でもないところが味があっていい。従姉妹がそれなりの美少女で、お土産のドレスも彼女の方が似合うあたりが切なくもあるが・・・。しかもドレスの贈り主はアルベルティーヌの父親。基本的によく気がつくタイプっぽいのに、妙なところで鈍感なのがおかしい。そりゃあ娘としては文句のひとつも言いたくなるだろう。
 アルベルティーヌの両親は2人とも俳優で、政治的にはリベラル派。対して、親戚(父親の兄弟)たちはガチな右派。ことあるごとに政治的な主義主張で衝突するし、特にアルベルティーヌの母親は油に火を注いでしまう性格なので、険悪な雰囲気にしばしば突入する。身内内に政治的に衝突する立ち居地の人がいると大変面倒くさい。しかし、やりあっていてもいつのまにか沈静化してやりすごせちゃうところが、家族の家族たる所以なのか。
 登場する人たちは、アルベルティーヌもその両親も、叔父や叔母も、結構不愉快なところはあるし、面倒くさい人たちでもある。しかしユーモラスに描かれており、不愉快さも笑えてきてしまう。アルベルティーヌが成長後、母親同様あつかましくなっているのには呆れるのを通り越して愉快になってきた。あの状況でゴリ押しできるというのは国民性・・・って言ったらフランス人の皆さんに失礼ですよね。彼女の性格でしょう。




『HK/変態仮面』

 ドMな刑事とドSな女王様との間に生まれた色丞狂介(鈴木亮平)は同級生・姫野愛子(清水富美加)に一目ぼれする。銀行強盗に巻き込まれた彼女を救おうと、覆面を被って戦おうとするが、なぜか被っていたのは女性用パンティだった。原作は1992~1994年に週刊少年ジャンプで連載されていた、あんど慶周の同名マンガ。監督は福田雄一。脚本で小栗旬が協力している。
 まさかよりによって「変態仮面」が映画化、しかも実写映画化されるなんて、世の中何が起こるかわからないものです。しかもビジュアル再現度のレベルが妙に高い。主演の鈴木は変態仮面に変身した状態も自分で演じているが、体型の作りこみはもちろん、ポージングが完璧で唸った。よくあのライン、そしてあの衣装を実写で再現したなと、感心するやら呆れるやら。あのコスチュームのキャラクターをちゃんと360度で撮っていることがすごい。CGによる補正(笑)も入っているそうだが、衣装の造形もしっかりしていて、何と言う技術と情熱の無駄遣い(ほめてます)かとうなった。
 タイトル部分と中盤の見せ場にスパイダーマンのパロディがあるのだが、本作、意外と王道のアクションヒーローをやっている。殺陣は若干おぼつかないところはあるが、鈴木の体のキレはいい。正体を隠して葛藤しつつ(まあ自分が変態じゃなかろうかという葛藤ですが・・・)戦うところもなかなかヒーローらしい。
 なお変態とは言っても、小学生男子が「へんたーい!」と騒ぐニュアンスに近いので、実際にはさほど変態な感じはしない。ギャグの数々も変態というよりは単に下品(笑)。むしろラスボスとして登場する人物の方が真性の変態感をかもし出しているので、変態勝負では狂介完敗なんじゃないかという気もする。




『チチを撮りに』

葉月(柳英理紗)と呼春(松原菜野花)の姉妹は、母・佐和(渡辺真起子)と3人暮らし。父親は14年前に浮気をして出て行った。ある日、父親が末期がんで余命いくばくもないと連絡が入り、佐和は葉月と呼春に父親に会いに行って、写真を撮ってきてほしいと頼む。監督は中野量太。
特にとんがったことをしているわけではないが、瑞々しい佳作。ストーリー自体はオーソドックスなのだが、絵の細部の作りが丁寧で、作中の人たちが生きて生活しているという手ごたえがあった。ロケ地もいいのだが、特に室内シーンの良さが際立っている。人が住んでいる家ってこういうふうになるよな、というリアリティが濃厚で感心した。外からネギを取ってくる(玄関脇に植えてある)ところとか、もう痺れましたね。うわーわかってるなー!と。台所の作り方とか、ちゃんと台所に立つ人の目線になっている。こういう室内の生活感の出し方センスは、そこそこ予算のある映画でも、ない時はないんだよなー。不思議だ。中野監督のツイートによると、空き家だった状態から作っていったそうだ。あまりに自然なので、元々誰かの家だったのをそのまま転用したのかと思っていた。こと生活感の出し方のセンスに関しては、ずば抜けたものがある。
葉月・呼春と母親の関係や、父親との別れの経緯など、いちいち説明されない。しかしちょっとした部分から垣間見えてくる。この「ちょっとした部分」の見せ方の分量がよかった。特に父親に対する姉妹の温度差は、2人の性格の違い、何より父親と過ごした時間の長さの違い(当時2~3歳だった呼春は父親のことをあまり覚えていない)が反映されていて面白い。葉月が着ている(お見舞いにはあまりふさわしくない)ワンピースが、父親との思い出の中で幼い姉妹が着ているワンピースに似たもの(ということはもちろんセリフでは説明されない)で、彼女の方が呼春よりも父親との距離感が近いことが垣間見える。一方、呼春の方は、母親に対する配慮が深い。終盤で母の意図を呼春が口にするシーンは、ちょっと説明的かなとは思ったが、ぐっとくるものがある。
こういう手堅い作品を撮る若手監督が出てくると、何かほっとする。定期的に撮ってほしい。なお同時上映で同監督の中篇『琥珀色のキラキラ』も見たのだが、こちらも室内の生活感がよく出されていた。




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