3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2013年03月

『汚れなき祈り』

 同じ孤児院出身のアリーナ(クリスティーナ・フルトゥル)とヴォイキツァ(コスミナ・ストラタン)。ドイツで働いていたアリーナは、書類の手続きとヴォイキツァに会う為にルーマニアに帰国してくる。ヴォイキツァに会うのを楽しみにしていたアリーナだが、ヴォイキツァは信仰に目覚め、修道院での暮らしに満足していた。ヴォイキツァとドイツへ渡ることを切望するアリーナは徐々に精神バランスを崩し、発作を起こして入院するが原因は不明。修道院は彼女に悪魔が憑いていると考え、悪魔祓いの儀式を執り行うが。監督はクリスティアン・ムンジウ。
 女性2人の抜き差しならない、だが不均等な関係は、監督の前作『4ヵ月、3週と2日』を思わせる。しかし、本作の中心にいあるアリーナとヴォイキツァには前作のヒロインたちにはなかった強い絆がかつてあり、今でもお互い想いあっている。しかし、その想いの内訳、ジャンルが、ヴォイキツァが信仰を得ることで変わってしまった。2人はお互いに相手によかれと思って行動するが、すれ違う。2人のやりとりは終始かみ合わないままだ。人間て、自分の世界の言葉でしか喋れない、説明できないものだなとつくづく思った。このテーマが最後の最後までダメ押しのように貫かれている。
 本作、信仰の元に行われた悲劇的事件を扱っているものの、宗教や信仰そのものに対するアンチテーゼはうたっていない。敬虔な信仰を持っているとはお世辞にもいえないアリーナでさえ、神の存在や信仰心そのものを否定しているわけではない。問題なのは生半可な宗教者が主導権を握ることにあるのではないか。本作に登場する神父は修道院の運営を預かり、修道女たちのリーダーでもあるわけだが、あんまり人間出来てなさそうだ。もしかするとキリスト正教教会だからという部分もあるのかもしれないけど、神と教会のことはよく勉強しているのに人間のことは(フィジカル面もメンタル面も)あんまりわかっていない感じ。こんな人に心の問題を預けるのは怖いわぁ・・・
 映画の尺はかなり長めで淡々と進むのだが、緊張感が途切れなかった。主演のフルトゥルとストラタンの表情、そして交わされる視線の強度みたいなものが目を逸らさせない。特に、警察の現場検証と事情徴収をヴォイキツァが見つめるシーン、ストラタンの表情に凄みがあった。ヴォイキツァにとってここが大きな曲がり角になってしまったと分かる。




『偽りなきもの』

 デンマークの田舎町に住むルーカス(マッツ・ミケルセン)は離婚して一人暮らし。元は学校教師だったが、学校が閉鎖された為に幼稚園で保育士として働いている。ある日幼稚園に通ってくる友人の娘クララが、ルーカスにいたずらされたと園長に話す。ルーカスは変質者として疑われ、町から孤立していく。監督はトマス・ヴィンターベア。
 「子供は嘘をつかない」という怪しげな通念がまかり通っているところにびっくりだし、園長の無能さにもびっくり。そんな簡単に決め付けていいの?!と。調査も根拠もなく、恐れだけがどんどん地域内に蔓延していくのだ。そして一旦出来上がってしまった空気に対抗するのはとても難しい。これは、人間関係が密なコミュニティならではの怖さかなと思った。都会だと、そもそも噂が広まるようなコミュニティがなさそうだし・・・。ヴィンターベア監督の前作『ひかりのほうへ』は都市部が舞台だったが、その出来事がどういう社会的な背景で起こっているか、という部分をかなり意識しているのではないかと思う。
 ルーカスは村八分状態になってしまうのだが、彼は元々、この町への浸透度が低い人だったんじゃないか、だから孤立するスピードが非常に速かったのではないかとも思った。ルーカスの息子の名付け親は、住まいや地域内での立ち振る舞い(狩猟会の主催者みたいなことをしている。あれは地所内で狩猟させてるんじゃないかな・・・)を見る限りは地元の名士的な一族。名付け親の自宅には一家の写真とあわせ、少年時代からのルーカスの写真も飾られている。ということは、ルーカスはこの地域内ではそこそこいい家の出身なのではないだろうか。職業こそ地味ではあるしお金もそうないが、ちょっと育ちが違うようね、というような。名付け親がルーカスの無実を信じるのは、身内だからという以上に、町の人たちとの精神的・地理的・経済的距離があったからではないかと思った。
 クララは八つ当たり的な嘘でルーカスを窮地に追い込んでしまうが、本作の視線はクララにもまたより沿っている。彼女がなぜああいう行動をとってしまったか、という経緯もきちんと見せているのだ。むしろ、普段は投げやりな対応をしているのに問題が起きるとちやほやする両親も、責任が重いようにも見えてくる。




『メッセンジャー』

 イラク戦争で負傷しアメリカへ帰国後退役することになったウィル軍曹(ベン・フォスター)。退役までの2ヶ月、戦死者の遺族に訃報を伝えるメッセンジャーの任務に就く。ベテランのトニー大尉(ウディ・ハレルソン)と共に任務につくが、それは遺族の悲しみや怒りを目の当たりにするきつい作業だった。落ち込むウィルは、ある日、幼い息子と暮らすオリヴィア(サマンサ・モートン)に夫の戦死を告げる。ショックをうけつつもウィルらへの思いやりを失わないオリヴィアに、彼はひかれていく。監督はオーレン・ムヴァーマン。
 ウィルとオリヴィア、傷ついた2人のメロドラマかと思っていたら、交流が濃く描かれるのはむしろウィルとトニー。軍隊という集団の特殊性、外部からの理解のされなさ(体験を外部と共有しにくい、兵士同士でしか共感できない)ゆえの孤独みたいなものを感じた。ウィルはイラク駐在中に幼馴染の恋人が他に結婚相手を見つけてしまい、喪失感といらだちにさいなまれている。一方、マイペースなトニーは親しい友人も恋人もいないらしい。そんな2人が反発しあううち、徐々に奇妙な友情めいたものが生まれてくる。少し擬似父息子(実際にあんな父親がいたらちょっといやだけど・・・)的でもある。ウィルにとっては初めて体験する(うっとうしさ含め)父親的な存在だったのかもしれない。
 ウィルとトニーは色々な家庭を訪問するが、本当に色々な家族がいるよなと思う。訃報を知らされた彼らの反応は、似ているようで似ていない、が、やっぱり似ているところもある。悲しみ方の出方も人それぞれだ。また、遺族の人種や家族構成、使う言語もそれぞれで、このあたりは、かなり気をつけて描き分けていると思う。
 これだけ色々な反応の人がいるし、一方的に罵倒してくる人もいるしで、冷静に淡々と、専門技術として通達していくというのが模範的なやり方だとトニーが主張するのもわかる。が、なかなか冷静に淡々とし続けられないのが人間なのかなとも思う。思いやりと言うのは示そうと努力して示されるのではなく、つい出てしまうようなものなのではないかと。




『キャビン』

 大学生のデイナ(クリステン・コノリー)、ジュールス(アンナ・ハッチソン)、ジュールスの恋人カート(クリス・ヘムズワース)、カートの友人ホールデン(ジェシー・ウィリアムズ)、そしてマリファナを手放せないマーティ(フラン・クランツ)の5人は、山奥の山荘に遊びに出かけた。山荘で地下室を見つけた5人は、置かれていた品々を眺める。その中の古い日記帳を読むと、ゾンビが現れ5人を襲い始めるのだった。一方、彼らを観察し続ける謎の組織があった。監督はドリュー・ゴッダード。
 予告編では「絶対にラストは予想できない!」という大見得を切っていたが、この予告編と本編ファーストショットで大体何が起きてどういうオチかはわかってしまうという本末転倒具合。予告編であんなに「先が読めない」のゴリ押ししなければよかったのに~。ホラーというジャンルのメタ作品的な側面があるので、ジャンル映画に疎い自分にはそれほど楽しめなかった、正確には、本作が観客に期待させるようなサプライズは感じなかったというのも事実だ。テンポがいいので面白いことは面白いし普通に娯楽作品として楽しんだが、ホラーというジャンル内での「お約束」を、ここは踏まえているけどここはちょっとずらしている、というような遊びの部分がよくわからなかった。ジャンルに詳しい人の方がより楽しめる作品だとは思う。
 サプライズを感じない、というのは、本作、特に日本のマンガ・アニメに耽溺してきた人たちにとっては、さほど突飛な展開ではないと思われるからだ。最後の展開も、「まあそうでしょうなぁ・・・」という程度の感慨。こういうオチってアメリカ映画では珍しいのかな?
 登場人物がぱっと見、「奥手」「奔放」「体育会系」「真面目」「ボンクラ」というお約束どおりの面子に「見える」というところが面白い。ちょっとした言動を見ていると、あれっ?と思えるようにしてあるところが芸が細かいなと思った(序盤、参考書を抱えるデイナにカートがかける言葉とか)。あと、ある人が登場した時に劇場内がざわっとなった。昨年公開されたある映画でも同じことが起きた。もはや出オチレベル。さすがである。





『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』

金井美恵子著
洋裁店を営んでいた母と伯母、ふらりと家を出て行った父。幼いころの思い出と映画や小説、そして作家となった現在の「私」の作品が入り混じり、記憶のタペストリーを織りなす。「私」がどこにいるのか、何歳くらいなのか、家族構成はどのようなものなのか、最初は見えてこない。記憶のピースは、ひとつが取り出されるとそれからの連想で全く違う時・場所のピースに繋がっていく。つらつらと続く文章は途切れなく、そして脈絡なく続いていく記憶のよみがえりそのもののようだ。段々、現在なのか過去なのか、「私」が誰で彼女がどの女なのかも曖昧に、どうでもよくなっていくようでもある。「私」はいなくなった父親のようでもあるし、彼女は父親の愛人とも重なっていく。ディティールがすごく具体的なのに、読んでいると何もかも曖昧で渾然一体となるような酩酊感がある。




『愛 アムール』

 パリのアパルトマンに暮らす老夫婦ジョルジュ(ジャン・ルイ・トランティニャン)とアンヌ(エマニュエル・リヴァ)。ある日アンヌの体に異変が起き、緊急入院することに。退院したアンヌは右半身が麻痺していた。ジョルジュは自宅でアンヌを介護するが、病状は悪化する一方だった。監督はミヒャエル・ハネケ。
 ハネケの作品は人間の醜い面、あまり見たくない面を「あなたや私の姿でもあるんですよ」と突きつけてくるいやらしさ、少々露悪的な部分が苦手だったのだが、本作にはそういう部分を殆ど感じない。確かにある問題を突きつけてくる。しかし、「老い」という身近かつ絶対に避けられない問題だからか、厳しくはあるがどこかに思いやりがあるというか、突き放しきらない部分があるように思った。描かれている状況はすごく厳しくて見ていて心が折れそうになるが、それでも美しい。本作のキャッチコピー「人生はかくも長く、美しい」は見方によっては皮肉なのだが、見方によっては文字通りの意味合いで通る。
 お国柄もあるのかもしれないが、ジョルジュとアンヌは「カップル」として描かれている。夫がパーティ帰りに「今夜の君はきれいだったよ」と普段から言うような夫婦なのだ。もちろん、いくらフランスであってもどこの夫婦もこんなだとは思わないが、多分日本よりはこういう年配夫婦は多いんだろうなぁ・・・。
 ただ、深く繋がった夫婦であればあるほど、夫婦間で介護するという状況は精神的に(体力的にももちろん)辛いのではないかと思う。ある程度、男女を超えた家族、ないしは全くの他人である方がまだ気分的に楽なのではないか。ジョルジュはアンヌを入院させることも、やがてはヘルパーを雇うことも拒否する。入院拒否はアンヌが事前に頼んでいたことだからだけど、ジョルジュにとってはヘルパーの仕事が雑に見えてしまうのは、彼がアンヌに対してあまりに親身だからだろう。当然、2人の世界はどんどん閉ざされ、冒頭で示唆された出来事が起こる。
 ジョルジュの選択が正しかったのかどうかは分からない。ただ少なくとも、2人にとってはこれ以外の道はなく、2人が愛し合っていたのも確かだろうとは思える。彼がある選択をするまで、そして選択してからの流れを、丁寧にじっくりと追っていくことで、見ている側の気持ちもジョルジュに沿ったものになっていくのだ。ハネケ作品の中では数少ない、登場人物の気持ちに沿える作品ではないかと思う。




『メモリーズ・コーナー』

 フランス人記者のアダ(デボラ・フランソワ)は、1995年におきた阪神淡路震災の回顧式典取材の為、神戸を訪問する。被災者が移り住んだ団地を訪ねたアダは、謎めいた男・石田(阿部寛)と出会う。どこか陰のある石田にひかれたアダは彼を取材しようとのめりこんでいくが、通訳の岡部(西島秀俊)は石田には深入りしないほうがいいと忠告する。監督はオドレイ・フーシェ。
 海外の監督が日本を舞台に映画を撮ると日本国内の風景なのに何か奇妙な雰囲気に、というケースがあるが、本作は、風景自体は至って普通に見える。アダが神戸において全くの部外者であり、外から眺めるという姿勢が強いからか、単に私が神戸に行った事がないからかもしれないけど。日本人俳優も結構な有名どころが出演しているが、日本語台詞、あるいは日本人同士のやりとりに不自然さはない。
 ただ、本作はやはり奇妙だ。どのへんがかというと、幽霊に対する感覚だ。公式サイトやフライヤー、予告編の段階ですでにネタバレしているから多少言及してしまうが、本作における日本では、幽霊は頻繁に目にされるものらしい。な、なんでそんなによくあることです感を出しているんだ!神戸という土地だからということなのか、日本全般に対してこういうイメージが持たれているのかしら・・・。確かに、フランスの幽霊話というのはあまり聞かないし、聞くことがあっても、いわゆる日本の幽霊とはちょっとニュアンスが違うけど・・・。死者が生前の姿のままで現世に留まり、生者と同じように生活しているというのはかなり特異に見えるのだろうか。
 阿部寛は本作のような影のある役はあまりやっていない気がするが、無口な役でも違和感はない。15年前の石田を演じている姿が本当に若々しくてちょっとびっくりした。また、西島がいつになく普通に美形っぽく撮られている(この人が二枚目を演じる時は、大体二枚目だけど変ないしは二枚目だけどボンクラのどちらかな気がする)のが新鮮だった。
 物語の運びにぎこちなさを感じたが、ふとしたショットが印象に残る。アダがたこやきを不審の目で見るシーンと、電車内で飲み食いしていて乗客ににらまれた後のしまった、という表情が、異国に来ている人なんだよなと印象的だった。
 本作内で取り上げられているのは阪神淡路震災だが、東日本大震災が起きたことでお蔵入りしかけていたようだ(2011年制作)。立ち位置の難しい作品になってしまったが、災害の「その後」への視線は誠実なものだと思う。ただ、淡路島での最後の展開にはちょっとひっかかった。そんなこと言われたら悲しむものも悲しめなくならないかしら・・・。そういう、抽象的なものと天災を結びつけてほしくないなぁと。




『千年の愉楽』

 高貴な血筋ながら“路地”に生まれ、美しい容姿故に女性たちに愛されるが、そのため若死するという中本家の男たち。彼らの誕生から死までを見守り続けるのは、産婆オリュウノオバ(寺島しのぶ)だった。原作は中上健二の小説、監督は本作が遺作となった若松孝二。本作を見る限り、まだまだ撮り続けられそうな余力を感じるので、亡くなられたことが惜しくてならない。
 若松監督近年の作品としては『実録連合赤軍 あさま山荘への道』に並ぶクオリティ。ただ、実際の事件に基づいた、時代背景や固有名詞がはっきりとしており、史実ものであると同時に監督の個人的作品としての色あいの強い『実録~』とは、本作は真逆の方向性だ。本作は神話的な世界だ。現代の町並みをそのまま使っているが、場所も時代も明らかにはされない。現代よりもちょっと前、出稼ぎに行くといえば大阪、という程度がわかる小さな港町が舞台だ。その小さな町を舞台に、ある一族の中で連綿と続く生と(不本意な)死のありようは、正に神話だろう。
 物語の中心にいる中本の男たちは、“血”に翻弄されている。美しい容姿故に女性が放っておかず、女がらみで若死にするという運命だと言われているのだ。しかし、彼らが縛られている“血”は“地”でもある。彼らは生まれた土地からも逃れられない、その土地があるが故に呪われているようにも見える。そういう意味では、中本の男たちだけではなく、彼らに魅了される女たちも、彼らが生まれる瞬間に立ち会ったオバアや彼らを送る坊主も、“地”の呪いの中にいる。だからこその、圧巻のエンドロール曲だろう。
 中本の男を演じる俳優の中では、どことなく陰のある半蔵を演じた高良健吾と、逆に陽性ながらその炎で自身をも焼き尽くしそうな三好を演じた高岡蒼佑がいい。一見甘目の爽やかな風貌だが、中身が崩れかけているようなもろさがある。この人、『さんかく』に主演していた時も思ったけど、男の甘さ・弱さの表現の仕方が本当に上手い。また、オリュウノオバの夫である礼如役の佐野史郎が、ともするとねっとりしがちな俳優陣の雰囲気に抜け感を作っていた。オリュウノオバと礼如の夫婦関係も、あっさりとした信頼感が窺えて好ましい。




『アニメミライ 2013』

 文化庁主催の若手アニメーター育成プロジェクト「アニメミライ」。今回は4つのスタジオが出品しており、過去2年より尺長め、予算大目な雰囲気。上映作品は以下4作。

『龍 RON』
 企画制作はGONZO。舞台は幕末、剣士として鍛えられた少年は、坂本龍馬の護衛役となり共に旅に出る。監督は千明孝一。うーんこれは・・・題材選びで失敗しているような気がしてならない・・・。歴史ものは(実写の時代劇を作る時も同じだけど)デザインにしろシナリオにしろ、どこまで史実に忠実にしてどこで嘘をつくかという見極めのセンスが重要だと実感した。本作は、そのセンスがちょっと甘かったのかなと。熱烈なファンが多い時代だけに、無駄に叩かれてしまいそうでハラハラした。キャラクターデザインは、どちらかというと地味目。地味目デザインは個人的には好きだが、アクがなさすぎてキャラクターの個体判別がちょっと困難でした・・・。アクションシーンの、どこを見せたいかという意図はよくわかる(が、わかりすぎてそこだけ他から浮いている感もある)。

『アルヴ・レズル』
 企画制作はゼクシズ。意識とネットワークをシームレスにリンクさせる技術が普及した近未来。少年・礼望は一人暮らしの妹・詩希を訪ねる。しかし詩希の意識はネットワークの彼方に姿を消していた。監督は吉原達矢。一昔前の少女漫画SFのような雰囲気。どこかレトロな世界観や、クセのあるキャラクターデザインも一因だが、超能力バトルというネタも何となく懐かしい。もっとも、この懐かしめのテイストはあえてのものかなという気もした。途中で(全く必要ないのに)アイキャッチ入れるあたりも昔のオリジナルアニメっぽいなぁと。文字を多様した演出は、あまり洗練されていなかったように思う。なお、クライマックスの戦いでの戦法解説が突っ込みどころありすぎでちょっと笑ってしまったのだが、もうちょっとなんとかならなかったのか・・・。

『デス・ビリヤード』
 企画制作はマッドハウス。若い男と老人が、不思議なクラブにやってくる。バーテンによれば、命を賭けた勝負をしないとここから出られないと言う。2人は強制的にビリヤードで勝負することになるが。監督は立川譲。なるほどマッドハウスだ、と納得してしまう雰囲気とクオリティ。背景美術の作りこみやディティール、質感の細かさ、人体のバランスや動きの重量感など、しっかりしている印象。ストーリーはブラックだが、最後にちょっと語らせすぎてしまうところが残念。もっとドライに徹しても(ブラックユーモアの小話的で)よかったんじゃないかなと思った。ビジュアルに関しては最も好みの作品だった。マッドハウス作品の男キャラクターって肉骨感があっていいなぁ(笑)。

『リトル ウィッチ アカデミア』
 企画制作はトリガー。子供の頃見た魔法ショーで魔女に憧れるようになったアッコは、魔女養成学校に入学する。しかし周囲は生まれながらの魔法使いの家系の子ばかりで、クラス内でも浮き気味だった。監督は吉成曜。王道魔女っ子(魔法少女ではないところがミソかと)物語。ハリー・ポッターを彷彿とされる魔女学校に、魔女に憧れて入学した普通の女の子が頑張る。魔女は血筋、というあたりがハリポタ以降だなーと。キャラクターがとにかく可愛らしく、そうそう、魔女っ子ってこんな感じだった!と懐かしい気分になった。フェティシズムをあまり強調していないところにもほっとする。ストーリーはオーソドックスで奇をてらってはいないが、4作の中では一番シナリオがしっかりしていたと思う。特にセリフ作りがこなれている。

 今年は過去2年よりも「有名どころによる力作」感があり、作品としての安定感は全般的に上がっている。ただ、それによって若手が作っているという初々しさや、実験性はなくなった。手馴れすぎていて、当初の企画の趣旨とはズレてしまったかなという気がする。こちらを立てればあちらが立たずで、ないものねだりなのはわかっているのだが。また、児童向け作品がなかったのは残念。1本を短めにして本数多めに、というほうがバラエティに富んでいてよかったかなー。




『最後に見たパリ』

エリオット・ポール著、吉田暁子訳
パリの下町に暮らす人々の生活、人間模様を、1920年代にパリに暮らしたアメリカ人ジャーナリストである著者が綴る。いわゆる文化の都としてのパリの華やかな時代から、第二次世界大戦へと向かい、徐々にファシズムが台頭していく時代、ある時代の終わりが描かれている。登場する人たちは皆、よくも悪くもユニークで個性的だが。ファシストを支持する人もいるし、迫害されていくユダヤ人やパルチザン活動に身を投じるコミュニストたちもいる。しかし、どの階層のどの立ち位置の人にも、形は違えど暗い影が落ちていく過程は息苦しい。特に、ちょっと出来すぎなくらいキャラが立った(この部分だけはフィクション度がかなり高いんじゃないかなという)美少女にまつわる顛末はどうにもやるせなかった。一貫して冷静な、乾いた雰囲気に留まっているが、これは著者が当事者じゃなかったから持ちえた(耐えられた)視線なんじゃないかなとも思った。なお、最も印象に残ったのは冬のパリの寒々しさ。ただでさえ寒いのにセーヌ川が頻繁に氾濫するとは!よく耐えられるよなと。




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