連続爆破・殺人事件を追う刑事・茶屋(江口洋介)は、犯人のアジトらしき建物に押し入ると同時に爆発に巻き込まれた。中にいた何人かは逃走したらしく、残っていた男を茶屋は確保する。しかしその男・鈴木一郎(生田斗真)は、自分の名前以外は何も言わない。警察は精神科医の鷲谷(松雪泰子)に鈴木の精神鑑定を依頼する。鷲谷は、鈴木には痛覚と感情がないのではと推測する。監督は瀧本智行。原作は首藤瓜於の同名小説。
ものすごくダサい(笑)ファーストショットから始まり、どこか懐かしい、90年代ぽい雰囲気がある。そもそも原作小説が出版されたのは結構前(2000年)なので、なぜ今映画化?もうサイコパスとか流行らないんじゃないの?と思った。ただ本作、あえて懐かし目にしているんじゃないかなという節もある。犯人のアジトの内装とか、妙に古臭い病院施設とか、もう確信犯的に一昔前のケレン味強いサイコミステリドラマ(ケイゾクとか沙粧妙子最後の事件とか、海外だったらセブンとか・・・)を意識していると思う。あの頃ミステリにハマっていた層を再び取り込もうという意図なのかな?とも。そうでないとこの懐かしテイストの説明がつかない(笑)。
台詞の作り方とか、俳優の演技の方向性(俳優本人の意向というよりも演出側からのオーダーではないかと思う)とか、爆発シーンのクオリティとか、色々野暮ったい、脱力しちゃう部分、また脚本上の難点は多いのだが、所々でぐっといい部分がある。主に撮影(撮影監督は栗田豊通)の力によるものではないかと思う。光の使い方がきれいだった。鈴木と鷲谷が問診の為向き合っている比較的長回しのシーンがあるのだが、室内の光の感じが徐々に変化していく様が美しい。
なお、私は原作小説は以前読んだのだが、内容を全く忘れていて、どの程度改変されているのかはわからなかった(原作では犯人は男性だったよね?)。もっとも、原作の方がクールに徹していたようには思う。映画化の際、うっかりするとヒューマニズムの方に針が振れかねないなと思って少々心配だったのだが、ちょっと「心の交流」的な方に流れかけつつも踏みとどまっていたと思う。最後のシーン、「心」と受け取る人もいるかもしれないが、「心があるかのようなパフォーマンス」(私はこちらだと思った)とも見られるので。どちらにしろ鷲谷にとっては負け戦である、という部分は筋が通っていた。
ものすごくダサい(笑)ファーストショットから始まり、どこか懐かしい、90年代ぽい雰囲気がある。そもそも原作小説が出版されたのは結構前(2000年)なので、なぜ今映画化?もうサイコパスとか流行らないんじゃないの?と思った。ただ本作、あえて懐かし目にしているんじゃないかなという節もある。犯人のアジトの内装とか、妙に古臭い病院施設とか、もう確信犯的に一昔前のケレン味強いサイコミステリドラマ(ケイゾクとか沙粧妙子最後の事件とか、海外だったらセブンとか・・・)を意識していると思う。あの頃ミステリにハマっていた層を再び取り込もうという意図なのかな?とも。そうでないとこの懐かしテイストの説明がつかない(笑)。
台詞の作り方とか、俳優の演技の方向性(俳優本人の意向というよりも演出側からのオーダーではないかと思う)とか、爆発シーンのクオリティとか、色々野暮ったい、脱力しちゃう部分、また脚本上の難点は多いのだが、所々でぐっといい部分がある。主に撮影(撮影監督は栗田豊通)の力によるものではないかと思う。光の使い方がきれいだった。鈴木と鷲谷が問診の為向き合っている比較的長回しのシーンがあるのだが、室内の光の感じが徐々に変化していく様が美しい。
なお、私は原作小説は以前読んだのだが、内容を全く忘れていて、どの程度改変されているのかはわからなかった(原作では犯人は男性だったよね?)。もっとも、原作の方がクールに徹していたようには思う。映画化の際、うっかりするとヒューマニズムの方に針が振れかねないなと思って少々心配だったのだが、ちょっと「心の交流」的な方に流れかけつつも踏みとどまっていたと思う。最後のシーン、「心」と受け取る人もいるかもしれないが、「心があるかのようなパフォーマンス」(私はこちらだと思った)とも見られるので。どちらにしろ鷲谷にとっては負け戦である、という部分は筋が通っていた。