3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2013年02月

『脳男』

 連続爆破・殺人事件を追う刑事・茶屋(江口洋介)は、犯人のアジトらしき建物に押し入ると同時に爆発に巻き込まれた。中にいた何人かは逃走したらしく、残っていた男を茶屋は確保する。しかしその男・鈴木一郎(生田斗真)は、自分の名前以外は何も言わない。警察は精神科医の鷲谷(松雪泰子)に鈴木の精神鑑定を依頼する。鷲谷は、鈴木には痛覚と感情がないのではと推測する。監督は瀧本智行。原作は首藤瓜於の同名小説。
 ものすごくダサい(笑)ファーストショットから始まり、どこか懐かしい、90年代ぽい雰囲気がある。そもそも原作小説が出版されたのは結構前(2000年)なので、なぜ今映画化?もうサイコパスとか流行らないんじゃないの?と思った。ただ本作、あえて懐かし目にしているんじゃないかなという節もある。犯人のアジトの内装とか、妙に古臭い病院施設とか、もう確信犯的に一昔前のケレン味強いサイコミステリドラマ(ケイゾクとか沙粧妙子最後の事件とか、海外だったらセブンとか・・・)を意識していると思う。あの頃ミステリにハマっていた層を再び取り込もうという意図なのかな?とも。そうでないとこの懐かしテイストの説明がつかない(笑)。
 台詞の作り方とか、俳優の演技の方向性(俳優本人の意向というよりも演出側からのオーダーではないかと思う)とか、爆発シーンのクオリティとか、色々野暮ったい、脱力しちゃう部分、また脚本上の難点は多いのだが、所々でぐっといい部分がある。主に撮影(撮影監督は栗田豊通)の力によるものではないかと思う。光の使い方がきれいだった。鈴木と鷲谷が問診の為向き合っている比較的長回しのシーンがあるのだが、室内の光の感じが徐々に変化していく様が美しい。
 なお、私は原作小説は以前読んだのだが、内容を全く忘れていて、どの程度改変されているのかはわからなかった(原作では犯人は男性だったよね?)。もっとも、原作の方がクールに徹していたようには思う。映画化の際、うっかりするとヒューマニズムの方に針が振れかねないなと思って少々心配だったのだが、ちょっと「心の交流」的な方に流れかけつつも踏みとどまっていたと思う。最後のシーン、「心」と受け取る人もいるかもしれないが、「心があるかのようなパフォーマンス」(私はこちらだと思った)とも見られるので。どちらにしろ鷲谷にとっては負け戦である、という部分は筋が通っていた。




『よりよき人生』

 学食で働くコックのヤン(ギョーム・カネ)とシングルマザーのナディア(レイラ・ベクティ)は恋に落ち、やがて一緒にレストランを開こうとする。しかし資金に乏しく、無理に借りたローン返済の泥沼に陥る。ナディアは金を稼ぐ為にカナダに渡り、ヤンはナディアの息子で9歳のスリマン(スリマン・ケタビ)と国に留まり続けるが。監督はセドリック・カーン。
 題名の通り、ヤンもナディアも「よりよき人生」、それもそんなに贅沢ではない、あとちょっといい人生を望み、実行しようとする。しかし、その「ちょっといい人生」がなぜこうも上手くいかない、辛いことになってしまうのか!ああお金がないって辛い!運がないって悲しい!人生って理不尽だよなと思う。
 ただ、ヤンの将来への見込みは大分甘いというか、計画性がないものだ。ナディアとの関係も直感的に始まっているし、レストラン計画も、ある物件を見て「これだ!」と直感した(思い込んだ)もので、それまでに何か準備をしていたというわけではなさそう。資金繰りの段でも、あーっそれ絶対やっちゃだめー!ということやってたしなぁ。「これだ!」と思い込んだビジョンがあまりに鮮明で、何かトラブルがあって計画が現実的でなくなっても、そこから軌道修正できないんじゃないかしら・・・。よっぽど幸福なビジョンが見えたんだろうけど、そういうものってそのときそのときの事情に応じてまげていかざるを得ないよね・・・。諦めないことも大事だけど、見切りが大事な時もある。ヤンは終盤でもその諦めなさを発揮しており、感動的ではあるが、だからこの先どうなるというわけでもない。その姿勢で救われる人は確かにいるのだが。
 もっとも、ヤンにしろナディアにしろ、普通に善男善女で、まともな人だ。それがちょっとしたことで、泥沼から抜けられなくなっていく。同じ条件で同じことをやって、上手くいく人もいるのに何で、と理不尽さに気分が重くなる。それでも一緒に生きていこうとする姿に一抹の希望があるが、それで問題が具体的に解決するわけじゃないしなぁ。




『ゼロ・ダーク・サーティ』

 若き情報分析官マヤ(ジェシカ・チャステイン)がパキスタンのCIA基地に派遣されてくる。彼女らの任務はビンラディンの潜伏先を突き止めること・ビンラディンの連絡員と思われる男の情報を掴むが、なかなかその先に進めない。そんな中、CIA局員を狙った自爆テロが発生し、マヤの同僚も死亡。やがてマヤ自身も身元が割れて狙われるようになり、アメリカへ帰国せざるを得なくなる。監督はキャスリン・ビグロー。
 2011年5月1日、米ネイビーシールズがビンラディンの隠れ家を襲撃、殺害した。その際、隠れ家特定に大きく貢献したという実在の女性分析官を中心に、「当事者の証言に基づき」ドラマ化した作品。3時間近くの長尺だが、作中時間は実に8年間!3時間くらいどうってことない気がしてきました(笑)。ただ、長尺ではあるが見ている間は無駄な長さを感じない。意味のある長さだということはわかるし中だるみみたいなものもさほど気にならなかった。コンパクトだった『ハートロッカー』よりも、むしろメリハリはきいている気がする。
 「CIAというお仕事」という感じの映画だなーと思った。こういう感じで情報収集・選別するのかーとか、現場との連携はこういう形なのかーとか。また、テロとの戦いって基本負け戦(対処療法的で防止が困難)なのかなとか。こういう組織で働くってどういう感じなんだろうと思いながら見た。
 マヤの上司や他のオフィスワーカー局員を、日和見的と評する感想が散見されていて、ちょっと驚いた。そんなことはないと思う。彼らはきちんと仕事をしているし、十分熱心だろう。あのくらいのスタンスでないと職能集団として機能しないのではないだろうか。マヤが極端すぎなのだ。人員動かすには確固たる根拠が必要だし(特に人員の命がかかってるんだし)予算だって限られてるし拷問は国家組織として認めたらイカンだろー!別に自分の地位が心配だからとか使命感が薄いとか、そんなことじゃないと思う。マヤのプロジェクトへの取り組み方は、仕事じゃなくて使命とか強迫観念とか、そういうものに見えてくる。他の局員と比べると、マヤには仕事以外の部分が見えない。生活感がないのだ。服装にも食べ物にも無頓着な様子が印象的だった。また、ビンラディンの件が終われば次の案件が始まるのだろうが、ラストシーン、じゃあこの人この後どうするの?と思った。他の案件に取り組む姿が想像できないのだ。仕事、しかも最終的に人を殺すことになる仕事にそこまで自分をつぎ込むってどういう感じなんだろうと。




『スタードライバー THE MOVIE』

 南十字島にやってきた高校生ツナシ・タクト(宮野真守)は、同じく高校生のシンドウ・スガタ(福山潤)とアゲマキ・ワコ(早見沙織)と親しくなる。学園生活は順調に見えたが、島の地下にはサイバディと呼ばれるロボットが封印されており、その封印を解くことを目的とした「綺羅星十字団」が暗躍していた。島の巫女であるワコを守る為、タクトはサイバディ“タウバーン”を機動させる。2010年に放送されたTVシリーズ『STARDRIVER 輝きのタクト』を劇場用に再編集し、新作映像を加えた作品。TVシリーズと同じく監督は五十嵐卓哉、脚本は榎戸洋司。
 劇場作品化の話を聞いた時には、正直なぜ今更?と思ったのだが、再編集版としては非常に出来がいい。総集編だがダジェスト版ぽくはなっていない。もちろんTVシリーズを見ていること前提の作品ではあるので、ファンアイテム的な側面は否めないが、シリーズの要所要所をきちんと押さえていて、1作通してのテーマが見えやすくなっているんじゃないかと思う。ほんとに直球で青春賛歌、青春を照れるな!そして青春に戻るな(笑)!という話だったんだなと。なおマリノ・ミズノ編のみ分量大目だが、このエピソードはシリーズ中でもツイストがきいていて出来が良かったから、使いたくなるのは無理ないかな~。
 冒頭、「その後」のタクトたちの姿が見られる新作部分があるが、本編終了から新作の間に何が起きたか全く説明されないので、ちょっと驚く。えっそんな大都会で何してくれんの!うちの勤務先近辺ぶっこわれてるんですけど!でも「銀河美少年」というワードが出てくると、どんな説明不足な展開でも、あっそういう世界観ですね!と納得せざるをえない(笑)。すごい言葉考え付いたよなぁ・・・。新作部分の作画は見応えあるが、むしろ本編のアクション作画に見応えがある(TVシリーズでこれやったのかと思うと気が遠くなりそうだが)。話題になった最終回のロボット祭りは、大画面でこそ映える。たいへん楽しかったです。




『ラジオのこちら側で』

ピーター・バラカン著
“ブロードキャスター”として音楽を紹介し続けている著者が、自身と音楽、そしてラジオとの付き合いを語る、自伝的でもある一作。私にとって聞いていて落ち着く声・騙り口の人の1人が著者なのだが、人柄の良さ、何よりも音楽に対する誠実さにぐっときた。また、日本のラジオ局の仕組みの話(スポンサーの話など)などあまり知らないことだったのでなるほどと。確かにこれだと、音楽を十分に、楽曲をカットせずに放送するのは難しいだろうな・・・。レコード会社勤務時代、企業での仕事の仕方にどうしても馴染めなかったエピソードなど、具体的ではないだけに苦労がしのばれる。日本企業特有の腹芸、建前と本音の使い分けは、その文化内で生まれ育っていてもなじめなかったりするものね。著者の半生、仕事の記録であると同時に、日本のラジオ・テレビ産業、音楽産業の変化を追うと言う側面も。そして何より、音楽のガイドブックとしていい!あれもこれも聞いてみたくなる。




『ブルー・ムービー』

ジョゼフ・ハンセン著、大久保寛訳
保険調査員のデイヴ・ブランドステッターは、撮影機材レンタル業者が死亡した事件を調査することになった。死んだドースンは経験なキリスト教徒で風紀粛清運動に熱心だった。犯人は粛清運動で荒らされたポルノ書店店長と思われたが、デイヴは違和感を感じていた。デイヴ・ブランドステッターシリーズ5作目、1979年の作品。デイヴは前作までは父親の会社の調査員だったが、本作では独立している。また、以前のパートナーとも別れて(確か別れ方が結構生々しいというか「あるある」感強かったんだよな・・・)独り身に。新規まき直し的な作品か。主人公のデイヴはゲイなのだが、このシリーズを読むたびにアメリカでの価値観の幅の広さ、寛容さが地域によって全然違うなと思う。本作の被害者はポルノも同性愛も堕落だ、許せないと考える極端に厳格な世界に生きる。その厳格さが事態をややこしくしているのだ。さほど社会派作品というわけではないものの、厳格すぎる倫理に対する著者の反感が(やんわりと)見られる。特に、倫理がその人の内面ではなく他人の目を意識して形骸化することに対して。“「自尊心の問題よ」(中略)「ちがう。世間体だ」”というやりとりが端的。




『ダイ・ハード/ラスト・デイ』

 ニューヨーク市警の刑事ジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)は、音信不通の息子がモスクワで逮捕されたと知り、ロシアへ向かう。しかし到着早々、市街地での爆発に巻き込まれる。マクレーンが再会したのは、一緒に出廷していた企業家と一緒に裁判所を脱走した息子ジャック(ジェイ・コートニー)だった。ダイ・ハードシリーズとしては5作目。監督はジョン・ムーア。
 好評だった4作目に比べると、大分大雑把だなという印象を受けた。鳴り物入りで公開されたが蓋を開ければよくあるB級といった感じ。出来はどうあれ何となく許せてしまうのは、ブルース・ウィリスの人徳の賜物だろう。予告編は、本当に良くできていたんだな・・・(ちなみに本編では第九は冒頭にちらっと聞こえるくらい)。
 今回はマクレーンが巻き込まれ型ヒーローではなく、自分から事態に乗り込んでしまうので、「ダイ・ハード」っぽくないなと思う人もいるかもしれない。私はこのシリーズにおける「お約束」みたいなものをあまりわかっていないから、そんなに気にならないけれど、熱心なファンはこんなの「ダイ・ハード」じゃない!と思うかもしれない。作品自体の出来不出来(まあそんなに出来はよくないんだけど・・・)というより、マクレーンというキャラクターや、シリーズの特色がちょっとズレているのかなと思った。
 普通のアクション映画としてはそこそこ楽しんだが、色々な部分で、安易に話を展開させている気がした。話の土台部分が大分ユルい。そもそもロシアに対して内政干渉しすぎじゃないかと心配になってしまった(笑)。もちろん本作はフィクション、作り話なのだが、嘘なら嘘で説得力のある嘘がほしい。あのブツと脅威のガスの登場には、思わず失笑した。もっとも、昨年の超大作でのあのブツ扱いでも思ったけど、アメリカでのアレに対する認識ってそんなもんなのかな。
 一点拘りを感じたのは、ガラスの使い方。本作、とにかくガラスを割りたくて割りたくてしょうがなかったに違いない。




『奪命金』

 チョン警部補(リッチー・レン)は妻から新居購入を迫られているがなかなか決断できずにいる。銀行員テレサ(デニス・ホー)は金融商品の営業成績が上がらず切羽詰っていた。チンピラのパンサー(ラウ・チンワン)は兄貴分の保釈金集めに奔走している。そんな折、ギリシャの再建危機を発端とした金融資産の下落が勃発する。監督はジョニー・トー。
 ジョニー・トーによる金融サスペンスという、どうも社会派っぽい宣伝だったので、ジョニー・トーが社会派?と釈然としなかったのだが、確かに本作は金融サスペンスといえば金融サスペンスだし、社会派といえば社会派。ギリシャ発の金融危機を上手く背景に利用していると思う。金融危機やパンデミックを扱った映画を見ると、これがグローバリズムというやつかと毎回思う(笑)。
 最近のジョニー・トー作品の中では、際立って構成がきっちりとしている。ある日のある出来事が、この人から見たらこういう流れ、あの人から見たらこういう流れというふうに、多面的に見せていく。背景にあるのは世界的な金融危機という大きな問題だが、それが個人の事情という小さな世界に波及してくる。メインとなる3人はそれぞれ(表出の仕方は違うが)善男善女で、すごく欲が深いというわけではないし、それなりにきちんとした人たちだ(パンサーがきちんとしているかどうかは微妙だが、金にだらしないということはないのはわかる)。それが、自分ではコントロールできない問題に巻き込まれていく。一応ちゃんとした人たちである彼らが、いつ足を踏み外してしまうんだろうか、踏み外さずにいられるんだろうかと緊張感が続く。
 特にテレサの心の擦り切れる感じ、追い詰められている感が切実で、見ていて胃が痛くなりそうだった。彼女は売り上げノルマ達成の為に、リスクの高い商品を金融知識のあまりない客に売ってしまう。彼女はそのことで葛藤する。しかし営業成績トップの社員や、彼女の顧客の金貸しは、客を食い物にするような売り方を躊躇わない。成功するためには良心を捨てないとだめなのか・・・。題名が、正にその通りの内容なので、面白いが見ていて辛くなる。ラストでは思わず、お前らそのまま逃げ切ってくれ!と祈ってしまった。
 音楽の使い方が洒落ている。同じモチーフを繰り返し挿入するが、使いすぎないところがいい。また、映画自体の音響設計がいいのか本作を見た劇場の設備がいいのかわからないが、低音の響き方や町の喧騒の音の広がり方がとてもよかった。




『PARKER』

 プロの強盗パーカー(ジェイソン・ステイサム)は、“仕事”の為に集められた4人の仲間とステート・フェアを襲撃。150万ドルを強奪するが、金の分け前でもめはじめる。4人は次の仕事の資金にて一山当てようとパーカーを誘うが、自分のルールに反するとパーカーは断る。4人は彼に重傷を負わせ、金を奪って逃げた。一命を取りとめたパーカーは復讐の為4人を追う。しかし彼らのバックには有力なマフィアが控えており、パーカーに刺客を放ってきた。監督はテイラー・ハックウッド。原作はリチャード・スタークの「悪党パーカー」シリーズ。
 本作を見た人が一番最初に思うのは、「ジェイソン・ステイサム、髪の毛似合わねぇ・・・」ということではないでしょうか。もはや髪の毛のある姿に違和感しか感じない!いっそキモいわ!ステイサムはやっぱりハゲでないと・・・。彼がいかにいいハゲであるか証明された作品だと思う。
 それはさておき、本作、ステイサム主演映画としては「まあそうなるよな」というもので、さほど意外性はない。ただ、最近彼が演じていた主人公たちに比べると、本作のパーカーは多少生身の肉体っぽい。撃たれれば瀕死の重傷になるし、殴られれば倒れこむし刺されれば出血多量でこれまた瀕死になる。確かに腕っ節は強く「プロ」らしい技術と冷静さを持っているが、天才でも不死身でもないのだ。ステイサムが演じるヒーロー(悪党だが)としては、わりと地に足が着いている。自分が犯罪者、悪党であるという自覚があり、だがその中でのルールは弁えるというやり方も、地に足がついているヒーローと言えるかもしれない。
 パーカーは行きがかり上、不動産営業のレスリー(ジェニファー・ロペス)と協力しあうことになる。このレスリーが抱えるどん詰まり感が意外と等身大感があって、身につまされた。職業上(高級不動産仲介業なので)、収入は乏しくてもいい服を着ていい車(社用車じゃなくて自分の車でお客を案内するのね。リースってところが泣ける・・・)を使わなくてはならない、離婚してこうるさい母親と同居、将来の見通しも五里霧中。しかも自分には手の届かない商品をセレブに売りつけなければならないという。レスリーは言動や価値観がいい意味で普通で、彼女は本来、「悪党」と組むような人ではないんだろうなと思える。プロ犯罪者であるパーカーとのバランスが取れていたんじゃないかと思う。




『明日の空の向こうに』

 ロシアの、ポーランドとの国境近くの村。鉄道の駅舎に寝泊りしている3人のホームレス少年。物乞いや盗みをして生活していたが、ポーランドに渡ればもっといい生活が出来ると考え、国境を越える旅に出る。監督はドロタ・ケンジェルサヴスカ。
 時代背景ははっきりとしないが、携帯電話は流通しているけど、現代よりももうちょっと前という雰囲気。子供だけで駅に寝泊りしていても、何となく見逃してくれそうな感じではある。美しい風景の中を可愛い子供が冒険の旅に、というとちょっとメルヘンぽいイメージだし、牧歌的ではある。しかし、子供たちは可愛いことは可愛いが、姑息さや大人への媚も持ち合わせているし(あとものすごく臭いそう・・・)、常に協力しあうというわけでもない。おミソの子をうっとおしがるところや、兄弟間で真剣に殺意が湧いていそうなところは、等身大で「子供」。美しく撮ってはいるが、ファンタジーにはしていない。ファンタジーとしてハッピーエンドにするのが躊躇われるということなのかもしれない。大人が皆ほどほどに良い人、ちゃんとした人なところがファンタジーといえばファンタジーなのかもしれないが、その大人たちも、子供達の人生を助けることは出来ない。そういう部分は結構シビアだ。
 子供達の表情、動きの捉え方が上手いのはもちろんだが、脇の大人たちもいい味が出ていた。出番は少ないが、その人のこれまで、これからの人生を感じさせる存在感がある。結婚式の行列で、花嫁が車中から花婿に声をかける(が、相手には聞こえていない)様子には、カップルの微妙な温度差や花嫁の躊躇いが垣間見られる。警察署長の子供達への態度は、この人ちゃんとした人なんだろうなという安心感と、そういう人であっても彼らに対してできることは限られているというもどかしさを感じさせる。微妙にやる気がない警察のセクシーな受付嬢(「受付嬢」と呼ばれているのが何かおかしかった)も、いかにも田舎で暇をもてあましてそうで、いいキャラだった。
 もっとも、一番印象に残ったのは旅の背景となる風景だ。ロシア~ポーランドの田舎道や森、草原が現れるが、実際に歩いてみたくなる。特に国境越えをする晩の、月にまだらの雲が掛かっている様子が美しい。これは、かなり粘って撮影したんじゃないかと思う。




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