3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2013年01月

『さみしいネコ』

早川良一郎著
サラリーマン生活を長年続け、50歳から執筆活動を始めた著者によるエッセイ集。本作は定年後の生活に材を得た作品を主に収録している。決してモーレツ社員タイプの人ではなかったらしく、嬉々として無職生活を堪能している様子に和む。視線は鋭いが飄々とした、時にとぼけたユーモアがあって、えらぶっていない。著者はいわゆる教養人だったのだろうが、周囲に何かを教えてやろうという姿勢は見られない。会社でも、さほど出世はせず、社会的な上昇志向はあまりない、むしろそういった価値観とは距離を置いていた人のようだ。そのスタンスが好ましい。定年後、贅沢はないもののそこそこ楽に生活できている様子は、やっぱり高度成長期の話だなという感じはしたが、著者の人となりはあまり高度成長期的ではない(笑)。




『本当のことしか言ってない』

長嶋有著
著者初の書評集。小説はもちろん、歌集や絵本、ゲーム関連本の評もあるところが著者ならではか。掲載されていた媒体も様々。比較的若い作家(中村航や島本理生を度々取り上げている)の小説が多いところに、この人たちをもっと世に知らしめなければ!・・・というほどではないにしろ、正当に評価したい、紹介したいという暑苦しくない使命感みたいなものも感じた。予想外に熱を帯びている。このあたりはちょっと意外だった。もっと他人行儀というか、同業者とは距離を置くスタンスのような気がしていたので。小説家としての矜持と、同じ矜持を持つであろう同業者に対するシンパシーがあるのだ。小説とは何か、小説がなぜ必要なのかと考え続ける姿勢が、書評の根底にもあるのだと思う(小説家や書評家は皆そうなのだろうが)。特に最後の方に収録された、筒井康隆『秒読み』に寄せた評は、直球で「文学は何の役に立つのか」と語っている。なお本著、著者の交友関係が垣間見えて楽しい。川上弘美との長電話の内容には爆笑してしまった。




『悪魔からの勲章』

 私立探偵・阿久根(田宮二郎)は、モデルで妹分の典子とドライブ中、交通事故現場に遭遇する。大怪我している男を病院に運んだ阿久根だが、この頃から、彼の周囲を怪しい男たちがうろつくようになり、とうとう拉致されてしまう。彼らは阿久根が何かを隠し持っていると思っているようなのだ。監督は村山三男、原作は藤原審爾の小説。1967年作品。
 冒頭のシャワーシーンといい、ラストの水着姿といい、田宮二郎のアイドル映画か!と思わず突っ込むくらい、とにかく田宮がかっこいい。私にとって若い頃の田宮二郎は(見た作品が偏っているので)、いつもいい車に乗って女性を口説いて(ないしは口説かれて)銃を撃っているイメージなのだが、本作もそんな感じ。ただ、腕っ節が強いわりにはすぐに殴られて気絶したりする。このへんのうかつさ(笑)はフィリップ・マーロウ(だけじゃなくて昔のハードボイルド小説の探偵)あたりを彷彿とさせる。マーロウは本作の阿久根ほど女ったらしではないが。
 女優陣も、当時のファッションと相まって見ていて楽しい。特にファム・ファタール的女性を演じる江波杏子は、いかにも何か事情がありそうな色っぽさがあって魅力的。終盤のどっしりとした構え方などとてもよかった。溌剌とボーイッシュな典子と対称的だった。
 横浜のヨットハーバーが頻繁に出てくるのだが、キザなセリフといい派手な立ち回りといい、「あぶない刑事」のルーツを見た感があった(笑)。横浜のちょっと日本離れした雰囲気(実際、船便で海外から入国してくる人も多かったろうし)が、当時は特に際立って見えたのかなと思った。浮世離れしたドラマの舞台にしやすかったのだろう。




『父子草』

 1967年、丸山誠治監督作品。脚本は木下恵介。ガードしたのおでん屋で、酔った土工・平井(渥美清)は常連客の青年・西村(石立鉄男)にケンカを吹っかける。後日、おでんやのおかみ・竹子(淡路恵子)から、西村が働きながら大学受験の為勉強している苦学生だと聞いた平井は、彼に生き別れた息子の面影を重ねる。
 渥美主演作の隠れた名作といった感じ。ベタはベタな人情話なのだが、渥美演じる平井の、時に周囲をイラっとさせるが朴訥とした気のいいキャラクターが、イヤミに見えない。渥美のセリフ回しのリズム感、こぶしのきかせ方みたいなものは、やっぱり上手いんだなと実感した。今だったらウザイ!と嫌がれそうなキャラクターでもあるのだが(作中でもちょっと嫌がられてるけど)、必要以上に下卑た感じにならないのは渥美の力だろう。また竹子役の淡路も、正に江戸っ子の女性風で、さばさばしていていい。人情ものだけど、人情があんまりうっとおしくないのだ。
 平井が自分のことを「生きていた英霊だ」と言い、その過去が語られるシーンがあるのだが、このあたりで客席から鼻をすする音が続々聞こえてきた。「生きていた英霊」とは太平洋戦争時に出征し、終戦後なかなか帰国できなかった為に死んだと思われていた人のことを、当時そういう呼び方をしたらしい。最初「えいれい」という音だけではぴんとこなかったが、途中で腑に落ちた。平井は戦死したものと思われており、ようやく帰国すると妻は弟と再婚しており、故郷にも居辛く、あちこちの工事現場を渡り歩く生活をしていたのだ。映画を見に来ていたのは戦争を体験したであろう世代の方が多かったので、こういうエピソードはかなり身近なものだったのだろう。優れた映画は基本、世代や国を越えた普遍的なものだと思うが、ある時代を体験したことでより迫ってくるものというのはやっぱりあるなと思った。
 おでんやのおでんの中に、妙に黒くて長細い、蟹の手のような形状のものがあったんだけど、あれは何だったんだろう・・・練りものって感じでもないんだよな・・・。また、おでん種を入れてる調理器の脇に、熱燗用の湯煎容器が設置されていたりして、屋台の仕掛けが何か面白くまじまじと眺めてしまった。




『ポップ中毒者の手記(約10年分)』

川勝正幸著
昨年急逝したライター/エディターである著者のポップ・カルチャー・コラム集。私は著者については名前くらいしか知らなかった・・・と思っていたのだが、仕事一覧を見ていると、知らずに様々な仕事を目にしていたことに気付いた。それだけ仕事が多く、その幅も広いということだろう。本著に出てくるポップカルチャー(特に音楽)には私はあまり馴染みがないのだが、それでも「あっこれ知ってる!」っていうものがあるんだもんなー。収録されているコラムは80年代半ばから90年代半ばのものなので、古さを感じないとは言えない。ああこんな時代があったよなー、こんなもの流行ってたよなーとしみじみ。語り口も、ああこういうの流行ってたわ~と懐かしい雰囲気が。正直好みの語り口とは言えないし、著者が取り上げているジャンルに対して疎いのでどの程度鋭い視線なのかはわからないのだが、著者がポップの目利きだったことはよくわかる。また、コラム内のエピソードのそこかしこから、人柄がいい人だったんだろうことが窺われる。デニス・ホッパーに「あんなに良くしてもらったことは生涯で初めてだった」と言われるなんて、言われた方は大感激だったろうけどそのエピソード読むだけでもぐっとくる。




『サイド・バイ・サイド:フィルムからデジタルへ』

 映画が誕生してから約100年間、記録媒体としてはフィルムが使われてきた。しかし近年、デジタル技術が発達し、撮影、編集、上映も配給もデジタルが主流に。第一線で活躍するハリウッドの監督や撮影監督たちに、フィルムとデジタルの行く末を尋ねるドキュメンタリー。案内役はキアヌ・リーブス、監督はクリス・ケニーリー。私は映画の技術面については疎いので、色々勉強になった。
 マーティン・スコセッシ、ジョージ・ルーカス、クリストファー・ノーラン、ジェームズ・キャメロン、スティーブン・ソダーバーグら、錚々たるメンバーへのインタビューで、かなり豪華。それぞれのフィルムとデジタルに対する考え方、スタンスが垣間見られる。デジタル推進派の筆頭はルーカス。新しい技術をどんどん取り入れてきた人だから当然といえば当然だろう。キャメロンなども同様で、新しい映像体験を開発したいという指向の人と、ロドリゲスのようにとにかく早撮りしてその場で確認したい!という人は、やはりデジタルと相性がいいみたい。スピーディに撮りたい人には、一度現像しなくてはならないフィルムは確かにまだるっこしいだろうな。
またデジタル派には、フィルムの経年による劣化が許せない!というスダーバーグのような人も。ソダーバーグは結構なフィルムdisを披露するのだが、彼の美学では自分が撮った絵そのままが保存されていないと「作品」とみなせないってことなんだろう。私は、経年によって傷が増えるのもまた味だろうと思うのだが、作家としてはやはり納得いかないのかもしれない。
 フィルムに愛着を持っている人たちも、ほどなくほぼすべての映画がデジタル撮影・上映になるだろうとは認めているし、その流れは止められないと考えている。フィルムを使うのは特別な場合のみになるだろうと。ただ、保存に関してはフィルムの方に強みがあるようだ。デジタルの場合、再生機の規格が頻繁に変わって再生できないケースが多々あること、またデジタル情報であってもいつまでも保存できるわけではないという難点がある。ルーカスはそういう弱点はいずれ克服されると言っていたが。このへんの事情は、出版物と同じだなと思った。本も、保存に関してはまだ紙に強みがあると思う。
ただ、フィルム派であれデジタル派であれ、どちらかじゃないと絶対だめ!という人は案外いない。どちらもいいよね、という人が多い。どちらも同じく仕える環境が維持されるのが理想なのかもしれないが、それは難しいのかな・・・。
 案内役はキアヌ・リーブス。なぜキアヌ?と思ったが、これが案外悪くない。利口ぶったり変にでしゃばったりしないところが、「案内」に徹している感じでいい。人あたりも結構ソフトだし、自然体、かつ各方面に角が立たなくて、案内役としてはいい人選だった。




『駆ける少年』

 11歳の孤児アミル(マジッド・ニルマンド)は、浜辺の廃船で暮らしている。ビン拾いや靴磨き、水売り等で小銭を稼ぎ、飛行機や外国船に憧れて友人達とも走り回る毎日。監督はアミール・ナデリ。本作は1985年の作品で、第7回ナント産大陸映画祭でグランプリを受賞している。
 何とパワフルな作品だろうと思った。題名の通り、アミル少年はよく走る。仕事の為にも走り回るし、遊びの中でも走り回る。アミルだけでなく、子供達がよく働きよく遊んでいる。体を使う遊び自体はどの国でもあんまり変わらない(廃船でのごっこ遊びとか)のかもしれない。彼らの身体運動から生まれるパワフルさと同時に、アミルの見知らぬ世界への渇望、何かに強く憧れ追い求める気持ちもまた力強い。アミルは飛行機や大型船が大好きで、舞台となるのも港や鉄道の線路、飛行場など。これらは海外、見知らぬ世界へと誘うものだ。こういう未知への情熱、遠くへの憧れみたいなものは、最近の映画ではあまり見ていなかった気がする。本作の舞台となった70年代初頭のイランという背景だから、そういう気分がより強くフィルムに現れているのかもしれないが、現代では遠くの世界への素朴な憧れというものが強く持てなくなっているのかもしれない。インターネットが発達して海外ともすぐに繋がれるようになったし、憧れる余地ももうないのかな。
 アミルは文字を習おうと思い立つのだが、文字もまた、彼をまだ知らない世界、外の世界へと連れ出してくれる手段だ。世界を広げる手段としては、飛行機や船よりもより強力かもしれない。だからアミルは、文字を学ぶことに強く情熱を燃やす。文字を読める!というアミルの喜びが眩しい。
 アミルは粘り強く、諦めが悪い。自分の取り分、自分の誇りに対する意識がすごく強いのだ。代金を踏み倒した客を延々と追っていくエピソードなど、タフすぎて笑ってしまう。エネルギーに満ちていて、圧倒されてしまった。




『秋のソナタ』

 牧師の夫と田舎町で2人暮らししているエヴァ(リヴ・ウルマン)は、パートナーを亡くした母シャルロッテ(イングリッド・バーグマン)を心配し、自宅に招く。7年ぶりに再会した母娘だが、エヴァが脳性麻痺で施設に入れられていた妹ヘレナを引き取ったと知ると、シャルロッテは激しく動揺する。監督はイングマール・ベルイマン。1978年の作品。
 母と娘の愛と憎しみがぶつかり合う。娘の母親に対する愛憎と、母の娘に対する無頓着さはいつまでたってもかみ合わない。エヴァはシャルロッテが自分を、自分が望むようには愛していないと思いつつも、母の気を引きたい、愛されたいと思わずにいられない。 一方シャルロッテは、エヴァの前で苦しみ泣き崩れるものの、翌日マネージャーにしっかり愚痴ったりしている。自分本位といえば自分本位だが、根本的にエヴァとは価値観が違うので、エヴァの苦しみを実感できないのだ。
 こういう関係性だと確かにエヴァが折れるしかないよなと思った。表面上は取り繕ろうとする2人の振る舞いが滑稽でもあり、空恐ろしくもあった。これが全くの他人だったら「タイプの違う人」としてそれなりに距離を置いた付き合いが出来るんだろうが、親子だと双方、どうしても相手に期待を捨てきれないというのが厄介だ。
 母の疵が娘に受け継がれる、という典型的な図式ではある。しかしベルイマンが撮ると、典型的な物語も陳腐な典型には見えない。ショット、特に人の顔のショットのひとつひとつが強烈すぎて、何か異様な迫力をかもし出している。いびつとも言えるかもしれない。見ると疲れるのだが、目を逸らすこができないのだ。
 シャルロッテ役は、これが遺作となったイングリッド・バーグマン。ほぼすっぴんに近い状態だと思うのだが、年を重ねてもなお美しい。こんな、美しくて才能豊か(シャルロッテは著名なピアニスト)でやり手な母親いたら、間違いなく娘にはコンプレックスになるわ(笑)!しかもエヴァ役のリヴ・ウルマンは決して美人というわけではない。余計に母娘のコントラストが際立つ。ベルイマンは残酷だよなと唸った。




『ペルディード・ストリート・ステーション(上、下)』

チャイナ・ミエヴィル著、日暮雅通著
科学者のアイザックは、“ガルーダ”のヤガレクから、失った翼を取り戻してほしいと依頼を受ける。研究サンプルとして羽のついた生き物を集めるが、その中に奇妙な幼虫が混じっていた。一方、アイザックの恋人でアーティストのリンは、裏社会の大物から作品制作の依頼を受ける。アイザックの研究は町全体とリンを、思わぬ危機に陥れていく。架空の街ニュー・クロブゾンを舞台としたSF大作。著者の『都市と都市』よりもファンタジー寄りで、更に混沌とした世界が描かれている。登場人物も人間だけではなく、昆虫や魚類とのハイブリッド種、異形の生き物が多数登場する。身体の描写からはどんな造形なのか想像できないような人たちも(笑)。その世界に引き込まれて一気に読んだ。ストーリーの主軸はアイザックの研究、そして凶悪な生物との死闘だが、もうひとつの主軸は舞台となる都市そのものだ。本の冒頭に街の地図が掲載されているが、それも納得。著者は「都市」を書く人なんだなと実感した。多様な種族とそれぞれの文化、ルールを抱え込む都市そのものが一つの生き物のようで、生き生きと立ちあがってくる。アイザックらが紡ぐ物語は、都市の生命活動の一環のように見えた。




『愛について、ある土曜日の面会室』

 フランス、マルセイユの刑務所に面会に来た、3人の男女のエピソードから成るストーリー。サッカー好きの少女ロール(ポーリン・エチエンヌ)は、逮捕された恋人に面会したい。しかし成人が付き添わないと許可できないと言われ、一計を案じる。恋人との関係も仕事も上手くいかないステファン(レダ・カティブ)は、奇妙な依頼を持ちかけられていた。そして息子を殺されたゾラ(ファリア・ラウアジ)は、死の真相を知る為に、アルジェリアからフランスへ渡ってきていた。監督はレア・フェネール。
ゾラ、ステファン、ロールという3人それぞれのエピソードが、時間軸を少しずつずらしながら交互に語られるが、よく整理されており、結構目まぐるしく主人公が入れ替わるものの、見ていて混乱はしない。ただ、きちんとしようとしすぎているのか、少々流れがまだるっこしく感じた。もっと大胆に省略してもよかったんじゃないかと思う。
 構成の仕方だけではなく、それぞれの登場人物の描き方も生真面目。と言っても登場人物が生真面目なのではなく、キャラクターへのアプローチの仕方が生真面目。一面的には描かず、こういう人であってもこういう面がある、といった丁寧さがあると思った。作中、ロールが「優等生」と揶揄され、彼女自身も自分は優等生タイプだから、羽目を外せないタイプだからと自覚しているシーンがあるのだが、普通に「真面目」な人の感覚がわかってるなーと思った。監督(脚本も手がけている)もこういうタイプなのかもしれない。「優等生」という言葉に対するロールの微妙な反応がリアルだったので。
 ゾラ、ロール、ステファンは大きな問題、苦しみと直面することになるが、こういうものへの対し方は人それぞれ、耐えられる度合いもそれぞれだ。ゾラは苦しみの中に自ら飛び込み、格闘しようとするが、全ての人にそういった勇気や強さがあるわけではない。実際、若いロールは土壇場で直面を避け、ステファンもぎりぎりまで葛藤する。ただ、どの人が正しく、どの人が間違っているというジャッジはされない。そこも、本作の生真面目さだと思う。




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