3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2012年12月

『砂漠でサーモン・フィッシング』

 お役所勤めの水産学者、アルフレッド・ジョーンズ(ユアン・マクレガー)はある日、コンサルタントのハリエット(エミリー・ブラント)から、イエメンの富豪シャイフが自国で鮭を放流して釣りをするプロジェクトを企画している、協力してほしいと連絡を受ける。砂漠が広がるイエメンで鮭の放流などばかげていると、ジョーンズは申し出を断る。しかし、悪化している中東関係を持ち直す為に明るいニュースを探していたイギリス政府広報がこれに注目。ジョーンズは強制的にプロジェクト顧問にされていまう。監督はラッセ・ハルストレム。原作はポール・トーディの小説『イエメンで鮭釣りを』。
 原作小説は以前に読んだのだが、少々冗長でそれほど好みの作品ではなかったし、ジョーンズやハリエットの言動には少々イライラさせられた。しかし映画化された本作は、安定感ある佳作に仕上がっている。ハルストレム監督の手堅いお仕事を堪能した。この監督のいいところは、素材はどうあれそれなりのところに映画を着地させられるところだろうなぁ。今回は、監督自身もかなりやりたかった素材みたいで、雇われ仕事感は薄い。
 脚本は『スラムドッグ・ミリオネア』のサイモン・ビューフォイだそうだが、原作を上手くかいつまんでタイトに構成している。原作は書簡やメールのやりとりが大部分を占めるのだが、それを上手く映像に置き換えているし、広報官と首相のメール(LINEかな?)のやりとりもユーモラスでいいアクセントだった。リズム感のある、テンポいい脚本だと思う。
 原作では、ジョーンズの甘ちゃんなところが鼻についたが、ユアン・マクレガーが演じるとぴったりすぎてイヤにならない。むしろかわいい!この人の「いい人」顔は鉄板だな~。また、シャイフの理想主義も、ハリエットの生真面目さも、映画の方がより生き生きとしていた。映像や俳優の身体性の強みというより、個々のキャラクターの特性を上手く抽出した演出がよかったんじゃないかと思う。
 ジョーンズとシャイフにとっての釣りは、人によって色々なものに置き換えられると思う。信仰の現れ方は、宗教とは限らないのだ。




『HICK ルリ13歳の旅』

 ネブラスカ州の田舎町に住むルリ(クロエ・グレース・モレッツ)は13歳になったばかり。父親はアルコールに溺れてふらりと家を出て行った。母親も他の男と出て行ってしまう。取り残されたルリは憧れの地ラスベガスへ向けてヒッチハイクを始める。監督はデリック・マルティーニ。
 ぱっと見ヤングアダルト小説のような、少女の自分探し的な面持ち。確かに、ルリが主人公のロードムービー、見たことない世界に投げ出される不思議の国のアリス的なお話ではある。が、ルリは口は悪いがそんなにかしこいわけでもなく、世間知らずで、洒落にならない羽目に陥ってしまう。そのわりには雰囲気が長閑で、語りのスタンスがちょっと不思議な作品だった。田舎の風景が長閑で美しいが、だから却って行き場がない(物理的にも車がないとどこへも行けないロケーションなので、子供には特に窮屈かも)とも言える。ただ、本作の舞台はたぶん80年代初頭くらいなので、現代を舞台に同じ話をやるよりは、まだ牧歌的だし救いがある。現代だと、もっと余裕がない感じになるんじゃないかなと思った(彼女に手を差し伸べてくれる人のあり方とか)。
 ルリを最初に車に乗せてくれる青年エディ(エディ・レッドメイン)の変貌の仕方が、少女マンガっぽかった登場シーンからは予想の斜め上。レッドメインは優男系ハンサムといえばハンサムなのだが、どこかもろさ、弱さを感じさせる風貌。これは元々そういう顔つきなのか、そういう表情の作り方がうまいのか、どちらだろう。少なくともこの役柄にはぴったりだった。エディと因縁のあるグレンダ役のブレイク・ライブリーも、どこか崩れた感じの美人を好演していた。
 ルリのバックグラウンドについて詳しく語られることはないが、バースデーパーティの場所が酒場で同年代の友人がいないらしい様子、好きなことは絵を描くこととTVで映画を見ること、映画のものまねをすることなあたりから、彼女の育った環境や人柄が見えてくる。冒頭の掴みがよかった。




『ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館』

 弁護士のアーサー(ダニエル・ラドクリフ)は妻を亡くして以来、幼い息子と暮らしていたが、喪失感は深く仕事も上手くいかない。クビを免れるラストチャンスとして、ある村の屋敷へ行き、死んだ女主人の遺言状を探すよう命じられる。さっそく村へ訪れたが、その村の住民達は皆よそよそしく屋敷にも近づきたがらない。無人のはずの屋敷でアーサーは、黒衣の女性を見かける。監督はジェームズ・ワトキンス。
 原作が古典だからかもしれないが、とてもオーソドックスなゴシックホラーだった。なぜ今このネタ?と思わなくもないが、王道はいつの時代も王道でいいんだよ、ということか。今となっては特に意外性のあるストーリーでもないので、話の展開上の怖さよりは、古い屋敷や荒涼とした景色の雰囲気が楽しかった。舞台となる屋敷は海辺?の湿地帯にあり、満ち潮になると離れ小島状態になる。水がどんどん満ちてくるところがじわじわと怖くていい。
 ホラーとしてあまり怖くないのは、「それ」が実在すると早い段階で観客に見せてしまうからだろう。「それ」視点のショットがあっさり出てくるので、「何だか分からなくて怖い」というタイプの怖さはなくなる。さらに主人公のアーサー自身が、死んだ妻への思慕から半分死者の世界に囚われているような人なので、「それ」に対してもあまり違和感をもっていない感じなのだ。ただ、「それ」への理屈の通じなさ、説得の出来なさには、まだ「何だから分からなくて怖い」要素が残っていたと思う。
 息子のいる弁護士としては、ラドクリフは大分若いんじゃないかという気がしていたが、アーサーが若くて足元おぼつかないようなキャラクターなので、むしろ丁度良かった。時代劇コスプレが様になっている(ちょっと古風な顔なのかなー)ので、この路線でキャリア積んでも面白いかもしれない。




『007 スカイフォール』

 MI6の極秘データを盗んだ敵を追っていた“007”ことジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)は、追跡中に狙撃され生死不明に。一方、MI6本部にテロ予告が届き、本部は破壊される。犯人はMI6の長“M”(ジョディ・デンチ)に恨みを持っているらしい。生き延びて身を隠していたボンドは、Mを守る為エージェントとして復帰するが。監督はサム・メンデス。
 序盤、ボンドが妙におじさんぽい動きになってるなーと思っていたら、本当に時代遅れ扱いされるわ、若いQとのジェネレーション・ギャップはあるわで、ボンドは老犬扱いされている。シリーズの歴史と重ね合わせられる部分がある。007シリーズは、ボンドがクレイグに代替わりしてからの2作(カジノロワイヤル、慰めの報酬)は時代に即した新しいボンド像を作ろうとしていたように思う。以前の007のノリは、現代では相当なオールドスタイルに見えるということだったのだろう。しかし本作はそのオールドスタイル、いわゆる「007」のテイストに回帰する方向。映画が後半に近づくにつれ、かつての007の要素が濃くなる。シリーズ50周年として、やはり原点回帰だ!オールドスタイルだろうがこの路線でいくからよろしく!という作り手側の身振りは、オールドファンには嬉しいかもしれない。
 ただ、せっかくクレイグ版ボンドとして過去2作で築いたものを、あっさり手放して1からやり直しにしていいのかなとも強く思った。特に私は、007シリーズ自体には思いいれはなく、クレイグ版ボンドの過去2作が好きだったから、勿体無く感じるのかもしれないが。
 また本作以降の007シリーズが「男子のおもちゃ」度を高めるんじゃないかという予感もして、それもちょっと複雑。本作はいわゆるボンドガールはほぼ不在と言ってもいい。いるのは母親と息子。ある意味最強のボンドガールではあるが、ボンドと渡り合うボンドガールはもう登場しないんじゃないかという気もする。




『裏切りの戦場 葬られた誓い』

 1988年、現職のミッテランと当時首相だったシラクとが大統領選で火花を散らしていたフランス。フランス領ニューカレドニアのウカベ島で独立派先住民が憲兵隊宿舎を襲撃、人質を取る事件が起きた。国家憲兵治安部隊のフィリップ・ルゴルジュ大尉(マチュー・カソヴィッツ)は交渉人として、部下50人と共に現地へ飛んだ。しかし現地には既に陸軍が到着しており、やむを得ず彼らの傘下に入ることに。解放された人質から状況を聞き、独立派のリーダー・カヤック族のアルフォンス・ディアヌ(イアベ・ラカパ)と、残りの人質を解放させるべく交渉に入るが。監督は主演もしているマチュー・カソヴィッツ。カソヴィッツは今回、主演・監督だけでなく製作、脚本、編集もこなしている。
 題材となっているのは実際に起きた事件、ではあるが、フランス政府は公式には認めていない。フランス黒歴史的な事件らしい。当事者であったルゴルジュが後に手記を出版し知られるようになったそうだ。カソヴィッツはどうしてもこの事件を映画化したかったようで、実に10年かけて実現させたとか。確かに、「今これを撮らなければ」という気合を感じる。
 冒頭から、この「作戦」が失敗することはわかっている。しかし、途中までは上手くいきそうに見えるのだ。ディアヌ側も憲兵隊もできることなら穏便にすませたい、軍もなんとか押さえられそうというあたりまでは推移するのだ。作戦の「失敗」は、選挙を控えたシラクとミッテラン両陣営の方針の結果だ。上からの命令なので、理屈に合わないと思っても現場の軍人たちは拒むことができない。選挙の票稼ぎの為に、現場では大きな損失を受けることになる。ルゴルジュは戦闘を回避する為に奔走するのだが、ことあるごとに政治家に横槍を入れられ、消耗していく。情勢に翻弄されてしまう姿が痛ましい。彼が多分有能なんだろうと窺えるだけになおさらだ。
 軍人といっても立場や考え方は様々だ。フランスの場合、いわゆる陸海空軍とは別個に憲兵隊というものがあるのでよけいややこしい。映画中で言及される限りでは、憲兵隊は国内の問題処理に当たるセクションだそうだ。現場であるニューカレドニアはフランス「領」であり、これを国内と見るか海外と見るか(ニューカレドニアの現地民をフランス人として扱うか)という見解の相違が生じ、独立派をテロリストと見なすか否かという判断にもかかわってくる。シラクが軍の派遣を指示したということは、彼はこの問題をフランス人同士の問題とは見なしていなかったということなのだろう。
 当時の政治情勢やフランスの軍組織に関する知識がないと若干わかりにくいが、どの人がどういう立ち居地で、本国ではどういう状況で、ということが冒頭で飲み込める。情報処理がうまい。




『カリフォルニア・ドールズ』

 チャンピオンを夢見る女子プロレスチーム・カリフォルニア・ドールズ。アイリス(ヴィッキー・フレデリック)とモリー(ローレン・ランドン)のレスラーコンビと、マネージャーのハリー(ピーター・フォーク)はドサ回りを続け、徐々に知名度を上げていく。監督はロバート・アルドリッチ。本作が遺作となる。
 噂には聞いていたが、こんなに面白かったとは!権利関係の問題でソフト化困難だというのが勿体無い。堂々たるスポ根映画ではないですか!私はプロレスのことは全然知らないのだが、カリフォルニア・ドールズの2人の奮闘、意外と(もっとドスンバタンな感じかと思ってた)華麗な技の決め方には喝采を贈りたくなった。女子プロレスということでイロモノ扱いされたり、お色気要員としてしか見られなかったり、彼女たちのプロとしてのプライドを傷つけるものたちも少なくない。それでもやるんだよ!やりたいんだよ!という熱さが正にスポ根。
 また、当時の女子プロレスってこんな扱いだったのか、と若干ショックを受けたところもあった。女性の位置づけって、80年代でもまだこんなものだったんだ~と。色気振りまいてりゃいいんだよ!と言わんばかりの興業主もいて、プロレスラーとしては、そりゃあ傷付くよなと。しかし客を沸かせるには色気を振りまく方が確実というところが、またつらい。泥んこマッチなんて、ほとんどやけっぱちみたいなノリだった。
 アイリス、モりー、ハリー、それぞれのキャラクターにも魅力がある。しっかり者のアイリス、お茶目なモリー、あこぎなハリー。特にハリーの、マネージャーとしてはそれなりに優秀だが山っ気があって人としては大分だらしいないキャラクターは、演じるフォークのヨレっとした感じにぴったり。そのハリーになんだかんだ言ってもほれているアイリスは、なかなかに難儀な人だ(笑)




『ハード・ソルジャー 炎の奪還』

 ゴール(ジャン=クロード・ヴァン・ダム)はさまざまな事件を非合法に処理する腕利きの傭兵。ある誘拐事件を解決したものの、少女達を巻き添えにして死なせてしまい、自責の念から引退する。数年後、人身売買組織に娘を誘拐された両親が、助けてほしいと依頼に来た。ゴールは再び戦うことを決意するが。監督はアーニー・バーバラッシュ。
 あまり期待していなかったせいか、予想外に面白く満足!ストーリー上、人身売買組織の動きが、女の子一人に大げさな!という気はしたが、なりゆきでそうせざるを得なくなっていってしまうという部分が一応演出されていた。もっと軽いつもりだったのに・・・という悪役の小物感が悪くない。
 最近のヴァン・ダム出演作の中では、彼が最も魅力的に見える作品なのではないかと思う(と言えるほど見ているわけではないのだが・・・)。『エクスペンダブルズ2』よりも本作の方が、ヴァン・ダム映画としてはいいんじゃないかなー。主演ですし。有能な傭兵ではあるが、罪悪感をずっと抱えている重苦しさや、悲哀が滲んでいる。ヴァン・ダムがもう若くはないということも、本作にはプラスに働いている。もう足を洗ったんだから引っ張り出すなよ・・・という億劫さみたいなものに説得力があるのだ。この人、いい年のとり方をしたな~。これだったらアクションなくても・・・と思わなくもないくらい。老眼鏡姿もキュート。また、引退後は肉屋をやっているという設定なのだが、肉屋のコスチュームや、内臓を包丁でぶつ切りにする姿が良く似合っている。
 アクションももちろん手堅くこなしているが、冒頭のナイフ使いにはしびれた。肉弾戦よりも銃撃戦の方が多いのは「傭兵」設定だからだろうか。誘拐された少女の父親が総合格闘家という設定なので、こちらも意外と魅せてくれる。また、少女の母親が実は・・・なのにはちょっと笑ってしまった。




『特捜部Q Pからの手紙』

ユッシ・エーズラ・オールスン著、福原美穂子・吉田薫訳
コペンハーゲン警察所内で、未解決事件を専門で扱う「特捜部Q」。部署員はカール・マルク警部補と助手のアサド、ローサ。海辺に流れ着いた瓶の中に助けを求める手紙が入っていたことがわかり、捜査することに。しかし激しく損傷した手紙からは、差出人の名前がPということしかわからない。Pはどうやら誘拐されたようなのだが・・・。シリーズ3作目。かなり早いスピードで翻訳出版されており人気のほどが窺える。個人的には、本作がシリーズ内で一番面白かった。事件が今まさに起きていて時間との勝負!という状況なので、どんどん読み進んでしまうからかもしれない。スピード感があり、まさかのアクション映画的な展開も(既にシリーズ映像化の動きはあるようだが、本作が一番映画的かも)。今回は人間の多面性により焦点が合わせられている。まさかあの人がそんな・・・という状況が、本筋でもわき道(こちらはユーモラス)でも展開される。犯人側、被害者側、捜査側と多方面から1点に集約されていき緊張感が途切れなかった。





『任侠ヘルパー』

 元ヤクザの翼彦一(草なぎ剛)はコンビニでバイトをしていたが、強盗の老人を逃がしてやったことで逮捕された。獄中でそのコンビニ強盗・蔦井(堺正章)に再会し、行くあてがなかったら頼れと極鵬会を紹介される。出所後、極鵬会を訪ねた彦一は、老人相手の闇金と介護施設を任せられる。監督は西谷弘。2009年放送のTVドラマの劇場版となる。
 TVドラマ発の映画だが、肝心のTVドラマは2009年放送。なぜ今更このタイトルで?と予告編を見て疑問に思っていた。が、本作を見て、むしろやりたかったのは映画の方で、『ガリレオ』→『容疑者Xの献身』と同じパターンかと納得。その『容疑者X~』の監督も西監督だったわけだが、TV局の仕組みの中で映画を製作する際のノウハウ、単なるTVドラマの番外編にしないための戦い方を習得してきたんじゃないかという気がする(もちろん局側に映画をちゃんと作ろうという意欲があるんだと思うが)。
 さて本作、老人介護に貧困ビジネスというタイムリーな問題を扱っており、家庭での介護のきつさや痴呆の症状等、わりとがんばって取材したのかなという印象だが、そこに深くは切り込んではいかない。彦一が介護施設を建て直していく過程はとんとんすぎ、都合よすぎだ。実際には人手もお金も足りないだろうし、介護業務自体もっときついだろう。だが、本作はあえてそこでファンタジーの方向に舵をとったのだと思う。そもそも、彦一が目指していた仁義を重んじる任侠(ヤクザではない)自体、今となっては(いや昔もかも)ファンタジー。本作に登場する老人たちも彦一も、現実には行き場のない、世界の隅っこで押しつぶされていく人たちだ。だからこそ、そういう人たちの起死回生に胸がすく思いがする。ヤクザでなく任侠な意味はそこにあるのかと。フィクションは現実の辛さをすくいあげる為のものだ、それでこその娯楽だという気概がある作品・・・というのは言いすぎか。
 もっとも、本作に難点がないかというとそうでもなく、TVドラマ発であることのしがらみや、話のわりに尺が長いこと等、もうちょっとタイトにしてほしかった感はある。




『犬と狼のはざまで』

サーシャ・ソコロフ著、東海晃久訳
冬の夕暮れ、砥ぎ師のイリヤーと猟兵ヤーコフの間である問題が起きる。その問題の顛末をイリヤーは手紙にしたため、ヤーコフは詩と散文で語る。本編の前に、翻訳者による解説があり、本作の構成と簡単なアウトラインが説明される。おいおいちょっと過保護じゃないですかおせっかいじゃないですかと思ったのだが、本編読んでみてその理由がわかった。こんなに何を書いているのかわからない小説を読んだのは久しぶりですよ!正確には、今読んでいる一文に何が書かれているのかは分かるが、次の文に続き1段落終わったころにはもう何が書いてあったかわからなくなっている。さすが現代ロシア文学の極北と言われるだけのことはある・・・。イリヤーの手紙はある人物に宛てたものではあるが、他人に向けたとは思えない脈絡のなさ。ヤーコフの言葉はそもそも他人に向けたものではない。どちらの言葉も自分の意識の赴くままにふらふらゆらぎ、物事の輪郭は薄闇にまぎれたようにぼんやりとしている。捉え所がないので、最初に解説がなかったら絶対、小説内で何が起きたのかわからなかったわ・・・。




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