3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2012年12月

『深い疵』

ネレ・ノイハウス著、酒寄進一訳
ホロコーストの生き残りで、アメリカ大統領顧問も勤めたことがある、著名なユダヤ人男性が射殺された。現場には「16145」という数字が書き残されており、凶器は第二次大戦中に使われていた拳銃と思われる。司法解剖の結果、被害者はナチスの武装親衛隊だったと判明し、捜査陣には激震が走った。そして更に同一犯と思われる他殺死体が発見される。オリバー&ピアという刑事コンビを主人公としたシリーズ作品だそうだ。日本では本作が初翻訳されたが、ドイツでは大ヒットシリーズだそうだ。確かに本作、面白かった。展開がスピーディ(問題がとんとん解決するわけではないが運び方が上手い)で最後までひきつけられる。ナチス問題の根深さや、それに対するドイツの国としてのスタンス(ここまでやるのか!というような)が垣間見えるところも。こういう「過去が襲ってくる」系のミステリが最近増えているように思うが、気のせいか。ミステリとしての本筋以外にも、人物造形が巧みで読ませる。オリバーとピアという男女の刑事コンビが、天才的でも美男美女でもないが、ちゃんと仕事をしようとする普通の警察官で、地に足のついたキャラクターになっている。この2人以外も、「同僚」としての距離感のあり方がリアルだなと思った。




『ホビット 思いがけない冒険』

 ホビットのフロドの旅よりも60年前。若きビルボ・バギンズ(マーティン・フリーマン)の家に、王トーリンが率いる13人のドワーフがやってきた。彼らの目的は邪悪な竜スマウグに奪われたドワーフ王国とその宝の奪還だった。魔法使いガンダルフ(イアン・マッケラン)がなぜかビルボを旅の仲間として推薦していたのだ。監督は『ロード・オブ・ザ・リング』に引き続きピーター・ジャクソン。
 2Dで鑑賞。色彩が鮮やかで映像は非常にクリア。クリアすぎて目が疲れるくらい・・・。キラキラすぎて自分の好みとはちょっと合わないのだが、きれいだと思う。風景や建造物の奥行きの構成にかなり神経使っている風だったので、3Dで見てもきれいだったのではないか。映像の飛び出し感を意識しすぎたような(いわゆる3Dアトラクション的な)ショットはなく、自然な立体感に留まっていそうだ。ただ、こういった作品世界の作りこみ方は、LOTRでおなかいっぱいに堪能したので、正直なところあまり新鮮味はない。LOTRの頃から、技術的にどのくらい進歩したのかと確認できる程度。
 あまり新鮮味はないというのは、お話が非常に古典的、オーソドックスだからでもある。ただ、オーソドックスだから悪いということはない。何かの為にどこかへ向かい冒険し帰ってくる、というファンタジーの王道だが、ファンタジーに限らずお話の一つの基本みたいな構造なので、これをちゃんとやればそれなりに面白いはず、という安心感はある。ただ王道、というか古典ファンタジーにありがちなのだが種族によって善悪がはっきり分かれているのは、やっぱり馴染めない。悪=醜いのも。もっと混沌としている世界の方がいいな・・・(これは映画というよりも原作に対する違和感ですが)。
 ピーター・ジャクソン監督の最近の作品は本人の欲望が溢れすぎであまり感心しなかったのだが、本作は原作の強さもあってか、下品になっていない。上映時間3時間近いと聞いていたので戦々恐々としていたが、これは確かに長さに意味がある作品かも、とは思った。でも流石に長い!エピソードかいつまみたい!でもかいつまむところがない!といういかんともしがたい状態。うーん、面白いけどこれをあと2本と思うと・・・まあ見ますけどね。
 ビルボ役のマーティン・フリーマンは日本では『SHERLOCK』のワトソン役でブレイクしたが、ワトソン役やってるときもなんとなくホビットぽかった・・・こう、ちんまりした感じが・・・。というわけで本作のビルボは適役だと思う。あくまで「普通」というビルボの特徴(そこが美点となる)を体現している。




『マルタ』

 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の没後30年を記念した特集上映「ファスビンダーと美しきヒロインたち」にて鑑賞。本作は1975年の作品。30代の女性マルタ(マルギット・カルテンセン)は父親とイタリア旅行をしていたが、父親は旅先で急死。悲しみに暮れるマルタは、大使館で偶然会ったヘルムートと帰国後に再会、結婚する。しかしヘルムートは彼女を束縛し、精神的にも痛めつけていく。
 これは怖かった~。今回のファスビンダー特集で見たほかの2本『マリア・ブラウンの結婚』『ローラ』は強くしたたかな女性が主人公だったが、本作の主人公であるマルタは、あまり強くない。冒頭の様子では結構気が強そうなのだが、夫に対しては反抗ができないのだ。
 夫となるヘルムートは、一見きちんとした、誠実そうな男性。しかし、肉体的にも精神的にもマルタを苛む。セックスが手荒なだけでなく、何かと彼女を貶め、自信を無くさせていくのだ。更にマルタの職場に勝手に退職届を出したり、家から出るなと言ったり、彼女と社会との接点を奪っていく。じわじわ首を絞められるようでとても怖かった。何より怖いのは、マルタ自身が理不尽を理不尽と思わなくなる、反抗心をなくしていくところだ。夫を愛してるからこそかと思うと、そこまで愛しているという感じでもない。この男を逃したらもう結婚できないぞ、という彼女に対する圧力みたいなものが感じられて、ちょっと辛かった。「男性に求められている自分」を維持する必要があるというか。
 その状況は絶対におかしい!と傍から見てれば思うのだが、彼女はその変さを感じてはいても言語化できない、他人に説明して助けを求めることができない。このへんがとてももどかしかったが、こういうことって往々にしてありそうだなと思った。
 マルタの痩せすぎの体は拒食症を思わせるし、父親に対する愛着と父親からの拒否、また母親との関係の険悪さや夫との関係など、ユングやフロイト(主にフロイトですかね)が食いつきそうな話だと思う。




『ローラ』

 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の没後30年を記念し特集上映「ファスビンダーと美しきヒロインたち」にて鑑賞。ジョゼフ・フォンア・スタインバーグ監督の『嘆きの天使』(1930年)を1950年のドイツに置き換えた作品だそうだ。田舎のクラブの歌姫ローラ(バルバラ・スコヴァ)と、町に赴任してきた建設局長とのメロドラマ。
 メロドラマらしい設定だなーと思っていたら、ローラと彼女を愛人にしている不動産屋のしたたかさが、他全部を圧倒している。ローラに惚れた建設局長は、不動産屋への嫉妬に燃え、市長や町のセレブ層との癒着、不正をあばきにかかる。しかりその顛末は・・・。かなり実も蓋もない、ある意味合理的だがえっそれでいいの?!という展開でびっくりした。女性と男2人の関係は、『マリア・ブラウンの結婚』と重なる部分もある。ただ、マリアは夫を愛し、愛人にもそれなりに愛着があったが、ローラにはそういうものがあまりなく、自分の地位を固める為に判断してこの結末なんだろうなと。あっけらかんとしているが、建設局長はいつのまにそんなに割り切った、というか献身的な考え方になったんだ(笑)
 舞台は1950年代のドイツの地方都市。いわゆるニュータウン造成など、大規模な土地開発が進んでいて、土地の登記を細工して地主たちが一儲け企んでいるなど、当時の世相を反映しているのだろうか。ナチスとドイツ軍は明らかに「違うもの」とされていたり、TV放送が始まったり、デモが日常的に行われていたり(デモの為のデモみたいになっていておかしいのだが)と、時代が垣間見られる。この頃はまだアメリカ兵がドイツ国内に駐屯していたらしく、ドイツでTV放送が始まると聞いて、アメリカならチャンネル数多いし24時間放送してるよ!というあたりに国力差が見える。




『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋』

 1998年のアメリカ。精神分析医の夫と暮らしているウォーリー(アビー・コーニッシュ)は裕福ながらも満たされない生活をしていた。ある日、エドワード8世(ジェームズ・ダルシー)とその妻ウォリス(アンドレア・ライズブロー)の遺品がオークションにかけられると知り興味を持つ。1930年代、アメリカ人の人妻だったウォリスはイギリス皇太子エドワードと恋仲になり、英国王室の一大スキャンダルとして騒がれたのだ。監督はマドンナ。
 前作『ワンダーラスト』が乙女心と少女漫画テイスト溢れる好作だったのだが、本作はより「映画!」な腰の据わった立ち居振舞。マドンナさん、映画監督としてもきっちり仕事できるんだなー、ビギナーズラックじゃなかったんだなーと感心した。撮りたい映画のビジョンがしっかりある人なんだろうなと。舞台背景の関係で、衣装やインテリアなども当然ゴージャス。非常に洗練されたコスチュームプレイとしても楽しめる。ウォリスが自分のことを、肉体的な魅力はないが着こなしが上手くて人目をひく、と評価しているのだが、その通りのルックだった。
 ウォーリーは周囲から「ラッキー」だと言われるし、私もそう思った。彼女には社会的な地位もお金も時間もある。が、ウォーリー自身はそう思えないでいる。幸せ・ラッキーの尺度は人それぞれで、比較はできない。不幸や悲しみも同様だ。ただ、世間はその比較の出来なさをあまり理解してはくれない。理解されないという部分で、ウォーリーはウォリスに共感し、彼女と自分を重ね合わせたのではないかと思った。
 ただ、全くの他人である実在の人物に、自分の人生を託す、投影するというのはどうなんだろうなーという疑問もついて回った。小説の登場人物とかなら行間を想像するのは自由だが、実在の人物には当然、その人の人生とその人にしかわからない諸々の事情があるわけで、そこを勝手に想像するのはおこがましいんじゃないかという気がする。ウォリスの幻影に「もう十分でしょ」と言わせたり、大ロマンスが大きな苦しみもはらんでることに言及するあたり、マドンナにもその自覚はあるのかもしれないが。
 出産に対する感情や書簡の保管者とウォーリーとの会話など、大分月並みだなと思った部分もあったし、あまり共感するところはないのだが、ビジュアルにふくよかさのある映画らしい映画だったと思う。




『道化師の蝶』

円城塔著
飛行機の中に漂う着想を捕まえる銀色の網、正体不明の作家を捜索する機関、そのエージェントと「蝶」が交錯する表題作、不思議な翻訳合戦を描く『松ノ枝の記』の2編を収録。表題作は第146回芥川賞受賞作。どちらも「小説を書く」ことのメタファーになっている・・・というのはあまりに陳腐な感想か。表題作は蝶と網が大きなモチーフになっているが、作品自体がこっち側、あっち側、といったりきたりする、編み物とか刺繍とかの動作に似ている構造だと思った。そういえば『松ノ枝の記』もこっち側、あっち側をいったりきたりという感じの作りだ。行ったり来たりするのだ。メタファーなどなんだの考えなくても、実にクールで読んでいて心地いい。このわからなくても精緻で心地いい文体は、著者の強みだと思う。




『マリア・ブラウンの結婚』

 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の没後30年を記念した特集上映「ファスビンダーと美しきヒロインたち」にて鑑賞。敗戦前夜のドイツで結婚式をあげたマリア・ブラウン(ハンナ・シグラ)、一晩で夫ヘルマン(クラウス・レーヴィッチュ)を戦地に送り出したが戦争が終わっても彼は帰ってこない。マリアは夫の無事を信じ待ち続けていたが、親友ベティ(エリザベト・トリッセナー)の夫ウィリー(ゴットフリート・ヨーン)から夫の死を知らされる。マリアは黒人アメリカ兵ビル(ジョージ・バード)と親密になるが。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督、1979年の作品。
 冒頭、爆撃の中、役所で結婚式を挙げるシーンがやたらと面白い。逃げろよ!と突っ込みたくなるおかしさなのだが、マリアの結婚に対する執念みたいなものが垣間見えて、このシーンがあるからこそ、終盤に至るまでのマリアの行動に説得力が増すのだ。
ファスビンダー監督の作品を見るのは初めてだったのだが、スパスパ話が進んでとても面白い。省略を思い切ってやっているのでダレないのだ。本作の場合脚本がいいというのもあるのだろうが、ファスビンダーがとにかく早撮りの人だったというのも一因かもしれない。シーンの切り方、繋ぎ方に躊躇がない感じだ。いい意味で乱暴というか。
 ヒロインのマリアが才覚を発揮しどんどんのし上がっていく過程は小気味良い。マリア役のハンナ・シグラの、美しくどんどん洗練されていくけど上品になりきらない雰囲気が正に適役だった。マリアは強くかしこく、1人で生きていける自立した女性に見える。しかし、彼女は一番最初の段階で夫への愛、結婚に身を捧げており、夫と結婚あってこそののし上がり様なのだ。その姿が、ロマンチックというよりも、自由な様でいて不自由なので痛ましく見えてしまった。ベティと一緒に廃墟となったマンションの2階で歌う場面が、彼女の地を感じさせて印象に残る。
 第二次大戦直後から、ドイツ国内が徐々に豊かになっていく過程も興味深い。人々の衣服がどんどん華やかになっていく。経済復興をなぞった歴史ドラマとしても面白い。




『妻の超然』

絲山秋子著
夫の浮気に気付いている妻が主人公の「妻の超然」、酒の飲めないサラリーマンが恋人との関係で岐路を迎える「下戸の超然」、癌の手術をすることになった作家が主人公の「作家の超然」の3編を収録。主人公達は皆、超然としているように見える、または超然としているつもりでいる。しかしその超然は、無関心だったり臆病さだったり、優柔不断さだったりが、単にそう見える、というだけだったりもする。超然にたどり着ける人なんてそうそういないのだ。特に「下戸の超然」の主人公の、慎重さ、相手との関係に踏み込むことへの躊躇が「超然」と見られてしまうところは身に覚えがあってイタい。




『人生の特等席』

 ベテランスカウトマンのガス・ロベル(クリント・イーストウッド)は年齢のせいで目が弱っていた。球団フロントはガスはもう年ではと考え始め、来期の契約を見合わせようと検討し始める。一方、ガスの娘で弁護士のミッキー(エイミー・アダムス)は事務所の経営パートナーへの昇進がかかった正念場を迎えていた。しかしガスの健康に問題があると危機、彼の元に駆けつける。監督はロバート・ロレンツ。主演のイーストウッドはプロデュースにも参加している。
 心温まる映画として実に王道、ごくごく普通にいいハリウッド映画だった。ごくごく普通、ではあるのだが、こういうタイプの「普通」の映画を最近はあまり見ていなかった気がする(本作の前に見た『砂漠でサーモンフィッシング』も普通にいい映画だったけど、あれはハリウッド映画って感じじゃない(実際ハリウッド映画ではない)し・・)。反目しあう父と娘が、人生の曲がり角で少し歩み寄る。あくまで歩み寄るのであって、理解しあったとまではいえないところが慎ましくていい。
 ガスとミッキーのやりとりは大概かみあわない。親子間ではよくあるかみあわなさなのだが、特に父娘だと、ちぐはぐさが際立つ。この2人の場合、仲介者になったであろう母親(ガスの妻)が早い段階で死んでしまっただけに、かなりこじれている。ガスはミッキーの真剣な話をはぐらかすが、どういう対応をすればいいのか本気でわからないと同時に、娘とがっぷり向き合うのが怖くもあるのだろう。ガスはミッキーに対する負い目があるし、彼女と自分の世界は違うと思っている(違う世界で生きる方が娘にとって幸せだと思っている)節がある。ミッキーはミッキーで、ガスが自分と向き合わないことに傷つき、子供の頃にガスに捨てられたという思いが払拭できない。言葉にしなくても重いが伝わることもあるけど、大概の場合はちゃんと言葉にしないと伝わらない。家族だとよけいに油断する、あるいは却って遠慮して言えなかったりするなと思った。
 イーストウッド主演作とは『グラン・トリノ』とちょっと被る、世代交代を示唆するところがあるが、『グラン・トリノ』よりもおだやかで、一緒に歩んでいこう、というような雰囲気。それにしても、イーストウッド、年取ったな・・・。冒頭、おしっこの切れの悪さを毒づくところなど、あまりにハマっている(笑)
 気持ちのいい映画だが、いわゆる憎まれ役、ライバル役が一貫して、最初から嫌な奴として描かれている点は気になった。彼らは彼らで、主義主張があるはずで、それが間違っているというわけではないと思うのだが。
 ガスのスカウトの方針は、同じ野球映画でも『マネーボール』とは真逆。徹底してアナログだ。ただ、対称的な方法ではあるのに突き詰めると同じ地点に着地していると思う。これは、アメリカ人にとって野球が特別なもの、ある種の神聖なものだからではないかと思う。




『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』

キルメン・ウリベ著、金子奈美訳
バスクの中心地都市ビルバオから、飛行機でニューヨークへ向かう作家の「僕」ことキルメン・ウリベ。彼は漁船の船長だった祖父、バスク地方の画家アウレリオ・アルテタ、漁師としてスコットランドやアフリカ、カリブへと渡り歩いた父や叔父、そして移民や亡命者たちのことを思い起こす。個人的な家族の思い出が、やがて一族のものとなり、その周辺の人々を巻き込み、やがてバスク地方全体、ある時代全体の思い出となっていく。スケールが広がっても、自分の家族の記憶が語りの根っこにあるからか、地に足のついた印象に。全て、家族の知り合いの誰か、というような身近さを感じさせるのだ。なおバスク地方が主な舞台ということで、スペイン内戦の記憶がまだ生々しい。あの内戦の傷は本当に深いのだなと実感。




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