3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2012年11月

『ウラジオストクから来た女 函館水上警察』

高城高著
明治20年代の函館を舞台とした、『函館水上警察』の2作目。函館生まれながらロシア人商人の養女となった女性。函館にやってきた彼女は、自分の両親を探していると言う。表題作をはじめ、フェンシングの名手である五条警部をはじめとする、函館警察や税関の人々が活躍する中編集。当時の函館の市井の人々の生活や、欧米の文化技術の浸透度合い、海外との交渉など、舞台背景の書き込みが丹念で生き生きとしている。特に、服装に関する記述が目についた。五条はフロックコートの似合う二枚目らしいのだが(笑)、彼の制服やコートをはじめ、男性にしろ女性にしろ、和装にしろ洋装にしろ、ディティールが細かくて楽しい。高城先生は案外ファッション好きでいらっしゃるのかしら・・・。また、『聖アンドレイ十字招かれざる旗』では、当時のロシアとイギリスの一触即発加減と、板ばさみになった日本の苦慮が垣間見えて面白い。時代小説としてはもちろん、ミステリとしてもきっちりネタが仕込まれていて満足感ある。なお最後まで読んでえっと思ったんだが、あれはそういうことなのかな・・・このシリーズもう終了ってことなんですか・・・?




『チキンとプラム~あるバイオリン弾き、最後の夢~』

 バイオリンの名演奏家ナセル・アリ(マチュー・アマルリック)は妻にバイオリンを壊され、人生に絶望し死のうと思う。8日後、アリの葬儀が執り行われたが、死ぬ前の数日間、彼は自分の人生を回想していた。彼は愛した女性・イラーヌ(ゴルシフテ・ファラアハニ)がいたが、彼女の父親が結婚を許さず、世界を放浪した後に教師のファランギース(マリア・デ・メディロス)と結婚をした。ファランギースはナセル・アリを愛していたが、彼はファランギースを愛せなかった。監督はマルジャン・サトラアピ&ヴァンサン・パロノー。原作はサトラピの漫画。
 ナセル・アリは、バイオリンの才能は飛びぬけているものの、それ以外はまるで駄目な男だ。生活能力も経済力もないし、、妻子に対する責任感も愛情も薄い。ずっと思い続けている女性はいるものの、思い続けているだけだ。普段の私ならこういう人には腹が立ってしょうがないはずなのだが、本作には全然腹が立たなかった。むしろ、もう画面に目が釘付けで頭からお尻まで全部おいしくいただきました状態。
 ナセル・アリに腹が立たないというよりも、腹を立てることを忘れていたといった方がいいのかもしれない。そのくらい絵の力がある映画だと思う。オープニングクレジットのアニメーションの可愛らしさにまず心を捕まれ、語り口の自由さ、流暢さが最後まで心地よかった。アニメーション(コマ撮りや特撮っぽいものも)の実写への落とし込みがとても上手くかみ合っていて、デフォルメが的確だと思う。ちょっと人形劇のような味わいもある、少し懐かしくてファンタジックな映像だ。ファンタジーってこういうことなんだよ!これが映画の魔法ってやつだよ!と一人で大興奮。また、映画の語り口の軽妙さ、時間を自在に行き来する縦横無尽さもよかった。何しろ語り手が語り手なので(誰が語っているのか途中で判明するが、お前か!と突っ込みたくなる)、時間も空間も対して意味がない。映画としての映像の魅力、語り口の魅力が一定量を越えると、登場人物に対する共感の出来なさや話の筋云々はどうでもよくなる瞬間がやってくるのだと思う。それが映画の魅力だと思うのだが、映画の危険さでもある。
 また、自分がどちらかというと(ファランギースらではなく)ナセル・アリ側の人間だからあまり悪く思えないという面もあるかもしれない。私は特別な才能もないからナセル・アリ以下な感じになるが・・・。ナセル・アリの妻や娘・息子に対する態度はあんまりだ、そもそも失礼だとは思うが、彼にとって大切なものはヴァイオリンとイラーヌであって、その部分については筋が通っている(じゃあ結婚するなよという話なのだが、そこは文化圏の問題とかいろいろあるし・・・)。人間、好きなものは好きだし不向きなものには不向きなんだよ!という点は一貫していていっそ清清しい。
 ナセル・アリの人生は(才能があったにもかかわらず!)ショボショボだ。彼の妻子も、また愛したイラーヌも、たいした人生は送らなかったのだろう。それでも見方によっては、人間はこんなに美しく愉快に見えることもある、それでいいじゃないかと言っているようにも見える作品だった。




『フリント船長がまだいい人だったころ』

ニック・ダイベック著、田中文訳
アメリカ北西部の漁港町ロイヤルティ・アイランドに住む男たちは、毎年秋から半年間、アラスカの海で漁業をしている。14歳の少年カルの父親も猟師だ。カルは父親について漁に出ることを夢見ていたが、漁船団のオーナーが急死し、オーナーの息子リチャードは海外野業者に事業を売り払うと宣言した。町が騒然とする中、カルは父親たちがある犯罪に関わったのではと疑いを持つ。著者は本作がデビュー作だそうだが、若々しいながらも読む側を深くえぐってくる。ストーリーはごくごくシンプルなのだが、ディティールが丹念。何組かの父親と息子が登場するが、どの親子もしごく円満というわけではなく、どこかにしこりがある。しかしそれでも、息子は父親に愛されたい、認められたいと願わずにいられないのか。そんなにか!と愕然としてしまう。この物語自体が、息子が父親の承認を受けたいあまりに・・・、という話といってもいいくらいだ。題名の「まだいい人だった」という言葉がきつい。出てくる人たちは皆、「いい人」だ。しかし何かの拍子で、あるいは自分にとって大切(と思われた)もののために、そうではない行為をしてしまう。その「止むを得ない」感じがずしりとくる。更にずしりとくるのは、大切なものの為に「いい人」じゃなくなっても、自分はその大切なものの側にいられるとは限らないということだ。カルの父親と母親は、この2人は何で結婚しちゃったんだろうというカップルなのだが、自分にふさわしくない場所にいるという、その影が全編を覆っているように思った。




『カミハテ商店』

 山陰地方の港町、上終(カミハテ)で、死んだ母親の代から小さな雑貨店を営んでいる千代(高橋恵子)。店の近くの断崖は自殺の名所で、自殺しに来た人は千代の店でコッペパンと牛乳を買うのが慣わしだと、ネットでも噂になった。千代は毎朝コッペパンを焼き、店に来る客を待つ。監督は本作が長編デビュー作となる山本起也。
 のったりのったりとしたテンポだが、妙に惹き付けられる絵のある作品だった。舞台となった土地の風景の力(実際に自殺の多い土地だそうだ)が大きい。単に風景がきれい、迫力があるというだけではなく、この風景だからこういう話になったという、ストーリーとがっしり組み合った風景だ。山陰地方の秋冬って、こういうふうにどんよりしているんだろうなぁ・・・。千代が暮らす家の室内が、映画に出てくる室内としてはかなり暗く、彼女の輪郭が薄暗がりに馴染んでいく感じがするのが印象に残った。
 予告編だと、千代は「死にたい人は死ねばいい」と達観しているように見える。ただ、千代はそれでいいと思っているわけではないということが、徐々に見えてくる。彼女は死に行く人を見送ってきているが葛藤がないわけではないのだ。やっぱりあの時止めておけば、という気持ちと、止めても無駄という気持ちがせめぎあっているのだ(実際、本編でも、死にたがっている人は一旦止められても死んでしまう)。彼女が思いを口にすることは殆どなく、情緒的な部分は控えめに描かれているのでその葛藤が前面に出てくることはないのだが、ちょっとした表情に見え隠れする。
 演じる高橋恵子は久しぶりの映画出演だそうだそうだが、常に少し怒っているような風情が風景と合っていたと思う(流石に、あの商店の女将さんとしてはきれいすぎるが)。また、寺島進が千代の弟(だと見ているうちにわかる)役なのだが、会社の金策に困っている感じが生々しくて参った。ある人の通帳を持ったままの後姿をロングで長めに撮っているシーン、彼の躊躇が伝わってきてぴりぴりした。



『ねらわれた学園』

 中学2年になる関ケンジ(本城雄太郎)は始業式の朝、不思議な少年を見かける。その少年は転校生の京極リュウイチ(小野大輔)だった。学校では生徒会の発案の下、携帯電話の持ち込みが禁止され、書記でケンジの同級生・春河カホリ(花澤香菜)は不信感を抱く。学校内では生徒達に変化が現れていた。ケンジは生徒達の変化にはリュウイチが関わっているのではと疑うが。原作は眉村卓の小説、監督は中村亮介。
 原作は70年代(出版は1973年)が舞台だが、現代に置き換えている。原作は未読なのだが、携帯電話が普及していると多分成立しない展開があったのだろう、脚本の段階で携帯電話を学校内から排除するのに一番苦労したんじゃないかという気がする(笑)
 学校で生徒達に奇妙な変化が起きるというSF的ストーリーと、ケンジと幼馴染のナツキ(渡辺麻友)、リュウイチとカホリの初々しい恋愛模様ストーリーとが平行して進む。どちらかというと、後者の恋愛模様に方に比重が寄っているようにも思った。それはそれでキュンキュンして悪くはないのだが、SFとしての本作を楽しみにしていた人には、少々拍子抜けだろうか。リュウイチがもたらすある現象と、その輪に入れないという疎外感は、集団内の空気読み合戦が激化している今の10代にとってはより身近に感じられるのかもしれない。ただ、この現象に対するカウンターはケンジがかなり鈍い=空気読まないキャラクターであることくらいで、ドラマはケンジ、ナツキ、リュウイチ、カホルの4人の間に集約されていく。集団生活の場としての学校の存在は、段々色が薄くなっていくのだ。SFとしてはルール設定が曖昧なことに加え(そもそもリュウイチによる改変が人間にとって将来的にメリットあると思われるのか微妙)、色々盛り込みすぎなように思った。原作を処理しようとして容量ぱんぱんになってしまったのだろうか。
 本作の焦点は、10代のキラキラ感を見せることに当てられていると思う。絵の作り方自体が、光の表現をふんだんに取り入れたもので、逆光、ハレーション使いまくり(実写だったらまずない絵だと思う)。ここまでやるか!というくらいのキラキラ感。キャラクターのデザインや芝居も、躍動感あって初々しいもの。キャラクターを魅力的に、愛されキャラに見せよう!という意欲はすごく感じる。ただ、芝居に関してはちょっとオーバーアクトだし、怒り方や照れ方等、アニメの「記号」として若干古臭い芝居が多い。見ていてむずがゆくなってくるのだが、これはあえてなのだろうか。(キャラじゃないけど)飛び跳ねる目覚まし時計なんて見たの何年ぶりだろう・・・。
 またキャラクターに関しては、アニメーターの愛着が出すぎで見ていて落ち着かないところもあった。そんな執拗に脚とか肩とか描かれると・・・。色気があるのはいいのだが、それがあざとすぎると見ていてイタいことも。




『風の中の瞳』

 ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映「教室群像 映画の中の「学び」の風景」にて鑑賞。1959年、川頭義郎監督作品。原作は新田次郎の小説。飛塚中学校に赴任してきた教師の寺島(田村高廣)は、3年生のある学級の担任となる。秀才でクラブ委員の日野や、日野と並ぶ成績優秀な女子生徒・荒木、頭はいいが家庭が貧しく卒業後は就職する予定の川村ら、様々な生徒たちを描く学校群像劇。
 秀才、お調子者、おちこぼれ、マドンナとその取り巻き、ヒール的女子等、学園ドラマの定番のキャラクターが登場し、ドラマとしては手堅いが、今見ると大分お行儀がいいなという印象。教師である寺島のさわやかだが舞台は都内の公立中学校なのだが、3年生の8割近くが高校進学予定だったり、修学旅行が京都・奈良・大阪だったりと、結構豊かなお家の子が多い学校だという印象。それとも当時の都内の公立中は本当にこんな感じだったのかな?男子と女子が自転車の二人乗りをすると風紀が乱れると注意される、というあたりにはかなり時代を感じたが。この男女自転車2人乗り、担任の寺島はそんなに目くじら立てていないのだが(2人乗りした生徒への注意の仕方がなかなかよかった)、生徒は校長室に呼び出される。10代の恋愛は不良がするものだったのか(笑)。日野に思いを寄せる荒木が、自分は不良だろうかと悩んだりするのだ。こんな時代もあったのね・・・。
 作品に陰影を与えているのが、貧しい家庭の子である川村。なまじ勉強が出来るだけに、進学できない彼の悔しさ、鬱屈が深い。で、お約束のように余計なことを言って神経逆なでする子がいるんですよね~。この頃の公立学校は学校内経済格差が結構大きかった(現代は社会全体ではまた格差が開きつつあるけど、同じ層が同じ学校に固まる傾向が強いのかなと)、だがそういうものとして裕福な家の子も貧しい家の子も共存していたような雰囲気がある。




『喜劇 駅前温泉』

 ラピュタ阿佐ヶ谷の「昭和の銀幕に輝くヒロイン第67弾」淡路恵子特集で鑑賞。久松静児監督、1962年の作品。喜劇駅前シリーズの第4弾。奥の温泉場に豪華な観光ホテルが建って以来、駅前の温泉街は客を取られてしまっていた。観光協会は対策理事会を開くが、極楽荘の主人・孫作(伴淳三郎)が時代に即した色っぽいサービスを主張する一方、福屋の主人・徳之助(森繁久彌)は実直なサービスが肝心と意見がぶつかりあう。そんな中、美容師の景子(淡島千景)を級友の恵美子(淡路恵子)が東京から訪ねて来る。夫と不仲だと言うのだ。恵美子は福屋に泊まることになるが。
 淡路恵子特集だったが、淡路の作品というよりも森繁久彌と伴淳三郎、そして観光協会事務局長・坂井次郎(フランキー堺)の作品という雰囲気。この当時のコメディっていろいろな意味でおおらかだったんだな~と実感する。さすがに今となっては笑いのテンポもギャグも様相が変わってしまってあまり笑えないのだが、来場していた年配のお客様たちはケラケラ笑っていた。あの当時を知っているから笑える、という時代性の強い作品のように思った。
 時代性という面では、当時の観光地(温泉街)の様子が垣間見えるのは楽しかった。駅前通りが土の道なのは特に違和感ないのだが、山に登るハイウェイが砂利道なのはカルチャーショックを受けた。あんなだったのかー!でも山頂のレストハウスはそこそこ立派で近代的なので、ちぐはぐ感があった。福屋も極楽荘も、現代の目線で見ると味がある趣の旅館(レトロ趣味の女子なんかはむしろ喜びそう)なのだが、当時は却って古臭く見えたんだろうか。また、当時、観光サービスというと男性を対象にするものだったのかなという部分が多々ある。コメディ映画を見に来る層が男性主体だったということかもしれないが。
 笑いあり、ロミオとジュリエット的ロマンスあり、親子の情愛ありと盛りだくさんでにぎやか。森繁っていい喜劇役者だったんだな~。私はシリアスな芝居をするようになってからの森繁しか知らなかったので新鮮だった。




『声をかくす人』

 南北戦争終結直後のワシントン。観劇中だったリンカーン大統領が暗殺された。犯行グループはすぐ逮捕されたが、グループへのアジト提供容疑で、下宿屋の女将である南部出身のメアリー・サラット(ロビン・ライト)も拘束される。しかし彼女は一貫して無実を主張する。弁護を担当することになったフレデリック(ジェームズ・マカヴォイ)は北軍兵士だったこともあり乗り気ではなかったが、徐々に彼女が何かを隠していると考えるように。ロバート・レッドフォード監督による歴史劇。
 メアリー・サラットは、アメリカ合衆国最初の死刑となった女性だそうだ。今まで歴史の表舞台からは忘れられていた人物にスポットを当てた作品で、時代考証はかなり念密にされているようだ。衣装や室内の内装等の細かいところも手が込んでいる。アメリカ史を知らないと若干ぴんときにくいところもあるが(自分の勉強不足を痛感・・・)、南北戦争のあたりをなんとなく知っている程度なら、十分面白く見られると思う。特に、メアリーに向けられる世間の感情や検事の思惑は、時代に関係なくこういうことってありがちなんじゃないだろうかという怖さがあった。
 南北戦争が終わったとはいえ、多数の犠牲が双方に出ており南北でのいがみあいは更につのっている。そんな中で北部のリーダーであるリンカーンが暗殺されたので、北部では南部憎し!の声が強まり、検事も裁判官も最初からメアリーを有罪にする気満々。その為に証人への根回しもしている。何より、世間の声が南部に対する報復を求めており、その矢面に立ったのが暗殺犯たちだった。暗殺犯たちはともかく、メアリーに関しては客観的には証拠不十分でグレーな状態だったのだろう。しかし、彼女が死刑になった方がことが丸く収まり国民の団結を促せると政府は判断する。
 フレデリックは元々、南部の奴を弁護するなんてとんでもない!勝てるわけもない!と消極的だったが、徐々に弁護士としての責任に目覚めていく。有罪であることと疑わしいこととは違うのだ。非常に疑わしくても公正な裁判を受ける権利がある、というのがそもそもリンカーンが目指した民主主義ではなかったかと。しかし、国の安定という大きな目的の為には、公正さは必ずしも省みられない。
 過剰に感情的・感動的ではなく抑制がきいているが、結末がわかっているだけに気分は重くなる。ただ、フレデリックが後に歩んだ道が予想外、しかし納得だった。アメリカのもうひとつの側面が見られる。




『極北』

マーセル・セロー著、村上春樹訳
文明が衰退し、人口が極端に減った世界。「私」は極北近くの廃墟と化した町に一人で暮らしている。町ではめったに人は見かけられず、人々は僅かな物資を奪い合うように生きていた。「私」はかつての仕事にならい毎日町を巡廻していたが。コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』を思わせるような、終末感に満ちた世界が舞台。他の土地との通信手段も失われているので、町の外の世界のことはわからず、具体的に何が起きてこうなっているのかも当然わからない。「私」が子供の頃は世界はまだ豊かで穏やかだったのだが、それが失われていく過程の、なす術もない感じがとても怖かった。そして本作の世界は(特に後半、世界の汚染が明らかになっていくと)他所の世界の話とは思えないのだ。強いリアリティを持って迫ってくる。「私」の生活により作品世界のリアリティを積み上げていく著者の筆力はもちろんだが、本作が日本で出版されたタイミングが、よりアクチュアルさを強めているように思った。今、世界的に「終わる」感覚が(少なくともいわゆる先進諸国では)強まっているのだろうか。




『ユニバーサル・ソルジャー 殺戮の黙示録』

 妻と幼い娘と暮らしているジョン(スコッド・アドキンス)はある晩、武装集団に襲われ妻子を惨殺される。自身は命を取り留めたもののこん睡状態となり、目覚めたのは事件の9ヵ月後だった。犯人グループのリーダーの顔だけは覚えていたジョンは、FBI捜査官にその男は元兵士のリュック・デュブロー(ジャン=クロード・ヴァンダム)だと教えられる。監督はジョン・ハイアムズ。
 シリーズ初期の2作とも、3作目のリジェネレーションともまた違った、直接的なストーリーの繋がりは感じられないシリーズ4作目。ユニバーサルソルジャーという設定を使ったスピンアウト、むしろ二次創作みたいな作りだと思った。監督のユニソル愛だけは何となくわかる。何より、リジェネにも感じられたユニソルという存在の悲哀が色濃く出ていて、好きな人はすごく好きになる作品だと思う。
 明らかに低予算なのだが、映画として意外とこなれている印象。色合いや光の使い方など、なかなか美しい。クライマックスのアクション連発ではそこでやるか?!という長回しまで披露している(1ショットに見えるように工夫してあって実際はカット入っているかもしれないが)。この演出に耐えられるアドキンスはかなりアクションの出来る俳優なのではないだろうか。
 血みどろアクション(殺戮という日本語サブタイトルはあながちフカシではない)であると同時に、ジョンの記憶の扱い方がもう1本の軸になっている。だんだん記憶障害者の地獄巡りのような様相となってくる。自分の存在の確かさ、自己の一貫性が揺らぎ続ける、ちょっとデヴィッド・リンチを思わせるような・・・というと言い過ぎかもしれないが、危うさを感じさせるいい雰囲気。
 ヴァン・ダムとラングレンは一応出演しているのだが、特別ゲスト的でストーリー本筋上は、実はあまり重要ではない。ヴァン・ダムはともかく、ラングレンの体のキレが明らかに衰えているのがちょっと辛かった。




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