3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2012年08月

『気狂いピエロの決闘』

 スペイン内戦下、少年ハビエルの父親はサーカスのピエロだったが、強制的に共和国軍に参加させられ国民軍兵を惨殺した後、捉まり処刑された。時は流れフランコ政権下のスペイン。成長したハビエル(カルロス・アレセス)は父にならいピエロとしてサーカスに入る。そこで美しい曲芸氏ナタリア(カロリーナ・バング)に一目ぼれするが、彼女の恋人はピエロのセルジオ(アントニオ・デ・ラ・トレ)だった。セルジオは一座のスターだったが、乱暴で酔うとナタリアに暴力を奮っていた。ハビエルはナタリアを救いたいと願うが。監督はアレックス・デ・ラ・イグレシア。
 な、何なんだこの映画は・・・とちょっとたじろいでしまう異様なテンションの高さ(オープニングクレジットの無駄なかっこよさ!)と、見ているうちに胃がもたれてくるような内容の詰め込み度に圧倒された。ものすごくバランスが悪いような気もするのに勢いで見せられてしまうというか・・・。そもそも、スペイン内戦時下のハビエルの父親のエピソードが結構長く、また大人となったハビエルの時代はフランコ政権下なので、そこにもっと話が絡んでくるのかと思っていたらそうでもない、というか予想と違う方向で絡んでくるというか・・・。過去からの伏線の引っ張り出し方が結構強引だ。
 ハビエルの父親は、息子に「復讐しろ」と言い残す。国による理不尽な暴力に対するリベンジと、「いじめっこ」的なセルジオに対するリベンジが重なってくるのだろうかと思っていたら、後半は普通(でもないか)に三角関係のもつれで拍子抜けといえば拍子抜けだった。ハビエルの父親は世界の理不尽さを呪うのだが、ハビエルは自分自身が理不尽な存在になっちゃうんだもんなぁ・・・。ただ、意図せず自身も理不尽な存在になってしまう、という意味では、フランコ政権にしろ国民党にしろ突き詰めると暴力的な存在になってしまったので同じようなものかもしれないが。
 ハビエルはナタリアに対して自分が彼女を救いたい!何でセルジオと別れないんだ!と責めるが、セルジオとナタリアは共依存的なDV関係なので、彼女ないしは彼の一方だけ責めても意味ないんだよね・・・。ナタリアは暴力をふるわれるのは嫌だといいつつ、半ばそれに魅せられセルジオから離れられない。この関係の断ち切れなさがものすごく嫌だった。あー私はこういう女性が嫌いなんだなと久々に実感した。




『セブン・デイズ・イン・ハバナ』

 キューバの首都、ハバナを舞台に、7人の監督が月曜から日曜まで、1日ずつ物語を綴るオムニバス映画。
オムニバス映画は当たり外れが激しい、というか当たりが少ないというイメージがある。本作も、全部粒ぞろいで傑作!というわけではない。しかし、舞台となるハバナの風景、キューバ音楽の魅力で全体のトーンが統一されており、眺めているだけで何となく楽しい。キューバ人監督は1人だけだそうで、外国人がイメージするハバナ、という面も強いだろうから、観光映画っぽいのかなとも思うが。
 各エピソード同士に直接的なつながりはないが、「水曜日」で登場する女性歌手が、土曜日でも再登場する。また、「土曜日」で作られていたお菓子の行き先が「日曜日」で明らかになるという流れも。ここでちょっとした繋がりができることで、全体のまとまりが感じられる。なんといっても前述の通り、ハバナの町の風景がいい。日差しが強くて色鮮やか、南米の海辺の町といったらコレだろ!みたいなキャッチーさがある。あえてそういう景色ばかり選んでいるのかもしれないが、薄緑色の建物と黄色っぽい地面のイメージが強い。日差し自体が黄色っぽい感じだ。
 個人的に好きなエピソードは「火曜日」。映画監督のエミール・クストリッツァが本人役で登場する。ハバナで開催される映画祭のゲストとして招かれるのだが、期待を裏切らない泥酔状態(笑)で、遅刻はするわ足取りはおぼつかないわでレセプションは台無し。きゅうくつな場を抜け出したクストリッツアは、タクシー運転手のホームパーティにお邪魔することに。タクシー運転手の「困ったなー」という顔と、クストリッツァの傍若無人なようでいてそうでもない振る舞いがおかしい。そしてホームパーティでのジャムセッションがいい!キューバ音楽を最も堪能できるエピソードだ。
 その他にも、俳優のベニチオ・デル・トロが初めて監督した「月曜日」は、アメリカ人青年のスマートではない振る舞いにニマニマさせられた。割と手堅く纏められた(まあ無難な)1編。ちょっと変わったところだと、のパレスチナから革命指導者へのインタビューに来た男が、段々ハバナのユルーい空気に慣れていく「木曜日」や、羽目を外した女の子が呪術師の儀式を受ける「金曜日」。特に「金曜日」はギャスパー・ノエ監督らしい意地悪というか、ちょっとずらした感じの一編だった。
 ハバナという町、キューバという国の土地柄、お国柄みたいなものが垣間見られる。全編通して、女性の話し方がうるさいのは、あれがキューバ女性のデフォなんだろうか(笑)。また、ゲイの男性(字幕がおネエ言葉)がしばしば登場し周囲も普通に接しているが、女性と寝ていたところを親に見つかった女の子は祈祷を受けさせられる。この男女差は何なんだろう。あと、勝手に副業やったら駄目とか(飲食業に限るのかもしれないけど)やたらと停電するとか、ローカル感が楽しい。一番驚いたのは、呪術師という職業が普通に存在していることだった。




『俺の笛を聞け』

 三大映画祭週間2012で鑑賞。あと5日で少年院から出所できるシルビウ(ジョルジュ・ピステラーヌ)は親代わりになって育ててきた弟と再び一緒に暮らすことを心待ちにしている。しかしイタリアに住んでいた母親が突然現れ、弟を引き取ると言い出す。監督はルーマニアのフローリン・サーバン。第60回(2010年)ベルリン国際英が指しで銀熊賞とアルフレッド・バウアー賞をダブル受賞した。
 少年院といっても、建物は古びていてセキュリティも最新式とは言いがたいし、場所も郊外の草原だか畑だかの真ん中で何とも長閑。野外作業も干草の積み下ろしだったり果樹園の手入れ(幹に農薬らしきものを塗っている)だったりする。妙に牧歌的だ。少年院の中も、いじめや体罰はあるが、例えばアメリカ映画等で見られるほどの過酷さではない。シルビウは約4年入所しているようだが、模範生らしく、院長からも多少大目に見られている。まあまあしっかりしていそうな少年だ。しかし、弟を奪われるかもしれないと思った彼の行動は、段々過激なものになっていく。
 最初は、家出していたくせに勝手に戻ってきて勝手に弟を連れて行くなんて、母親は身勝手だしシルビウが気の毒だと思うかもしれない。シルビウは、自身が母親に振り回されて家庭環境が安定しなかったことを恨みに思っており、「男と別れて寂しいから弟を連れに来たんだろう」と母親をなじる。が、見ているうちに、その「寂しいから」という言葉はそのまま彼に跳ね返ってきているのではないかと思えてきた。実際のところ、少年院から出たシルビウに働き口のあてがあるのかは定かではないし、また少年院に舞い戻ることもありえるだろう。母親は少なくとも、ちゃんと生活は出来ている様子なので、実際どちらと一緒にいるのが弟にとって幸せなのか、何ともいえない。少なくとも、それはシルビウが決めることではないだろう。
 彼の弟に対する執着は、少々いきすぎなようにも見える。弟を守ろうとするあまり、弟の心が自分から離れていくことに気付かないシルビウの姿は滑稽でもあるが痛々しい。彼にとって、安定した家庭、日常的な幸せの象徴が弟で、どれだけ「家庭」に憧れているのか透けて見えてくるのだ。思いつめた彼の行動は、まるでスマートではないし、むしろ滑稽で愚直とも言えるかもしれない。だが、そういう方法しか思いつかないというところが切実でいたたまれない。




『かぞくのくに』

 1997年。同胞会幹部の父(津嘉山正種)、喫茶店経営をしている母(宮崎美子)と暮らす在日朝鮮人2世のリエ(安藤サクラ)一家の元に、北朝鮮から25年ぶりに兄ソンホ(井浦新)が戻ってきた。脳腫瘍の治療の為、3ヶ月間日本滞在する許可が出たというのだ。10代に帰国事業で北朝鮮に渡って以来のソンホとの再会に家族や幼馴染たちは喜ぶが、ソンホは言葉少ないままだった。監督・脚本はヤン・ヨンヒ。
 自身も在日コリアンであり、自らを取り巻く状況を見つめたドキュメンタリー「ディア・ピョンヤン」「愛しのソナ」を撮ってきた監督が、初めて長編フィクションを手がけた。監督の兄も北朝鮮に渡っており、自身の体験も反映されているそうだ。日本で生まれ育った日本人にはあまりなじみのない、当事者だからこそ突っ込んで作れる話でもあると思うし、当事者があまり表立って口にしてこなかったことを映画にしたい、という監督の意図もあったのだろう。ただ、決して特殊な家庭の話として描いているわけではなく(確かに当事者以外の観客にとって、「そうなのか~」というもの珍しさはあるのだが)、たくさんあるいろいろな家庭事情のうちのひとつ、という感じの描き方だと思う。対象との距離のとりかたが的確なのだろう。
 何だかよくわからないものによって人生を振り回されることへの怒りが底辺にはあるが、それが前面には出てこない。彼らにとってはもう日常のことなので諦め半分、でも怒りがなくなったわけではないという、複雑な思いを感じる。ソンホは口数少なく、北朝鮮での暮らしについても、妻や子供についても殆ど話さない。日本での生活の思い出話もしない。口に出す言葉は、慎重に選ばれている。彼がどういう環境で暮らしてきたかが垣間見えてうっすらと寒くなる。
 また、当事者とはいっても、日本に暮らしている側と北朝鮮に暮らして日本に一時的に帰国している側とでは、置かれている状況が全然違う。その違いは、特に日本に暮らす側には本当にはわからない。無口なソンホが一度だけ「あんたたちに何がわかる」と怒鳴る。この一言に、彼の日本(の家族)に対する思いの一面が現れている。その溝はあまりに深い。やりきれなさが尾を引いた。




『灼熱の肌』

 売れない役者のポール(ジェローム・ロバール)と同業の恋人エリザベート(セイーナ・サレット)は、画家のフレデリック(ルイ・ガレル)と妻で人気女優のアンジェラ(モニカ・ベルッチ)と親しくなる。ローマのフレデリックの家でひと夏を過ごす4人だが。監督はフィリップ・ガレル。
 ジョン・ケイルによる音楽がドラマティックでいい。また、予告編でも印象的に使われていたDirty pretty thingsの“Truth Bigns“だが、これは予告編での切り取り方のインパクトが強すぎて(要するに予告編がよく出来すぎていて)実際に使われているシーンが始まった時はいまいちインパクトに欠ける気がした。が、踊るアンジェラとパーティの客たちを見ているうちに、じわじわと多幸感が溢れてくる。そこそこ長回しのシーンなのだが、決めすぎずちょっとユルいところがまたよかった。
 本作で、女優モニカ・ベルッチを初めていいと思った。大分どっしりとした(もともとボリューミィなボディだったが)体型になっているが、肉体の重みを感じさせるところがいい。彼女が演じるアンジェラが、仲直りしようとするフレデリックの顔を手でぐっと押しのけようとするシーン。見ていてこの感じわかる!という体の同調感があった。感情面では特にシンパシー感じるシーンではないのに、手にかかる重みとか体温とかの肉体的な感覚にシンパシーを感じるという不思議な体験だった。
 裕福でルックスも生活も浮世離れしているフレデリックとアンジェラのカップルに対して、ポールとエリザベートはつつましく、外見も地味。一緒にいたら、ちょっとコンプレックス感じるだろうなと思っていたら、やはりエリザベートは違和感を感じポールとの関係も揺れる。外見の美しさよりも、お金の感覚の違いでぎくしゃくしていくというのが何ともせちがらい。ポールは貧しさ故に(今時、というべきなのか)革命を夢見るが、フレデリックは革命に意味はない、自分の絵と妻を大事にするのが一番だというスタンス。それは元々豊かだから言えることだよなぁと。メロドラマではあるが、出てくる人たちの間の階級差をかなり感じさせる。




『アニメ師 杉井ギサブロー』

 東映動画を経て虫プロで手塚治虫から深く影響を受け、1969年からグループ・タックの設立メンバーとして活躍、『タッチ』『銀河鉄道の夜』等の名作を送り出してきたアニメーション監督・杉井ギサブロー。彼へのインタビューと、彼を取り巻く人々へのインタビューで構成したドキュメンタリー。
 アニメーション作家としての杉井の、伝記的な側面のあるドキュメンタリー。それと同時に、日本製アニメーション黎明期からの歴史を辿る、アニメ史、アニメスタジオ史としての側面もあり、この分野の研究資料としても貴重だと思う。日本初の本格的な連続TVアニメーションである『鉄腕アトム』に関する話は、この当時の状況をリアルタイムで体験している関係者らの発言だけあって、非常に興味深い。アニメーションとはその名の通り動くもの、目標はディズニーアニメのような「動く」アニメーションだった当時のアニメ業界にとって、アトムの動かなさは衝撃的だったそうだ。当時東映動画にいた大塚康生はアトムを邪道だと思ったが、予想に反して大ヒットし、複雑な思いだったと言っている。杉井自身はアトムがヒットしたことで、動画が豊かでなくてもストーリーで魅力を出せると確信し、その後の自身の指針となったそうだ。杉井にとって、手塚の存在はかなり大きかったようで、これは意外だった。
 また、手塚といえば、アニメビジネス黎明期に安く仕事を請け負ったせいで後々も単価が上がらず、アニメーターの待遇が悪くなった(良くならなかった)と恨まれているふしもあるが、当時の虫プロ関係者によると、アトム開始当時はともかく、その後はそれなりの(安くはない)価格で販売していたようなので、必ずしも手塚のせいとは言えないようだ。
 グループ・タック以降、比較的同じ人たちと組んで仕事をしているなという印象があるのだが、最新作『グスコーブドリの伝記』を製作した手塚プロによると、杉井と常連メンバーとのチーム感がすごい、こういう現場は珍しいと言う。本作を見ていると、杉井の人柄によるところが大きいのかなという印象だった。何と言うか、品性のある方だと思う。手塚と、田代敦巳(グループ・タック元代表)というカリスマ的なリーダーが率いる会社で重宝されていたのも、仕事が出来るというのはもちろん、人柄が良かったのではないかと。
 一人の「プロ」を追ったドキュメンタリーとして面白く、資料としても貴重だと思うが、ロケ取材が殆どのせいか録音状態が悪く、肝心なところで話し声が聞こえないのが残念。監督は演出としてやっているのかもしれないがもったいない。




『少年は残酷な弓を射る』

 エヴァ(ティルダ・スウィントン)は夫フランクリン(ジョン・C・ライリー)、高校生の息子ケヴィン(エズラ・ミラー)、6歳の娘セリアと暮らしている。一見平穏な一家だったが、エヴァはケヴィンが生まれた頃から彼に対する違和感をぬぐえなかった。ケヴィンはフランクリンには懐くもののエヴァには笑顔を見せずまともに話もしない。彼のエヴァに対する行為は悪意があるとしか思えないものだった。ケヴィンが成長するにつれ2人の間の溝は広がるが、フランクリンに相談しても男の子はそういうものだと軽くいなされてしまう。物語は過去と現在を頻繁に行き来する。エヴァと家族に何があったのか、ケヴィンが何をやったのか、徐々にわかってくる。監督はリン・ラムジー。
 冒頭のトマト祭り(?)のシーンから、血や内臓を思わせる赤が作品のキーとなっている。その生々しさとは対称的に、エヴァたちが暮らす空間はどこかがらんとしていて空疎。一家が暮らすモダンで裕福そうな家も、エヴァが暮らす古い小さな家も同じだ。住環境への配慮の有無に関わらず冷ややかで空疎なのだ。生活感がなく、うそ臭く見える。そもそも、ティルダ・スウィントン自体がこの映画の中で異物っぽく、「家族」としてはうそ臭く見える。スウィントンの夫がC・ライリーというのもなぜそうなった?!という不自然さ。むしろC・ライリーと子供達だけだったら普通のホームドラマの1シーンみたいなのだ。そういう意味では、スウィントンの一般人でないっぽさを存分に活かしているキャスティングだと思う。
 エヴァが家庭内で浮いて見えるのも、ケヴィンを恐れるのも、彼女が母親として自分はちゃんとやっているのか?という不安が非常に大きいからではないかと思った。正直、ケヴィンはエヴァが思っているほど悪魔的には見えない(最終的にやることはひどいのだが、異常な子がひどいことをやるのではなく、普通な子がひどいことをやっているんじゃないかと)。母に懐かず何考えているかわからない子供だが、子供と相性が悪いことなんて往々にしてある。こういう場合、そりが合わないなりにお互い距離をおいて他人行儀に暮らしましょう、というのも一つの手だと思うのだが、エヴァは「よき母」をきちんとやろうとする。子供に何かあったら、子供が何かしたら自分のせいになる、皆子供の方をかばって自分の言い分を聞かないという思いの強さが、息子が自分を落としいれようとしているという強迫観念を生み出しているとも見えるのだ。
 エヴァは「事件」が起きてもずっとケヴィンの母親でいようとし続ける。最後、ケヴィンがようやくエヴァと同じ側に立ったように見えた。しかしこれはケヴィンが変わった以上に、エヴァが息子を「ただの人」として見ることができるようになったからではないかと思う。




『ダークナイト・ライジング』

 ジョーカーとの戦いの8年後。ゴッサムシティはデント法と呼ばれる法律で管理され、犯罪率は減少し、バットマンは姿を消した。ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)は屋敷に引きこもり、人前に出ることはなくなっていた。ある時パーティにまぎれ、女泥棒セリーナ・カイル(アン・ハサウェイ)が忍び込み、彼の指紋を盗み出す。自分を陥れようとする組織があると気付いたブルースは、再びバットマンになることを決意する。一方、謎の男ベイン(トム・ハーディー)はゴッサムの地下に巨大な施設を秘密裏に作り、ある計画を進めていた。監督はクリストファー・ノーラン。
 ノーラン版バットマン三部作の完結編。バットマンがハービー・デントの罪をかぶって姿を消した「ダークナイト」の直接の続編だが、「バットマンビギンズ」から引き継がれている部分がより大きい。できれば3部作で見ることをお勧めする。前作「ダークナイト」は各所絶賛といった感じだったが、本作は正直それには及ばない。むしろビギンズの方がアメコミ映画としての座りはいいような気もした。ただ、三部作の完結編としては、やはりこういう終わり方になるだろうと納得はできる。
 ノーラン版バットマン三部作は、最近のアメコミ映画の中ではサム・ライミ版スパイダーマンと並んで、「ヒーローとは何か」という主題を追求していると思うが、若々しいスパイダーマンに対して、バットマン=ブルース・ウェインはヒーローという病を患っているように思える。ヒーローであることが彼の存在理由となりブルースとしての生活はなおざりになる、更にヒーローでいるためには倒すべき悪が必要なので、ヒーローとしての職務を全うしすぎると存在意義がなくなるという、自家撞着状態。ブルースは前作でジョーカーにその正義のあり方の危うさを突かれ、いざ平和になるとひきこもりに。
 そんなブルースが再びバットマンになると同時にヒーロー=バットマンという病を克服しようとする物語とも言える。確かに今回、バットマンの活躍は以外に少なく、生身のブルースのアクションに分量を割いていると思う。ラストは賛否が割れそうだが、バットマンをやめ、かつバットマンの存在により犯罪を抑止するにはああいう幕引きしかないのだろう。ただ、バットマンがいる(と思う)ことで犯罪を抑止するというのは、ちょっと信仰心のようでもあり、アメリカだから成立する話のような気もする。バットマンがそんなに大きな存在でいいのか?とも思うが。
 三部作完結編としては納得だが、映画としては物足りず、もたついている部分も多い。最近の大作映画は2時間越えが普通になっているが、そろそろ何とかしてほしい。本作も、2時間以上尺が必要な内容とは思えなかった。また、敵ボスであるベインが妙に小物感がある。これはデザイン上の問題かもしれないが、やっていることも回りくどくてこんなんでいいの?さっさと一網打尽にすれば?と。そもそもベインをもっとあっさり殺れそうな気がしてならなかった。とにかくバランスが悪い作品だったと思う。
 なお毎度毎度女優を美しく撮れないと評判のノーランだが、アン・ハサウェイのキャットウーマンはさすがにそこそこよかった。ただし「当社比」なのでより美しいハサウェイを見たい人は迷わず別の映画をどうぞ。マリオン・コティヤールについては言うまでもない。また、警官隊VSベイン一味の戦いを見て思ったが、集団が激しく動くシーンが下手だと思う。サシならいいが、背景に何人もいるとそっち(背景)の動かしかたが単調。警官隊が一方向に突入していくシーンだから、もっと全体に動きの流れがないといけないと思うのだが。




『桐島、部活やめるってよ』

 バレー部キャプテンで男女共に人気のある桐島が突然部活をやめたという噂に、高校内は騒然となる。バレー部員たちには不安と不満が広がり、桐島のガールフレンドは彼と連絡が取れないことに苛立つ。そんな騒ぎをよそに、映画部員達は自主制作映画の撮影を開始していた。監督は吉田大八、原作は朝井リョウの同名小説。
 試写会で鑑賞。それほど期待していなかったのだが面白い。観客(作中の登場人物と同年代の女子が目立った)の反応も非常に良かった。上映中に拍手が起こる試写会なんて初めてだった。しかし「あの」シーンで拍手喝采が起きるというのは、皆共感して「やったー!」と思っているのかシチュエーションのおかしさに笑っているだけなのか、気になる。もし共感していたとしたら、世の女子高校生はどんなルサンチマンを抱えているんだっていう話に・・・。私はもちろん「やったー!」と思った方です。
 高校生達の1週間を、同じ日をいろんな角度から見せてくる。何度も繰り返される曜日もある。群像劇として上手く処理しているなと思った。あの時この人たちはこんなこと、あの人たちはあんなことやっていた、一見こういう風に見える人が実はあんな感じだった、というパズルのような面白さがある。ロケ地は高知だそうだが、ほどほどに郊外の学校の、特に荒れてはいないし学力レベルも多分そこそこで、別に皆悪い子ではないんだろうがうっすら閉塞感がある感じが出ている。そもそも、生徒1人が学校欠席したくらいで大騒ぎになるくらいに世界(というか世間か?)が狭いのだ。
 個々の生徒のキャラクターはわりと紋切り型ではあるのだが、本作の「ある側面」を分かりやすく見せる構成にはその紋切り型が合っている。生徒間の人間関係のバランスの取り方は、色々な気遣いが飛び交っていて窮屈そうだ。特に女子グループの微妙な力関係と距離感にはげっそり。女子力高そうな帰宅部の子たちと、部活をやっている子たちは、一見きゃいきゃいつるんでいるが、何かの拍子に一触即発しそうになる。男子も女子も、お互いに踏み込みすぎず、踏み込ませずな人間関係なのだ。一種の閉鎖空間だから空気の読みあいが過剰になっていく。その中で、空気を読みきれない映画部部員たちの存在がイタいというよりも清清しい。憧れの女子とたまたま映画の話ができて舞い上がるところなどまーほんとわかりやすい(笑)。
 踏み込まない、踏み込ませない、特に別ジャンルの人に対しては、という空気の中で、通常なら言葉も交わさないであろう2人が、ぽろりと本音に近い部分を見せ合うシーンにはぐっときた。明日になったらまた口もきかないのだろうが、こんな瞬間もあるところに、まだ希望があるんじゃないかと。
 一見、10代の集客を狙った間口広め・浅めの作品に見えるが、所々で妙に「映画」っぽい瞬間がある。妙な違和感がにょろっと出てくるというかなんというか・・・。ロメロや鉄男が出てくるからというのとは違うところで、映画ファンの心に訴えてくるものがあるように思うのだが。




『苦役列車』

 1986年の東京。19歳の貫多(森山未来)は日雇い仕事をして暮らしていた。稼いだ金は酒と風俗、唯一の趣味である本に費やされ安アパートの家賃も滞納する始末。ある日、貫多は仕事場で専門学校生の正二(高良健吾)と知り合う。貫多にとっては初めての友達だった。正二の手助けで、片思い中の大学生・康子(前田敦子)と話すこともできた貫多は有頂天になるが。監督は山下敦弘。原作は西村賢太による、芥川賞受賞した同名小説。
 原作には康子はいないが、それ以外はわりと原作に忠実な映画化。ただ、原作よりも青春物語的な側面が強くなり、貫多のとんちんかんな友情や恋愛(めいたもの)にスポットがあたっている。貫多は同年代の友達がずっといなかったからか、人との距離の詰め方が無茶で、ちょっと親しくなるといきなり踏み込んでくる。こんな人が一方的に親愛の情を向けてきたらそりゃあ困るよなぁ。最初は貫多と一緒に飲み歩いていた正二も、学校内での人間関係が出来てくるにつれ、貫多をうとましがるようになる。貫多は楽しくってしょうがないんだろうけど・・・。貫多と正二とその彼女が3人で居酒屋に入るシーンは、きまずさ(そもそも友人の彼女・彼氏が同席している場って若干きまずいんじゃないかと思うのだが・・・)と貫多のおいてけぼり感、そして逆ギレによっていたたまれなさ満点だ。それは「恵まれない青春」のいたたまれなさで、貫多ほど出口なし状態ではなくても、同じような気分を味わった人はいるのではないかと思う。
 貫多がそんな感じなので、正二と康子と人並みの青春ぽさを味わうエピソードは、やたらとキラキラして見える。眩しいがいたたまれない。ボーリングにしろ冬の海にしろ、原作からはちょっと連想しにくいあまずっぱさだ。原作ファンにとっては違和感あるだろうし、貫多が正二に最後にかける言葉もウェットすぎるだろう。実際、原作者の西村は本作に苦言を呈したらしいし(ただ、結構リップサービスする人なんじゃないかという気がするので、どこまで本気なのかは・・・)。ただ、こういった甘酸っぱさがあることで映画としての間口は広がって、現代に繋がっているようにも思う。もっと映画は映画で独自の方向に振り切ってもよかったんじゃないか。
 主演の森山からは、役作りへの並々ならぬ意気込みを感じた。目つきの胡乱さがいい。ただ、ルックスのイメージを原作者である西村に寄せていったことは、逆に西村のキャラの強固さを際立たせてしまった。原作は西村のキャラありきの作品になっちゃってるなと思う。また、康子役の前田が案外いい。決して演技が達者というわけではないが、要求されていることへの理解度が高い人なんじゃないかなと思わせる動き。鈍さと鋭さが同居している感じがよかった。舞台となる時代とルックスの相性もいい(笑)。




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