3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2012年08月

『罪悪』

フェルディナント・フォン・シーラッハ著、酒寄進一訳
『犯罪』と同じく、弁護士の「私」がかかわった事件を語る連作集。小説としてはよりクオリティが上がっているように思う。本作では、犯罪を犯してしまう人間の心理の不可思議・不確かさに加え、その「罪悪」は犯人のみに課されるものなのかどうかと問うてくる作品が多くなっている。最初に収録されている「ふるさと祭り」は、まあ本当に胸が悪くなる類の犯罪なのだが、ことが起こった地域、裁判官、何より被告側の弁護士であった「私」がもう無垢ではないと自覚する、弁護士という職業の業に言及した作品だ。「司法当局」などその題名通り、司法制度の奇妙さ、いいかげんさ(もちろんきちんと機能していること前提ですが)にスポットが当たっている。何をもって「罪悪」とするのか、罰せられるべき者は誰なのか、裁判という制度の中では一見して見えてこない、あるいは零れ落ちてしまうものがそこにある。






『それからはスープのことばかり考えて暮らした』

吉田篤弘著
仕事をやめてとある町に越してきたオーリィこと大里くんと、大家のマダムやサンドイッチ屋の父子、隣町の映画館の気になる常連さんらとの日々を綴る短編集。綴られているのは日常だが、地面から3センチほど浮上しているような日常。この3センチに魅力を感じるか反感を覚えるか分かれそう。私は著者の小説を読むと、ちょっと素敵、と思うときとちょっとイラっとするときと極端に分かれるのだが、今回はちょっとイラっとした。いやむしろイラっとすることの方が多いんだった・・・久しぶりに読んだから忘れてた・・・。ある種の漂白されラッピングされた世界観の無害さが鼻に付くのかもしれない(『暮らしの手帳』連載だったというのは納得)。ただ、出てくるサンドイッチとスープは本当においしそう。




『完全なる首長竜の日』

乾緑郎著
第9回(2010年)このミステリーがすごい!大賞受賞作。ベテラン少女マンガ家の和淳美の弟は、自殺未遂で植物状態に。淳美は他人と意識を繋ぐことができる「SCインターフェース」を使って弟と対話を試みるが、弟は自殺の原因については口をつぐんだままだ。ある日、自分の意識不明の息子とSCインターフェイスで繋がった際に淳美の弟と会ったという女性が訪ねてくる。映画『インセプション』を越える面白さ!と評判になったそうだが、面白さはともかく確かにコンセプトは『インセプション』と似ている。本作の方が意識の中の世界と現実の境目の曖昧さ、主人公である淳美の意識、立ち居地のあやふやさを前面に出している。黒沢清監督が映画化するというのでびっくりした(意外だった)のだが、読んでみると、案外監督の作風に合っている気もする。黒沢作品の無機質さには本作に通じるものがあるのだ。このシーンを黒沢監督が撮ったら怖いだろうなぁ!と想像できる部分がいくつもあって、映画も楽しみになってきた。




『犯罪』

フェルディナンド・フォン・シーラッハ著、酒寄進一訳
弁護士である「私」が関わることになった11の犯罪。どれも大なり小なり奇妙な奇妙な事件だった。刑事事件弁護士である著者が、実際の事件に材を得て執筆した短編小説集。ドイツではヒットし日本でもかなり評判になったが、確かに面白いし小説としてシャープ。各編ごく短く、無駄がない。きっちりそぎ落とした作品だと思った。そぎ落とされた姿から見えてくるのは、犯罪そのものというよりも、それを実施する人間の不可思議さだ。取り上げられる犯罪の多くは、動機が第三者にはよくわからない、説明し得ないようなものだ。犯人本人にも、なんでそんなことしたのか分からないこともある。犯罪の動機なんてどういう場合も本当はあいまいで、便宜上「動機」として記述されているに過ぎないのでは、と思えてくる。著者の視線も、人間て変なところあるよなー面白いよなーとクールに見つめているように思った。「私」の主観をあまり挟まない(書いているのは「私」の主観でなのだが、私がどうこう思った等々を入れない)ところがいい。




『ローマ法王の休日』

 ローマ法王が逝去し、ヴァチカンには各国の枢機卿が集い次の法王を決める「コンクラーヴェ」が開かれていた。システィーナ礼拝堂の外では大勢のマスコミや信者達が知らせを待ち望んでいる。新法王に任命されたのは、メルヴィル(ミシェル・ピッコリ)だったが、彼はプレッシャーに耐え切れず、就任の挨拶から逃げ出してしまう。監督はナンニ・モレッティ。予告編だとほのぼのしたおとぎ的な雰囲気だが、ナンニ・モレッティ監督がそんな映画を撮るはずもなかった(笑)。確かにユーモアはあるし随所で笑えるのだが、予告編から予想されるよりもはるかに厳しい、過酷な話だと思う。
 メルヴィルは枢機卿達の投票により法王に選ばれ、「神のご意思だから」と受諾を迫られる。しかし自分にそんな大任が果たせるのだろうかとメルヴィルは恐れる。そもそも、人の投票による結果は神の意思といえるのか、神の意思をどこまで間違わず汲み取っていると判断できるのか、信仰が真摯であれば真摯であるほど悩むと思う。そしてその悩みは、誰も助けてはくれない。信仰は結局は個人対神の関係ではないのか、とすると、他人を導こうとするなど傲慢なのではとも思えてくる。ラストは賛否分かれると思うし、教会からの批判もありそうだが、神に忠実であれば、こうする他ないのではないかなと思う。あれは、メルヴィルが「神が自分に課しているものは何か」考え抜いた結果なのだ。
 モレッティ監督自身が精神科医役で出演している。妙にテンション高くておかしい。信仰と臨床心理とは相容れない(どうも無意識の存在がキリスト教的にはNGらしい)ようだ。カウンセリングの時も聞いてはいけない事項が多くてぜんぜんカウンセリングになりそうもない。なんで母親のこととか子供時代とかについて突っ込んだらだめなのかな・・・。幼少時のことを思い出すのは望ましくないらしい。こういった「宗教上の事情」や、ヴァチカンの内部の様子が(どのくらい事実に忠実なのかわからないが)垣間見られるのが面白かった。




『暗殺のハムレット(ファージングⅡ)』

ジョー・ウォルトン著、茂木健訳
第二次大戦後にナチス・ドイツと講和条約を結んだイギリスを舞台とした、歴史改変ミステリシリーズ第2部。講和条約により平和を得たイギリスだったが、政府のファシスト傾向は強まり、国民は様々な規制を受けるようになっていた。そんな中、ロンドン郊外の女優宅で爆発事件が起きる。刑事カーマイケルはテロと見て捜査を進めていた。一方、上流階級出身だが家族とそりが会わず女優として独り立ちしたヴィオラは、妹によりとんでもない計画に巻き込まれる。1作目と同様、女性の「わたし」による一人称パートと、カーマイケルを主人公とした三人称パートが交互に進行する。今回は1作目と比べてサスペンス、クライムノベル的な要素が強いように思った。そして、国内情勢がより前面に出てきている。ヴィオラの、政治に興味がないわけではないが自分に何ができるわけではないし、と政治活動に対して冷ややかな態度や、その日の娯楽があれば満足で世界がどう動きつつあるかなんて興味ないと揶揄されるイギリス国民の「空気」は、非常に耳に痛い。これ今の日本にだいぶ近い雰囲気なんじゃないのかなと嫌な汗が出た。ユダヤ人差別もより厳しくなっているが、もう差別を差別と認識していない、そうあって当然、みたいなレベルになっていて個人に力ではどうにもならなさそうなところが怖かった。




『屋根裏部屋のマリアたち』

 1962年のパリ。証券会社経営者のジャン=ルイ(ファブリス・ルキーニ)は、スペイン人のメイド・マリア(ナタリア・ベルベケ)を雇う。マリアの完璧なゆで卵に満足したジャン=ルイは徐々に彼女に惹かれていく。屋根裏に住むメイドたちの劣悪な生活環境を知ったジャン=ルイは改善に乗り出し、メイドらとの距離も縮まっていく。メイドたちと過ごす時間を楽しみにするようになったジャン=ルイだが、妻シュザンヌ(サンドリーヌ・キルベラン)はそれを浮気と勘違いし彼をなじる。家を追い出されたジャン=ルイは屋根裏で暮らし始める。監督はフィリップ・ル・ゲ。
 フランコ政権下のスペインからフランスへ、出稼ぎや亡命目的の移民が急増し問題になっていたという時代背景があるそうだ。マリアのメイド仲間の中にも、スペインで共産党員として活動しフランスに逃げてきた人がいる。シュザンヌがサロンで友人に「これからはスペイン人メイドが(安い賃金でよく働くから)おすすめよ」と言われていたり、ラジオのニュースでド・ゴールやフランコ政権に関する報道をしていたりと、時代背景が意外と濃く出ている。
 ジャン=ルイは上流階級の人間なのだが、そういう世界で育ったのでその世界のことしか知らないという、ある種の純粋培養的な妙な素直さとスレてなさを持った男だ。よく言えば素直、悪く言えば単純で世間知らず。マリアの気をひく為にスペイン語やスペイン情勢を学び始めて、ドヤ顔で披露するのはかわいさとウザさが紙一重。また仕事は出来る人だが専門バカ的な頭の良さで、メイドたちの金銭管理に急に生き生きと助言し始めたりするのがおかしい。逆に、その他の事に対してはあまり興味なく、妻はともかく息子に対しても淡白。彼が(多分妻以来)始めて興味を覚えた「他者」がマリア(とその仲間)だったともいえる。彼が外の世界を知っていく物語でもある。
 ジャン=ルイは自分が生まれ育った世界とは違う世界を知って生き生きとしていく。それと対比すると、妻シュザンヌが少し気の毒だった。彼女は元々田舎育ちだったらしい、ということは、ジャン=ルイが惹かれた世界から本来やってきた人なのだろう。それが、ジャン=ルイが所属する世界になじもうとするうちに退屈な人になってしまったのかもしれない。実際、マダム仲間の中でもシュザンヌは居心地悪そうだし、微妙に洗練されていない。多分、別の世界にいればもっと魅力的になる人なんだろうなという雰囲気があるのだ。
ほのぼのと楽しいが、結局女性は若くてきれいな方がいいというオチな気も。また、ジャン=ルイにマリアと対等の立場に立つ、という意志があまり見られないのが気になった。階級を越えるという方向にはいっていない気がする。彼はあくまで「よい主人」であり、だからこそ「性質が悪い」ということになるのだろう。自分の立ち居地に無自覚なまま善意で動くのだ。なので、ラストも何となく腑に落ちない。




『フィッシュ・タンク』

 世界三大映画祭2012で鑑賞。15歳の少女ミア(ケイティ・ジャービス)は母と小学生の妹と団地暮らし。母親とは反りが合わず、学校はドロップアウト気味で地元の友人らとも喧嘩別れし、心の支えは好きなダンスだけだった。ある日、母のボーイフレンド・コナー(マイケル・ファスベンダー)が自宅にやってくる。彼はミアにも優しく、一人前として扱ってくれた。コナーは家族に馴染んでいき、ミアも彼を気に入っていくが。監督はアンドレア・アーノルド。2009年の作品になる。
 不思議と感じのいい男が、ぎくしゃくしていた女3人家族の関係を変えていく、ちょっと心温まるファンタジーかなと前半で思っていたら、後半でどすんと現実が落ちてくる。まあリアルに考えればそうなりますよねえ!まあそういうことでしょうねぇ!前半も危ういことは危ういのだが、後半であーあ・・・という大変しょうもない展開を見せる。物語の作りがしょうもないというのではなく、出てくる人たちが皆しょうもない人たちであり、逆に地に足の着いたドラマだったことがわかるのだ。前半輝いていたものの後半での輝きの失いっぷりがきつく、日常がいきなり輝きだすことなんてない、とぴしゃりとやられるようで、案外手厳しい。
 ミアはどこにも身の置き場がない子でいつも外をふらついているのだが、コナーの中に自分の居場所となりうるものを見出す(見出したつもりになる)。が、やっぱり他人を居場所にしてはいけないんですねぇ・・・。最終的には居場所がないということを受け入れる話だった。それでも諦めるな、というラストだとは思うが。
 舞台はイギリスだが、イギリスだろうが日本だろうが、郊外の団地って何でこうも気がめいるのだろうか・・・。私のトラウマを呼び起こす何かがあるのだろうか。イギリスの団地はあまり住民の柄が良くないというのが一般常識なのか、本作の団地内も結構荒れている。子供の柄が悪いのには団地映画である『アタック・ザ・ブロック』を思い出した。




『さよなら渓谷』

吉田修一著
ある町で幼児殺人事件が起き、母親が重要参考人として挙げられた。雑誌記者の渡辺は隣家の夫婦に取材の為接触するが、この夫婦が抱えたある過去に気付いていく。一応長編小説ではあるが、『悪人』のような大長編というわけではない。にもかかわらず『悪人』に匹敵しそうな人間の業を見せてくる。短くて登場人物が限られている分、より密度が高いとも言える。15年前の事件というのが、まあ結構聞いたりする話なんですが、なんでそういうことを結構起こしてしまうのか本当にわからないし、お前ら何考えてるのと怒りがたぎってくる類のものだ。犯行に至るまでの加害者の心理が(多分)かなり生々しく描かれているのだが、それでもなんでやっちゃうかなーとげっそりする。「そっち側」への参加を強要する力は何なんだろうね・・・。加害者がそれこそ「悪人」なのかどうか、という部分が非常に曖昧で、被害者加害者共に色々割り切れない。そういう意味でも『悪人』の延長線上かなと思った。




『ムースの隠遁』

 ムース(イザベル・カレー)とルイ(メルヴィル・プポー)は裕福なカップルだったが、2人とも薬物依存症。ある日2人で酩酊していたところ、ルイがドラッグの過剰摂取で死亡し、病院に運ばれ意識を取り戻したムースは、自分が妊娠していると知らされる。混乱したムースは田舎の別荘へ逃げ出すが、そこにルイの弟ポール(ルイ=ロナン・ショワジー)が訪ねてくる。監督はフランソワ・オゾン。
 三大映画祭週間2012にて鑑賞。本作はフランソワ・オゾン監督、2009年の作品。オゾンクラスの監督であってもここまで地味だと配給されないのか・・・。確かにどう売るか困りそうな作品ではある。監督のネームバリュー程度じゃムリなのね・・・。
 オゾンは作品ごとにがらっと作風変えてくる印象があるが、本作は非常に地味で静か。昨年日本でヒットした『幸せの雨傘』とは全く色合いが違う。『ぼくを葬る』あたりに近い抑えた作風だ。カメラは淡々とムースの行動を追っていくが、彼女が思いを吐露するシーンはごく少ない。底辺にはムースが抱える寂しさ、心もとなさみたいなものが流れているのだが、それがあまり情動的ではなく、体温が低い感じ。じっと寂しさに耐えていく感じがするのだ。
 ポールがムースの地元の友人セルジュとあっさり「知り合い」になっているのが、ちゃっかりしていておかしかった。それを知ったムースが少し憮然とする様に、ポールに対する微妙な感情がにじんでいる。ムースはポールを気に入っている風だが、彼と一緒にいても2人の間にはルイという2人がそれぞれ愛した存在(の不在)が横たわっており、よけいに寂しくなりそうだ。
 彼女の最後の行動は身勝手といえば身勝手。ただ、そうする気持ちはわかる。ポール(とルイ)の家庭背景についてはポールがしばしば口にするが、ムースが自分の家族について話すことはほとんどない。それも関係しているのかなと思った。
 なお、妊娠中に薬をガブ飲みしたり喫煙・飲酒したりと、大丈夫か?と思うような行為が結構出てくるのだが、薬については「禁断症状を和らげる為」とあっさり説明されていてちょっとカルチャーショックが。そういえばそういう設定だったな・・・。また、ムースに海辺で話しかけてくる女性が大変うっとおしいのだが、こういう人はどこの国にもいるのだろうか。




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