3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2012年06月

『ジェーン・エア』

 孤児のジェーン(ミア・ワシコウスカ)は寄宿学校で育ち、やがて年少者達の面倒を見るようになる。彼女に新しい働き口として、ソーンフィールド館の家庭教師の話が来た。館へ赴いた彼女は、当主ロチェスター(マイケル・ファスビンダー)と出会う。当初、彼の横柄な態度に気分を害するジェーンだが、徐々にひかれあうようになる。原作はシャーロット・ブロンテの小説。監督はキャリー・ジョージ・フクナガ。
 いい古典メロドラマで少女マンガだな~としみじみ堪能した。原作も面白かったが、そこそこ長い原作を上手にまとめていると思う。時系列をじぐざぐに入れ替えているが混乱させない構成がいい。時系列順にやってしまうと、多分若干ダレる話なので。
 古典文学の映画化としてはかなり成功していると思う。何より、風景が美しい!これは映画ならではだろう。ロケ地が作品舞台のイギリスなのかどうかはわからないが、荒涼としたムーアや、四季を通した館周辺の森や林や野原、遠くに見える山々など、ここに行きたい!歩き回りたい!という衝動が沸いてきた。こういう風景の中でのこういう物語、という部分に本作が持つ力があると思う。映像は風景であれ人物であれ美しく、撮影の良さを満喫できる。
 子供の頃のジェーンは、実際に傍にいたら可愛げのない不愉快な子供だと思うのだが、その「正直すぎ頑固すぎで損する人」というキャラクターが大人になってからの彼女の行動基盤になっていると改めて感じた。ジェーンがロチェスターの元から去るのも、彼の行動にある不正直さがあったからだ。そこの折り合いの付けられなさがジェーンという人らしい。
 また、原作を読んだ時も思ったが、ジェーンの資産背景を底上げ、ロチェスターの資産(地位)を下げ、という調整をちょいちょいやっているんだなと改めて気付いた。ジェーンの従属を拒む女というキャラクターは当時としては異色だったのだろうと思うが、それを成立させるにはこのくらいの調整をしないとムリだったのだろう。
 ジェーンを演じるワシコウスカが適役。美人なのか不美人なのか見ているうちにわからなくなってくる彼女の風貌も利いている(ジェーンは不美人だが「妖精」と言われるくらいだから何か魅力的でないとならない)。ロチェスター役のファスベンダーに関しては、この人でなくても・・という気がしなくもないが魅力はある。




『君への誓い』

 仲の良い夫婦レオ(チャニング・テイタム)とペイジ(レイチェル・マクアダムス)は交通事故に遭う。ペイジは頭部に損傷を受け、レオと出会ってからの5年間を全て忘れてしまっていた。ショックを受けるレオだが、ペイジの記憶が戻ると信じて一緒に暮らし続ける。しかしペイジにとってレオは初対面の他人で、戸惑いを隠せずにいた。監督はマイケル・スーシー。
 全くの他人状態に戻ってしまった妻と、もう一度関係を築きなおそうとする健気な夫の物語なのだが、妻にしてみたら、全く知らない人が「僕と結婚していたんだ、一緒に暮らそう」と言い出すんだから、なかなか受け入れられないだろう。そう思うと、戸惑いながらもレオとまた一緒に暮らすことを選んだペイジは相当勇気を出しているし、記憶が戻るんじゃないかという周囲からのプレッシャーはかなり辛いだろう。一方、レオのほうは、記憶を失って自分と出会う以前に戻ってしまったペイジが、自分が知っていた彼女と全然違うことに戸惑う。
 レオと出会った頃のペイジは彫刻家志望。しかし、記憶を失ったペイジはロースクールに通い、アートの道など考えてもいなかった。父親は大学で法律を教えており実家は裕福、いわゆるコンサバなお嬢様だったのだ。現在の大統領がオバマだと知ったペイジが驚き、「君も投票したよ」とレオに言われて信じられない!という顔をするのがおかしいのだが、2人が本来違った家庭環境・文化的な背景で育ったと分かる1シーンだった。
 ペイジはレオとの記憶が全くなくて戸惑うと同時に、自分にこの5年間で何があったのか?何で実家と全く縁を切りレオに紹介することすらなかったのか?という疑問に苦しむことになる。ラブストーリーであると同時に、ペイジの記憶をめぐるミステリーとしての要素もある。彼女が実家を出た理由にはその程度で?と思わなくもないが、今まで気付かなかった自分の資質、それが両親の方針に合わないということに気付いてしまったということなんだろう。人間の変わる部分と変わらない部分の差異って何なんだろうと思った。レオは自分が好きになったのはペイジの変わらない部分だと確信したから、彼女を諦めなかったのだろうが。
 レオとペイジが食べる食事やおやつがおいしそうだった。仲間との朝食のパンケーキとか、チョコレートのロシアンルーレットとか。ペイジの実家での食事がまずそうなのと対称的。これは、ウマの合わない人と食べる食事はまずいということだろうが(笑)。また、レオとペイジの家のインテリアはちょっとやりすぎ(いかにも下町のアーティスト指向のカップルのお部屋ですよ~的で)だったがキッチンは明るくてすごく雰囲気いいなと思った。
 



『ラブ・ストリーム』

 ハリウッド近郊に屋敷を構え、入れ替わり立ち代り現れる若い女性たちと暮らすベストセラー作家のロバート(ジョン・カサヴェテス)。今はクラブのジャズシンガー・スーザンに心惹かれている。ロバートの姉サラ(ジーナ・ローランズ)には建築家の夫とティーンエイジャーの娘がいるが、現在は離婚協議中。家を出たサラはロバートの元へやってくる。彼女は発作を起こしてパリに療養に行ったのだが、戻ってきてしまったのだ。監督はジョン・カサヴェテス。1984年の作品。
 ロバートは女好きだが、彼を取り囲む若い女性らと恋愛をしているわけではなく、執着は薄い。女性達に常に金を払っているのが印象に残る。愛ではない、仕事だと線引きするような態度だ。一方、本気で愛情を感じているらしいスーザンへのアプローチはどこかちぐはぐだ。また、前妻との間に小さな息子がおり、一時的に彼を預かるものの(生まれて以来会っていないから当然だが)上手く関係を維持できない。彼にとって、本気の愛情は扱いあぐねるものなのかもしれない。
 一方、サラは愛に溢れる人物だ。彼女はよき妻・よき母であろうと努力するし、実際(ある一面では)そうなのだろう。ただ、彼女の愛は溢れ出すぎて、周囲が受け止められない。相手のことを思いやっての愛だけではなく、支配欲の強い愛なのだ。娘が「パパと暮らしたい」というのも頷ける。夫に対しても、関係の関係が改善されないであろう(というふうに他人からは見える)相手に対してあんなに愛・執着を示すことができるのか?と不思議にも思う。彼女は愛は終わるということを受け入れないのだ。家庭を維持したい、という気持ちがすごく強いのだが、その気持ちの強さが逆に夫や娘を遠ざけてしまう。夫と娘を笑わせようとおどけ続ける姿など、痛々しすぎる。
 愛をこじらせた姉弟は一時寄り添うが、この2人が一緒に暮らして生活成り立つとも思えないし、実際すれ違ってしまう。見送るロバートの姿が物悲しいし、サラのはしゃぎ方はこの先の展開を予測され不穏だ。愛がなくては生きられない、のかもしれないが、愛があっても食い違い続ける、また愛がそこにないということを認められないというのは実にきつい生き方だと思う。
 神経がきりきりするような作品だが、笑えるシーンが結構ある。ボーリング場でのサラの突然の告白や、動物大行進エピソードなど、これコント?というところも。犬を嫌がっていたロバートが何となくウマがあうようになってしまっているのもおかしかった。




『からのゆりかご 大英帝国の迷い子たち』

マーガレット・ハンフリーズ著、都留信夫・都留敬子訳
ソーシャルワーカーである著者は、1986年、オーストラリア在住の女性から、女性にイギリスにいるであろう自分の親族を探してほしいと頼まれる。その女性は子供の頃にオーストラリアに移民し、以降イギリスとは音信不通、自分に家族がいるのか、どうしてオーストラリアにわたったのかもわからないというのだ。著者は調べていくうちに同じような事例が多数存在することを知る。第二次大戦後、1960年代に至るまで行われていた、イギリスからオーストラリア他への児童移民を取り上げたノンフィクション。児童移民というものについては、本著が原作となった映画『太陽とオレンジ』を見て初めて知った。映画では移民先はオーストラリアだったのだが、本著を読むとオーストラリア以外にもニュージーランド、カナダ、アフリカなどへも。施設にちゃんと保護され無事に育った人たちも相当数いるが、ひどい施設はほんとひどい。本著は児童移民の真相を明らかにするという側面もあるが、それ以上に、このような苦しみがある、と示す側面の方が強いと思う。こういう事例を知らないと(知っていても)思い当たりにくい類の苦しみなのだ。移民した人たちの中には、劣悪な環境や虐待により自尊心を損なわれ、ずっと自信を持てないままの人が少なくない。また、虐待を受けなかったとしても、自分の親は誰でどこから来たのかというルーツがわからないことは、その人の根幹をあやふやにしてしまい傷つける。著者はごく普通の善意と職業倫理をもって問題を解決しようとするのだが、移民一人一人への寄り添い方が真摯。相手の子供の部分(虐待を受けた部分)に寄り添うことが出来る人だから信頼を勝ち得た(し調査を続けることができた)んだと納得できる。力作。




『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』

御園生涼子著
小津安二郎監督『その夜の妻』、清水宏監督『港の日本娘』、島津保次郎監督『家族会議』、そして公開当時大ブームとなった野村浩将監督『愛染かつら』を題材に、そこに秘められた政治的イデオロギーを読み解く。映画の中に現れる表象が、当時の政治状況をどのように反映していたのか。度々境界/越境というキーワードが使われる。メロドラマ自体が、2つの極の対立構造(善と悪というように)を持つそうだが、当時の日本事態が、コスモポリタニズムに傾倒すると同時に帝国主義・植民地主義が浸透しつつあるという一見矛盾して見える2つの風潮が同時進行しているというものだった。この狭間で日本が揺れている様が興味深い。映画は大衆の欲望の投影であり、同時に、時には大衆を教化する意図もあるのでもあるという矛盾した性質を持つことが、当時の日本社会がどのような欲望を持ち、何が(世間的に)忌避されていたのかという手がかりになっている。特に女性に附帯するイメージの読みは面白い。おそらく、映画に現れる表象の全てが製作側の意図の範疇というわけではないだろう。良くも悪くも、当時の情勢や映画を欲する側の欲望が映りこんでしまう。さまざまなイメージを収集し、配布する装置としては(当時は)映画はやはり強力なのだと思う。





『港の日本娘』

 児童映画が有名な清水宏監督、1933年のサイレント映画。砂子とドラは、横浜の女学校に通う親友同士だった。しかし砂子が不良少年ヘンリーと恋に落ち、彼が浮気した相手を拳銃で撃ち殺してしまう。やがて水商売へと身を落とした砂子は、神戸に流れ着いていた。
 前半は横浜のミッションスクールに通う少女2人と、ハーフの青年との恋の顛末、後半は彼らのその後を追った三角関係メロドラマ。過剰に西洋かぶれというかバタくさいというか、欧米文化と日本文化との不思議なちゃんぽん具合になっている。これは、横浜と神戸という、海外から人・文化の流入が盛んな港町という舞台も大きく影響しているのだろう。砂子の親友の名前はドラで、やはりハーフである様子なのも、ヘンリーがハーフであるのも、こういった港町が舞台なら不自然に見えなかったのだろう。
 後半、砂子は基本和装なのだが髪型やショール等の小物使いはハリウッド映画の女優のようだ。また、砂子のアパートもヘンリーの自宅も洋式の作り。特に砂子のアパートは、玄関というものがないので(室内でも履物はいているし)一瞬あれ?と思う。こういう作りの部屋は当時もあったのだろうが、多分今で言うデザイナーズマンションみたいなお高い物件だったんじゃないだろうか。バー勤めの砂子に借りられるとは思えないが・・・。砂子の境遇は「何かやらかした女は堕ちるしかない」という通念を感じさせるが、その「堕ちた女」が憧れのオシャレな(多分)部屋に住んでいるというのは、何か矛盾しているんじゃないかと思うが。




『その夜の妻』

 病気の娘の治療費を得ようと、強盗をはたらいてしまった男。警察の追っ手をかわして帰宅するが、刑事が訪ねてくる。男の妻は気丈に刑事に立ち向かうが。監督は小津安二郎。1930年のサイレント作品だ。戦後の、いわゆる美しい日本映画としての小津安二郎作品とは雰囲気がかなり異なる、モダニズム色濃い作品。
 1930年(昭和5年)の東京が舞台だが、出てくる風景はぱっと見て日本とはわかりにくい。巨大な柱が立ち並ぶ回廊や、レンガ造りのオフィス街は、アメリカやヨーロッパ映画のような風景だ。夜景で陰影がくっきりしている、影が色濃いところも、ハリウッドのギャング映画のような雰囲気を感じさせる。
 また、男の自宅アパートも、パリの屋根裏部屋のような雰囲気。履物をはいたままの生活らしい(玄関に靴脱ぎ場がない)し、椅子にテーブル、ベッドの生活。壁にはモダニズム絵画やロシア圏のものらしきポスターが多数かけられている。しかも室内にブランコ!一体どういう層の人が住んでいる部屋なのか。男の職業は商業画家らしいので、多少ハイカラな生活をしているのは不自然ではないと思うが、子供の医療費にもことかく家庭で、常備している飲み物がコーヒー、食パンをむしって食べるというのは当時の状況では考えにくいのではないだろうか。
 国籍不明な欧米ぽさには、モダンな生活、オシャレな都市生活という憧れが投影されている(そういうものを見たいというニーズがあった)のだろうが、その生活を犯罪に走らざるを得ないほど経済的に困窮している層に当てはめているというところに、妙なねじれを感じた。ギャング映画・犯罪映画の要素と家族愛メロドラマをより合わせているという構造にも、ねじれがある。




『私が、生きる肌』

 世界的に有名な整形外科医ロベル(アントニオ・バンデラス)は人工皮膚の実験に取り組んでいた。実験台は、彼の屋敷に幽閉されているベラ(エレナ・アナヤ)。ロベルは彼女を監禁し、妻を救えるはずだった人工皮膚を使って整形を繰り返し、妻とそっくりに作り上げたのだ。監督はペドロ・アルモドバル。
 アルモドバル監督は、ここ数作でミステリ的な骨組み・設定を好んで自作に取り入れているように思う。本作の場合、原作がミステリ小説(私は未読)という要因も大きいのだが、案外伏線がきちんと(わかりやすく)配置されている。ミステリぽいんじゃなくてミステリだ!と意外だった。もっと曖昧な、混沌とした雰囲気になるのかと思っていたのだが、予想外に筋が通っている。
 筋が通っているといえば、ロベルの行動は無茶は無茶なのだが、妙に筋が通っているともいえる(労力的には理にかなわないが!)。彼の行為を変態的と言う感想も散見されたが、あまり変態っぽいとは思わなかった。欲望がどこにあるのかわからないからか。むしろ合理的というか、与えられた傷には同等の傷で、戦うなら自分の主戦場で、というわけなのだろうが、理にかなっているところが逆に葛藤を感じさせず怖い。
 そして、その復讐らしきものが途中でねじれている(あの容姿にする必要はないのだから)ところ、本人はそれに無自覚っぽいところが面白い。憎むべき相手を愛した相手と同じ姿にするというのは、矛盾していると思うのだが、ロベルの中では矛盾じゃないんだろうな・・・。
 そしてベラ側は、人生を取り上げられてしまったことになる。彼女の立場からするとロベルは憎いはずだし基本的に憎んでいると思うのだが、一瞬ではあれロベルと通じるものがあるように見えるところが、人間の心の不可思議さを感じさせる。ある地点からの振る舞いの割り切り方は、覚悟を感じさせる。一方、ロベルも彼女に多少心を許してしまうというところも同様だ。彼の場合は、自分が作り上げた容姿にひっぱられた部分が大きそうで、そうなることは予測できたのになぜその容姿を選んだのか、というところの割り切れなさが、人間の心の不可思議さを感じさせる。




『小説の誕生』

保坂和志著
小説を書きあぐねている人に向けて書いたシリーズだったらしいが、小説とは何か、小説を書くとはどんな行為なのかという主線からどんどん越脱し、表現そのもの、果ては宗教にまで思索は及んでいく。読んでいるうちに、小説を書く行為とは物語を書こう、この人物がこういう風に動き考える様を書こう、という意図とはちょっと違うのかなと思った。ストーリー展開が面白い、あるいはキャラクターが魅力的、というだけでは小説にはならないのではないだろうか。何か、はっとする瞬間とでもいうか、時間を突き抜けるような瞬間を捉えた作品が強いのではないかと。著者が言う永劫回帰(元々は荒川修作が制作の際に意図した概念で、本作中で荒川の作品は結構重要な位置を占める)ということなのか。著者の小説以外の作品は、思索が進むほど小説ぽくなるが、これは(著者にとっての)小説の核が、いわゆるストーリーやエモーショナルな線による構造を追うものではなく、どちらかというと思索の流れに近いものだからではないかと思う。






『時計まわりで迂回すること 回送電車Ⅴ』

堀江敏幸著
著者の随筆シリーズもついに5巻目。こんなに続くとは意外だった。特にテーマは決められていないシリーズだが、今回は身の回りの「物」に関する随筆が多い。これまでの随筆からも、アンティークとは言わない程度の古い物、いいようによってはがらくたに対する愛着は垣間見えたが、今回はその愛がかなりだだもれ。愛、というより、自身の審美眼、物を選ぶ時の基準の厳密さがより色濃く見えるといった方がいいか。仕事場を借りて引っ越した際、引越し業者が用意したのが白地に蛍光ピンクのプリントが入ったダンボールで、そのダンボールの山に囲まれていると落ち着かず、結局仕事場じゃなくて資料置き場として使うことにしたというエピソードには、自分を取り囲む物に対するスタンス。意識の払方の強弱は人によって本当に違うなと感心した。私はそういうことが全然気にならないので、著者のような視点は逆に新鮮だ。




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