3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2012年06月

『サバービアの憂鬱 アメリカン・ファミリーの光と影』

大場正明著
題名のサバービア(suburbia)は郊外、郊外社会、郊外居住者のこと。現代のアメリカの映画や小説の中に登場する「郊外」の姿から、アメリカ文化をひもとく。アメリカの小説や映画に登場する「郊外」の町を見ていると、こんなところに住んでいたら息が詰まりそう!と思うことがある。緊密な近所づきあいで安心できる反面、少しの差異が大きな問題になっていき、その地域内でのスタンダードから外れることが許されない。そういう排他的で均質的な町はどのように形成されてきたのか。元々は都会から脱出してよりよい環境で暮らす、という生活のレベルアップの意味合いが強かった、また、町は経済的にも同レベルの住民で形成されていて、経済力が上がるともうちょっとハイクラスの地域に引っ越していくものだったのだそうだ。この、コミュニティを強固にしつつ、流動的である、また周囲と親密にオープンに交際する一方で各家庭内の秘密が深まるという、一見矛盾した特質が面白い。その矛盾により家庭のありかたがこじれていくようにも思った。ただ、本著で取り上げられているのは80年代あたりまでなので、現状(特にサブプライムショック以降)はまた変わってきているのだとは思う。日本で言うところの郊外とちょっと意味合いが違うのは、日本は東京対地方の図式が強すぎたからかなと。




『困っているひと』

大野更紗著
ビルマ難民問題を研究していた大学生である著者が、ある日突然、原因不明の難病を発症した。何度も検査・治療を繰り返すうちに見えてきたのは、日本社会が難病者にとってとっても不親切であることだった。発症し病状はきついが原因がわからず病院をたらいまわしにされる、治療そのものがとにかくきつい、というあたりは想像の範疇内だったが、著者は病気が辛い!と声高に訴えたいわけではないだろう。病気も問題だが、難病になった際に受けられるはずの公的援助が、当事者(難病者)にはとにかく使い辛い。複雑で手間隙かかる書類の取得や提出は、体を動かしにくい人には相当な負担だし、経済的にもどんどん逼迫していく。治療をすぐに受けられる場所に一人で住むのも困難だ。公的支援しか頼るものがない(そういう人がこれからどんどん増えるだろうし)という難病者も多いだろうが、難病であることがどういう状況か、ということをあまり考慮していない仕組みになっているのだ。難病と戦うだけでなく、お役所と戦うバイタリティが必要とされるなんて・・・。難民支援を行っていた著者が、自分が置かれている状況がまさに難民だと気付く部分は本著の白眉だと思う。さらっと軽めに書いているが、この軽さに辿りつくには、相当自分も周囲も突き放していかないとならなかったろうし、それはすごくきついことだろう。ちなみに都心部の方がお役所関係の窓口対応が丁寧というのはほんとにそうなんですよね。




『ファウスト』

 19世紀初頭のドイツ。ファウスト博士(ヨハネス・ツァイラー)は人間の魂のありかを探り、死体の解剖にまで励んでいた。しかし魂のありかたはわからず研究費もつき、ファウストは落胆する。そんな折、悪魔と噂される高利貸・ミュラー(アントン・アダシンスキー)の評判を聞き、資金借り入れの為、彼のもとを訪れる。ミュラーはファウストに、生きる意味を教えようと囁く。監督はアレクサンドル・ソクーロフ。
 悪魔と金銭が直結しているあたりが今日的といえば今日的だが、全体としてはむしろ民話とか神話のような、プリミティブな力を感じた。ゲーテの原作の雰囲気とは大分違い、ファウストもミュラー=メフィストも田舎のおじさん風。ファウストは挙動不審だしミュラーはこすい金貸しそのものだ。彼らだけでなく、ファウストの父親にしろ、村の人たちにしろ、動きはどたばたしており、活気にあふれており猥雑だ。ファウストとミュラーのやりとりなど時々コントのようにも見える。言葉だけではなく、むしろ身体的な接触が目立ち、ファウストと父親、あるいはミュラー、またファウストと彼が惚れるマルガレータも、近づきすぎなくらい近づく。冒頭で人体解剖シーンがあるが、人間の身体の存在感が強い。ファウストが求めるのが魂であるのとはうらはらだ。
 猥雑に感じられるもう一つの要因として、ソクーロフ監督の作品としては異例なくらい、音が多いという点がある。会話も多いが、酒場での騒乱など背景としての人の声が多いし、風や家のきしみなど、ノイズに溢れている。常に何かが動き回っているような、エネルギーの余波としてのノイズみたいなものがある。
 ファウストが求める「魂」は、精神的なものというよりも、本作においてはどうやらこういったエネルギー的なものではないかと思った。終盤、どんどん山に入っていくのも、原初に返っていくみたいだ。悪魔をたおすのが愛でも善でもなく非常に物理的かつ衝動的っぽいのも、生き物としての力なのかと。




『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』

 クラブのオーナー、コズモ・ヴェテリ(ベン・ギャザラ)はカジノで大負けし、マフィアに借金をしてしまう。金のないコズモにマフィアは、返済の代わりにある中国人のノミ屋=チャイニーズ・ブッキーを殺せと持ちかける。監督・脚本はジョン・カサヴェテス。
 普通の男が暗黒街の大物の暗殺を試みる、という物語の大筋はあるのだが、いざ現場を踏むまでがやたらと長い。コズモはクラブを経営しているのだが、このクラブがらみのエピソードが多い。彼のクラブはストリップや芸人のステージを見せる、今で言うバーレスク的なクラブ。このステージに結構な時間を割いている。ショーガール役には本物のストリッパーを起用しているそうだ。ショー自体も結構面白いのだが、監督の興味がサスペンスドラマよりもショーの方に移ってしまったのか、全体のペース配分のバランスが悪いように思った。コズモがクラブにすごく思いいれがある、という点がポイントなのでクラブの様子もある程度見せないとならないのだが、場末のクラブ(という設定、多分)なので侘しさが漂い、ステージを延々と見ているのもちょっと辛かった。
 コズモはカジノでの引き際の悪さからも窺えるように、少々だらしない、こらえ性のない男だ。お金がなくても賭けちゃうし、雇う当てもないのに女の子のオーディションをして店のショーガルともめたりする。殺しを持ちかけられるとさすがに焦るが、妙に暢気だ。しかし、クライマックスではやるときはやるんだぜ!的な活躍を見せる。その活躍にいたる道中がまた「ついてない男」っぽくておかしいのだが・・・。「気楽な人が一番幸せ」というような言葉が出てくるが、コジモがそれを体現している。ただ、その気楽さのつけを最後に払うことになるのだが。




『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』

 次々に話題作を発表し、ノーベル文学賞候補との噂も出ていた作家・三島由紀夫(井浦新)。しかし彼の心は文学からは離れつつあった。民族派の学生たちを組織し、自衛隊での訓練を受け、有事の際は自衛隊と共に軍として決起しようとしていた。しかし学生運動激化の中でも治安は警察のみが行い、自衛隊の出る幕はなかった。徐々に苛立ちと焦りを募られせていく三島と若者達だったが。監督は若松孝二。
 三島由紀夫が盾の会を結成する頃から、自衛隊に乗り込み演説の後切腹自殺するまでを描く。三島を演じる井浦は、見た目が実際の三島に似ているというわけではない。しかし、三島から(筋肉とくどい顔の)外装を剥ぎ取るとこんな、線が細くてナイーブそうな感じかもしれないな、とは思った。井浦の熱演でそう思わされたと言った方がいいかもしれない。井浦をはじめ、出演している若手俳優たちが皆すごく力が入っていて、異様な熱気がある。
 決して編集や構成が巧みだという印象ではなく、見ていて体感時間がかなり長かった。三島という人を掘り下げていこうという意図も案外薄い。また、時代への切込み方は『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』には及ばない(これは『実録~』が異常なんだと思うが)。それでも映画として立ち上がってきているのは、俳優の力故なのだと思う。前作『キャタピラー』でも同じようなことを思ったので、若松監督の作法は、俳優の力をどれだけ引き出せるかに拠っているのだろうか。ただ、本作は『キャタピラー』に比べると意外なくらいあっさりとしていて、この分なら相当ハイペースで次作も製作できそうな雰囲気(笑)。気負った内容なのに気負いがあまり感じられないのが不思議だった。
 三島の自決は、なんとなくもっと前の時代の事件かと思っていたのだが、学生運動とほぼ同時期だった。三島は当時の若者の盛り上がりとは真逆の方向に向かっていた(それなりに支持層は厚かったみたいだが)わけで、『実録~』の裏側として本作は位置づけられているのだろう。しかし、三島がなんでああいった経緯を辿ったのかは、やはりぴんとこない。(本作の中の)三島は、時代の流れを大幅に読み違えた人のように見える。何より、彼が思う「軍」は、現代の軍ではないだろうし、当然自衛隊でもない。三島には職業としての軍人という発想がなかった(かないことにしていた)のだろう。(くどいようだが本作中の)三島は、軍としての組織が云々というより、ホモソーシャルな世界の中で理想に浸っていたかったようにも見えるのだ。クライマックスでの演説の聴衆への届かなさは、そこに起因するのではないかと思った。現実に彼が介入する余地はないのだ。




『幸せへのキセキ』

 ライターのベンジャミン(マット・ディモン)は半年前に最愛の妻を亡くし、14歳の息子ディランと7歳の娘ロージーを抱えて悪戦苦闘していた。反抗期のディランは問題を起こして退学処分になり、ベンジャミンも衝動的に勤めていた新聞社を辞めてしまう。妻の思い出ばかりの町から引っ越そうと決めたベンジャミンは、衝動的に郊外の物件を決める。しかしその物件には「動物園のオーナーになる」という条件が付いていたのだ。監督はキャメロン・クロウ。実話が元になっているお話だ。
 予告編ではJonsiの音楽を使っていて(本編の音楽もJonsiが手がけている)、ちょっとキラキラが過ぎるなー本編はさすがにここまであざとくはないだろうと思っていたら、もっとあざとかった(笑)。ファンタジックなサントラにちょっと懐かしめの挿入曲で、どんどん盛り上げてくる。ちょとキラキラすぎて、もうちょっと控えめな方が品がいいんじゃないかなと思った。
 良作だとは思うが、色々とひっかかるところもあった。特に、ベンジャミンの悲しみの表出の仕方だ。彼は妻を亡くしたことが辛くてたまらない。それは当然が、自分の悲しみでいっぱいいっぱいで周囲に気を回す余裕がないのだ。会社を辞めたのも引越しも動物園も、悲しみからの逃避行動の一種だろう。逃避行動がダメというわけではない(おもいっきり逃避した方がいいときもあるし)が、子供がいるんだからまず子供の生活考えろと言いたくなってしまう。
 特にディランは田舎暮らしを嫌がるし、母親を亡くした悲しみを率直に出すのが難しい、父親から見たら「よくわからない」タイプだ。妹が母親の死と適切に向き合っているぽいのと対称的だ。妹の方が気難しいティーンエイジャーに比べれば圧倒的に可愛げがあるから、そっちに目がいってしまうのもムリないとは思うが、もうちょっと見てやれよと。ベンジャミンが娘の方ばかりかまうのは、娘が幼いという以上に、不愉快な思いをしたくないんだろうなという気分が透けて見えちゃってねぇ・・・。まあ気持ちはわかるが親だから!もうちょっとしっかり!
 全編「もうちょっとしっかり!」とベンジャミンをひっぱたきたくなる話なので、いい話のはずなのに妙なストレスがたまる。ベンジャミンはライターとして数々の危険な現場に赴いてきた。しかし、最も身近な危機に対して彼は為す術もない。悲しいのは当然、でも大人なんだからその悲しみに周囲を巻き込まないでほしい、自分の中で処理してほしいのだ。私が大人(私も大人ですが)に過大な期待をしているのかなーとは思うが。
 また、ベンジャミンが動物園運営を「冒険だ」と言うのもひっかかる。彼にとっては未知の領域で確かに冒険だが、それを日常としてずっとやってきている人たちの前で「冒険」というのは、どうなんだろうなと思った。言われてむっとしないのだろうか。




『折れた竜骨』

米澤穂信著
自然の要塞に守られたソロン諸島領主の元を、騎士ファルク・フィッツジョンとその従士ニコラが訪ねてきた。領主の命を魔術を駆使する暗殺騎士が狙っているというのだ。その忠告もむなしく領主は何者かに殺される。領主の娘アミーナは、ファルクの犯人捜しに同行する。中世イギリスを舞台としているが、魔法が存在する世界という設定。その魔法で行われた犯行の犯人を、合理的な推理で特定していくというミステリ。どんな世界観であれ、その世界内でのルールがしっかり規定されていれば本格ミステリは成立する。そのルールの設置の仕方自体がミステリ要素となっているという、一見ファンタジー・中身ガチ本格というミステリファンには嬉しい作品。犯人特定の素材に一箇所弱いなと思ったところがあるがあとだしジャンケンみたいなもので、読んでいる最中はスルーしてしまうさりげなさ。今まで読んだ著者の作品の中では、一番読みやすかった。




『星の旅人たち』

 眼科医のトム(マーティン・シーン)の元に、息子のダニエル(エミリオ・エステヴェス)がピレネー山中で事故死したという知らせが入った。現地へ飛んだトムは、ダニエルがスペインのサンティアゴ・コンポステーラへの巡礼の道中だったと知った。トムはダニエルの遺灰と共に、巡礼の旅に出る決意をする。監督はエミリオ・エステヴェス。
 ダニエル役の人がトム役のシーンに良く似ていて本当の親子みたいだなぁと思っていたら、本当に親子だった(笑)。この息子役の人が監督のエミリオ・エステヴェス。息子の監督作に父親が主演しているわけだ。
 巡礼ということで相当な距離を歩くのに、初めての人がこんなに歩けるのか?とは思ったが言うだけ野暮だろう。道々の風景が非常に美しくて、それを眺めているだけでも満足感がある。この風景を見ると、やはりちょっと巡礼してみたくなる。やっぱり山道はいいわー!巡礼の道のり要所要所の町を巡る、ロードムービーとして楽しい。
 父親と息子の関係がどういうものであったか、あるいは息子がどういう人間だったかは、あまり言及されることがない。トムが息子に関する回想をするのも、空港に息子を送っていく車中の短いシークエンスだけだ。あとは巡礼仲間との会話の中で、ぽつりぽつりと触れられる程度だ。そこからわかるのは、仲が悪いとは言わないまでもさめていたこと、トムはダニエルの価値観を認められなかったということだ。
 トムは悲しみを語ることなしに、もくもくと歩く。歩くことは、一人で考えること、思いを消化していくことと相性がいい。これは、トムと行き会った巡礼者たちも同じだ。彼らの抱える「事情」はつまびらかにはされず、さらっと見せられる程度だ。巡礼に赴いた具体的な理由が語られるのはアイルランド人の作家くらい。きさくなオランダ人男性は「やせたいから」だというが、おそらく本当の「事情」はそこ以外にあると匂わせられる。
 彼らがときに助け合ったり迷惑かけあったり、それでもほどほどに距離をもって歩いていく、基本は一人で歩く(し、この先の人生は多分交わることがない)のだというところが、節度があっていい。




『オープニング・ナイト』

 ジョン・カサヴェテスレトロスペクティブにて鑑賞。本作はカサヴェテス監督1978年の作品。ベテラン女優マートル・ゴードン(ジーナ・ローランズ)は新作に取り掛かっていたが、役作りに苦しんでいた。ファンの少女が交通事故死する様を目撃したマートルは情緒不安定になり、飲酒量が増え、少女の幻影を見るまでに。舞台監督のマニー・ヴクター(ベン・ギャザラ)はマートルに手を焼き、共演者のモーリス(ジョン・カサヴェテス)は彼女に愛想を尽かしたような態度をとる。
 マートルらが取り組んでいるのは『2番目の女』という舞台だが、この舞台上のドラマと、舞台の外(役柄としてではなくマートル、マニー、モーリス個人としての)のドラマが呼応していく。この人たちは過去にひと悶着あったんだろう、ヒロイン=マートルは老いて女性として注目されなくなっていくであろうことを恐れているのであろう、等、舞台上が舞台外を揶揄しているようにも見える。舞台に上がっても降りても人間関係がギスギスしていて緊張を強いられた。さらに映画を見ている観客にとっては、ローランズはカサヴェテスの妻であり、ギャザラはカサヴェテス作品の常連という知識があるから、さらにメタ視線で見ることになる。入れ子構造が面白いが若干くどい。
 マートルは自分が老け役を演じることに納得できない。年齢を越えた普遍的な女性の姿を演じたい、老け役で当てるとその後も老け役ばかりオファーがくるので避けたい、等々言うが、彼女は決して若くはない。自分の実年齢を頑なに言わないし、加齢していくことを受け入れられずにいるように見える。そんなにカッカしなくてもいいのにな~(職業柄「美しい女性」というポジションから降りられない辛さもあるのだろうが)。
 舞台上で女優が勝手にアドリブを始めて劇作家がおかんむりだったり、主演女優と相手役の仲が険悪だったり、客の反応にプロデューサーがキリキリしたりと、舞台経験者にとっては嫌な汗が出てくる展開なのではないだろうか。舞台上で演技の間が微妙な感じになった時の、演出なのかミスなのかわからないいたたまれなさが生々しい。




『メゾン ある娼館の記憶』

 19世紀末から20世紀初頭にかけてパリに存在した、高級娼館アポロニド。館一の美人だったが客に顔を切り裂かれたマドレーヌ、客がいつか娼館から連れ出してくれると信じるジュリー、ベテランだが先の見えないレア、華やかな世界に憧れて飛び込んできた16歳のポーリーンら、一見華やかな世界の裏側にある女達の人間模様を描く。監督はベルトラン・ボネロ。
 デカダンスな雰囲気に満ちており、世紀末の風俗に興味があるとより楽しめるのではないかと思う。娼館という「商売」を描くお仕事映画でもある。一見派手な世界だが、金銭面も体力的にもかなりシビア。女性たちは一人で外出することはできないし、衣装代や化粧品は給料から代引きで、結局館のマダムへの借金がかさんで足抜けできなくなっていく。当時は防衛方法がなかった、性病の恐れもある(月一で健康診断を受けるのだが、膣検診を全員嫌がっている。検診方法が今と殆ど変わらないのが意外)。一仕事終えた後、疲れて眠っちゃいそう、というのが挨拶代わりの世界だ。きれいな格好はできるがリスクは高く、自由は少ない。
 娼館の人間模様を映すが、客である男性についての言及はごく少ない。あくまで娼館の女性たちの人間模様だ。親友とも家族ともつかない仲間意識、微妙につんけんした空気ヤライバル心などが、「職場」感を強める。衣食住も一緒なので、合宿や寮生活のようでもある。一同がピクニックに出かけるエピソードは、彼女らが僅かな自由を堪能しておりのびのびと楽しそうだ。
 ただ、女性が端的に「商品」として扱われる世界なので、(女性としては)息苦しいし若干げんなり。げんなりさを越えさせるほどの映画としての魅力には欠けていたということかもしれないが・・・。娼婦1人1人が得意技を持っているというところが面白い。「人形」なんて体バキバキになって嫌そうだけど。
 ルックスがいわゆる美人、かわいいというよりもどこか(もちろん水準以上の美人だが)特徴があって惹かれる、というタイプの女優が集まっていて、眺めていて楽しい。また、男女共に体つき・顔つきよりも声質にセクシーさを感じる女優・俳優が多かった。




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