3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2012年05月

『ファミリー・ツリー』

 ハワイのアオフ島出身の弁護士マット(ジョージ・クルーニー)は、一族が祖先から受け継いだ広大な土地を信託されている。土地の信託期限が迫り、売却するか保有するか、親族間で話し合いを続けていた。そんな中、妻がボート事故で昏睡状態になり回復の見込みはないと先刻される。2人の娘を抱えて途方にくれるマットだが、追い討ちをかけるように妻が浮気をしていたことが発覚する。監督はアレクサンダー・ペイン。
 予告編だと最近多い「ダメ男」系の主人公のような印象だったが、マットは決してダメ男ではない。むしろちゃんとした人だ。不動産資産には手を付けずに(土地の売却・賃貸のみで生活している親族もいる)弁護士としてまっとうに働き、親族をまとめて土地の扱いを話し合おうという姿勢からも垣間見られるように、基本真面目なのだ。しかし、そんな「ちゃんとした人」にも青天の霹靂のごとく困難が降りかかる。そして「ちゃんとした人」でもうろたえ、じたばたするのだ。じたばたする過程で、その人の地が見えてくる。
 マットを演じたジョージ・クルーニーはインタビューの中で「(マットは)優しい男だ、ただ認識が甘い」と評している。これがそのものずばりで、クルーニーの理解度の高さはさすがだと思った。マットは、自分は仕事人としても夫としても父親としてもよくやっており、家族は上手くいっていると思っている。確かにそこそこよくやってはいるのだが、娘達と親密とは言いがたいし、妻が家庭に不満を持っていることにも気付かなかった。彼が苦々しさや悲しみを感じつつ、妻が、娘たちがどういう人物であるかをもう一度発見していく過程の物語でもあった。
 この人は実はどういう人なのか、この人にはこんなところもあったのか、という発見は、他人同士よりも家族の間でなされた時の方が驚きが大きいように思う。家族である、という時点で役割によるフィルターがかかってしまっているし、そんなに深く観察しようという気にもならないのかもしれない。ニックの舅(妻の父)が、「娘はいい子だ」と言い家庭を顧みなかったとニックを責めるが、後々出てくる若い頃の話からは、ニックの妻が「いい子」だったとは考えにくい。むしろ大胆な女性で、彼女にとってニックは生真面目すぎて段々退屈になってきたんじゃないかという事情が察せられる。でも、それでも父親にとっては「いい子」で彼女の他の面を想像したりはしないんだなぁと。ニックも、妻は「よき母・よき妻」としてしか見てこなかったわけだが。
 マットも娘たちも、急に降りかかった災難によって家族と向き合い直すことになる。妻の浮気相手を調べる過程で、マットと長女が妙な協力関係になっていくのがおかしかった。彼らの「調査」は目の前の問題から逃避しているようにも見えるし、ニックに関しては大分子供っぽいとも言える。しかし、浮気相手に対してニックが取った態度はちゃんとした大人のものだ。それは長女にとっては、初めて見る父親の姿だったかもしれない。
 地味ながらきめ細かい良作。人生では往々にして悲しみとおかしみが一緒にやってくる、という部分の捉え方・見せ方がすごくいいなと思った。意外とハワイ観光ぽさはない。ハワイに住んでいる人が主人公だからか。




『耄碌寸前』

森於菟著
題名からしてどこか韜晦したような、真面目な顔をして人を食ったところのある随筆集。著者のスタンスが終始冷静で、視線には冷徹さすら感じるところがある。これは解剖医学の道を歩んだ著者の体験から身に付いたものかもしれないと思った。遺体の代弁者として筆を取った一編など、特にそう思う。冷たさをユーモアでくるんでいるような作風だ。達観したような冷静さや諧謔は、著者が森鴎外の息子であり、文筆の道では父にかなわないという諦念からくるものでもあるのかもしれない。自分の生い立ちを綴った作品からは、鴎外のいい父親ぶりが垣間見られてほほえましいのだが、同時に、複雑な家庭環境も垣間見られる。さらっと言及しているが、義理の母親(鴎外の後妻)との関係はかなり大変だったみたいだ。ただ、皮肉っぽかったり諧謔に満ちていたりはするが卑屈さはなく、品が良い。著者は抑制のきいた人柄だったのではと思う。




『ガール』

奥田英朗著
会社員として働く、「ガール」とは言いにくくなった年齢の女性達を描く中編集。男性作家が書いたとは思えないくらいリアルだそうなのだが、同じ会社員という身分であっても自分が身を置く環境とあまりに違ってリアルかどうかの判断できず・・・。女性からも評判良かったらしいので、多分リアルなんだろうし、すごくよく取材されているんだろうなぁ。ただ、「すごくよく取材されている」小説ではあると思うが、それが小説として面白いかというと、また別の問題なんだろう。共感する部分がなくてもすごいと感じる力量の作品もあるが、本作は共感ありきの作品であったように思う。普通の会社員てこんな感じなのかという参考にはなった。帯(私はハードカバーで読んだ)には「会社員にとっては読むと元気が出る小説」みたいなことが書いてあったけど、むしろげんなりしたわ・・・。世の会社員は本当にこんな面倒くさい世界で生きているの?




『ル・アーヴルの靴みがき』

 ノルマンディーの港町ル・アーヴルで、靴みがきで生計をたてているマルセル(アンドレ・ウィルムス)。家族は最愛の妻アルレッティ(カティ・オウティネン)と犬のライカだ。ある日、港のコンテナに隠れていた不法移民たちが警察に摘発される。1人逃げ出したコンゴの少年イドリッサと出あったマルセルは、ひそかに彼をかくまう。一方、アルレッティは重い病に倒れてしまう。監督はアキ・カウリスマキ。
 カウリスマキ監督の映画を見るたび、シンプルだなぁと思う(上映時間が短いのも素晴らしい)。男は「男」、良妻は「良妻」、病気は「病気」といったふうに、全て太い輪郭線のみで描かれているようだ。俳優の演技が細やかという印象でもなく、型のみで構成されているように見える。なのに、なんでこんなに情感を感じるのか。シンプルさを極めると、本当にちょっとした仕草や表情の変化が雄弁になるのか。というよりも、本来最小限の動きで表現できるものがあり、そこまで周囲をそぎ落としたと言ったほうがいいのかもしれない。映画の中で説明しなくてもいいことなんて、山ほどあるんだよといわれているみたい。無駄口は叩かない映画だ。
 映画の作りも演出も非常にシンプルで過剰さは排しているが、淡白ではないところがカウリスマキ作品の面白いところだと思う。カウリスマキの世界として出来上がってしまって、他の要素が入る余地がないからなのか。映画の濃度としてはやたらと濃いと思う。映画の尺は1時間半程度でコンパクトだが、ライブシーンは妙に長尺など、力点の置き方に独特さを感じる。
 カウリスマキの映画は、常に貧しい人たちが主人公だ。しかし、見ていて重く感じることはあっても侘しくはならない。特に近年の作品では、でも人生は貧しくないんだよ!という主張をてらいなく打ち出しているように思う。本作も、ぶっきらぼうな見た目とはうらはらに、主人公も近所の人たちも皆優しい。出てくる人たちが、自分の人生で何が大事なのかをわかっていて、それをぱっと選択するところに力強さがある。




『ムサン日記 白い犬』

 脱北して韓国ソウルにやってきた青年スンチョル(パク・ジョンホム)。友人の家に居候するが職探しもままならず、ポスター貼りやチラシ配りで日銭を稼いでいた。心のよりどころは拾ってきた白い子犬だが、友人には迷惑がられる。ある日教会で、スンチョルは聖歌隊の女性スギョンに心惹かれる。監督・主演・脚本はパク・ジョンホム。監督の友人がスンチョルのモデルとなっているそうだ。
 不器用な青年の青春物語であるが、同時に、北朝鮮から韓国への脱北者の生活を描いており、脱北トリビア的な、言い方が悪いがものめずらしさがあるった。脱北してくると住民登録はできるが、住民登録番号で脱北者かどうかわかってしまい、身元保証が必要な安定した職にはつきにくいというのが切ない。やっぱり、脱北者だと雇いたがらない人が多いようだ(中国からの移民だとそこまで抵抗ないみたいで、スンチョルは面接でも中国出身と自称している)。日本と同じく、身分証明なしで働ける職なんて数も時給も限られているので、スンチョルの生活はかなり苦しい。貧しさが悪循環しているみたいで、見ていて非常に辛い。
 スンチョルの生活が極力情感を拝して淡々と映され、そこに、彼への強い肩入れや同情は感じられない。スンチョルに寄り添っているが、この映画における視線が彼の味方というわけではなさそうだ。スンチョルは基本生真面目な青年で、自分の倫理観に従って行動し、サギ行為には加担しない。地道に働くことを望んでいる。しかし、彼の態度に人をイラっとさせるものがある、という視点も感じる。スギョンへの思慕にしろ、友人との関係にしろ、もっと他にやりようがあるのではと思える。
 ただ、その場に応じた振る舞いを出来る、そつなく振舞えるというのは、それができる余裕のある背景があって、初めて身に付くものなのだろう。スンチョルの鈍くささは、彼がそういうスキルを身に付ける余裕がないまま生きてきた(終盤で語られる故郷での出来事が強烈)ということなのだと思う。その余裕を手に入れるために、スンチョルはある選択をするのだが、それは今までの彼を裏切ることでもある。他に脱出口はないのかと思うと、やりきれない。




『ポテチ』

 野球選手・尾崎の部屋に空き巣に入った今村(濱田岳)と若菜(木村文乃)は、若い女性からの助けを求める留守電メッセージを聞く。留守電の女性が待つカフェへ出向いた2人は電話をしてきた女性に話しかける。ストーカーに困っているという彼女だが、あたふたと店を出てしまった。原作は伊坂幸太郎の中編小説。監督は中村義洋。中村監督は今回、俳優として出演もしているが、なかなか味があっていいです。音楽は斉藤和義。
 原作、監督、主演、音楽の相性がよく、しっかりかみあっている。中村監督と伊坂原作の相性のよさは『アヒルと鴨のコインロッカー』『ゴールデンスランバー』で証明済みだし、濱田は『アヒルと~』で起用されている。斉藤は『ゴールデンスランバー』で音楽担当だったがかっこよかった(『フィッシュストーリー』も斉藤が音楽手がけているが監督は別)。それにしても、中村監督作品はほんとに品質安定していて、安心して見られる。こういうタイプの映画監督が国内でもっと育つといいんだが・・・。
 本作を見て実感したのは、濱田の俳優としての能力・魅力の高さだ。かなり特徴のあるルックス・声なのでともすると飛び道具的な使われ方になりそうだが(実際『ゴールデンスランバー』ではギリで飛び道具っぽかったし)、そうはならなずしっくりなじんでいる。他の人がやったらやりすぎの下品さが出そうだけどこの人がやったらそうはならない、という点では原作の伊坂作品と近いところがあるように思った。シチュエーションとかセリフ回しとか、やりようによってはかなりイヤミになってしまうだろう。
 先日『さあ帰ろう、ベダルをこいで』を見た時も思ったのだが、こういうのが映画の終わり方だよなー!と叫びたくなる清清しさのあるラストだった。これがフィクションの役割ってやつだと、こみ上げるものがあった。月並みといえば月並みの展開だが、そこへもっていくまでの見せ方が上手なのだと思う。
 なお、尾崎の部屋にある本棚の本の並び方が妙にリアルだった。あのラインナップ、だれかの本棚の中身をそのままもってきたみたいだ。




『さあ帰ろう、ベダルをこいで』

 家族でドライブ中に交通事故に遭い、両親を亡くし記憶を失った青年アレックス(カルロ・リューベク)。ブルガリアに住む祖父バイ・ダン(ミキ・マイノロヴィッチ)はアレックスを心配してドイツまでやってくる。アレックスはバイ・ダンと共に自転車でブルガリアを目指す旅に出る。1983年、アレックスと両親は共産党政権下のブルガリアからイタリアへ亡命し、ドイツへ移住したのだ。監督はステファン・コマンダレフ。
 祖父と孫の自転車ロードムービーと思っていたら、確かにロードムービーとして魅力的(風景がとても美しい!草原あり山ありで起伏に富んでいる)なのだが、同時に、3代にわたる一家の物語でもあった。バイ・ダンは反体制的な危険人物として党からマークされており、アレックスの父親は工場をクビにすると脅され、家庭内でのスパイを強いられていたのだ。ブルガリアでの生活は長閑で美しいのだが、薄氷を踏むような側面もあったことが窺われる(地下でバックギャモンのゲーム板を作っていたことをとがめられるのは、勝手に商売してたからということか?それともバックギャモンに限って禁止なのか?)。
 だからアレックスの父親は亡命を希望するわけだが、母親(バイ・ダンの実娘で、父親は娘婿らしい)はイタリアでの移民の扱われ方にショックを受け、ブルガリアへ帰りたいと訴える。バイ・ダンの娘である以上、彼女に党からの追求がなかったとは思えないのだが、それでもいつ出られるともわからない施設にいるよりはいいというのだ。冒頭、車中の両親はうかない顔なのだが、夫とのギャップがだんだん広がり、夫婦仲も冷えていったんじゃないだろうかとも思った。両親にとっては、移住してもあまり幸せではなかったのかもしれないと。
 バイ・ダンはいわゆる昔気質の人で、かなり強引だし体育会系っぽい。カリスマ性はあるがちょっと困った人でもある。他の映画で他の俳優がこういうキャラクターを演じていたら腹が立っただろうが、ミキ・マイロヴィッチが演じると、妙に茶目っ気と色気があって許せてしまう。アレックスがアクのない、ほぼ無色みたいなキャラクターなので、バランスはとれていたように思う。
 本作、最後がすばらしい。この結末でやりすぎ感、出来過ぎ感を出さないのがすごいのだ。これを許容するのが優れた映画、ひいてはフィクションの力というものではないかと思う。




『メモリー・ウォール』

アンソニー・ドーア著、岩本正恵訳
痴呆の始まった老人たちが、自らの記憶をカートリッジに納めて再生するようになった世界を背景に1人の老女の記憶を描く表題作の他、記憶と時間に関わる作品が集まった中篇集。表題作はちょっとSF小説のようでもある。記憶は個々人のものだが、表題作で老女の記憶が少年の人生を動かすように、誰かへと繋がる瞬間がある。ナチス政権下の孤児院を舞台とした「来世」では特に、「私の記憶」と「誰かの記憶」との繋がり、誰かの記憶を私の記憶として生きなおすことが起こりうるという不可思議を感じた。




『死はつぐないを求める』

ジョゼフ・ハンセン著、真崎義博訳
生命保険調査員のデイヴ・ブランドステッターは、ジョン・オウツという男の死亡事故の調査にあたった。雨の夜に入江で泳いでいる中、頭を岩にぶつけて溺死したと警察は見ていたが、オウツは死んだ日に保険金の受取人を変える申請を出しており、受取人であった息子ピーターは行方をくらましていた。一つ一つ升目を埋めていくような、意外に本格ミステリとしての几帳面さがあると思う。あっちへ行ったりこっちへ行ったりとブランドステッターの動きが煩雑だ(実際働きすぎでぐったりしているし)が、本作で起こる事件の、なぜこの人はこういうことを言ったのか/言わなかったのか、という部分を探っていくには、この行ったり来たりの運動がふさわしいように思った。主人公であるデイヴはゲイであり、同性の恋人がいる。しかし双方過去にパートナーを亡くしており、死者の記憶に引きずられていく。事件自体も「愛」が絡んでいるものであり、メロドラマとして古風な味わいがあって悪くない。




『綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー3』

綾辻行人・有栖川有栖編・著
ベテランミステリ作家2人の本格ミステリ対談&対談内容に即した短編小説で構成されたシリーズ。本作が3作目になるが、これで一旦終了だそうだ。えーもっと読みたーい!第2シリーズをぜひ!本格ミステリファンにとってはもちろんだが、本格ビギナーにとっても、読みやすい入門書として機能していると思う。今回は特に、本格ミステリの「ルール」をテーマにした章があるのでより、本格とは、というガイドになっているのではないだろうか。また、綾辻・有栖川両氏の本格観の微妙な差異が読み取れるところも面白い。有栖川先生の方が本格原理主義にやや近いのかな等。アンソロジーのいいところは、自分の好みでは多分手に取らないであろう作家の作品も含まれているところだ。読んでみて案外いいな!と得した気分になることも。今回は、こういう機会でもないとまずこの先読まなかったであろう、山村美紗の初期短編を読めたのは収穫だった。2時間ドラマのイメージが先行しているけど、トリックへの情熱がかなり熱い。そしてトリックを試行錯誤する山村先生(想像内)に萌える有栖川先生に萌えるのだった。




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