3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2012年04月

『三重スパイ』

 1930年台のパリ。ギリシア人の妻アルシノエ(カテリーナ・ディダスカル)と共にロシアから亡命してきた元ロシア帝政軍将校フョードル(セルジュ・レンコ)は、在仏ロシア軍人協会の事務員として働いていた。アルシノエはアパートの上階に住む教師のパサール夫妻と親しくなり食事に誘うが、急進的な共産党員の夫妻とフョードルとは会話がかみ合わない。やがてスペイン内戦が勃発し、フョードルは出張で留守がちに。彼の仕事に疑問を持ったアルシノエが問い詰めると、フョードルは自分は諜報員だと告白する。監督はエリック・ロメール。
 ボルシェヴィキ政権に追放されたロシア亡命者をフランスが数多く受け入れていた、しかしパリでは左翼政権が力をつけてきているという時代を背景に、実際にあったスパイ事件を基にしているそうだ。ロメール作品としてはちょっと毛色が変わっている。ロメール版戦争映画(正確には戦争に至るまでだが)とも言えそうだ。フョードルは元軍人で亡命してきているくらいだから、共産主義には冷笑的なはずなのだが、言動を見ていると彼自身には確固とした主義主張はあまりないのではないかと思えてくる。彼の言動はどこか嘘っぽく、その場その場に合わせた、とって付けたもののようだ。こんな胡散臭い人(演じるレンコの風貌がまた胡散臭い)、そうそう信用されないだろうと思うのだが、なぜか周囲からの人望はあるらしい。フョードルという人物がいる部分が空洞になっているような、妙な実態のなさを感じた。
 対して、妻であるアルシノエは生き生きとして実体感のある、「どういう人なのか」がくっきり浮かび上がってくる造形だ。政治にはうといが絵画製作に励んでいて(微妙なヘタウマさがかわいい)、チャーミング。夫婦のキャラクターが対称的なところはコメディぽい。対称的だが、意外に相思相愛らしいところも面白かった。最初は奥さんの愛の方が大目なのかしらと思っていたら、夫も意外と・・・。しかし奥さんが魅力的なだけに結末は苦い。
 当時の、ロシア亡命者や共産党、ソ連軍部、そしてナチスなど、各方面の思惑が垣間見られる。当時の報道映像も要所要所で使われており、この時代の雰囲気を味わえるのではないかと思う。当時のファッションなど、美術面も楽しい。




『ある秘密』

 1985年のパリ、学校教師のフランソワ(マチュー・アマルリック)の元に、高齢の父・マキシムが外出して帰って来ないと電話が入る。フランソワは病弱だった子供時代を思い出す。マキシム(パトリック・ブリュエル)は頑健で体を鍛えるのが趣味、母タニア(セシル・ド・フランス)は水泳の選手でモデルをするほど美しかった。物静かで運動が苦手な為、両親に引け目を感じていたフランソワは、いつしか想像の中でスポーツ万能の「兄」を作り出す。しかし「兄」のことを聞いた父親は怒り出し、母親もいい顔をしない。更に、屋根裏にしまわれていた古いぬいぐるみを見て動揺を見せるのだった。2人の反応が気になったフランソワは、両親の古くからの友人ルイズから、2人の過去を聞きだす。監督はクロード・ミレール。原作はフィリップ・グランベールの大ヒット小説。
 マキシムとタニアがであったのは第二次世界大戦が始まる直前で、時代背景が彼らの人生に大きく影を落としている。マキシムもタニアもユダヤ人だ。つまりホロコーストが大きく関わってくる。ただ、前提としてあるのは普遍的な人の心の不可思議さが。たまたま特殊な時代背景だったことで、予想以上の悲劇となってしまうのだ。もし平常時だったら、普通(というのも変だが)の三角関係メロドラマで収まっていた可能性もある話なのだ。
 キーパーソンとして、アンナ(リュディヴィーヌ・サニエ)という女性が登場する。彼女が土壇場で行う行為は、全く普通の状態ではない(自分1人だけならなくはないかと思うが)のだろうが、そこまで追い込まれるような焦り、嫉妬というのはどういうものだろうと思った。戦争の恐ろしさよりも、1人の女性の心の中に沸きおこった何かの方が、瞬間的には怖さ・得体の知れなさを感じた。
 登場する人たちの多くはユダヤ系なのだが、ユダヤ人としての自意識のあり方の差異が興味深かった。マキシムは自分がユダヤ人であることにさほどこだわっていない。むしろ、少々うとましく思っているようだ。ユダヤ人として振舞わない方が得ならそうすればいいじゃないか、といわんばかりだ(結婚式をカソリック式のものとユダヤ式のものと2回やっていたように思ったが。あとフランソワにはカソリックの洗礼を受けさせるが親族には内緒にしている)。おそらくタニアとはそういう部分でもウマがあったんだろうなとわかる。彼の親族や友人らは伝統的なユダヤ人コミュニティに所属しているので、マキシムやタニアに眉をひそめることもあり、色々面倒くさそうなのだ。

『刑事ベラミー』

 フランス映画未公開傑作選にて鑑賞。休暇中の刑事ベラミー(ジェラール・ドパルデュー)を見知らぬ男が訪ねてきた。その男ノエル・ジャンティはモーテルにベラミーを呼び出し、自分はある男を殺したと告白して写真を見せる。その写真の男は、ジャンティによく似ていた。ジャンティの話は、エミール・ルレによる保険金詐欺~全焼した遺体と車輌が発見された事件に関係しているらしいのだ。監督はクロード・シャブロル。2009年の作品でこれが監督の遺作となる。
 そこそこ長いはずなのに流れがダレず、最後まで緊張感が絶えない。エピソードの省略の仕方の思い切りがいいのではないかと思う。そもそもジャンティが「告白」するシーンは具体的にはなく、その後のベラミーの行動から、どういう内容だったのか何となくわかってくるのだ。「告白」の真相を探るだけでなく、どういう告白だったのか知る時点で一つのミステリーになっている。
 人の、善人でもなく悪人でもないという姿が一貫して描かれている。それはジャンティや彼に関わる女性たちだけでなく、ベラミー自身についてもだ。ベラミーがなぜジャンティを助けようとするのか、周囲の人間がいぶかしむように少々不思議ではある。しかし終盤、ベラミーによるある告白で一気に見え方が変わる。これはベラミーが扱う事件の話である以上に、ベラミーという男の話だったのかと。
 ベラミーには荒っぽく頼りない弟がおり、ケンカが絶えないのだが、これも「出来のいい兄と困った弟」という一見した図式とは、また違った姿が立ち現れてくるのだ。弟と妻が一緒にいるとやたらと勘ぐったり嫉妬に駆られたりするのも、そういうわけだったのか!と腑に落ちた。
 ベラミーが「あなたは不可解な人よ」と妻に言われ、むっとして「現実を見ているからか」と言ったとたんにマンホールに落ちそうになるシーンがある。彼はむしろ足元が見えていない、自分のことをわかっていない(わかっているが見ようとしない)人なのでは、と暗示されているようにも見える。




『僕達急行 A列車で行こう』

 大手企業のぞみ地所の社員・小町圭(松山ケンイチ)と、小さな町工場コダマ鉄工所の跡取り・小玉健太(瑛太)は、鉄道好きがきっかけで知り合い意気投合。ほどなく九州へ転勤なった小町。九州支社は地元の大手企業ソニックフーズとの交渉を課題にしていたが、ベテラン営業マンが交渉しても反応は芳しくなかった。そこへ東京から、見合いを断られれて落ち込んでいた小玉が遊びに来る。監督は森田芳光。
 森田監督にとってはこれが遺作となる。監督の死は思いがけないことだったが、遺作が本作のような愉快かつ自由な作品であることが、ファンにとっては少し慰めになるのではないかと思う。私は今まで森田監督作品にはなんとなく苦手意識があったのだが、本作はとても楽しかった。と同時に、こんなに奇妙な映画を撮る人だったっけ?と驚いた。今の映画で、こんなセリフ回しさせる監督はいない(といったら言い過ぎかもしれないがとんと見たことない)んじゃないだろうか。また、背景で小芝居していたり妙な効果音が付いたり、とにかく、えっどうしたのこれは?!とあっけにとられた。しかし全編通して、よくわからない多幸感にあふれている。これは何なんだろう・・・と自問しながら見ていた。主演の松山ケンイチと瑛太がかわいい(笑)からというのは多々あるのだが、何より、登場人物たちが皆、自分の生活を楽しんでいるからかもしれない。
 小町も小玉も、大企業か町工場かという違いはあれど、それぞれ仕事は「出来る」人間だ。ただ、この人たちは仮に仕事がそれほどできる人間じゃなかったり、上手くいかなかったとしても、人生はつまらないとは思わないんじゃないだろうか。それは、小玉の父親にしても、小町と小玉が知り合う鉄道マニア(ピエール滝)も同じだ。彼らには仕事の他に趣味があり、楽しみ方はそれぞれ違うが堪能し、楽しさを分かち合っている。そして辛いときは趣味が支えになるのだ。落ち込んで電車を見に行く小玉の姿にはつい共感してしまったし、Nゲージを眺める姿には映画を見ているこちらも幸せな気分になる。
 また本作、「縁は異なもの味なもの」という言葉に終始貫かれている。ともすればご都合主義と言われかねないが、なぜかそういう感じがしない。だってどこで何があるかわからないじゃないか!いいんだよこれで!といわんばかりの妙なテンションの高さがあって妙に納得してしまった。
 趣味に熱中する青年2人の姿に対し、上司・親世代は、一昔前、高度経済成長期の「働く人」っぽく描かれているのが面白かった。今時あんな接待、地方とはいえあるのかなとちょっと思った。特にのぞみ地所の社長や取締役のやりとりは昭和の日本映画みたいだな~と(キャスティングもなかなか)。楽天的でどこか長閑だ。本作、小町が日本各地に転勤する『釣りバカ日誌』的なシリーズに出来るんじゃないかと思ったくらい。
 なお首都圏の鉄道の他、九州のローカル線が多々登場する。ロケーションすばらしい!これは乗ってみたくなる。電車をばんばん見せるエンドロールもよくわかっていらっしゃるという感じ。




『KOTOKO』

 シングルマザーの琴子(Cocco)は幼い息子・大二郎を育てているが、周囲の人が2人に見える現象に苦しんでいた。神経過敏になった琴子は虐待を疑われ、大二郎は姉夫婦にひきとられた。一人になった琴子を、小説家・田中(塚本晋也)が訪ねてくる。たまたま彼女の歌を聴いて惚れこんだのだという。琴子と田中は一緒に暮らし始めるが、彼女のリストカットと田中への暴力は次第にひどくなっていった。監督は塚本晋也。
 塚本監督がCoccoに惚れ込んで撮ったんだなとしみじみわかる。Coccoも監督の思い入れに全力で応える、渾身の演技なのだろう。この人こんな顔していたっけ?こんな感じだったっけ?と思わせられる、様々な顔を見せている。監督と俳優の相思相愛、かつ遠慮ないぶつかり合いにより成立している作品だと思う。ただ相思相愛すぎ(というよりも塚本がCoccoに入れ込みすぎ)で、見る側にとっては距離感を感じさせることもあるのではないか。まずCoccoありきの映画なので、彼女の作品世界が苦手な人にはなかなかきついだろう。
 もっとも、Coccoのファンであろうとなかろうと、なかなかきつい、ヘヴィーな話ではある。琴子は、世界中が大二郎を脅かしているのではという恐怖に駆られている。道ですれ違う人が大二郎に敵意を抱いているのではと恐れ、交通事故や傷害事件のニュースを見ては大二郎も同じ被害にあうのではと恐れる。彼女の「何もかも怖い」という状況は、塚本監督の『悪夢探偵2』に登場した、主人公の母親(市川実和子)を思い出させる。琴子はこの母親の延長線上にいる女性なのではないかと思った。琴子の恐怖は、母親として子供を愛しているが故に増大していく。子供を心配するあまり、そんなに怖いことばかりの世の中ならいっそこの子も死んだ方が、と思いつめてしまうのだ。愛が深すぎて一回転して暴力になってしまう。
 一方で、琴子の一人称ホラーぽくもある。彼女には人が2人に見える/世界が2種類に見える時があり、不安が大きくなるにつれこの2種類の落差が激しくなっていく。自分が見ているものが他の人には見えていないんじゃないか、自分はおかしいんじゃないかという、自分が信じられないシチュエーションは怖い(琴子はあまりそのへんに疑問感じてないみたいだけど・・・)。そもそも田中も彼女の想像の産物なのでは?と思ってしまった。




『ルート・アイリッシュ』

 イギリス軍特殊部隊出身の民間傭兵ファーガス(マーク・ウォーマック)は、バグダッドに赴任していた同僚で幼馴染の親友・フランキー(ジョン・ビショップ)が死んだという知らせを受ける。フランキーは、バグダッド空港としないのグリーンゾーン(米軍管理地域)を結ぶ、最も危険な道路「ルート・アイリッシュ」移動中に攻撃されたらしい。ファーガスは当局の発表に不信感を抱き、独自に調査を始める。監督はケン・ローチ。
サスペンス風のストーリー、そして主人公が傭兵で腕っ節が強いという、ぱっと見ケン・ローチらしからぬストーリーだ。展開はスピーディーで、エンターテイメント性も高いと思う。だが、やはりケン・ローチはケン・ローチ。今の世界でこれが問題だと思う、というものに対して声を上げている。今回取り上げられているのは民間軍事会社だ。
 主人公であるファーガスは元イギリス軍兵士で、自分で傭兵会社を起こしているので、元々は戦争が悪い(社会的にはない方がいいだろうが自分にとっては飯の種で善悪判断するようなものではない)、軍事産業が悪いとは思っていない。しかし、フランキーの死に疑問を持ったことで、自分も関わっていた民間軍事会社の暗部に気付いてしまう。彼はフランキーの無念を晴らし真相を解明する為に奔走するのだが、やがて、その「暗部」には自分もまた関わっていて部外者ではないのだということに気付いていく。気付くというよりも、見ようと思えば見えたはずのものを今まで見てこなかったと言った方がいいのかもしれない。最初、軍事会社の思惑についてのファーガスの語り口が妙に他人事ぽくて違和感を持ったのだが、彼にとってはあの段階では確かに他人事だったのだろうと思う。ある事態をきっかけに、自分も「奴ら」の側の人間だと確信してしまったファーガスが選ぶ道は、あまりに痛ましい。しかし彼にはもう他の選択は出来なかったのだろう。
 見えたはずのものを見てこなかったという点では、フランキーの妻・レイチェル(アンドレア・ロウ)も同様だ。彼女はフランキーの死後、彼の仕事についてもっと聞いておくべきだったが疎ましくもあり聞けなかったと洩らす。そして、戦場での体験を共有するファーガスに怒りをぶつけるのだ。でもレイチェルのそこまで見たくない、ちゃんと知っておいたほうがいいのだろうがつい保留してしまうという心情はすごく良く分かる。
 ファーガスの人となり・生活の見せ方が無駄なく的確。冒頭から喧嘩っ早くアルコール依存症気味である、激昂しやすい性格であるという部分が後半になって響いてくる。また、意外といい部屋に住んでいるのでお金は持っている、軍事産業って儲かるんだな~ということがわかったり、そこそこ裕福なはずなのに室内は殺風景(ベッドが簡易ベッドなのには驚いた)で生活の快適さにはあまり重きを置いていないことがわかる等、セリフ以外の部分で「こういう人」だとわかってくるところが上手い。拷問の仕方がシンプルだったり、失明した友人が夜中に魘されたりしているところから、彼の仕事の過酷さが垣間見られるというのもさりげなくてよかった。




『ヴェルクマイスター・ハーモニー』

 ハンガリーの田舎町。郵便配達夫の青年ヤーノシュは、老いた音楽研究家エステルの世話をしている。エステルの別居中の妻は、風紀取り締まり運動に参加するようエステルに話してほしいとヤーノシュに頼む。一方、町には移動サーカスがやってきた。目玉の見世物は“クジラ”と、“プリンス”と名乗る男。“プリンス”は住民を煽り、町に不穏な空気が流れる。監督はタル・ベーラ。2000年の作品となる。
 最新作『ニーチェの馬』と比べると、やっぱりこの頃は若かったのか・・・。ここ10年で飛躍的に上手くなったんだなぁとしみじみ。『倫敦から来た男』や『ニーチェの馬』では執拗な長回しが見られるが、本作はまだその長回しや、2時間半近い尺に、画が耐え切れていないように思った。大分間延びしている部分もある。ただ、妙な迫力があるのは変わっていない。冒頭の、居酒屋にヤノーシュが入り、客達が太陽と地球と月を模して踊り始めるシーンからして、
 所々、すごく怖い、緊張するシーンがあった。エステルの妻と、その愛人である警察署長が踊るシーンがあるのだが、警察署長は酔っ払っており手には拳銃が。今にも暴発するんじゃないかと不安でしょうがなかった。また、広場には次々に男たちがたむろってくるが、なぜか皆不機嫌でヤノーシュを敵視してくる。“プリンス”が町の人を煽っているらしいが、彼の声や姿は直接的には現れない。カリスマが不満を抱えた民衆を煽って暴動を起こさせる、その暴力はより無力な層(本作の中では病院の入院患者)に向かうという展開は、本作の10年後である現在、さらにシリアスな問題に感じられた。




『アーティスト』

 1927年のハリウッド。サイレント映画の大スター、ジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)は、女優志望のペピー(ベレニス・レジョ)と出会う。ペピーはジョージの大ファンで、彼と共演する日を夢見ていた。1929年、トーキー映画が登場し、サイレントに拘っていたジョージは落ち目に、逆にペピーはスターへと躍進していく。監督はミシェル・アザナヴィシウス。第84回アカデミー賞で作品賞、主演男優賞、監督賞など5部門を受賞しているが、いわゆる大作・傑作というわけではなく、むしろ小気味よく愛すべき小作という印象。サイレント映画や当時のハリウッドに関する知識があればより面白いだろうが、さほど知識のない私でも十分に楽しめた。
 今時モノクロ、サイレントというかなり挑戦的なスタイルだが、意外と違和感は感じない。サイレントといっても音楽が入っている時点で厳密な意味ではサイレントではない(サイレント映画はフィルム自体に音が付随してないので上映中にオーケストラが演奏したりするんですよね)し、「メタ・サイレント」とでも言えばいいのか、音がない(が自由に入れられる)ことを逆手にとった演出もされている。この演出、私はジョージのトーキーに追い詰められている感が出ていて上手いと思ったのだが、やりすぎっぽくて嫌だと思う人もいるかもしれない。
 サイレントとトーキーとでは、自ずと役者の演技の種類も違ってくる。サイレントは、もう端的に役者の身体性によって成立しているんだなということが良くわかった。デュジャルダンにしろレジョにしろ、ちゃんとサイレント映画っぽい演技になっているところがすごい。トーキーで同じ演技だったら、多分クドすぎてコントのように見えるだろう。
 ジョージはいわゆる昔の「大スター」で、ペピーはもうちょっと身近な、きさくさのあるスターだ。時代の移り変わりによりスターのあり方も変わってくる。そしていずれ、映画からテレビへ娯楽が移行し、スターらしきスターがいなくなるんだろうなとちょっと切なくなる。本作は、サイレントからトーキーへと変化しても、変わらない人の心があり、映画の核のようなものがあると描いているが、本作の中のサイレントが置かれている、現在の映画が置かれている状況にも見えてしまう。果たしてこの先に何かあるのか、本作におけるトーキー的なものはあるのかとぼんやり不安にもなった。ジョージに対するペピーのひたむきな愛(時にいきすぎ感がある)は、映画ファンが「映画」に向ける愛のようにも見えるのだ。
 



『別離』

 中学生の娘を持つシミン(レイラ・ハタミ)とナデル(ペイマン・モアディ)夫妻。妻シミンは娘の将来を考え、国外移住を希望するが、夫ナデルはアルツハイマーの父を抱えている為反対し、ついには離婚話に発展してしまう。シミンが実家に戻った為、ナデルは家事手伝いとしてラジエー(サレー・バヤト)という女性を雇うが。監督はアスガー・ファルハディ。
 ナデルとシミンの夫婦間の食い違い、特にナデルがシミンの意図(なぜ国外に出たいのか)をあまり理解していない感じが、冒頭から違和感を残す。この意思の疎通の出来ていない感じが、随所で見られる。話しても意図が食い違っているのも、話をちゃんと聞いていないのもある。また、その人の意図がよくわからないというのもある。なんでちゃんと話さないの?と不思議に思うところもあったのだが、双方が勝手にこれは当然、と思って説明を省略してしまうということは良くありそうだ(文化的な問題という部分もあるのだろうが)。
 最も意図がよくわからないのは、ラジエーだろう。彼女の言動は(私達から見ると)その都度ちぐはぐだし、何かを伏せているようでもある。彼女が非常に信心深いという描写はところどころで見られるが、これは信仰を同じくしない人には当然よくわからないし、同じ宗教的な背景を持つシミンやナデルにとっても、あまりぴんとこない部分もあるようだ。当然のことながら信仰心の度合いが違うのだ。
 ただ、ラジエーが何に基づいて行動し、何を懸念し隠しているのかがわかると、事態の構図はすっと見えてくる。この「見えてくる」感は、特殊条件下本格ミステリのトリック的な面白さがあった。ナデルがある人物を追い込むやり方は、ミステリ小説の探偵のようでもある。ただ、ナデルはナデルで隠していることがあり、全く中立の立場、正義の立場などではないのだが。
 登場する誰もが何かを隠しているような素振りで、その何かが隠されているのでは、という気配が見ている側に非常に緊張を強いる。そして登場人物同士も、相手が何か隠しているのでは、本当のことを言っていないのでは、あるいは本当のことを聞かない方がいいのでは、という思いに駆られていく。彼らが「別離」に至るのはその思いに耐えられなくなったという面もあるのではないかと思った。最初に提案された「別離」と全然違う方向にいってしまうのだ。




『少年と自転車』

 児童相談所に預けられた少年シリル(トマ・ドレ)は、また父親と一緒に暮らしたくてたまらず何度も脱走しようとするが、父親(ジェレミー・レニエ)は住んでいた団地からは引越し、連絡もこない。ある日シリルは、美容師のサマンサ(セシル・ド・フランス)と知り合い、週末は彼女の元で過ごすようになる。監督はジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌのダルデンヌ兄弟。
 ダルデンヌ兄弟作品にしては、いつになく日差しの眩しく、色彩も明るい作品だった。厳しい状況を描きながらも、光が差していて温かみがある。ラストは賛否が分かれそうなのだが、これが今の監督の気分なのだろう。2人の人間が本気で関わりあう時の衝突や葛藤、そしてそれによって支え合えるという、監督のこれまでの作品より、一歩ポジティブな作品ではないかと思う。
 色調からだけではなく本作の温かみは、作中の、サマンサがシリルに対して見せる真摯さからも生じていると思う。サマンサはシリルとは赤の他人だ。シリルとは本当にたまたま知り合ったに過ぎない。しかし彼女は、シリルの面倒を見る、彼の人生に積極的に関わることを選ぶ。彼女がなぜそういう決断をしたのかは、具体的には説明されない。そういうタイミングがきたからそう決断した、という風に見える。しかし子供にとって、ちゃんと大人としての責任を果たして接してくれる人がいるということは、希望の一つではあると思う。
 なぜそうしたのか具体的に説明がないという点では、シリルはなぜサマンサに週末里親を頼んだのか、という点もそうだ。サマンサが自転車を取り返してくれたからという経緯はあるのだが、それ以外の部分をまったく知らない人に対して、自分の身柄を預けられるだろうか。これもまた、そういうタイミングが来たからとしか言いようがない。2人とも、重大な決断を比較的さっとしているのだ。この、人生における「その瞬間」が訪れるという所が、非常に映画的でもあり、同時に人生てこういうものだろうなというリアリティも感じさせる。
 シリルを演じたトマ・ドレの身体性が、とても説得力がある。子供が言葉では説明できずに動きに苦しみや悲しみ、おちつかなさが出てしまう様子が生々しい。教師たちに全身で反抗するシーンや、蛇口から水を流しっぱなしにしてずっと触っている、あるいは冷蔵庫の取っ手をずっとパタパタいじっている姿など、よくこういう演技をつけたなと唸った。




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