3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2012年03月

『イップ・マン 誕生』

 1905年、佛山市に暮らす6歳のイップ・マンは親元を離れ、義兄ティンチーと共にチェン・ワンスー(サモ・ハン・キンポー)の詠春拳武館に入門する。やがてチェン・ワンスーは病に倒れ、弟子のツォンソウ(ユン・ピョウ)が跡を継いだ。成長したイップ・マン(デニス・トー)は香港へ留学し、ティンツィー(ルイス・ファン)はツォンソウと共に武館運営に携わっていた。しかし佛山では日本の商人が幅を利かせるようになり、やがて武館にも乗り込んでくる。監督はハーマン・ヤウ。
 実在の武道家イップ・マンを主人公とした、一連のイップ・マンシリーズの前日譚とでもいうべき作品。イップ・マンがまだ修行中だったころを描いている。私の中ではイップ・マンは完全にドニー・イェンのイメージなので、キャストが変わった(10代20代頃の話だからしょうがないんだけど)本作は違和感あるのではと思っていたが、これはこれでいい!主演のデニス・トーは独特の清冽な雰囲気があって、イップ・マンという役柄に良く合っていた。香港留学時の洋服姿も似合う。そして何よりカンフーアクションのキレがいい!何よりもまずカンフー映画なのだ!という意気込みが感じられる。私はカンフー映画にはそんなに詳しくないのだが、知識が全然なくても十分に楽しい。デニス・トーは実際に詠春拳の使い手なので当然アクションは流暢なのだが、これがカンフー映画だ!的な意気込みのある作品だった。序盤のチェン・ワンスーとツォンソウの組み手から始まり、市場での乱闘、イギリス人とのケンカ、薬局の老人(演じているのはイップ・マンの実の息子だそうだ!もう90歳になるそうだが、壊れそうな机をひょいと支えるところなど、動きの滑らかさに唸る)との修行、そしてクライマックスの宿命の対決まで、要所要所でアクションシーンを配置しており澱みがないという印象だった。
 アクション映画としてはキレがいいが、ロマンスや兄弟・師弟愛など人間ドラマ部分はとても古風。イップ・マンと副市長の娘チャン・ウィンセン(ホアン・イー)、イップ・マンにずっと片思いしている幼馴染、幼馴染に思いを寄せるティンツィーの四角関係?は昔の少女マンガに出てきそうだ。また、この手のお話だとかませ犬ないしは道化ポジションになりがちなティンツィーが、武道家としても武館経営者としてもそこそこやり手、何より優しく、結構キャラが立っている。それだに、終盤での急展開は残念。そこに至るまでの伏線が大雑把なので、唐突な感じがした。何よりイップ・マンはそんなことで断定したのか!と突っ込みたくなってしまう。




『サウダーヂ』

 市街地の空洞化が進み、中心街はシャッター通りとなっている地方都市。不況の中、日本人はもちろん、出稼ぎに来ている日系ブラジル人やタイ人らの外国人労働者たちも職にあぶれていた。精司(鷹野毅)はこの街を地元として土方一筋に生きていた。彼の現場に、タイ帰りの保坂(伊藤仁)と新人・猛(田我流)が派遣されてくる。精司はタイ人ホステスのミャオ(ディーチャイ・パウイーナ)と付き合って楽しんでいたが、保坂のタイの話で更にタイへの憧れは強まっていた。一方猛は、所属しているHIPHOPグループ“アーミービレッジ”が日系ブラジル人グループ“スモールバーク”と衝突し、外国人への敵愾心を強めていた。監督は富田克也。
 舞台は甲府市なのだが、こんなに外国人労働者の比率高いの?なじみのない土地なんで、これがどのくらいリアルなのかよくわからない(監督へのインタビュー等々読んだかぎりではかなり肌感覚に近いようですが)。ただ、地域内の雇用が減少しており、すごく閉塞感があるのはわかる(ショッピングセンター建設予定があっても大手ゼネコンが全部手がけて地元の土建業に仕事は回ってこないとかリアル)。精司にしろ保坂にしろ、将来に対して明るい展望は持てずにいるし、そもそも将来なんてあるのか?というレベル。土木業界を見切った精司の親方は、経営自体を止めてしまう。でも精司や猛はこの土地より他に行くあてがない。
 精司はタイへ憧れ、猛は在日ブラジル人を始め外国人への嫌悪を募らせるという、対称的な立ち居地。しかし、どちらも見ていて居心地が悪い。好意・悪意の違いはあるが、2人とも相手(タイないしはブラジル人)のことを一方的に憧れ・敵視していて、彼らにどういう背景があるのかということは意識になさそうなのだ。自分のイメージの中で勝手に憧れ・敵を作っている感じで、なんでそういう方向にいくんだおうなーと不思議に思った。精司が日本国籍をとろうと思うというミャオに向かって言う言葉は無神経もいいところだし、猛のニワカ右翼もイタイタしい。猛の場合、ステージで面子つぶされたという恨みがあるのだろうが、そこから右傾化していくっていうのはどうもわからない。
 猛のニワカ右翼っぽさもイタイタしいが、彼の後輩であるまひるのイタイタしさは、かなり深刻だ。まひるは一旦上京したものの出戻って、クラブのイベントなどを企画している。昔は暗かったらしいが、今はやたらとポジティブ。彼女はブラジル最高!ブラジルの人ってピースフル!と言うが、それも猛の敵意と同様に幻想にすぎないのだろう。彼女のイタイタしさは、無理やり成功者である自分や、華やかな世界にいる自分を演出している、しかも馬脚が見えているところにある。こういう人って時々いるなぁと、本作の登場人物の中では一番リアリティ(実際にクラブでイベント主催しているとかではなく、そうせざるをえない心境に追い込まれているところが)を感じた。




『キートンの恋愛三代記』

 バスター・キートン、1923年の作品。当然サイレントだ。石器時代、古代ローマ時代、現代の都会という3つの時代を舞台に、その時代ごとの恋愛模様が描かれる。しかしどの時代でも、男はマッチョで経済力を持った者が女性の親から歓迎され、やせっぽちの小男で財産もないキートンは、相手にされないのだった。おそらくキートン自身を含む、非モテ男性の叫びが聞こえてきそうな設定である。この当時から現在に至るまで延々とこの手のネタが途切れないなんて、非モテ男子問題は実に根深い・・・
 キートン作品を見るのは恥ずかしながら初めてなのだが、今更だけど面白いんですね!今となっては非常にベタな笑いではあるが、ベタということは笑いの基本を押さえているということで、多分作られた当時から現代に至るまで、いつの時代に見てもそれなりに面白いのではないかなと思う。それくらい王道感がある。各々の時代の描写は、その時代に対するステレオタイプをパロディ化したようなもの。石器時代には毛皮を着てマンモスや恐竜(コマ撮りアニメーションを使っているのが意外)に乗って移動し、ローマ時代には4頭だての馬車・・・なのだがロバやポニーが混じっていたり犬がひいていたり。馬車を自転車みたいにチェーンで固定するのには笑ってしまった。個人的にはローマ時代ネタに一番笑いを誘われた。ライオンとの交流も妙にかわいい。現代(といっても20年代なわけだが)舞台のパートでは、「移動」が愉快!  
 動きといえば、キートン本人の体の張り方が結構なもの。多分スタントなし(というかスタントという職業が当時あったのだろうか・・)で本人がやっていると思うのだが、すごく身体能力の高い人だったのだろう。運動する身体は面白い、ということを深く理解していたコメディアンだと思う。




『アッシャー家の崩壊』

 ジャン・エプスタイン監督による、1928年のサイレント作品。原作はエドガー・アラン・ポーの小説。友人ロデリックに招かれ、彼が当主となるアッシャー家を訪れた男。ロデリックは取り付かれたように妻マドリーヌの肖像を描き続けていた。
 日本語字幕なしで見た。原作者エドガー・アラン・ポーはアメリカ人なので原語は英語のはずなのだが、映画自体はフランス映画なのでセリフ字幕はフランス語。原作は読んだはずなのだが記憶が定かではなく、話の詳細はわからず漠然と流れが見える程度。
 ボーっと眺めるような鑑賞になってしまったが、ホラー映画の原型みたいだと思った。思わせぶりな映像の反復は見ている側に緊張を強いる。また、カーテンやベールのゆらめき、霧の荒野などは、何ものかの気配に満ちている。幽霊話はこうでないとな~と言いたくなる雰囲気。荒地を風が吹きすさぶ光景は、音が聞こえてきそうだ。個人的に荒野の風景が好きだということもあるが、眺めているだけで楽しかった。
 あと、モノクロ画面だと目の色素が薄い人は、ちょっと人外ぽく見える。自分たちが黒い目を見慣れているせいかもしれないけど。




『サロメ』

 オスカー・ワイルドが1891年に発表した戯曲を原作にした、1923年の作品。監督はチャールズ・ブライアント。サロメを演じたのはアラ・ナジモヴァ。兄を殺して王の座を奪い、兄の妻ヘロディアを娶ったヘロデ王。しかし王はヘロディアの娘・サロメに魅せられる。一方サロメは投獄されている預言者ヨカナーンに邪険にされ、王の前で踊った褒美としてヨカナーンの首を要求する。
 サイレント映画見るのは初めて。劇場の判断で音楽をつけることもあるんだろうが、今回は本当に無音での上映だった。音のついている映画に慣れているので、なんだか奇妙な感じだった。観客が身じろぎする音がダイレクトに聞こえて居心地悪い・・・。
オスカー・ワイルド版が原作だからか、美術面にはビアズリーの挿絵の影響を感じた。衣装にしろセットにしろ、当時としては豪華なのだと思うが、装飾過剰気味で華美。そしてなぜかとてもゲイゲイしい(メイクなどはビアズリーの挿絵の雰囲気に合わせているのだと思うが)。当時はこういうのが流行っていたのか、それとも本作が異色だったのだろうか・・・受け止められ方が気になる。
 サロメ役のナジモヴァは決してスタイルが抜群とか美人とかいう風貌ではなく、むしろ小娘感が強い。サロメというキャラクターの方向性には合っていると思う。また、ヘロディアがすごく崩れた感じになっているのが、ちょっと衝撃だった。
サイレント映画の場合、俳優の演技はトーキーとは大分方向性が違うんだなと思った。当然ジェスチャー重視、パフォーマンス性が高いんだなと。同じ映画という形態ではあるが、トーキーとは別物の娯楽・芸術と思った方がいいのかもしれない。






『クートラスの思い出』

岸真理子・モリア著
ロベール・クートラスは1985年に急逝した、フランス人画家。カード状に切ったボール紙に絵を描いた、6000枚にのぼる「カルト」と呼ばれる連作が知られている。本著は、彼と深い親交があり、作品の相続人である著者による、クートラスの生涯。といっても、伝記というよりは題名の通り「思い出」で、著者がクートラスから聞いた話、著者がクートラスとの交流の中で見聞きし、感じたことが綴られているもの。なので、多分に主観的だしクーストラスの言葉には本当かな?と思うものもある。しかし、そういうものひっくるめて、クートラスという人、そして彼の作品が立ち上がってくるような、いい文章だった。クートラスは画廊に雇われたものの方針(画廊のニーズ)が自分に合わず、すぐやめてしまう。自分の中の作品に対する思いに忠実すぎると、色々な面で世に受け入れられにくいのかもしれないし、作品を見せようという意欲と相反してしまうのかもしれない。作品を売りたがらないという点では、ジョゼフ・コーネルを思い出した(『ジョゼフ・コーネル 箱の中のユートピア』に詳しい)。コーネルもやはり、作品のありかたが非常にプライヴェートな作家だった。著者はクートラスとパートナー的関係で同居していたこともあるが、いわゆる恋人関係とは異なったようだ。2人の人間の愛情のあり方、信頼関係があり方は、美しい。しかし著者にとっては、クートラスを理解し愛し続け彼の信頼に応え続けることは、喜びであると同時に厳しいものだったのではとも思え、また余韻を残す。




『ねじまき少女(上、下)』

パオロ・バチカルピ著、田中一江・金子浩訳
遺伝子操作の弊害による疫病や農作物の伝染病が蔓延し、病気に耐性のある遺伝子組み換え作物しか生産できなくなった近未来の世界。世界経済はカロリー企業と呼ばれるバイオ企業に牛耳られ、石油は枯渇しエネルギーは「ねじまき」と石炭に頼っていた。タイの首都バンコクでは、疫病や違法な遺伝子組み換えを取り締まる環境庁が幅を利かせていた。SF小説は、ある世界を描くという側面が強いのかなと思うが、特に今のSF小説は、この世界をちょっと角度を変えて違う世界に読み替える、この世界の先を演繹する、といった方向性が強いのだろうか。本作は現実の世界と地続き感が強く、こんなこと実際に起こりそうだなと思った(実際、タイで大洪水起きちゃったし・・・)。賄賂大国となったタイ、タイが保管する遺伝子情報を狙う外国企業、そして人間に奉仕することを組み込まれた「ねじまき」少女らがそれぞれの目的で動き、徐々に革命を思わせるような混沌へと突き進む。最後は、新しい種の誕生を予感させゾクっとした。本作に出てくる日本のイメージが、遺伝子操作された生物への忌避感が薄い、むしろ「人工少女最高だよネー!」的価値観の国とされていて笑ってしまった。やっぱり外からはそう見えるのか~。




『大拳銃』

 金策に困っている金属加工工場経営者の男。そこへ知人からわけありの注文が舞い込む。拳銃を作ってほしいというのだ。お金ほしさにやむなく引き受けた仕事だったが、男は徐々に拳銃作りそのものに引き込まれ、ついには破格の破壊力を持つ大型拳銃の製造に成功する。監督は『へんげ』の大畑創。本作は2009年のゆうばり国際ファンタスティック映画祭で、オフシアターコンペティション部門審査員特別賞を受賞した。
 30分の短編自主製作映画で、『へんげ』に比べると当然つたないし更に低予算ぽい。ただ、やっぱりカメラアングルとかは最初からかなりしっかりしていた人なのかなと思った。『へんげ』では実際に何か異形のものに取り付かれ、変化していく男が登場したが、本作の主人公もまた、拳銃に取り付かれて変貌していく。中盤までは殺伐とした犯罪映画っぽいのだが、「大拳銃」が完成すると映画が違うジャンルになったようなテンションの上がり方だ。「拳銃に取り付かれた男」という設定ならもっと違う、リアル寄りの演出でもいけるはずなのだが、そこであえてそれか!というところが面白いし、好みが別れるところでもある。笑っちゃう人もいるんじゃないだろうか(これは予算が限られていて技術的に・・という問題もあると思うが)。
 『へんげ』にしろ本作にしろ、個人の中に隠された暴力性が表面化していく。その表面化によって映画自体のジャンルがずれこんでいくような感覚があった。また、どちらの作品でも女優の起用がうまくマッチしていると思った。どことなくなまめかしくて、この人何かやらかしちゃうんじゃないかなという気配を感じさせる。




『へんげ』

  内田吉明(相沢一成)は奇妙な発作に襲われるようになり、大学の後輩である医師・坂下(信國輝彦)の診察を受けていた。坂下は入院を勧めるが、吉明も妻・恵子(森田亜紀)も入院は拒む。吉明の体は発作に伴い変化していく。その頃、街では通り魔事件が続出していた。監督は大畑創。
 自主制作映画で当然低予算なことが窺えるのだが、実際見てみてるとそんなに低予算ぽくない。絵がびしっと決まっていて安定感があるので、それほどチープ感がないのだ。妙に安心して見ているられる。自主制作映画だが、自己満足ではなく観客を楽しませようというサービス精神がきっちりある作品だと思う。また、出演している俳優陣の熱演も映画を底上げしている。発作に襲われ、徐々に人ならざる者に変化していく吉明の姿は、演じる相沢のどうかしたような動きなくては説得力なかったと思う。また、夫とまさかの帆走をすることになる恵子を演じた森田亜紀の存在感が素晴らしい。妙ななまめかしさがある女優だと思った。
 ジャンルとしては特撮怪獣なのかホラーなのか・・・。ともかくジャンル映画を意識している。その枠内で思い切りやってみよう、という意図ではなかったかと思う。基本この手の映画のお約束を踏まえていると思う(そんなに詳しくないので印象ですが)が、恵子が変化を続ける吉明と同調していく、彼女の行動が規範を外れてエスカレートしていく様により、映画のテンションがどんどん上がっていくのだ。これはもう、愛だよな!と納得せざるを得ない。最後の恵子の叫びは、世界に対する呪いのようでいっそ清清しい。
 吉明に起こった現象について、漠然と言及はされるが何が起きているのか具体的にはわからないところや、祈祷師が理由を言わずに逃げてしまうところなど、設定を明らかにしないところが怖さを強めてる。





『世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶』

 1994年に南フランスで発見されたショーヴェ洞窟内には、300を越える旧石器時代の壁画が残っていた。洞窟内の環境を守る為、内部への立ち入りはフランス政府によって厳しく規制されており、研究活動も期間・人数が制限されている。ベルナー・ヘルツォーク監督に初めて撮影が許可され、洞窟内の壁画が3Dで映像化された。
 原題は「忘れられた夢の記憶」のみなのかな?その方がスマートだが、何の映画かわからないという難点が。内容わかった方が集客できるタイプの作品だと思うので、邦題はまあ無難だろうなぁ。ヘルツォーク監督ということでアート系映画という先入観をもたれそうだが、実際はワールドジオグラフィックをポエジーにした感じのドキュメンタリー。洞窟壁画に興味のある人は見て損しないし、特に興味なくても珍しい映像には違いないのでそれなりに面白いと思う。
 ヘルツォークが3D映画を、しかもドキュメンタリーで撮ったという話を聞いた時は、なぜヘルツォークが3Dを!?とびっくりした。漠然と、フィルム撮影に拘る人なんじゃないかというイメージがあったのだ。しかし本作に関するインタビュー等々を読むと特にそういう拘りはなく、撮影環境や対象に適した機材を使っているだけみたいだ。本作に関しても、これは3Dでないといかんという確信があったのだろう。
 本作、今まで私が見た3D映画の中では、最も3Dで撮るべくして撮ったという説得力がある作品だった。まず洞窟内の映像の生々しさに驚いた。もう本当に内壁がすぐそこに!というくらいの臨場感。ちょっとグロテスクな鍾乳石の数々(ちょっと内蔵ぽい・・)の質感も迫ってくる。そして何より、壁画が鮮やか。これは元々保存状態が良かったという要因も大きいので、2Dで撮影してもそれなりにはっきりとは撮れるだろうが、3Dにしたことで、どういう壁面に描かれているのか、壁画が描かれた壁面の奥行きはどのくらいでどういう風に広がっているのか臨場感が増している。
 そして壁画の保存状態の良さが際立っている!これは本当にびっくりした。筆(実際は棒みたいなもので描いていたようだが)のタッチまでわかる。当然、何が描かれているかも明確にわかる。ほぼ全部が動物の図像なのだが、結構上手い。多いのが馬、熊、牛あたりなのだが、描いた人の個性みたいなものがわかるといえばいいのか、いわゆる「記号」よりも一歩絵画の方向に踏み込んだ感じの(わりと写実的な)図像だった。残された手形等から、あの絵とあの絵は同じ人が描いた、と推定できる部分もあり、3万年以上昔の出来事をこんなふうに垣間見るなんて、と不思議な気分になった。
 研究者のコメントや解釈等も当然挿入されるが、それほどウェイトは占めていない。あくまで洞窟内部を見せることが目的だ。オダギリジョーによる日本語ナレーションが不評のようだが、これはオダギリが下手なわけではなく(上手くはないが普通)、翻訳に問題があるように思った。明らかに日本語として妙な部分があったので。ただ、ヘルツォーク(監督本人がナレーションしている)のことだから何とも翻訳し難いナレーションだったんだろうと思うが。
 最後に原子力発電所と、冷却水の余熱を利用して作られた熱帯植物園、そしてそこで繁殖するワニを挿入するのも、やたらと動物を登用するヘルツォークらしい。




ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ