3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2012年02月

『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女(上、下)』

リスティーグ・ラーソン著、ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利訳
雑誌『ミレニアム』の記者ミカエル・ブルムクヴィストは、大物実業家ヴェンネルストレムの不正を告発するも、逆に名誉棄損で訴えられ敗訴し、休職せざるをえなくなる。そんな折、老舗企業グループの元会長であるヘンリック・ヴァンゲルから、40年前に姪・ハリエットが失踪した謎を解いてくれと依頼される。ミカエルはアシスタントとして雇われた、腕利きの調査員であり天才的なハッカー、リスベット・サランデルの力を得て調査を進めるが、事態は予想外な様相を見せ始める。スウェーデンのベストセラーミステリ。スウェーデンで映画化、ハリウッドでも映画化されたものが目下ロードショー中だ。映画は見たので原作も当たるかと読んでみたのだが、正直なんでベストセラーになったのかぴんとこない。横溝正史をハゲタカでサンドしたような・・・いやハゲタカは違うか・・・、ともかくミステリとしてのバランスがちょっと微妙だと思った。一族のドロドロ絵巻ならそれ1本で1作にしてほしいんだよな・・・。また、ミカエルとリスベットという主役2人にあまり魅力を感じない。ありがちなヒーローとヒロインの立場逆転を意図したのはわかるが、ミカエルが何か鈍い人なのでイラっとするのよ・・・。リスベットも、日本のラノベとかマンガとかにわんさかいそうだし・・・。これは日本だけかもしれないが、ありがちな「女性らしさ」を否定する方向のキャラ付けがむしろ萌えを誘発してしまっていて逆効果な気がした。なお、原題は「女を憎む男たち」。女性嫌悪の質が日本のものとも、あるいはアメリカや他のヨーロッパ諸国のものともちょっと異質な感じがして興味深い。僻みとかホモソーシャルの副産物とかじゃなくてもう本質的に生物として認めていない感じというか・・・。スウェーデンといえば女性の社会進出が進んでいてセックスの自由度も比較的高くて、というイメージだったので、こういう作品が出てくることが興味深い。あと、ヘニング・マンケル作品にも出てきたけど、ネオナチ問題が結構根深いのね。スウェーデン社会の陰の部分が描かれているという側面もあるのか。




『時の地図(上、下)』

フェリクス・J・パルマ著、宮崎真紀訳
1986年、大富豪の息子アンドリューは、ロンドンを騒がさせていた切り裂きジャックに恋人を殺される。悲嘆にくれていたアンドリューだが、西暦2000年へのタイイムトラベルツアーをやっている旅行会社があると聞き、過去に戻って恋人を救えないかと思い付く。しかし旅行社は過去に行くことはできないといい、小説『タイム・マシン』を発行した作家、H・G・ウェルズなら力になってくれるのではと教えられる。タイムトラベルするSFか?!歴史改変ミステリか?!と思いきや・・・いやそういう話でもあるんだけど、うーん何を言ってもネタバレになる!実際にタイムトラベルするとこうなるよな、というのを各人がそれぞれシュミレーションしているような不思議な構造。また、この語り手「私」って誰なんだろうと思っていると、なるほどそうか!と。物語がSF的に大幅に動くのがかなり終盤なので、耐えて読んでほしい。そして同時に、フィクションがもたらすものを描いた小説でもある。ウェルズにかけられる奥さんの言葉にはちょっとぐっときました。




『ニーチェの馬』

 初老の男(デルジ・ヤーノシュ)と娘(ボーク・エリカ)、そして年老いた馬が荒野の一軒屋に暮らしている。男は荷馬車で仕事に出て、娘は家事をする。毎日同じような日々だ。外は風が吹きすさび、徐々に家から出るのも困難になっていく。タル・ベーラ監督の、自称最後の監督作品。ベルリン国際映画祭で審査員特別グランプリと国際批評家連盟賞を受賞。
 題名は、1889年のトリノで哲学者ニーチェが疲労困憊した馬車馬を見かけ、その首を抱き卒倒したというエピソードから。ニーチェはその後正気に戻ることはなかったそうだが、馬はどうなったのか?と監督が思ったことが本作のきっかけになっているそうだ。
モノクロの長回しが多用されているが、非常な緊張感を強いられた。モノクロだと画面内の要素がよりストイックに立ち上がってくるように思う。馬車が進むだけ、人が窓の外を見ているだけのショットがなぜこんなに恐ろしいのだろう。画面の強度みたいなものがはんぱない。普通、単調な動きが続くと一旦カットしたくなるし、見ている側もえっこれでいいの?と不安になることがあると思うのだが、タル・ベーラ監督は執拗にカメラを回す。この長さに耐えられる自信と粘り強さは『倫敦から来た男』でも感じたけど、今作はさらに凄みを増している。正直、画面の力が強すぎて直視しているのが怖いレベルだった。
 男と娘の生活は単調で、毎日同じ手順の繰り返しだ。演じる役者の動きがほぼオートマティックのような、半機械的な流れになっていて唸った。本当に何年も同じことをやっているような動線に無駄のない動きなのだ。ただ、その繰り返しの中にも少しずつ差異がある。そして、何の変哲もない動きなのに、次の瞬間に何か恐ろしいことが起こるのではないかという予兆が常に感じられる。じゃがいも食べているだけのシーンが、食べるシーンが繰り返されるにつれどんどん迫力(というのもおかしいのだが、迫力としか言いようがない)を増していく。
 吹きすさぶ風が不穏さをどんどん強めていき、客人の一人語りや突然現れるよそ者たちが、さらに不安を煽る。世界の終わりが近づき、静かに収束していくかのようだ。1日目から6日間までがカウントされるのだが、聖書による天地創造の逆を辿っているのだろう。7日目には無にかえるのかもしれない。徐々に何かが失われていく終末というシチュエーションには『パーフェクト・センス』を連想したが、『パーフェクト~』は少なくとも愛が残っていたし、人間がいなくなっても世界がなくなるわけではない。本作では世界そのものが神に見放され消え行く運命にあるようで恐ろしいのだ。




『ドラゴン・タトゥーの女』

 雑誌『ミレニアム』の記者ミカエル(ダニエル・クレイグ)は実業家の不正を暴露した記事を書くが、名誉毀損で訴えられ多額の賠償金を払う羽目に。そんな折、老舗コングロマリット一族の長であるヘンリック(クリストファー・プラマー)から、40年前に起きた失踪事件の謎を解いてほしいという依頼を受ける。失踪したのは当時16歳だったヘンリックの姪ハリエット。一族が住む孤島に向かい、調査を開始するミカエル。彼のアシスタンとして、腕利きの調査員であり有能なハッカーである女・リスベット(ルーニー・マーラー)が加わる。監督はデヴィッド・フィンチャー。原作はスウェーデンのベストセラーミステリで、本国で『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(ニールス・アルデン・オプレヴ監督)として映画化もされている。本作はそのハリウッドリメイク(というか再映画化)になる。
 監督と脚本が違うと、こうも流麗になるかと感心した。撮影・編集は圧倒的に本作の方が上手いと思う。私は『ミレニアム~』も見たが、正直かったるくてあまり面白いとは思わなかった。本作はそのかったるさがない。全てスムーズに滞りなく処理されていくなという印象だった。情報の見せ方の要領がいいので本格ミステリとしては本作の方が親切。またリズム感は本作の方がいいと思う。
 ただ、あまりに流暢なので、逆に記憶に残りにくい。ひっかかりのあるシーンがないのだ。私がミカエルとリスベットという主役キャラクターにあまり魅力を感じなかったというのもあるのだが、全体の印象がぼんやりとしてしまっている。強烈なことが行われているシーンはあるのだが、なぜだか印象が薄い。流暢すぎるのも考え物か。
 本作の原題は『The Girl with the Dragon Tattoo』なのだが、ルーニー・マーラーによるリスベットの造形は、確かにスウェーデン版より「Girl」寄りになっているように思った。風貌もなのだが、しぐさとか喋り方とかにあまり生々しさがない。そこがエンターテイメントとしてはとっつきやすいがちょっと難点でもあると思った。完璧すぎて、日本で言ったらいわゆる「戦闘美少女」的と見えなくもない(男性からひどい暴力を受けても壮絶な復讐&口止めするし)。「リスベット萌え」みたいなものが成立しちゃいそうなところが心配、多分、原作者の意図に反しているんじゃないかと思う。原作的には「Girl」じゃなくて「Woman」のはずなんだろうなぁ。もっとも、「Girl」の方が日本でのウケはいい気はする。
 ちなみに本作のヒロインはリスベットじゃなくてミカエルなんじゃないかと思う。ダニエル・クレイグに老眼鏡を装備させると破壊力が高いと痛感した。部屋着の下がチェックのパジャマぽかったり、ざっくりしたカーディガン着ていたりと色々ステキだった。




『ハンター』

 プロのハンター・マーティン(ウィレム・デフォー)は、絶滅したといわれるタスマニアタイガーの生体サンプル入手をバイオテクノロジー企業から依頼される。企業はタスマニアタイガーの遺伝子情報を独占したがっているのだ。マーティンは、タスマニア島での宿泊先としてある民家を紹介される。その家には幼い姉弟と、母親のルーシー(フランシス・オコナー)が暮らしていた。ルーシーの夫は大学の研究者だったが、フィールドワークで森へ入ったまま行方不明になっていた。監督はダニエル・ネットハイム。
 何よりもロケ地であるタスマニア島の森や荒野の風景に魅せられる。美しく雄大というよりも、森にしても平原にしてももっと荒っぽい、ゴツゴツした雰囲気がある。場所と撮影の力がすごく大きいので、その他が若干弱くても結構見られてしまう。森や荒野が出てくる映画は、そこを移動していくだけで結構絵になる(撮影が上手ければですが・・・)。
 マーティンがタスマニアタイガーを追って奥地へ入っていく過程は、異界へと分け入っていくかの様でぞくぞくした。ルーシーの家が異界と人間の世界との境目にあるような場所に思えた。伐採場や町のバーはすごく殺伐しているし、よそ者に対して排他的だし開発派と自然保護派に分かれてぎすぎすしていて生臭いことこの上ないのだが、ルーシーの家は建物のたたずまいも、家の中もどことなくファンタジック。庭の木にスピーカーが取り付けてあったりするのも子供の遊び場のようだ。マーティンはこの家を足場として、両方の側を行ったりきたりしているように見える。
 割と普通な人を演じているデフォーを久しぶりに見たの(笑)。セリフはそう多くないものの、マーティンという人がどういう人か伝わってくる。冒頭で見せる潔癖症・完ぺき主義を思わせる整然とした自室や、入浴時のルールと、野営も辞さないハンターとしての姿が対称的。でもあの完ぺき主義があってこそのハンター仕事なんだろうと思わせる。子供に不慣れな感じも可愛らしかった。




『夜の真義を』

マイケル・コックス著、越前敏弥訳
1854年10月、エドワード・グラプソンは見ず知らずの男を路上で殺した。彼はなぜそのような行為に至ったかを語り始める。彼には復讐を誓った仇敵がいた。それはかつての同級生であり、著名な詩人となったフィーバス・ドーントという男だった。19世紀イギリスを舞台とした復讐劇。エドワードの手記という形を取っており、当時の大衆文学のようなちょっと大仰な表現だったり、エドワードの主観がやたらと強かったり(ドーントのことをあまりに毛嫌いするのでてっきり叙述トリックでもあるのかと思った(笑))と、「当時の手記」を徹底的に模している。現代の人が書いた時代小説、ではないスタイルなのだ。リサーチと作りこみは徹底していると思う。当然時事ネタ、当時の文学ネタも満載でペダントリィに満ちている。エドワードの思い込みの強さ、憎悪の激しさが鼻に付くところもあるし、展開がかなり強引な部分もあるのだが、そういう部分も込みで、「あの時代の娯楽小説」ぽいのではないかと思う。回りくどい文体・構成にもかかわらずリーダビリティは高くぐいぐい読まされた。




『人生はビギナーズ』

 38歳、独身のイラストレーター・オリヴァー(ユアン・マクレガー)は父親をガンで亡くした。父・ハル(クリストファー・プラマー)は長年連れ添った妻の死後、ゲイであるとカミングアウトし、恋人や友人を作って人生を謳歌していた。ハルの死後落ち込み気味なオリヴァーを、友人達は仮装パーティーへ連れ出す。オリヴァーはそこで女優のアナ(メラニー・ロラン)と恋に落ちる。監督はマイク・ミルズ。
 ハルの死後、オリヴァーが父親のことを思い返す過去のパートと、アナとの現在進行している恋愛模様が入り混じる。メインになるのはオリヴァーとアナの関係なのだが、正直、オリヴァーとアナのお仕事が妙にふわーっとしていたり、2人のデートがファンタジックすぎたりで、現在パートにはあまり乗れなかった。ちょっと浮世離れしすぎというか少女マンガ的すぎというか・・・。監督の前作『サムサッカー』の方が心に刺さるものがあった(これは私がどこに問題を持っているかということなんだろうけど)。
 オリヴァーとハルのやりとりの方が、身に染みる部分と相まって面白い。特に、ハルがオリヴァーのある言葉に「だから心配なんだよ」と返す。これがもう、耳が痛くてですね・・・。慎重なのと億劫なのと妙に乙女なのが入り混じってオリヴァーみたいな返事になるわけだが、親から見たら危なっかしいし「そんなんじゃ物事進まないぞ」と心配になるんだろうなぁと。自分も親にやきもき・心配させているんだろうなと申し訳なく・・・
 オリヴァーは何をやるにしても一歩踏み出すのに躊躇するタイプ。新しいことを始めるのが怖いというのはすごくよくわかるだけに、他人事とは思えない。そしてオリヴァーはおそらく、晩年になって色々なことを試してみるようになったハルを見て釈然としない(親の新しい側面を見るのってちょっと複雑ですよね)と同時に羨ましかったんじゃないかと思う。
 しかし、そのハルもガンであることを恋人や友人には言えず、病気ではないように振舞ったりもする。年齢を重ねカミングアウトに至った彼も、癌患者、そして死を迎える人間としては初心者で、上手く振舞えるわけではない。また、自由奔放なアナも父親のことで悩んでいたり、生真面目なオリヴァーとの関係で戸惑っていたりする。誰しも「ビギナー」な部分があるのだ。そこを通過しないと見えてこないものもあるのだろうが、一歩を踏み出すのがなかなかきついんだよねぇ・・・と身につまされる。
 ユアン・マクレガーがとてもキュート。様々なバリエーションの困り顔を披露している。そしてユアンが話しかける犬がまたかわいい。私は犬はちょっと苦手なのだが、それでもすごくかわいいなと思った。この犬も困り顔をしている(笑)。




『J・エドガー』

 FBIの創設に携わり初代長官を勤めたエドガー・J・フーヴァー(レオナルド・ディカプリオ)。老いた彼は回顧録作成の為、自らのキャリアを筆記者に語り始める。監督はクリント・イーストウッド。素晴らしかったです。オスカーノミニーから外れたのが非常に残念。
 フーヴァーの伝記映画のようであるが、そこから一ひねり、二ひねりとツイストをきかせてくる、ある意味いびつな作品でもある(ラストの、構造上予想はされたある反転は本格ミステリのような味わいもある)。ストーリーはフーヴァーが筆記者に語った内容ということになっているが、回顧録の内容として絶対に口にしないであろうエピソードも出てくる。時間軸が行ったりきたりするだけでなく、オフィシャルな自伝としてのストーリーとプライベートな思い出としてのストーリーが混在してくるのだ。この為、構造に不思議な捩れが感じられる。(この映画においては)彼自身がかなり捩れた人物とも言える。彼が正義だと思っていたことが、やがてそうは見なされなくなってくる。テロリストの暴力と戦う為に自らが発した言葉が、最後には全部自分に返ってくるというのも皮肉だ。
 フーヴァーは仕事に関しては有能だし先見の明もある。自ら言っているが、相手の本質を見抜く力がある。しかしこれが仕事抜きになると、人間関係スキルの低さが露呈する。後に腹心の秘書となるヘレン・ガンディ(ナオミ・ワッツ)と出会うとあっという間に結婚を申し込みどん退きされる。また、クラブで世慣れた社交界の女性達と世間話的な盛り上がり方は出来るが、いざ誘われるとあたふた退散してしまう。女性に対する性的な関心がないというのも一因(本作ではフーヴァーは“隠れゲイ”として描いている)なのだろうが、公私にわたるパートナーであるクライド・トルソー(アーミー・ハーマー)に対しても、それはあんまりじゃ・・・という振る舞いがあり、空気読めないにもほどがある。人の弱みを握るなど損得判断はできるが、人の心の機微はわからないのだ。ちょっとアスペルガー症候群ぽい側面もある。数十年に渡る物語なのに身近な人間がごくわずかしか出てこないのは、仕事以外での人付き合いの不得手さのせいかもしれない。
 さてトルソーとの関係だが、フーヴァーが人前で自分はゲイであると認めたことはまずないだろう。彼がことさら「男らしく」振舞うのには、母親の存在が大きく影響している。母親は「出来のいい息子」「男らしい息子」を欲している。薄々息子が女性に興味がないと気付いているが「女々しい息子なんて最悪」と先手を打つ。母親の要求によりマッチョに、強い男として振舞わざるを得なかった息子、という姿が本作では描かれていく。しかしそれは、自分の一部を殺していくことだ。母の死の直後、母のドレスとアクセサリーを身に当てる姿はあまりに痛々しい。監督であるイーストウッドといえば、かつてはアメリカ映画の男らしさのアイコン的な俳優でもあったと思うが、そういう人が本作のような作品を撮ったということには、何か感慨深いものを感じる。
 ツイストのきいたいびつな作品、と前述したが、本作はいわゆる伝記映画のようであるがそうとも言えず(1人の男を描いていることは間違いないが)、アメリカのある時代を写し取った作品でもあり、そして最終的にはメロドラマである。1人の人間が愛に辿りつく、愛を自覚するまでの長い長い道のり・・・というあまりに王道、古典的なラブストーリーをここにきて撮ってしまうイーストウッドはやはり何か、すごい。 




『マシンガン・プリーチャー』

 刑務所から出所した元麻薬売人のサム・チルダース(ジェラルド・バトラー)は酒と麻薬に溺れた生活をしていたが、ある事件により信仰に目覚め、生活を一新して建設会社を経営するまでになる。ある日、牧師の話に感銘を受けてアフリカ、スーダンにボランティアへ行く。しかしそこでサムが見たものは、子供達がLAR(神の抵抗軍)にさらわれ兵士にされている現実だった。サムはスーダンに孤児院を建設し、自ら子供達を守る為戦い始める。監督はマーク・フォスター。
 予告編だと勇気ある美談!みたいな感じだが、決していわゆる「いい話」ではなかった。サムは自分の信仰、自分の信じる正義の為に行動しているが、他人から見ると狂気のように見えるのだ(フォスター監督も演じるバトラーもそれに自覚的だと思う)。自分にとって正しいことが他人にとっても正しい、という想定が彼にはない。なので、加熱していく説教(牧師じゃなくても教会立てられるし説教できるのだろうか)に地域住民も友人たちもどん退きしていく。
 また、自分の使命にのめり込むほど、家族との距離は離れていく。娘はアフリカの子供達の方が大事なの?!となるし、妻は家計を犠牲にする夫についていけなくなる。彼女達にとっては、サムはまず父親であり夫で、自分達のそばにいて守ってくれないと、父親・夫としての責任を全うしているとは言えないのだ。
 サムの行動は正しいことは正しいし、目の前にいる子供を助けたいという気持ちも肯定されるものだろう。ただ、どこまでやればいいのか。彼のやり方だときりがないように思う。確かに彼が介入した時は子供達は助かるのだろうが、LARは何度も襲撃してくるし、子供達が自活していく術もない。長い目で考えれば、他国の協力を仰ぎLARへの圧力をかけ交渉し・・という国の状態自体を変える必要があるのだろうが、彼にはそういう視点はない(そもそもスーダンで彼は部外者だ)。本当にそれでいいのか?この先子供達はどうなるの?と気になった。
 なお、サムが通っている教会は、礼拝時にポップス風なクリスチャン・ミュージックを歌ったりする庶民的な雰囲気。地域の住民層や宗派によって教会の雰囲気はかなり違うみたい。サムがいきなり教会建てたりするのには驚いた。個人で建てていいものなの?




『都市と都市』

チャイナ・ミエヴィル著、日暮雅通訳
欧州にある都市国家ベジェルとウル・コーマ。この2つの国は地理的にはほぼ同じ位置にあるのだが、それぞれの領地が複雑に入り組みモザイク状になっている。ある日ベジェルで若い女性の他殺死体が発見される。ベジェル警察のボルル警部補は調査に当たるが、事件は2つの国にまたがる様相を見せ、謎の組織や封印された歴史までもが絡んできた。現代が舞台(ハリーポッターが流行ってたりするので現代でしょう)で現実と地続き感はあるが、2つの都市の設定だけSFないしはファンタジー混じり。2つの都市国家は壁等で区切られているわけではないので、隣の家が別の国(立ち入ったら当然不法入国)だったりする。そして、距離的には近くても、お互い「見えないことにする」というのが非常に面白い。当然、隣の家の人や通りの向こうの人は近くにいるから見える。が、見えていても見えないものとして処理するという習慣がどちらの国民にも徹底されているのだ。「見て」しまったら、あるいは境界を越えたら罰せられる(これを行う「ブリーチ」という行為・組織が問答無用でまた怖いんだ・・・)。不条理小説のようだが、これが日常的に行われているとどういう感じになるか、ということがシュミレートされていて大変面白い。でも似たようなことは日常的に行われているかもしれないなとも思った。小さい所だと都市部のホームレスとか酔っ払って道に寝ているような人とか、大きなところでは旧東西ドイツだったり、エルサレムだったり、また移民問題だったり。フィクションとして客観的に見ると、変な状況なんですよね。「見ていないことにする」行為の傍から見た薄ら寒さみたいなものを感じた。著者は政治的な意図はないと明言しているそうだが、優れた文学は、著者の意図の度合いによらず時代を反映するものなのだろうと思う。




ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ