3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2012年02月

『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』

 少年オスカー(トーマス・ホーン)は9.11テロで父トーマス(トム・ハンクス)を亡くすが、その死を受け入れられずにいた。1年後、父のクローゼットから見覚えのない鍵を見つける。父親と一緒にやった調査探索ゲームのように、オスカーは鍵に合う鍵穴を探し始める。そこに、父親が残したメッセージがあるとオスカーは考えていた。監督はスティーヴン・ダルトリー。原作はジョナサン・サフラン・フォアの同名小説。
 オスカーの振る舞いは、受け入れ難いと思う人もたくさんいると思う。妙に理屈っぽく、過剰に慎重で、ちょっと面倒くさそうな子だ。自宅マンションの警備員に対するへらず口は少々いきすぎだと思うし、鍵穴を一緒に探すことになる老人に対しても結構な無礼さ。見た目はすごくかわいらしいが、実際にこんな子供が身近にいたら腹立つだろうなー。父親の葬儀で「棺はどうせ空っぽなのに」と言うのも、生意気な子供がいかにも言いそうなセリフだ。
 ただ、見ているうちにオスカーの面倒くささは、オスカー自身も持て余しているもので、これはこれで本人大変かも、と思えてくる。オスカーは全ての事象に文脈を見出しがち(だから逆に、文脈・理由のない事柄には混乱する)で、彼の頭の中はそういう文脈・ストーリー(後に、もっと深刻な事情があるとわかってくるのだが)でいっぱいいっぱいだ。題名の「ものすごくうるさくてありえないほど近い」は彼の頭の中に溜まっている声のことでもあるのだろう。
 オスカーがどういう子かわかってくると、父親との「調査探索ゲーム」の別の姿が見えてくる。子供と父親が一緒に遊ぶという以上に、父親が、子供がこの世の中でなんとかやっていけるように、彼にわかるような説明のしかたで必死で道筋つけていたんだなと、はっとした。そして、父親との親密さ故に距離が出てしまう母親もまた、父親と同じことをしていた。オスカーが父親を慕う物語の向こうに、両親が子供の人生を何とか助けようとする物語が見えてきて、むしろそちらのほうにぐっときた。
 良作だと思うが、疑問も残る。父親がテロに巻き込まれて死んだ、つまり9.11が背景にある理由が見えてこないのだ。愛する人を失った時にどうすればいいだろう、という普遍的なテーマであれば、交通事故でも病気でも別に構わない。オスカーの母親は「パパが死んだのに理由なんてない」と言うが、父親の死には確かに理由はないかもしれないが、テロには理由があるはずだ。9.11を持ち出すならそこに迫ってほしい。やはり9.11が関わるマイク・バインダー監督『再会の街で』を見た時にも思ったのだが、テロによる死者を悼むところで終わってしまっている。その先に言及するには、まだ時間が必要なのだろうか。




『おとなのけんか』

11歳の少年同士のケンカで、ザッカリーに棒で叩かれたイーサンが前歯を2本折った。ザッカリーの両親、弁護士のアラン(クリストフ・ヴァルツ)と投資ブローカーのナンシー(ケイト・ウィンスレット)夫妻は、イーサンの両親である金物店経営者のマイケル(ジョン・C・ライリー)と作家のペネロピ(ジョディ・フォスター)夫妻を訪問。示談は無事纏まるかのように見えたが、徐々に4人の雰囲気は険悪になっていく。監督はロマン・ポランスキー。
ポランスキー先生どうしたんですかと言いたくなるような軽妙で楽しく大笑いできた作品。そして80分足らず(ほぼドラマとリアルタイム)という素晴らしいサイズ!原作は戯曲だそうだが、さらにタイトになっているようだ。脚本・脚色のキレがいい。
最初は子供のけんかを巡る示談話なのだが、段々言い合いになり、話の脈絡も「こどものけんか」からズレてくる。子供のことではなく、お互いがお互いのことを中傷しあうという、まさに「おとなのけんか」の様相となってくるのだ。話がどんどんズレていくところが実にケンカっぽくておかしい。さあこれで話は終わり~、と思ったら妻/夫が余計な一言を言ってさらにその場が延長されるという、全てにおける間の悪さがまたおかしくて笑ってしまった。
4人それぞれのキャラクターのバランスも面白かった。のらりくらりとしており、自分の仕事にしか興味がないアラン、スマートに取り繕ろうとするナンシー、一見いい人なマイケル、インテリ・リベラルなペネロピというそれぞれのキャラクターがぶつかり合い、本音が露呈していく。特にペネロピ役のフォスターは、ある意味セルフパロディのような役で、イメージアップなのかダウンなのかわからないことに。この役をフォスターに振った監督はかなり意地が悪いと思う。文字通り体をはっているウィンスレットよりも、パブリックイメージの強さもあって衝撃、というか笑撃がある。また、ヴァルツのすごくいいかげんそうな風体は見ているだけでおかしい。俳優のイメージを上手く利用したキャスティングだなと思った。
4人の論争中、話の論点もズレていくのだが、敵味方の陣営がどんどん組み変わっていく。これが面白い。夫婦対夫婦のけんかだったのが、徐々に「だから夫ってイヤね!」VS「だから妻ってやつは!」という男女の戦いになり、ふいにまた夫婦対夫婦に戻っていく。「共通の敵がいると盛り上がる」という人間関係のいや~なところが上手く出ている。



『ドライヴ』

ジェイムズ・サリス著、鈴木恵訳
養父母の元から逃げ出し、カリフォルニアで映画のスタント・ドライバーとなった青年。やがて運転の腕を買われ、逃走車輌の運転手として裏社会でも活躍するようになる。ある日、彼が運転を請け負ったヤマが仲間割れにより失敗。なんとか逃げ延びた彼は、苦境を切り抜ける為の勝負に出る。本作を原作とした映画がもうすぐ公開される(題名は原作と同じく『ドライヴ』)ので、予習として読んでみたのだが、これが面白い!このテイストを再現しているのなら映画も相当面白いと思う。過去と現在を行き来し一つの時点にたどり着く、ともするととりとめのない構成なのだが、主人公である「ドライヴァー」のつかみどころのなさと共鳴しているように思う。文体はドライで簡潔。そっけないと言ってもいいくらいだ。しかしグルーヴ感があり(これは翻訳もうまいのだと思うが)それこそドライブしているみたいだ。そしてちょっとしたところが繊細。主人公の一見わかりにくい誠実さや真面目さ(自覚はあまりないみたいだが)、落とし前の付け方にぐっとくる。ちりばめられた映画や小説に関わる小ネタも魅力だった。映画と合わせて楽しみたい。




『3本の緑の小瓶』

D・M・ディヴァイン著、山田蘭訳
友人たちとの海水浴の後、13歳の少女ジャニスが姿を消し、全裸死体で発見された。町の若き医師ケンダルが容疑者として浮上するものの、彼は崖から転落死してしまう。ケンダルの弟マークは留学先から帰国し、兄の死、そしてジャニスの死の真相を調べ始める。事件の複数の関係者による一人称で構成されている。この人に見えていることがあの人には見えていない、という部分がミステリとして生きている。が、この「見えている/いない」が一番面白く生きているのはミステリの本筋とはあまり関係ない男女関係の部分。ケンダル、マンディとマークの関係がちょっとメロドラマっぽい。特にマンディの「本当は美人なのに美人と見られたくない(性的な対象として見られたくない)」という設定はちょっと昔の少女マンガとかラノベに出てきそう。また、マンディの義母の自分に都合の悪いことは見ないという側面、実父のことなかれ主義な無責任さは現代的でもある。ケンダルのイケメンだが意思の弱い人柄もいい造形だった。登場人物の造形が具体的、かつその具体性がミステリとして活用されている。ちょっと古風(さすがに時代は感じる)だが人間ドラマとしても本格ミステリとしても面白かった。ディヴァインは人間の書き方にちょっとした意地の悪さ、視線の鋭さがある。特に女性の造形は当時としては珍しかったんじゃないだろうか。いわゆる「素敵なヒロイン」てあまり出てこない(笑)。ディヴァイン作品の中でも個人的には特に満足できた一作。訳が現代的で読みやすいのも良。




『メランコリア』

 姉クレア(シャルロット・ゲンズブール)の豪邸で結婚披露宴を執り行うジャスティン(キルスティン・ダンスト)。幸せな1日になるはずだったが、彼女の表情は段々曇り始め、奇行に走り始める。同じ頃、惑星メランコリアが地球に急接近し始め、衝突するのではと噂が流れていた。監督はラース・フォン・トリアー。
 冒頭のスローモーション映像が、絵画のような一枚絵の、正に世界の終わりだ!的美しさ。本編のクライマックスのダイジェストを冒頭にもってきたようなものなので、正直ここだけ見てしまえば十分な気も・・・ということはさすがにないが、ここを見逃すと本作見る意味がないくらいには力が入っていると思う。
 本作は前半「ジャスティン」、後半「クレア」の2章に分けられている。前半はジャスティンの披露宴だ。リムジンが山道のカーブを曲りきれないというユーモラスな(しかし焦る)シークエンスから始まる。しかし前述したように、ジャスティンの言動はどんどんおかしくなっていく。彼女がどうやら精神が不安定で鬱気質らしく、以前から本人も家族も苦しんでいたらしいことがわかってくる。彼女の事情を知らない来賓たちには非常識で迷惑な娘にしか見えないし、家族も徐々にうんざりしてくる。じゃあ披露宴とかやるなよ!と思わなくもないが、「結婚するな披露宴やらなくちゃ」みたいな妙な固定観念みたいのがジャスティンにはあるんじゃないかなーという気もする。本作、終わる世界の恐怖と恍惚を描いた終末映画としては、正直そんなにインパクト感じなかった。個人的には、終末映画なら先だって日本公開された『ニーチェの馬』の方が数倍ぐっとくる。
 ただ本作、監督の鬱病体験が反映されているだけあって、鬱病らしきヒロインと彼女を支えようとする姉の言動が妙に生々しい。前半のジャスティンの奇行はともかく、体が頭と乖離してくる感じ、後半での「玄関を出てタクシーに乗るという作業ができない」「風呂に入れない」「ものすごく寝る」姿、そして彼女を献身的に支えつつ「ものすごく憎らしくなる時がある」というクレアの心情、また義理の妹の為に披露宴の資金を出してあげたり、自宅に泊めたりとそれなりに努力はするものの最早うんざりとしているクレアの夫など、実際にこんな感じなんだろうな~と思わせるものがあった。
 ジャスティンにとっては、自分を取り巻く世界は普段から恐ろしいもの、自分を脅かすものだ。惑星の脅威など彼女にとっては今更なのだろう。ただ生きているだけで怖いんだからいっそ皆一緒に終わってしまった方がいい、ということかもしれない。脅威が迫るにつれ、それまでジャスティンをなだめる役目だったクレアが恐慌し、ジャスティンが逆に冷静になっていくところが面白い。




『NINIFUNI』

 車で殺風景な国道沿いをさ迷う青年(宮崎将)。彼は人気のない海岸に辿り付き、車を止めた。数日後、その海岸でアイドルグループ「ももいろクローバー」のPV撮影が行われていた。監督は真利子哲也。
 青年が何をしたのかは冒頭でちらっと見えるのだが、フラフラしている様がその行為の前なのか後なのか、途中まではっきりとしない。冒頭の事件にいたるまでの、時系列をずらした構成なのかと思ったら時系列通りだったのでちょっと拍子抜け。しかし、時系列を勘違いしていたせいで、彼が最終的に至るある行為に、ああそうなるのかと余計にやりきれなくなった。この行為、なんで一足飛びにそこにいくのか、そこまでしなくても、と思わなくもないが、そこに至るまでの障害となる(というのは変な言い方なのだが)ストッパーみたいなものが全然ないということだらか、もう暗澹たる気持ちになる。彼がコンビニで買うのがカップ麺というのがまた侘しくてぐったりとする。
 国道沿いの情景の殺風景さも、侘しさを煽る。地方とも郊外ともつかない無個性な風景だ。ただ、侘しさを煽るのは風景そのものというより、国道沿いに溢れる音のような気がした。車の通行音以外があまり聞こえないのだ。
 青年が誰にも知られずある行為に至る一方で、キラッキラしたアイドルたちが笑顔を振りまいている。その対比が寒々しい。PV撮ってるスタッフにとっては、スケジュール通りに仕事をあげることが第一で、彼の処遇なんてどうでもいいんだろうな、でも「どうでもいい」と思うことは責められないよなと。人生の明暗見ちゃったみたいで・・・。ただ、アイドルのPV撮影も結構過酷そうなので、両者は紙一重でもある。どちらにしろ、優しくない世界なのだ。
監督の長編デビュー作『イエローキッド』でも、現代の、ごく普通の貧しさをわかっている人だなという印象を受けたが、本作ではより自覚的にやっているように思った。




『マンマ・ゴーゴー』

 トーキョーノーザンライツフェスティバル2012にて鑑賞。『春にして君を想う』(1991)のフリドリック・トール・フリドリクソン監督作品。新作映画『春にして君を想う』の試写会場で、監督は試写に訪れていた母親ゴゴ(クリストビョル・キィエルド)にも謝辞を述べる。充実した一人暮らしをしていたゴゴだったが、アルツハイマーを発症し、徐々に言動がおぼつかなくなっていく。心配した息子達はゴゴを介護施設に入れることにするが。
 作中監督の新作映画タイトルからわかるように、フリドリクソン監督の実体験が元になっている(母との関係以外でも、映画の興行成績が悪くて借金まみれになったり、海外でのヒットに望みを託したりと笑えない)。ゴゴの「老人が施設から逃げ出す映画を撮ったのに私を施設に入れるの?!」という言葉は、フリドリクソン監督自身に跳ね返ってくる、皮肉なものだ。ゴゴの物忘れがひどくなったり猜疑心が強くなったり、息子の妻を罵倒したりという行動や、その行動に振り回される子供達の疲労が、ちょっと痴呆あるある状態ぽくて、見ている側も落ち込みそうになる。もう、本当に大変そうなんですよ・・・。息子は母親を愛しているから施設入居は苦渋の決断なのだが、それでも責められる。何より、息子も口にしているが、自分が慣れ親しんでいた人がだんだん別の人のようになっていくという過程が、いたたまれないのだ。
 しかし、ゴゴには時間の感覚や記憶がぼんやりしても、変わらない核がある。それは亡き夫との思い出だ。夫は幽霊(幻影)という形でゴゴの前に現れる。ゴゴの願望が夫の形をとって現れるようにも見えるが、彼女が夫の記憶に支えられているのは事実だ。若い頃の2人の姿は初々しく映画みたい・・・と思ったら、実際にゴゴ役のキィエルドと夫役の俳優が共演した映画の抜粋なんだとか。モノクロ映像が美しかった(キィエルドがまたかわいい!)。
 舞台であるアイスランドの風景も印象に残る。都市部は他のヨーロッパ都市とそう印象変わらないが、ちょっと海沿いや山側に出ると、いきなり大平原が広がっていたり、山がそびえていたり、ゴゴが入る施設なんて周囲が荒野だ(笑)。見ていて飽きない(その土地にずっと住んでいたら普通のことなんだろうけど)。
 なお、ゴゴのアルツハイマーが進むと、「息子が一番かわいい」傾向が如実になって、あー世の母親はやっぱり・・・と若干うんざり。娘は息子の次で、息子の嫁はどんなに出来た嫁でも気に食わんというのは万国共通の傾向なのか。




『時は老いをいそぐ』

アントニオ・タブッキ著、和田忠彦訳
イタリアを代表する作家の短編集。題名の通り、老い、そして時の流れを意識させる物語ばかりだ。また、旧東ドイツの諜報員であったり、ハンガリーの軍人で旧ソ連と闘った経験を持っていたり、国連平和維持軍で被爆した兵士であったり、年齢的な老齢期だけでなく、ある時代の黄昏を感じさせる登場人物が多い。作品全体がたそがれており、どこかさびしい。しかし、それが動乱の時代、戦時下であっても過去を懐かしみ、かつての仇敵に対して近しさを感じるようになるという『亡者を食卓に』『将軍たちの再会』が印象に残った。距離的な近さよりも、ある時代を共有したという体験の方が、人と人とを親しくさせるという側面はあると思う。また、これから世の中に出ていくであろう少女と、傷ついた兵士の会話を描く『雲』は、少女の聡明さがほほえましくもあり、それ以上に痛切。この作品の兵士はまだ若いみたいだが、気分の上では老いており人生も終盤といった面持ちだ。そんな彼が少女(と彼女の未来)に向けるまなざしが胸に刺さる。どの作品の主人公も、まなざしは過去に向けられており、過去の方が現在よりも親しいもののようだ。しかし、最後に収録されている『いきちがい』では、過去と未来がふいに並び合うような、時間が伸び縮みするような不思議な感覚に襲われる。年齢を重ねてまた読みたい渋い作品集。




『マンゾーニ家の人々(上、下)』

ナタリア・ギンズブルグ著、須賀敦子訳
前々からいずれ読んでみようと思っていたのだが、白水Uブックス版が出たので、ようやく手に取った。19世紀イタリアにおいて国民的な詩人・作家であり、建国の父とも言われたアレッサンドロ・マンゾーニとその一族の生涯を、彼らが取り交わした膨大な書簡から再構築していく。ギンズブルグは小説家だが、本作は実存する書簡からの引用が大部分を占めている。いわばノンフィクションなのだが、人物ごとに章立てされた構成や時系列の整理の仕方、そして意外と饒舌な手紙の数々により、大河小説のような味わいになっている。組み立てと抜粋の仕方が冴えているのだと思う。マンゾーニについては全く知らなかったのだが、イタリアでは学校の教科書に文章が掲載されるような人なのだそうだ。といっても、本作は「文豪」マンゾーニを描いているわけではない。著作に関する記述はむしろ少なめだ。大部分を占めるのが題名の通り、彼の家族の状況だ。マンゾーニはあまり筆まめではなかったらしく、友人や親族としばしば文通が途絶えているし、自分の手紙の中で筆不精をわびている。頻繁に手紙をやりとりしているのは、彼の妻や子供達、特に女性陣だ。特に文才がある手紙というわけではないのだろうが、当時の貴族の生活の様子、家族・親戚のありかたが垣間見られて面白い。マンゾーニは家族に悩まされ続けた人のようだ。全員病弱で心配が絶えず、そして大人になってからは散々お金をせびる。マンゾーニは尊敬は得ていたが決して大金持ちではなく、金策に四苦八苦している。マンゾーニ家はお互いに段々親密さを失い、ばらばらになっていくのだが、当時の交通事情や通信事情以上に、お金や健康面での苦労が多すぎたのかなという気もしてくる。うーんせちがらい・・。家族だけでなく、ある人とある人が親密になり、しかしある時を境に疎遠になっていく。その流れが不思議でもあり、さびしくもある。






『キツツキと雨』

 里山で「きこり」をしている克彦(役所広司)は、無職の息子(高良健吾)と2人暮らし。ある日、映画の撮影で山に来ていた青年・幸一(小栗旬)と出合う。なりゆきで映画スタッフをロケ地候補に案内したり、エキストラになったりと巻き込まれていく克彦だが、まんざらでもない。一方、実は映画監督である幸一は、撮影に行き詰まり、東京への逃亡を図るまでになっていた。監督は『南極料理人』の沖田修一。
 構成はあまり上手くなく、少々間延びしたような印象なのだが(もうちょっと短くできると思うし)、『南極料理人』同様、ちょっとした生活感のディティールの出し方が丁寧なので見てしまう。克彦が自炊している食事の内容(わりと大雑把だが意外とバランスとれている感じ)とか、仕事仲間との食事で「おやつ」を分けているところとか、食事シーンの生活感がすごくよかった。美術面にしろ演出にしろ、日常生活の感覚の掴み方がいいんじゃないかと思う。雨の中帰ってきた克彦が、息子が洗濯物を取り込んでいないことを知ってマジ切れするところなど、おかしいのだがすごくわかるその気持ち!本っ当に腹立たしいんですよねあれは!そういう、細かいくすぐりの盛り込み方は上手い。
 映画など全然知らなかった克彦が、映画作りにのめり込んでいく。「ゾンビって何?」という会話の流れには、そういえば、改めてゾンビって何かと問われると一般人は正確に説明できないかも、出来るのは限られた人だよなとおかしくなってしまった。素人が口出し手出しすることで作られる映画が面白くなっていく流れは、ウディ・アレン監督『ブロードウェイと銃弾』を思い起こした。ただ、本作の方がもっとほのぼのしていて、人に対して優しい。毒がないのだ。実際に克彦みたいな人がいたらうっとおしいかもしれない。実際最初は幸一はうっとおしがっているのだが、克彦の映画に対する率直な興味や世話焼きが、彼の助けになっていく。幸一は人を動かす、人に物言うのが苦手という、監督としてはちょっと困った人なのだが、克彦がそのへんをどんどん(勝手に)采配していくのだ。彼の映画ズレしてなさが幸一を救うのだ。変に「業界ルール」みたいなものに縛られていない人の方が事態を打開できるというのは、まあありそうな話かなー。
 同時に、克彦と幸一の間には、疑似父子的な雰囲気も漂う。克彦は実の息子との間が上手くいっていない。それを挽回するかのように幸一の世話を焼く。その中で、自分の息子の姿も改めて見えてくる。幸一も、父親との間に蟠りがある。が、親の心情を克彦から聞き、親についてまた違った側面があるのでは、と気付くのだ。2人の男が影響を与えあい変わって行く様と、映画撮影が進んでいく様が並行し、気持ちのいいクライマックスへと至る。
 小栗が、ダメオーラをばんばん漂わせていて、彼のキャリアの中ではちょっと珍しい役柄だった。体格いい人なのに、本作の中では妙に小動物的でちまっこく見える。追いこまれている感に、妙に説得力があった。靴下を履くときに幻聴が聞こえるシーンなど、笑えるのだがちょっと怖い。また、役所はいつもの役所で堅実安定なのだが、野太く自由にやっている雰囲気がいい。卵焼きを作るシーンが個人的にベスト。




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