3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2011年12月

『クリスマスのその夜に』

 ノルウェーの小さな町はクリスマスを迎えていた。妻と別居中のパウル(トロン・ファウサ。アウルヴォーグ)は、サンタに扮そうして子供に会おうとする。少年トマスはイスラム教徒の少女の気を引きたくて、つい自分もクリスマスは祝わないと言ってしまう。ホームレスのヨルダン(レイダル・ソーレンセン)は昔つきあっていたヨハンヌと再会する。カリン(ニナ・アンドレセン・ボルド)は交際相手からあることを告げられる。医者のクヌートはコソボから逃れてきたカップルの出産に立ち会う。小さな町でのクリスマスを舞台とした群像劇。監督はベント・ハーメル。
 予告編だとほのぼの・ほっこりしそうな雰囲気だったが、全くほっこりとはしないし心温まるという雰囲気でもない。どちらかというと、人生の不可思議・奥深さについて静かに考えたくなる作品。そういう意味では、下手に奇跡を起こすハッピーなクリスマス映画よりも、人生に対して誠実だ。本作には様々な人達が登場するが、人生が必ずしも思ったようになるわけでもなく、ちょっといいことと、ちょっと辛いことがないまぜになっている。
 登場する人たちのクリスマスの顛末は、色々とホロ苦い。中年カップルが熱烈なセックスを始めたものの、実はこの2人は・・・というオチだったり、別居した妻をあきらめられずパウルは不法侵入まがいをしてみたり。後者は、妻がびっくりするほどパウルに気付かないので突っ込みたくもなるが、彼女はもう彼のことは全然忘れている、執着ないんだなーということがわかってしまう。いつまでも気にしているのはパウルだけなのだ。
そんな苦いエピソードの中、気になる少女となんとなく良い雰囲気になれるトマス、そして若夫婦のお産に立ち会い自分も転機を迎えるクヌートの姿にはほんのりと心が温かくなる。この2つのエピソード、どちらも(ベツレヘムの)星を見上げていて、クリスマスの奇跡というならこういうものがふさわしいなと思う。
 それぞれのエピソードが絡み合うというわけではないのだが、あれはこういうことだったのか!と終盤でパズルのピースがはまっていく。ヨルダンが何をしようとしていたかには、どうにもやりきれなくなる。そして、コソボから来た夫婦が、なぜ祖国を離れることになったのか、そういうことだったのか!と愕然とした。あまりにも重い。が、だからこそ彼らの決断には希望が見える。




『歴史は女で作られる ニュープリント版』

 マックス・フュルス監督、1956年の作品。公開当時、あまりの不評にプロデューサーがフィルムを勝手にカットしてしまい、長らく完全版は見られなかった、監督は失意のうちに夭逝したという伝説の1作が、当初の形に相当近い形で、ニュープリントで再生した。恋に生きる女性ローラ・モンテスの数奇な半生を描く。
 サーカスの一座のブランコ乗りローラ・モンテスは、客の前で華やかな男性遍歴を語り始める。19世紀パリ、美しい少女だったローラ・モンテス(マルティーヌ・キャロル)は母親の恋人ジェームズに惚れられ、駆け落ちする。ジェームズの元から逃げ出したローラは男性遍歴を重ね、ヨーロッパ中を旅していた。やがてババリア王ルイ一世(アントン・ウォルブック)の心を射止め、彼の愛人となるが、国民の反感をかい革命に巻き込まれる。
 本作、見るのは初めてだが、予告編の美しさに魅せられ映画館へ。素人目にもニュープリント版の色は鮮やか、フィルムの傷も目立たず、とても美しい。最近の修復技術はここまで進んでいるのかと驚いた。冒頭のサーカスのシーンのキラキラ感にしろ、ローラのドレスの色合いにしろ、本当に美しく豪華絢爛。サーカスの場面は人海戦略的な豊かさも感じさせる。こういう華やかさ・豪華さって、最近の映画ではあまり味わった記憶がないなぁ(私が地味な映画ばっかり見ているからかもしれませんが)。不思議な多幸感を感じた。
 下世話なネタ(何しろ男と女の話なので)も挟みつつ、それでも一貫して気品がある。ローラが、やることは結構ちゃっかりしていて現金なのだが、何をやっても堂々としていていい。これは、演じているキャロルの魅力もあるのだろうが、変に打ちひしがれたりしないところがいい。最後はサーカスの芸人にまで身を落とすが、不幸ぶったりしない。男への媚び方も堂々としてるんだよな(笑)。ルイ一世の前でフラメンコ披露するシークエンスとか笑っちゃうくらいだ。彼女の前では、「僕なら質素だけれど女の幸せを与えられるよ!」と熱弁奮う学生などちゃんちゃらおかしく見えるのだ(いい子なんですけどね)。




『アンダーコントロール』

 ドイツにおける原子力発電所の現状を、3年をかけて描いた「見学・体験型」ドキュメンタリー。社会科見学のように、普段見ることができない原発施設の内部(研修用施設のものですが)まで撮影されており、資料としても貴重。
 今の日本ではあまりにタイムリーな題材。一度は原発推進へ舵を取ったドイツが、原発に対する姿勢をどのように変えてきたかという変遷が垣間見られる。そして、その姿勢が推進にしろ撤廃にしろ徹底しているところが、お国柄なのかなと思った。その徹底ぶりが少々怖くもある。既に完成している原子力発電所を一度も使わずに廃炉(といっても最初から稼動していないのだが)、そのまま解体したり別の施設に転用したりという顛末は、日本では考えにくい。
 人間はミスをする、ということが全ての技術の大前提としてあり、原子力発電所もそれを前提に、幾重にも安全装置を設定して設計されている。にもかかわらず、ドイツが脱原子力の方向へ進んだということが興味深かった。そして、「途中で技術改善されたらマイナーチェンジすればいいと思っていたけど、稼動したらとてもムリだとわかった。一旦始めたら進めるしかない」というような技術者の言葉が重い。発電に伴う廃棄物は、未だに埋める以外の処理方法がないし・・・これも、当初はそのうちより良い処理方法が見つかるだろうという見込みがあったのだろう。
 今の日本の状況と照らし合わせると色々と思うところがあるが、本作は原子力発電に対して是でも否でもない。「ドイツではこういうふうになっています」「施設の中はこういうふうになっています」と淡々と見せていく。映像が終始パキっとしていて、一枚絵みたいな絵の力がある。工場好きの人とか、無機質美好きな人とかも楽しめそうだ。



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『CUT』

 ビルの屋上で過去の名画の自主上映会をしている映画監督の秀二(西島英俊)。ある日、多額の借金を残して兄・真吾が死んだ。彼の借金1254万円は、秀二の映画製作の為のものだった。2週間で全額返済を求められた秀二は、“殴られ屋”となり、兄が死んだトイレで殴られ続ける。監督はアミール・ナデリ。
 正に映画狂の歌。シネフィルのシネフィルによるシネフィルのための作品で、それ以外の一般的な映画ファンの目にどう映るのかは分からない。多分秀二の姿は滑稽であり、彼の主張は時代錯誤、青臭い、いい大人がするものではないと思われるのかもしれない。本作の映画芸術に対する愛と敬意はまっすぐすぎて、私も受け止めきれるか危ういし、そのイタさに目をそらしたくなる。一部の映画愛好家にとっては、どうにも感想を言いにくい作品ではないかと思う。秀二のイタさはそのまんま、見ている自分のイタさとして跳ね返ってくる。映画に限ったことではないが、何か(スポーツでもアイドルでも鉄道でもアニメでも、傍から見て生産的になりにくいもの)に対して過剰に打ち込んでいる人の姿は、関係ない人から見ると滑稽だろうし時には不気味だろう。それはわかっている、わかってはいるのだが、彼の血反吐を吐きながらの映画愛への叫びには胸を突かれる。私も血反吐を吐きながらでも映画を見たい、映画への愛を叫びたいと思うことはあるのだ。
 映画への真正面からの愛が全編に溢れており、数々の名作・名監督の名前が引用される。全部見たことのある人は立派なシネフィルということか(でもそれほど特殊なチョイスではないのでそういう人結構多いと思う。私は全然ですが)。秀二は映画監督だが資金の問題で製作できずにいる。彼は、金の対価として殴られることで映画への愛を表出する。なんだそりゃと言われればそれまでなのだが、個人的には何か腑に落ちた。偏愛の対象に殉じるというのは、こういうフルボッコされてるような側面もあるように思うのだ。自分の何かをどんどん削っていく過程というか。秀二が最後に下すある決断は、バカみたいかもしれないがこれ以外に選択肢はなかったと思う。
 秀二は、「かつて映画は真に娯楽であり芸術であった」とアジる。彼は動員数のみが重視されるTV局製作のTVドラマスピンアウトみたいな映画や、上映は大作に偏るシネコンを否定する(アート映画のみを称揚というわけではないと思う。黒澤明もジョン・フォードも堂々たる娯楽作家だと思うし)。これを演じているのが西島秀俊というのが、ハマり役であると同時に重い。映画ファンの間では有名だが西島は生粋のシネフィル。その一方で、作中の秀二がdisってるような作品にも結構出ている。この矛盾、本人の中ではどう処理されているんだろうと思うと同時に、秀二が「殴られる」ってそういうことかと薄ら寒くもなった。
 なお、外国人監督が日本を舞台に撮った映画としては、かなり日本映画ぽさが高い方だと思う。風景・セット・衣装等に関しては違和感を感じなかった。ヤクザの仕組みがかなり抽象的なんじゃないか(笑)というくらいだが、それはそもそも本作内では抽象的でかまわない部分だ。セリフ回しがやや小説的なように思ったが、そこが却っていい。




『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』

 IMFエージェントが暗殺され、ロシアの核兵器に関する機密情報が奪われた。犯人と見られているのはテロ組織のリーダーと言われる男コバルト。IMFエージェントのイーサン・ハント(トム・クルーズ)は、クレムリンに潜入しこの情報を取り戻すミッションを課される。しかし何者かがクレムリンを爆破、ロシアはIMFの犯行と見なし、アメリカはロシアとの関係悪化を恐れIMFを凍結する“ゴースト・プロトコル”を発動する。しかしコバルトが核戦争勃発を狙っていると見たイーサンは、チームの4人だけでその計画を阻止しようと動き出した。監督はブラッド・バード。
 クリスマス&お正月にふさわしい華やかな大作。気楽に見てわーっと盛り上がって後には何も残らない!という清清しい娯楽大作だ。トム・クルーズの娯楽作品のスターに徹する姿も清清しい。ここを舞台にしたい!というロケ地を優先してストーリーを組んだんじゃないかというような、バリエーションのある舞台も楽しい。テンポよく、というか若干良すぎるくらいにどんどん話が転がっていく。トム・クルーズも本作ではしょっちゅう何かに追いかけられているか、何かを追いかけている気がする。走るフォームがぴしっとしすぎて、見ているうちに段々おかしくなってきた。
 トム・クルーズ版MIシリーズは全部見ているが、本作は彼の身体によって成立している部分がこれまでの作品よりも多いように思った。動きのキレもなぜか過去作よりも良く見える。前述の走るシーンがやたらと多いのもそうなのだが、予告編で使われているドバイの高層ビルをよじ登るシーンも流石に見応えあった。彼が体を駆使していることで間が持っているように思った。さらに、今回トムがいつになく表情豊かというか、必ずしもかっこよくない変顔を披露していたりジェスチャーがコミカルだったり。序盤、刑務所の監視カメラに「あーけーて!」とジェスチャーする姿が妙に可愛い。最近の主演作である『ナイト・アンド・デイ』でもそうだったが、もういじられても平気というか、いじられること込みでスターという域に達している。
 今回はチームものとしてもなかなか楽しかった。息が合ったチームではなく、たまたま居合わせたことで自動的にチームになってしまった人達なので、リーダーであるイーサンが「あーもう!」みたいな感じになっているのもかわいかった。コンピューター&メカ担当で実戦は初めてなベニー(サイモン・ペッグ)がいいコメディリリーフだった。この人も顔芸やる人だな(笑)。紅一点のジェーン(ポーラ・パットン)はルックスはセクシーだが立ち居振る舞いはあまりセクシーではない。むしろ、情報を得る為に色仕掛けをしていても、この人あんまりこういうことは得意じゃないんじゃないかな・・・という雰囲気があるところがいい。また、個人的にはトムよりセクシーだと思うのが、ブラント役のジェレミー・レナー。顔の造形は全く好みではないのだがこのツボにハマる感じは何・・・。『ハート・ロッカー』の時も確か同じことを思ったような・・・。




『ブリューゲルの動く絵』

 16世紀フランドル。画家のブリューゲル(ルトガー・ハウアー)は、支配者層の暴挙に心を痛めていた美術コレクターのヨンゲリン(マイケル・ヨーク)から、のどかな農村の風景、そして支配者の横暴を一つの作品に描けないかと依頼される。監督は『バスキア』の原案・脚本を手がけ、現代アート作家としても活躍しているレフ・マイエフスキ。
 これは映画なのか?インスタレーションなのか?映画としては散漫すぎる気がするし、映像アート作品としては尺が長すぎる(笑)。といっても、本作の見所はドラマというよりも、ブリューゲルの『十字架を担うキリスト』をそのまま再現したような世界だ。風景はもちろんCGを駆使しているのだろうが、出てくる人たちも絵の中に描かれた人たちそのまんま。ブリューゲルの絵は結構な人数が登場しているので、これ相当予算掛かったんじゃないだろうか、採算採れたんだろうかと勝手に心配してしまった。ともあれ、体型や風貌がいかにも当時らしい人を集めていて、衣装や生活の様子、屋内の様子もかなり時代考証しているような雰囲気だった。当時の農村の生活を覗き見るような楽しさがある。ベッドや衣服がかなり汚れていて何となく臭ってきそうだった。
 当時のフランドルがスペインに脅かされており、カソリックであるスペイン兵から見て「異教徒」に当たる者は粛清されていた、という背景を知っていないと、状況がわかりにくいかもしれない。そういう異端狩りのような状況だったから、フランドルを舞台にキリスト受難劇が描かれたというわけだ。映画としての技法は面白いが、監督の意図がどのくらい伝わるのかは微妙。




『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』

 1929年、学生だったサルトル(ロラン・ドイチェ)とボーヴォワール(アナ・ムグラリス)は出会い、やがてお互いなくてはならない存在になっていく。サルトルはお互いを愛すると同時に他の相手との関係も認め、報告しあうという、自由恋愛に基づく契約結婚を望み、ボーヴォワールはそれを受け入れるが。
 言わずもがなな実在の思想家・作家であるサルトルとボーヴォワールの関係性にスポットを当てた映画。といっても主人公はボーヴォワールなので彼女視点になる。主演のムグラリスが好きなので見てみたのだが、なかなか面白かった。本作でのサルトルはちょっと軽い、頭はきれるがイヤミな奴という雰囲気なのだが、実際はどうだったんだろう。ボーヴォワールも「不美人」といわれるのだがムグラリスが演じていると全然説得力ないしなぁ(笑)。ただ、当時の(いわゆる男受けする)美人にはムグラリスのような強い感じの顔立ちはあたらないのかもしれない。2人の愛人の女の子やサルトルの妻も柔和な顔立ちだったし。
 ドラマとしては若干散漫でダイジェストぽいのだが、時代を感じさせる美術面が見ていて楽しかった。衣装などかなり丁寧に選ばれているように思う。学生時代のボーヴォワールの服装がびっくりするくらい冴えないところも含め。
 サルトルとボーヴォワールは、自由な恋愛、自由な関係でいようとお互い約束する。しかし、相手に愛人ができれば嫉妬心を抑えられないし、知られたくない人間関係も生まれてくる。自由を意識すればするほど、2者間のルールにがんじがらめになっていくようで皮肉だ。女性関係が派手(僕は文学者だから新しい刺激が必要なんだよ!と言うのだが・・・)なサルトルにボーヴォワールは苦しめられるが、ボーヴォワールに女性の恋人が出来るとサルトルもその女性と寝ようとする。奔放なようでいて、非常に面倒くさいかけひきをずっとやっているように見えた。理念と感情は全然別のもので、コントロールしきれるものではない。仕事のパートナーとしてのみの付き合いだったらもっと穏やかだったかもしれないが、そうだったら2人があれだけの著作を残したかどうか。
 サルトルは度々「小市民(ブルジョワ)になるな!」と言うが、彼の思想・行動の自由さは経済的なバックアップあってのものだったんだろうなと、本作を見て思った。彼は親戚の遺産を相続しており、経済的に余裕がある。一方ボーヴォワールは経済的にはつつましい家(と描かれている)の出で、まずは食う為に働かないとならない。この違いも大きかったんだろうなと。




『ジョゼフ・コーネル 箱の中のユートピア』

デボラ・ソロモン著、林寿美・太田泰人・近藤学訳
箱の中にコラージュを収めた独自のアートを制作し、様々な芸術家に影響を与え、愛されてきたジョゼフ・コーネル。日本では特に愛されており、まとまったコレクションもある。そのコーネルの、ほぼ初めてとなる本格的な伝記。私もコーネルの作品はとても好きなのだが、彼がどういう人なのかということはあまり知らなかった。本作は彼の生まれ育ちから作品の変化、そして死に至るまで丁寧に追っている。資料としても貴重な、大変な労作だと思う。経済的に家庭を支える必要があったという話は聞いたことがあったが、母親、そして体が不自由な弟との関係が彼の人生、そして作品に大きく影響していることがわかる。本著のサブタイトルのように、彼の作品の美しさ(そして儚さ)は、彼が得られなかった世界が箱の中に納められていることにあるのだろう。コーネルの自作に対するスタンスが興味深い。彼は作品によって認められたい・金銭を得たいという願望は持っているのだが、同時に、自分の作品が誰かに買われる、誰かのコレクションに加えられることを恐れてもいた。認められたいが、広く認められることには抵抗があったようだ。作品が批評されることにも大概不満だった。作品があまりにも自分に近く、誤解をされることをとても嫌だったのだろうか。そういうメンタリティの人が芸術で広く成功を収めるのはやはり難しいだろう。コーネルも一部では早くから評価されていたが、大規模な個展が企画されるようになったのは本当に晩年になってからだった。また、人のえり好みも激しく、女性に対するあこがれはあったが概ねプラトニックな崇拝・愛着に留まっていた。上手く大人になりきれなかった人のようだ。現代の人だったら、案外アニメオタクだったりしたんじゃないだろうかという性質。彼の作品の箱庭的な美しさは、実体験していない世界への憧れからだったのかもしれない。




『リアル・スティール』

 ロボット同士によるボクシング「リアルスティール」が流行している2020年。元ボクサーのチャーリー(ヒュー・ジャックマン)はロボットの賭け試合の巡業をしていた。ある日、かつての恋人が死んだと知らされ、その恋人との間に生まれた、一度も会ったことのない息子・マックス(ダコタ・ゴヨ)を預かることになる。廃棄処分所で旧型ロボットを見つけたマックスは、そのロボット「ATOM」で試合に出ると決意する。監督はショーン・レヴィ。原作はリチャード・マシスンの短編。未読なんだが、多分全然違った雰囲気の話なんだろうなぁ(笑)
 公開前の宣伝からはちょっと想像していなかったが、予想外にロボット愛に溢れている作品で驚いた。しかも「人型ロボットって言ったらやっぱり日本ダロー!」という通念が定着しているらしい。ロボットの外装にすごく悪そうな(笑)漢字がペイントされていたり、カリスマロボットデザイナーが日系ぽい名前だったり、子供が着ているTシャツに「ロボット」ってカタカナで書いてあったり、コロシアムの前に立っている彫像がそこはかとなくガンダムぽかったり(あの間接部分とか・・・)、そもそもマックスが拾ったロボットの商品名がATOMだったりする。日本人としては嬉しいが、そんなに日本人はロボ好きということになっているのか(笑)。
 一見、父親と息子が絆を取り戻す物語のように見える。確かにそういう側面もなくはないが、ちょっと微妙だ。どちらかというと、ロボットとボクシングという共通の趣味が媒介になって、男子2人が立ち居地は違えど連帯し合うという形に近い。ロボットに対する思い入れの形も、それぞれ違う。マックスにとってATOMは、強い父親・自分の為に戦ってくれる父親の代替品だ。そしてチャーリーにとっては、かつての輝いていたボクサーとしての自分をもう一度蘇らせてくれる(ような気にさせる)ものだ。ATOMを通して見ているものはそれぞれ違う。と同時に、ATOMがかろうじて2人を繋げているとも言える。
 そもそもチャーリーは最初はかなり父親として以前のろくでなしだし、一貫して色々と至らない人だ。チャーリーはマックスに対して愛情を持つようにはなるが、それはいい父親になれるということとイコールではない。それはマックスも察している。だから「秘密は守るよ」とチャーリーの言葉をさえぎるのだ。それも親子の絆の一種ではあるのかもしれないけれど。




『50/50 (フィフティ・フィフティ)』

 ラジオ局勤務のアダム(ジョセフ・ゴードン・レヴィット)は27歳。ある日、腰痛の為に病院で診察を受けたアダムは、ガンを宣告される。難しい病状で、5年後まで生きている可能性は50%だというのだ。監督はジョナサン・レヴィン。
 今や大人気のジョセフ・ゴードン・レヴィット主演作だが、この人は作品によって本当に別人みたいでびっくりする。顔かたちや体格がそんなに大幅に変わるわけではない(シャープだったり若干肉付きが良かったりする程度)のに、かもし出す雰囲気が全く違う。本作での彼は、地味でいまいち冴えない男。『(500)日のサマー』でのキュートさや『インセプション』でのクールさはどうしたんだよ!というくらいのぱっとしなさ。自分のイケメン(という感じのルックスではないが)度合いを自在に出し入れできる人なのだろうか。不思議だ。本作では、悪友役で共演しているセス・ローゲンのほうがモテそうに見える、少なくともナンパには成功しそう(実際作中では成功)に見えるのだ。
 いわゆる難病モノなのだが、湿っぽくはないし、観客に涙と感動を強要したりもしない。あくまでユーモアがベースにある。恋人にはあっさり浮気されるし、親友は彼の病気をネタにナンパするし、カウンセラーはあまり役に立たない。劇的なドラマはなく、日常は日常のままだ。しかしその上で、時にホロリとさせられるのだ。とてもオーソドックスでとんがったところはない作品だが、この匙加減が上手で好感度は高い。脚本家ウィル・ライザーの実体験に基づくストーリーだそうだが、入れ込みすぎないように十分に注意がされている、距離のとり方が上手いなという印象を受けた。細部の説得力が妙にあるのは体験がいかされているのだろうか。
 アダムが運転免許を持っていないという、アメリカ映画では珍しいキャラクター(作中で驚かれているので、やっぱり珍しいんだと思う)。掃除と整理整頓が好きというところも珍しい。確かに家の中はすごくきちんとしている(ナンパ相手に掃除用具ネタで熱弁を奮いひかれるのがおかしい)。他のキャラクターも造形がいいし、キャスティングも適材適所。特に親友役のセス・ローゲンは、相変わらずウザい男役なのだが今回はそのウザさにアダムが救われているというところが泣かせる。また、アダムの恋人レイチェル役のブライズ・ダラス・ハワードがかわいい。嫌われ役だが、彼女がアダムから離れていってしまうのも理解できる。特定の悪役を作らず、それぞれの事情をさりげなく見せるところも丁寧。




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