3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2011年12月

2011年ベスト映画

 2011年に見た映画から、ベスト10を選びました。今年は年内にUPできたよ!今年は洋画10本、邦画5本に分けてみました。洋画が豊作すぎて、邦画が入る余地がなかったんでなんとか救済策をと。ではまず洋画から。

1.蜂蜜
何かの気配に満ちた森の映像にやられた。子供の世界、そして成長を丁寧に描いた作品だと思う。言葉ではなく映像でちゃんと情報を提示している演出が巧み。

2.ヒアアフター
死者への思いというよりも、個々の体験の理解のされなさ、共有できなさみたいなものについて考えさせられた。だから誰かと何かが通じ合った時、奇跡のように思える。

3.アレクサンドリア
ヒロインの人間の理知への信頼が、あっけなく裏切られる。が、これ当時にかぎったことではなく延々と人間は同じことをしているのだろうと思うとずっしりと重い。そしてヒロインの理知にもまた限界が。今だからこそ見たい一作。

4.ソーシャル・ネットワーク
流れるように流暢な完成度の高い作品。デヴィッド・フィンチャー監督、映画の組み立てが本当に上手くなったなぁ。技術的な手腕に唸った。

5.英国王のスピーチ
良くできたオーソドックスは強い。自分の仕事をどう受け入れていくかという物語でもあったと思う。いわゆる強いリーダーの姿というわけではない(国王だから実際の政治を動かすというのとはちょっと違うだろうし)ところがポイントか。

6.ツリー・オブ・ライフ
私の中では『蜂蜜』と同ラインでの選択なんですが。映像美と世界の神秘・広がりを感じさせるという部分で。

7.人生万歳!
ウディ・アレン監督快心の一作。年末年始にふさわしい、(少々の諦念もはらみつつ)色々あっても人生は上々だ!と思える作品。

8.しあわせの雨傘
これまた、色々あっても人生は上々だし色々な生き方があるよと思える作品。ただ女性限定かもしれないが。カトリーヌ・ドヌーヴの魅力が炸裂している。

9.トゥルー・グリット
これもまたヒロインが魅力的に無愛想で気丈でよかった。オーソドックスな西部劇だが終盤にむけて神話的な様相も。何より題名が意味するものに涙した。

10.光のほうへ
優しく弱い人たちの姿が実にやりきれない。でも、優しく弱いことは悪ではないのだと真摯に語りかけてくる作品。

次点で『ブルー・バレンタイン』『アメイジング・グレイス』

続いて邦画。10作選べるほど突出した作品の本数がなかった気がする。

1.マイ・バックページ
青春の残酷な終わり。主演の2人、特に妻夫木にとってはキャリア上ベストの演技だろう。しかし2人とも主演作品の当り外れが激しすぎる。

2.大鹿村騒動記
原田芳雄の遺作となってしまったが、遺作に相応しい気も。ベテラン役者たちが皆チャーミングだった。いいコメディ。

3.忍たま乱太郎 忍術学園全員出動!の巻
長寿コンテンツと老舗スタジオが凄みを見せた良作。己の役割わきまえてるわ~。作画クオリティの高さはもちろん、予想外に本気で時代劇だった。妙な多幸感があった。

4.まほろ駅前多田便利軒
原作小説読んだときよりも、根っこに流れるさびしさが染みた。瑛太と松田龍平のコンビが魅力的。特に松田のキュートさにやられた。

5.奇跡
細部の演出や登場人物の造形(特に兄弟のスタンスの差異)が上手いなと思った。まえだまえだ兄弟の好演によるところも大きい。いい夏休み映画。

次点で『探偵はBARにいる』。シリーズ化おめでとうございます。

『千葉千波の怪奇日記 化けて出る』

高田崇史著
ぴいくんこと「僕」と、従兄の美少年・千波くんのパズルシリーズ新作短編集。そしてとりあえずシリーズはこれで終了らしい。今回は、いずれも怪奇現象の謎を解くミステリ。不可思議な現象を、千波くんがスマートにロジカルに解決・・・なのだが、毎回彼のあずかり知らぬところで「僕」による一オチがある。ミステリにおける「正解」は探偵が決めた「正解」なんだよと、ミステリの構造をネタばらししてしまうようなもの。本格ミステリと見せかけて、反本格というかメタ本格というか。でもこういうものが書けるのは、著者がやはり本格ミステリの人だからだと思う。




『QED 伊勢の曙光』

高田崇史著
17作、13年にわたって続いたシリーズもついに最終巻。今回のテーマは伊勢神宮、そして天照大神。満を持して、という感じ。天照大神の神話については個人的に釈然としないところがあったのだが、本作の解釈なら納得です。この解釈部分、シリーズの近作内でもかなりよくできている方だと思う。ミステリとしては毎回同じことをやっているような気がしなくもなかったが、もう気になりません!むしろ型が決まっているシリーズ内でよくぞここまで。実に感慨深いです。正に継続は力なり!北から南までおつかれさまでした。過去作の登場人物も再登場して、正にオールスター的な雰囲気。タタルと奈々の関係にもようやく決着がつく。いやーここまで長かった。




『ビブリア古書堂の事件手帖2 栞子さんと謎めく日常』

三上延著
古書店店主を探偵役とした日常ミステリシリーズ2作目。栞子は無事退院し、足は若干不自由ながら店に出るようになった。バイトの五浦との仲も微妙に近づいてきているような、きていないような・・・。今回は栞子が直接現場に赴いたりするので、安楽椅子探偵という側面はない。そして前作同様、本の由来を通して人の心の陰影を描く。栞子と母親との関係が垣間見えるが、同じような業を背負った母娘として、シリーズのこの先まで尾を引きそう。母親の、自分にとって忌まわしい部分を自分も受け継いでいるかも、というのがありがちなのだが怖い。出てくる古書の内容と、持ち主の背景とがうまくマッチしていて(これは前作よりこなれている気がした。藤子・F・不二雄作品の使い方なんてすごくいいと思う)、著者自身が相当本が好きなんだろうなと思わせる。著者自身が古書店での勤務経験があるそうで、買い取り等の古書店の業務内容もかなり具体的に描かれている。




『ビブリア古書堂の事件手帳 栞子さんと奇妙な客人たち』

三上延著
鎌倉の古書店「ビブリア古書堂」でバイトをすることになった、本が読めない体質の五浦。店主の栞子は口下手・人見知りな美女で接客業には不向きだが、本に関する知識と情熱は人並み外れている。その知識と洞察力で、彼女は持ち込まれた古書にまつわる謎を解いていく。ラノベ読むのなんて何年ぶりだろう・・・。もっとも、ラノベとはいっても本作の文体は割とお行儀良く、ラノベが苦手な人でも大丈夫だと思う。本についてだけ饒舌なヒロインと、本が読めない主人公という対称的なコンビだが、一種の安楽椅子探偵ものとしてコンビの役割分担がうまく機能している。いわゆる「日常の謎」ミステリだが、本にまつわる心温まる話だけでなく、人のほの暗い部分も垣間見られ、案外大人な話も。また、栞子の書物に対する愛情と表裏一体なある事件の真相も。ある分野に熱中する人の業が描かれるが、この業はヒロイン自身もはらんでいるものなので本シリーズについてまわるのかもしれない。




『ミステリウム』

エリック・マコーマック著、増田まもる訳
小さな炭鉱町の薬剤師が残した手記を「私」は手に入れる。手記によれば、町に水の研究をしている男カークがやってきたという。そして記念碑や墓の破壊、そして殺人事件が起こったと記されていた。記者である「私」は行政官に事件を取材することを命じられ、その町に訪れた。町では人々が奇妙な病に侵され、次々と死亡していた。殺人事件、そして過去の大量死事件を巡るミステリのように一見見える。そして確かに探偵が情報を集め推理をし真実へとたどり着こうとする、ミステリとしての側面はある。が、同時にミステリの構造を解体しさらすような、さらに言うなら小説というものの仕組みをさらすような小説だと思う。小説として提示されるものは常にだれかの語り・騙りなのだ。そして何が正しいかが強調されるミステリにおいては、その仕組みがより意識されるのだと思う。




『宇宙人ポール』

 コミコン帰りアメリカ西部のUFOスポット巡りを満喫中のイギリス人、グレアム(サイモン・ペッグ)とクライブ(ニック・フロスト)は、ポールと名乗る宇宙人に遭遇。故郷へ帰る為に有る場所に行きたいから、車に乗せていけというのだ。謎の組織に追われつつ目的地へ急ぐ一行だが。監督はグレッグ・モットーラ。主演のサイモン・ペッグとニック・フロストが脚本を書いている。
すごく楽しかった!客席がどっかんどっかん沸いていて、劇場全体に一体感あってよかったなぁ。SFネタが満載なので、SFに造詣がある人の方がより楽しめるんだろうけど、そんなに詳しくない私でも十分に楽しい。ベースにあるのロードムービー、そして友情物語の骨組みがしっかりしているからか。
人間たちが地球においては異邦人である宇宙人と旅する、という話だが、人間コンビはイギリス人で、舞台となるアメリカではアウェイ。むしろ宇宙人であるポールの方がアメリカナイズされていて地元民のようだ。異邦人としての立場が逆転している。更に、一緒に旅をするようになる人たちは、この社会の中では少数派で、世間からはハミ出し者扱いされそうだ。異邦人たちが、それぞれの立場を越えて友情をはぐくんでいく姿が、少年漫画的に熱い。グレアムとクライブの、友達以上恋人未満(笑)な絆にもぐっときた。自分がのけものっぽくされてスネるところとかは、仲のいい友人同士では結構よくあるシチュエーションなんじゃないかと思う。
旅の過程でグレアムとクライブに絡んでくる男たちがいるが、オタクの敵はマッチョというのは、万国共通なんだと再確認。お互い全く相容れそうな気がしない。また、エイリアンの敵はFBIより何よりキリスト原理主義者というのには笑った。アメイジング・グレイス歌うのか!ただ、進化論を教えることを禁じている学校もあるとは聞くし、こちらが思うほど突飛でもないんだろうなぁ。




『ロンドン・ブルヴァード LAST BODYGUARD』

 3年の刑期を終えて出所したミッチェル(コリン・ファレル)は裏社会から足を洗う決意をする。ひょんなことから若くして引退した女優シャーロット(キーラ・ナイトレイ)のボディーガードとして働くことに。パパラッチに悩まされるシャーロットはミッチェルと徐々に心を通わせるようになる。一方、ミッチェルを裏社会に引き戻そうと、かつての仲間だったビリーやギャングの顔役ギャントが付きまとい始める。監督はウィリアム・モナハン。原作はケン・ブルーエンの小説。
 タイトルロール、エンドロールのセンスがとても好みだった。ストレートにかっこいいというのではなく、ちょっとだけ野暮ったい、古臭い感じ。しかしシンプルでシャープだ。音楽もサントラ版買ってもいいくらいツボだった。あえて泥臭いロックをチョイスしているように思った。物語のオーソドックスさ、古典な感じを打ち出したかったのか。そしてKASABIANが起用されているが、最近のイギリス映画でのKASABIAN推しは何なのだろうか(笑) 
 原作のニュアンスとはかなり違っているように思った。原作を読んだのは結構前なのでうろ覚えなのだが、もっとシャーロットとの関係の中で人生を変えようとするようになっていたと思う。映画では、ミッチェルは最初からヤクザ稼業に嫌気がさしていて、かつての仲間と縁を切りたがっている。しかし、過去のしがらみを断ち切る為に、また暴力の世界に戻らざるを得ない。シャーロットの存在は、それを加速させる。そのシャーロットもまた、パパラッチという別の形の暴力にさらされ、過去と決別し新しい人生を歩みたいと願っている。2人がはたして暴力から逃れられるのか、というサスペンスが終盤に向けて加速していく。
 各キャラクターへの映画を見ている側との距離が遠いというか、観客にあまり感情的に入れこませないタイプの作風だと思った。主人公であるミッチェルがあまり感情を表に出さないというのも一因だろうが、彼らに注がれるまなざしが一貫して冷静、ともすると冷たい雰囲気と感じられる。ただ、その入れこませなさが見ていて楽だった。
 ロンドンという町の、特に住宅地エリアの雰囲気が感じられる。シャーロットが閉じこもっている家のあるエリアが、さほど高級住宅地という感じでもないところとか。また、ギャングらにほどほどな小物感があって、いかにも地元のギャングという雰囲気。ボスだけは貫録あるのだが、それでもあくまでロンドンのこのエリアのボス、という雰囲気に生活感がある。




『幕末太陽伝 ニュープリント版』

 幕末、文久2(1862)年。北の吉原と称される品川の色町に、佐平治(フランキー堺)という男がやってきた。遊郭・相模屋で遊び呆けるが懐には一文もなく、居残りと称してそのまま店の手伝いとして居座ってしまう。様々な古典落語を下敷きとした、川島雄三監督、1957年の作品。日活創立100周年記念として、ニュープリントとなって上映された。
 私は恥ずかしながら、川島監督の作品を見るのは初めて。すごく洒脱で軽やかで、面白かった!本作に出てくる人たちには、清廉潔白な人はいない。皆がめつかったりちゃっかりしていたり、みっともないところもある。しかし、だらしないが逞しい。遊郭の女たちの根性の据わり方はもちろんなのだが、純情健気そうな女の子が、父親にお金が必要だから結婚して!と奉公先の息子に迫ったりもする。皆生きていく為に一生懸命だ。
 その最たるものが主人公の佐平治。彼のがめつさ、要領の良さは実に羨ましい(笑)。やりようでは単にイヤミな奴に見えそうなところを、フランキー堺の洒脱さ、軽さでいやみのないものになっていると思う。加えて、彼のがめつさは同時に、死への不安への反動とも見える。絶対に死なない、まだまだ生きるんだという執念が、彼を商売に駆り立てているんじゃないかと思った。そういう意味ではどこか儚げでもあるのだ。
 女たちのちゃっかりとしたところが、とてもかわいい。隣にいたら嫌だろうなーとは思うが(笑)、憎めない。この世がめんどくさくなり、手近な「いなくてもいい男」と心中を図ってうっかり自分だけ生き残ったりしても、全然悪びれない。客からは取れるだけむしり取るぜ!という根性も頼もしい。見ていてウキウキしちゃう。
 ドブ底からでも生きてやる!と言わんばかりの活気が画面から溢れだしている。このエネルギーは、今だからこそより訴えてくるものがあるんじゃないかと思う。人の機微は描いても人情ものというほど湿っぽくなく、ドライなところもいい。今の日本のコメディ映画で、ここまで軽やかに洒脱に出来たものってあったかなぁと、ちょっとさびしくもなった。




『無言歌』

 毛沢東による文革の嵐が吹き荒れる前、1960年の中国。中国西部、ゴビ砂漠にある収容所に右派とみなされた人々が連行・強制労働させられていた。過酷な自然環境、劣悪な住環境や食糧事情により、彼らは次々と倒れていく。監督は『鉄西区』等のドキュメンタリーで高い評価を受けているワン・ビン。本作が初の劇映画となる。ヤン・シエンホイの小説『告別夾辺溝』と当時を生き延びた人々の証言を元に作られた。実際に砂漠にセット(というか穴)を作って撮影したそうで、かなり過酷な環境下の撮影だったのではないかと思う。映像の生々しさ、説得力がただ事ではないのだが、実際の収容施設の過酷さはこんなものではなかったとか。
 本作の背景にあるのは、文革の前に起こった「反右派闘争」。ただ「反右派」といってもその基準は非常に曖昧だったようで、作中でもいわゆる文化人、インテリ、ブルジョア層の他、「当局に協力していたつもりなのに反右派扱いされた」と話している人も出てくる。なんでこんなことに、という強烈な思いが全編を貫いているように思った。
 まず風景の厳しさに愕然とする。一目で生命の危機を感じるレベルな見渡す限りの不毛の大地で、この土地を人力だけで開墾するなど到底無理に思える。しかも、住居は文字通りの穴倉(半地下に塹壕のようなものを掘って住居にしている)で、布団も泥まみれ、当然風呂などなさそう。ろくに暖房もなく、真冬の寒さは想像するだに恐ろしい。そして食糧も極端に少なく、得体のしれない液体のようなもの(粥なんですが)を食べている。日中は厳しい労働に従事しているのに、こんな状況で体を壊さない方がおかしい。収容されている人たちの多くは、体は前屈みでよたよたと歩くのだが、体が痛むし体力は落ちるしでそうなってきてしまうんだとわかってくる。収容者を生きて帰す気があんまりないような施設だ。実際、毎日毎日人が死んでいく。
 人間の尊厳など、過酷過ぎる状況ではあっという間に失われる。衣食住足りてこそ人として振る舞えるし相手を人として扱えるのだ。収容者の間では他人食糧や衣服を盗む行為も。空腹のあまり、死んだ人間を食べて生き残ろうとするようにもなる。墓は即あばかれ布団(遺体を布団で巻いて埋葬する)は奪われ太ももや尻の肉は切り取られる。一線越えてしまった世界のようだが、餓えれば自分もこのくらいのことはするかもと思ってしまう。収容所に入れられている人の多くはインテリで、いわゆる「人間の尊厳」へのリテラシーがある人たちだろう。だからこそ、より見ているのが辛い。自分の属性であったものをどんどんはく奪されてしまっているように思えるのだ。




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