3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2011年11月

『肉』

 「フレデリック・ワイズマンのすべて」にて。1976年の作品(モノクロ)となる。牛や羊が農場から運ばれ精肉になる流れを追ったドキュメンタリー作品。
 家畜がパッケージングされた「肉」商品に加工される過程は、最近のドキュメンタリー映画『いのちの食べ方』(ニコラス・ゲイハルター監督)でも見た。『いのちの食べ方』は2008年公開作品だが、今回ワイズマンの『肉』を見た限りだと、精肉の過程は、70年代当時とあまり変わっていないように思った。冒頭、牛が放牧されているあたりが牧歌的だなというくらいだ。ベルトコンベアー式につるされた家畜が運ばれ、流れ作業的に人力で解体していくという方法だが、多分これがベストなのだろう。人の手による作業が殆どだ。
 牛や羊が次々にさばかれていくわけだが、無駄なく鮮やかな手際なので見ていて楽しい。意外と無駄になる(廃棄する)部分がないみたいなので感心した(70年代当時の話だから今は違うかもしれないけど)。動物を殺して解体して、というと見たくないと思う人もいるだろうが、本作は対象に注がれるまなざしが、一貫して「商品とその製造・販売者」を見るもので、非常にクールだ。精肉業者の工場・企業としての姿が映されている。企業なので、精肉過程の他にも、当然業績見積もりの会議や、営業活動、通常の受注販売業務、さらに労働組合の活動や会社側と労組側との折衝も映し出される。商品が何であろうと企業として売るシステムはたいして変わらないのか。
 ところで、卵をチューブ詰めにしたような新商品を紹介するシーンがあったのだが、あれは実際に売れていたのだろうか。なんだか気持ち悪い気がするんだけど・・・。また、羊の群れを囲いに追い込むのに、牧羊犬でなくヤギが引率している農場があったのだが、一般的なのだろうか。




『セントラル・パーク』

 「フレデリック・ワイズマンのすべて」にて鑑賞。ニューヨーク市の象徴でもあるセントラル・パーク。そこを利用する人々と、公園を管理する市の運営課を取材した、1989年のドキュメンタリー作品。
 ニューヨークを舞台にした映画を見ていると、頻繁にセントラル・パークが出てくる。ニューヨークのシンボルの一つだからなのだろうが、本作を見ていると、ニューヨーク市民は本当にこの公園を好きだし、よく利用している。しかし本当に広い。園内でバードウォッチングや「ツアー」が出来るほどの広さだというのには驚いた。これは通い甲斐があっていいなぁ。
 その広大な公園を維持する為に、様々な人々が働いている。清掃、草木の手入れや敷石の修理は、職業訓練の一環としても使われているみたいだった。そして本作では、公園を運営する側にかなりスポットが当たっている。本作は1989年の作品だが、80年代に入って運営組織が変わってから、公園の評判がかなりよくなったことが窺われる。トップがかなりやり手らしく、資金調達の実績のある職員を他所からひっぱってきたりしている。この資金調達だが、市からの援助のほかは全て寄付によって賄われている。どうやって寄付金の額を上げるか職員が話し合うシーンがあったが、公園のイメージアップをすることで寄付金をより集める、という方針みたい。近年夜間の治安がよくなっているというのもこの一環か。
 また、市民の側でも、「自分達の公園」という意識がすごく強い。テニスコートのクラブハウス改築に対する、市民側からの意見を述べる会合が開かれる。改築反対派は予算の無駄!というが、賛成側は30年も前の建物で利用には耐えられないと言う。自分たちの公園、自分達の予算だから自分達も意見を言うという意識はすごく強いと感じた。日本だと、もうちょっと他人事というか、決められたことならしょうがないわと受け入れられやすい気がする。
 運営側と、利用者側とのトラブルも当然生じる。イベントでの物販をめぐる双方の攻防は、いわゆる公共施設では日本でもよくある話だなと思った。こういう施設は往々にして非常に融通がきかないので、利用する側にとってはサービスが悪いこともある。しかし、運営側の主張も理解できる。線引きを明確に、誰に対しても同じにしておかないと、いずれなぁなぁになってしまう。利用者は「ここはアメリカなの?!自由の国じゃないの?!」と騒ぐのだが、アメリカだからよりしばりが厳しいんじゃないかなと思った。公共施設は、ルールを守った上での公共なのだ。司法国家としてはむしろ厳格。




『アスペン』

 「フレデリック・ワイズマンのすべて」にて。1991年の作品。19世紀には銀鉱山として知られ、現在は登山、スキー等のリゾート地になっているアスペン。観光客で賑わうアスペンと、そこに暮らす人々を映した作品。
 元々は鉱山だった町がウィンタースポーツ向けのリゾート地になった、という成り立ちがあり、華やかな観光地としての側面と、ごくごく普通の小さな町であるという側面との両方が浮き上がってくる。スキー場がある他、裕福な層が集う別荘地や、洒落たコテージやホテルが立ち並んでいる。ホテルで宿泊者向けに開かれているらしい絵画教室の様子が映されるが、講師のいい加減さがおかしかった。とりあえずどの人の絵も褒め、表現は自由だ!と言うのだが、その言い方が投げやりで、この人もう酔っ払ってるんじゃないのって思った。
 スキー場だけではなく、いかにもリゾート地らしい洒落たショッピングエリアにも人がたむろっていて賑やか。スポーツジムやクラブ等もにぎわっている。ただ、どこかで見たことあるような風景だ。リゾート地、特にスキーリゾートはフォーマットが完成されているのか、どこも似通っているような気がする。スキー場そのものの作りはもちろんだが、スキー場付近の建物がヨーローッパの田舎風に改築されている感じとか、日本でも似たような雰囲気だよなと思った。
 一方で、普通の地元民としてこの土地に住んでいる人たちもいる。作中でよく出てくるのが、地元の教会主宰の集まりだ。特に教会の活動が活発な地域なのか、どこもこんな感じなのかは分からないが、教会が地域社会で重要な位置を占めているらしいことがわかる。「キリスト教徒にとっての離婚」「キリスト教徒にとっての経済活動」みたいなテーマの話し合いの場や市民講座が開かれていて意外だった。少なくともニーズが一定数あるということなんだろうが・・・。また、読書会が盛り上がっている様子が面白い。古典文学作品(誰の作品か忘れてしまった)を取り上げているのだが、ヒロインが不幸か幸せか、聡明なのかバカなのか、またリアルに書かれているのか否か、意見が真っ二つに割れて紛糾している。語りたがりな中年女性と、いかにも頑固そうな年配男性の個性が際立っていた。
 地元民の生活は、観光地の華やかな様子とは全く無縁に見える。もちろん観光業で働いている人たちも多いのだろうが、それ以外の人も当然多い(結婚何十周年かのパーティーを開いている夫婦の夫は、地元の消防隊員だったらしい)。スキー場でレースが行われている一方で、かんじきを履いた地元の小学生たちが、教師に引率されて自然観察していたりして、対比が際立つ。対比がより際立つような編集にしているのだろうが、観光客と地元民の間に接点が窺えないところが気になった。




『動物園』

 「フレデリック・ワイズマンのすべて」にて鑑賞。1993年作品。フロリダ州マイアミにある、メトロポリタン動物園の日常を撮影した作品。動物、来場者はもちろん、日常の業務をこなしていくスタッフらの姿が興味深い。
 動物園の仕事全部見せます!といった風で、動物よりも人間の動きの方が面白い。施設の清掃や餌の準備、治療など動物の世話はもちろんだが、研究の為のデータ収集や、学会等との打ち合わせ、資金調達の為のパーティなど、様々な活動がある。動物を見せる商業施設であると同時に、研究の場でもあることがわかる。
 サイの出産が印象に残った。職員が直接手助けするのかなと思っていたら、距離を置いて観察するのみで、産み落とされた子供に異変があるとわかった時点で手を出す。野性の状態に近い出産をさせるという目的なのだろうか。結局この子供は死産だったのだが、死体は解剖してサンプルを取る。他の施設へもサンプルはいらないか確認したりする。やっぱり貴重なのかと妙に納得した。獣医が職員相手に、死体を広げて解説しているのも面白かった。敷地内にちゃんと火葬場があり、解剖後の死体はそこで処理するのだ。
 当然動物はいっぱい出てくるのだが、動物の死体も結構出てくる。動物園の動物の死体ではなく、その餌として。ウサギをその場で殺してヘビの餌にするのにはちょっと驚いた。固形の餌だと思い込んでいたので。生餌に近いものじゃないとダメだということなのだろう。
 また、動物が野犬に襲われるというエピソードも意外。日本の動物園ではちょっと考えられないが、これはロケーションと犬の飼い方の違いが大きいんだろうなぁ。野犬は探し出して処分するのだが、大掛かりで(動物園がある場所が郊外地で、外もだだっ広い)結構大変そうだった。
 動物園自体がとても広く、動物の見せ方も工夫してあり、実際に行ってみたくなる。特に鳥を放してある植物園が楽しそうだった。




『マーガレットと素敵な何か』

 敏腕会社員のマーガレット(ソフィー・マルソー)は難しい商談をどんどんこなし、恋人マルコム(マートン・コーカス)にはプロポーズされ、人生順風満帆。そんな彼女の40歳の誕生日、公証人メリニャック(ミシェル・デュショソワ)が訪ねてくる。彼が渡したのは7歳当時のマーガレットが未来の自分に書いた数々の手紙だった。マーガレットは封印していた子供時代を思い出し動揺する。監督はヤン・サミュエル。
 タイトルロールがあまりにガーリーで可愛らしいのでついていけるか不安になったが、本編はそこまでではない。ソフィー・マルソーの魅力が抜群なので、彼女を見たい人にはお勧めだ。シンプルな服でも華やかに見えるところが素敵。
 しかし、マーガレットが仕事も出来て素敵なパートナーもいて、当然裕福なので、何で子供時代の自分からの手紙に振り回されるのか腑に落ちない。子供時代の悪夢を封印して~くらいの強烈なトラウマがあるのならともかく、彼女の場合は父の失踪、貧乏という苦難を、それなりに消化してきたように見えるからだ。現在が充実しすぎなので、だったら別に子供の手紙なんて捨てちゃってもいいんじゃないの、と思える。現状が一見幸せだけど実はずっとひっかかっているものがあって~、というような前振りをちゃんと見せてくれないので、ソフィーの行動が全部唐突で情緒不安定に見えてしまうのだ。
 ソフィー・マルソーが演じているからそれなりにチャーミングに見えるが、冷静に考えるとマーガレットはあんまり好感持てる人でもない(有能なのはわかるけど部下に対する態度とか乱暴で、こういうタイプの人と一緒に仕事はしたくないなぁ・・・)ので、今更童心に返られてもなぁ。子供時代の自分の希望はある意味叶えているし、何の為に行動しているのかがよくわからない。利潤を追い求める生き方に疑問を呈する、という方向性でもないしなぁ。なんとなく中途半端。
 何より、マーガレットは確かに変化していくが、それは誰か・何かと接するうちにというのではなく、自問自答みたいな形でなので、どこまでいっても「私」の中から出ずに息苦しかった。




『明かりを灯す人』

 キルギスの小さな村で電気工をやっている男は、村人から「明かり屋さん」と呼ばれている。電気代を払えない家にこっそり電気を引いたりしていたからだ。彼の夢は風力発電で村に電気を送ることだ。ある日、村出身の実業家がこのあたりの土地を買いたいと村長と交渉をはじめ、村の様子も変わり始める。監督・主演はアクタン・アリム・クバト。
 なんといっても主演俳優を兼ねている、アクタン・アリム・クバト監督の佇まいがいい。二枚目ではないが、愛嬌がある。体がしっかり動く人なので、役者としてのキャリアもそこそこあるんじゃないかと思う。監督としても俳優としても、本作にははまっていた。明り屋さんの奥さんや村長、乗馬が得意な友人など、村の人たちが皆良い顔をしているところもいい。キャストに皆味がある。特に、奥さんが結構色っぽくて、華がある。こんな素敵な奥さんがいるのに、明り屋さんは若いセクシー美女に想いを寄せたりするのだが・・・。しかしそれも憎めない。彼の娘達もかわいらしい。子供ながら、長女、二女あたりはすごく足が長くてスタイルがいい。この地方の女性は足がすんなりしているのだろうか。
 一見ほのぼのとした雰囲気だが、甘くはない。村の人たちの生活はつつましいが、実業家が村の土地を買おうとしていたり、さらにこの地に中国企業を誘致しようと接待を行ったりと、変化の兆しが見える。村長は今までの暮らしを守りたがっているが、経済的な豊かさに心惹かれる人も当然いる。資本主義の波に飲まれることは否めないだろう。その中で、遊牧民の末裔としての騎馬の伝統や生活習慣を残していくことができるのか、それとも地方都市として経済成長を目指すのか、村の人たちがどちらを希望しているのかは、本作の中では明示されない(村長が土地の売却に反対していることのみ明示される)。明り屋さんは村で十分に電気が使える暮らしを望んでいるが、それは実業家が提案する豊かさとはちょっと違うように思う。しかし彼のような素朴な幸せを願う人には、生き難い世の中になっていく気配がする。
 キルギス風景も魅力的だった。殺風景といえば殺風景かもしれないが、広々とした平野の向こうに山がそびえ、開放感がある。空の青が美しいが、室内のインテリアなども青をポイントにしているように思った。
 ところで、明り屋さんには4人の女の子がおり家族仲もよさそう。しかし酔っ払って、「俺には息子がいない。お前が(明り屋さんの)妻と寝て男の子を妊娠させろ」と友人に泣きつく。当然相手にされないのだが、家を継がせる男子が必要という文化が根強いのかなと、少々複雑な気持ちになった。




『ゴモラ』

 イタリアで最大、最古の犯罪組織と言われるカモッラ。この組織の拠点であるナポリを舞台に、組織に憧れる少年、仕事に疲れてきた組織の金の運び屋、組織に対抗する若いチンピラたち。派閥間の抗争を背景に組織に関わる人々を描く群像劇。監督はマッテオ・ガローネ。
 主な舞台となるのは巨大な団地だ。団地の屋上では子供達がプールで遊んでいたりするのだが、同時にライフルを持った男たちが屋上から下を見張っている。この団地全体が組織のシマというわけなのだ。何かもうすごいな!町全体がマフィアの傘下みたいなものなので、あらゆる商売にマフィアがからんでいる。ライバル業者に寝返ったりするとえらいことになるのだ。仕立て屋の男がなんでそんなにビクビクしているのかなーと思っていたら、そういうことか~と。裏切り者は、女子供分け隔てなく処罰されるし、裏切り者の家族も報復される。なのに、この町に生まれた時点で、マフィアと共に生きていかざるをえない恐ろしい状況だ。直接的に加担していなくても、というところが怖い。小学生くらいの男の子たちが「今度会うときは殺すことになるかも」とか言ってるのだ。
 男の子たちにとっては、マフィアに入ってのしあがるというのが一つの憧れになっている。真面目に働くのは、やっぱりバカらしく見えちゃうんだろうな・・・。マフィアに入って真面目に働いている人もいるので、もう一大産業なんだろうなと。一方で、マフィアの武器をたまたま横取りして大はしゃぎし、後先考えず暴れまくる少年たちもいる。それ絶対報復されるだろ!と突っ込みたくなるのだが、若いって恐ろしいな。この少年2人の愚かさが滑稽であると同時に痛ましかった。
 予告編で異様な画の力を感じたのだが、映し出される風景の殆どが殺風景な団地や廃棄物処理地、港等で、非常にドライで冷ややか。ナポリといえば「ナポリを見て死ね」という言葉もあったくらいの風光明媚な観光地というイメージがあるが、そういった豊かな風景は一切出てこない。出てくる土地は厳密にはナポリだけではないのだが、どれも荒涼としている。この冷たさ・ドライさが映画全体のトーンになっていて、一昔前のマフィア映画とは大分温度が違う。
 マフィアたちは、自分達が社会の借金を肩代わりしているのだ、世の中の尻拭いをしているのだと嘯く。象徴的な事業が、廃棄物処理事業だ。田舎の空き地に、有害な産業廃棄物を詰めたタンクをどんどん埋めていくのだが、規模が大きすぎてあっけにとられる(それでも処理用の土地が足りないらしい)。トラックの運転手が逃げると、近くから子供達を連れてきて運転させる。色々無茶で笑ってしまうくらいなのだが、自分の生活のどこかがこういう世界につながっているというのは、複雑だし、どうすればいいのかという無力感にも襲われる。こういうのやめましょう、といってもおそらく戻れないようなレベルにあるのではないかと怖い。




『ゲーテの恋 ~君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」~』

 1722年のドイツ。法律の勉強をしている23歳の青年ゲーテ(アレクサンダー・フェーリング)は、ひそかに作家を志していた。しかし出版社には断られ法科学校の受験にも失敗し、地方の裁判所で実習生として働くことに。その町ヴェッツラーで、彼はシャルロッテ(ミリアム・シュタイン)と知り合い恋に落ちる。しかしシャルロッテには、ゲーテの上司との間で縁談が進んでいた。監督はフィリップ・シュテルツ。
 ゲーテの若き日の代表作である『若きウェルテルの悩み』誕生までの物語を映画化した作品。しかし伝記映画というほど史実には忠実ではなく、かなり現代的にアレンジしているようだ。作家志望の青年を主人公とした青春映画、そして1人の作家が生まれるまでの物語として楽しんだ。邦題がくどい&しめっぽいのが残念。原題の『ゲーテ!』の方が本作の溌剌とした雰囲気に近い。
 ゲーテが実際にどういう人だったかはよく知らないが、本作に登場するゲーテはちょっと軽薄で夢見がちだが、とても生き生きとしている。学校の外で地面に「くそったれども!」と書く予告編でも使われていたシーンや、友人と素っ裸で湖に飛び込んで騒いだり、シャルロッテの妹弟達と一緒になって遊ぶシーンなど、ほんとに普通の若者という雰囲気でかわいい。
 恋人であるシャルロッテも、快活ではっきりとした、同性から見ても好感が持てるであろう人柄。ただ、彼女は「生活」のことをわかっている人で、手放しに恋に浮かれることはできない。彼女は、自分にもゲーテにもそれぞれやるべきことがあると判断したのだろう。ゲーテはそれを覆すことはできない(当時の女性にとって他の選択肢はあまりなかっただろうし)。
 本作が単なる悲恋ものにならないのは、シャルロッテが「やるべきことをやり、それを大げ女性であり、ゲーテにもそれを促すという側面があるからだろう。ゲーテが彼女のある行動を知る瞬間が本作のクライマックスだ(さりげないのだが)。そして、なぜ文学が生まれるのか、必要なのか、という部分を垣間見せているからだと思う。
 基本的に心底嫌な奴や悪人が出てこないので、気分良く見られた。恋のライバルも若干無粋かもしれないが基本いい人(結婚相手としては確かに優良物件だろう)し、作家志望の息子を嘆いていたゲーテの父親が最後に見せる表情にはつい笑ってしまった。




『秘められた伝言 (上、下)』

ロバート・ゴダード著、加地美知子訳
郊外の町に住む無職の30代男・ランスは、幼馴染のループが失踪したと彼の家族から知らされ、彼を探してほしいと頼まれる。ループが仕事上関わっていた日本人・橋本とロンドンで会ったランスは、ループが1963年にイギリスで起きた列車強盗事件に興味を持っていたことを知る。イギリス、日本、アメリカが舞台となる。日本では京都の風景が結構出てくるのだが、それほど違和感は感じなかった。地図上の移動も結構な距離なのだが、時間的にも60年代の事件が関わってくるという広がり。ランスはループを探すうち、彼が本当に自分が知っていたような男だったのか、確信が揺らいでいく。そしてループも自分が何者なのか知ろうとしていたのかもしれない。それが思わぬ結果を呼ぶ。ランスは典型的な巻き込まれ探偵なのだが、最後のどんでん返しで全体的にどれだけ巻き込まれてたんだよ!と突っ込みたくなった。いきなり風景が変わってしまう。久しぶりに読んだゴダード作品だったのだが、翻訳があまり上手くないのかゴダードの文章が下手になったのか、文章がこなれていなくて読みにくく、人の名前など中々頭に入ってこなかった。なお、ランスは地下恐怖症で地下鉄に乗れないのだが、この設定があまり生かされていなかったのが残念。あと、ランスの一人称が「僕」と「私」を使い分けているのだが、原語だとどういう表現になるのだろうか。全体的な文章のニュアンスが違うのかな?




『ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記』

小林和彦著
早稲田大学を出てアニメーション制作会社に入社した著者は、24歳のある日突然に大言壮語をし、様々なものに自分宛のメッセージが込められていると感じ始める。やがて幻想妄想状態がひどくなり精神神経科に入院することになった。そして統合性失調症と診断される。1980年代から1990年代にかけての、著者の闘病を綴ったエッセイ。2006年に自費出版されたものが、再編されて新潮文庫から出たものを読んだ。著者は現在も闘病中だそうだ。当然著者の主観で書かれたものなので、病状の悪化している時期に書かれたものは、ちょっとついていけないような妄想が入り混じっている。ただ、冷静な部分は本当に冷静で、そういう妄想に駆られている自分を認識している。著者の場合、自分と世界とが繋がっている感覚が過剰に強くなって、全能感であったり、それが行き過ぎて強烈なプレッシャーであったりに襲われるらしい(誰かに監視されているとかテレビが自分にメッセージを~というような妄想はよく聞くが、典型的なものなのだろうか)。統合失調症患者の方の手記としては、当人がどういう状況にいるのか読者にわかる、かなり貴重なものなのだろう。どういう辛さで、何に困るのかという理解への手がかりにはなると思う。世界の見え方が違うんだろうな、ということはわかっても、どう違うのかは一般的に患者当人から聞くのは難しいだろうから。また、80年代から90年代のサブカルチャーの移り変わりが垣間見られるところも面白かった。




ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ