3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2011年11月

『トワノクオン 第5章 双紀の来復』

 クーストースの襲撃から逃れ、ファンタジアムガーデンから脱出したイプシロン(鳥海浩輔)とベスティア達。ファンタジアムガーデン創設の際も助けられたという老婆の元に身を寄せるが、クーストースのサイボーグ部隊が出動しかれらを探していた。行方不明のクオン(神谷浩史)をベスティア達は案じるが。
 まさかこの人が?!という展開も交え、いよいよクライマックス。ビジュアルではイプシロンの変身により仮面ライダー風味が加わっている。肉弾戦も気持ち特撮の動きぽい気がしたが、ビジュアルに印象を引っ張られただけかな。
 ここになって更に謎の組織かよ!その人がそういうポジションならもっと早くに動けよ!そもそもなぜ敵陣営の地下にそんな貴重なものを!今までバレなかったのがすごいよ!と色々突っ込みたくなる。あと1話で終了ということで、かなり急ぎ足に話を進めている。どちらの陣営も実は同じ陣営で、フィールドの北と南で対立しているようなもの、というところは『Xメン』の構図に似ている。本作の世界では、異能者の存在は世間的にはないことになっているようなので、そこは大きく違うが。
 背後にある大きな組織がほのめかされることで、クオンと神代を突き動かすのが、基本的には思想ではなく個人的な感情(クオンにとっては罪悪感、上代にとっては欲望)であることが見えてくる。背景にある組織やその思想については、多分明らかにせずに、個対個の話として決着付けそうな雰囲気。




『コンテイジョン』

 香港への出張から帰ってきたベス・エムホフ(グウィネス・パルトロウ)がミネソタの自宅で発作を起こして死亡。幼い息子も同じ症状で死亡した。生き残ったベスの夫ミッチ(マット・デイモン)は隔離される。一方で、世界中で同様の症状の死亡者が発生していた。世界保健機構(WHO)や疾病予防管理センター(CDC)は新種のウイルスと見て調査に乗り出す。監督はスティーブン・ソダーバーグ。
 ここ数年のソダーバーグ監督作品の中では突出してキレがいい。『トラフィック』よりも更にタイトな群像劇になっている。様々な人・場所が次々に出てくるのだが、見ていて混乱することはなかった。エピソードの動線がしっかり管理されている感じ。ウイルスの移動の可能性を印象付ける為に、何かに「触る」シーンがそれとなく強調されているところなど、うまいなあと思った。そして上映時間は106分と短い。しかし中身はぎゅっと凝縮されている。
 パンデミックを題材にした作品だが、実際にこういう事態になったら国、企業、個人はどう動くか?というシミュレーションとしてすごく面白い。近年の新型インフルエンザの世界的な流行等でも実感したが、交通手段が発達し人の移動・物流がスムーズになるということは、ウイルスの蔓延速度・範囲が広まるということなのね~。そして防ごうとする側にとっては完全に後追い、多分にして負け戦になる。本作でもWHOとCDC職員たちが奮闘するが、被害は広がる一方で発生源の特定さえも難しい。ケイト・ウィンスレット扮するWHO職員が職業人として、恐怖を感じつつも任務を全うしようとする姿がすごくよかった。本作、1人で看板背負えるようなスター俳優が多数出演しているのだが、いわゆるスター!という見せ方ではなく、さりげない。個々の役柄のポジションの人としてしっくりはまっている。
 ウイルス自体の伝染はもちろん恐ろしいのだが、人々のパニックも同じくらい恐ろしい。ブログで独自の報道をし続けるフリージャーナリスト(ジュード・ロウ)は、特ダネを掴む一方で、世間の不安を煽ったり、根拠のない情報で逆にウイルス感染に拍車をかけてしまったりという弊害もある。彼にはジャーナリストとして名を上げたいという色気があり、ジャーナリストとしての使命感を口にはするものの、本気なのかどうか良く分からない。この人が本作内で唯一、嫌らしい人(笑)なのだが、とりあえず注目されたいという欲望が見えすぎているからだろうか。
 後半のパニックに陥る町の様子等は、今の日本で見るとまた違った感想が出てきそうだ。アメリカでは、こういう状況なら絶対に暴動(それもかなり暴力的な)が起きるよな、という共通認識があるのがよくわかる。暴動が起きるタイミングが案外早いのが怖い。生存本能が強いといえば強いのかもしれないが・・・。




『家族の庭』

 地質学者のトム(ジム・フロードベント)とカウンセラーのジェリー(レスリー・マンヴィル)夫妻の趣味は、市民農園での野菜栽培。夫妻の元にはジェリーの同僚メアリー(ルース・シーン)やトムの幼馴染のケンが話をしに訪れる。監督はマイク・リー。
 予告編だと、ある夫婦を中心とした心温まるヒューマンドラマ・・・な感じだったのだが、さすがマイク・リー監督といったところか、全然そういう話じゃなかった。中身をストレートに反映させた予告編では客が来ないと配給会社が踏んだのか。
 夫妻とその友人達の生活を、1年を通して描いた作品。中心にいるのはトム&ジェリー夫妻(仲良くケンカはしない)だが、本作で重要な位置を占めるのはメアリーだ。メアリーはジュリーが勤務するクリニックで医療事務をやっている中年女性。かつては結婚していたが、離婚し今は独り身だ。彼女は寂しいとすぐジュリーを訪ね、酒に酔ってつぶれてしまう。彼女にとってジュリー夫妻は理想の家族で、そこに参加したくてしょうがないのだろう。冒頭、ジュリー宅を去る時の未練がましさに、うーんと唸ってしまった。彼女はジュリー夫妻の30歳の息子にアプローチしてくるのだが、これも「この家族の一員になりたい」という思いからだろう。決して悪い人ではないのだが、どうも困った人だな・・・と見ているうちに苦笑いしてしまう。ジュリー一家への一方的な依存が強いのだ。彼女の行動、そしてラストシーンを見ると、本作の邦題がとても皮肉のきいたものに思える。確かにそこには「家族の庭」がある、でもあなたは家族じゃない、という話ではないかと。
 メアリーが自分は運が悪い、不幸だと嘆き、ジュリー達に執着するのは、不思議にも思える。傍から見ると、彼女は自分で言うほど不幸ではない気がする。金持ちではないがちゃんと働いているし、男運は悪いが年齢の割りにはルックスも悪くない。色々楽しめそうなのに、何でそんなに不満だらけなのかなーと。彼女が人一倍寂しがりやで、誰かと一緒にいたい人だということなのかもしれないが。でも本人のスタンスが変わればあっさり解決しそうな気もするので、見ていて不思議なのだ。
 また、最後のシーンで如実に現れるのだが、仮に仲良くしていても育った環境の違いによる溝は往々にして埋められないんだよな~とどんよりした気分に。このへん、かなり実も蓋もない見せ方なのだが、監督の中にはそういう実感があるんだと思う。過去作でも、登場人物の所属する階層にかなり気を配っていた感じがした。その辺の差異に敏感な人なのだろう。人間はやっぱり似た環境で育った人同士で集まってしまいがちだ。本作ではメアリーがアウェイだけど、集まる人によってはジュリーがアウェイということも当然ある。




『ステキな金縛り』

 へっぽこ弁護士の宝生エミ(深津絵里)は、ラストチャンスとして妻殺しの容疑で捕まった矢部五郎(KAN)の弁護を担当する。矢部は犯行時刻のアリバイとして、山奥の旅館で落ち武者の幽霊にのしかかられて金縛りにあっていたと主張する。半信半疑で旅館を訪ねたエリは、その幽霊・更科六兵衛(西田敏行)と対面する。六兵衛を証人として法廷に立たせようとするが、彼は誰にでも見えるというわけではなかった。監督は三谷幸喜。
 私は三谷作品はかなり好きなのだが、映画としての前作『ザ・マジックアワー』が自分でもびっくりするくらい見ていて苦痛だったので、今回は見るかどうか迷っていた。で、実際見てみたら、そこそこ楽しめたし、観客の反応もいい。客席がどっと沸くコメディはやっぱりいいなと思った。
 ただ、色々と難点もある。映画としてどうか?といわれると無条件で肯定できない。まず、裁判をめぐるサスペンス部分と、幽霊をめぐるコメディ部分が思ったほどにはがっしりとかみ合っていなくて、物足りない。ギャグの多くが裁判とはあまり関係ない部分で投入されているように思った。そして、幽霊が落ち武者である必要が全くない。落ち武者が過去を清算する、という方向にもっていくのかと思ったら、立ち消えしてしまってがっかり。
 また本作、アリバイ破りというミステリ映画としての側面もあるのだが、このオチが、ミステリ、特に本格ミステリファン上はかなり問題あると思う。同じようなオチを使った作品は過去に複数あったと思うが(某ゲームとか)、「それをいっちゃあおしまいよ」にならないように何らかのストッパー、特殊条件を合わせて投入していたはずだ。本作はいわゆるミステリじゃないからいいじゃないか、という声は当然あるだろうが、だったら「何でもっと早くやらないんだよ!」と突っ込みたくなってしまう。
 そして、とにかく長い。もっと短くタイトに出演者も減らして!と叫びたくなった。今後三谷監督に映画を発注する人は、予算をぎりぎりまで削ってほしいくらい。ミニマムなものは舞台劇でやっているだろうから、映画ではどーんと!派手にやりたくなるのはわからないではないが、あんまり向いていない気がする。サービス精神が旺盛すぎるんじゃないかと思う。余計な遊びが多くて間延びするのだ。
 あと、これは私の好みの問題なのだが、美術センスがどうも合わない。作り物っぽすぎて興ざめしてしまう。これは映画に何を求めるか、という部分の違いなのだと思うが。




『モンスターズ・クラブ』

 一人山小屋に篭って自給自足の生活をしながら、手製の爆弾を大企業やマスコミに送っている青年・良一(瑛太)。ある日、彼は雪山で奇妙な怪物を見る。怪物は頻繁に彼の前に現れるようになった。そして死んだはずの弟(KenKen)や兄(窪塚洋介)が目の前に現れる。監督は豊田利晃。
 主人公の設定は、実在するアメリカの爆弾魔ユナボマー(本名セオドア・カジンスキー)がモデルになっているそうだ。良一は資本主義が支配する現代社会に疑問を持ち、社会と隔絶した環境でひっそりと暮らしている。爆弾や毎日綴る日記は、社会を変えようという意思の表明だ。だが、良一の思想・行動は、どこかの誰かの思想・行動のつぎはぎという印象が強い。この道はいつか来た道、しかも大分昔にすたれた道ではないか。なぜ今になってこれなのか不思議だ。現代よりもすこし前の年代を舞台にしているような感じはするが、それにしても時代錯誤だと思う。いきがった10代の青少年が聞きかじった政治哲学思想を口にしているみたいで、どうにも面映い。
 豊田監督はおそらく、あまりポリティカルな人ではないし、思想や手法を言語化・文法化するのも苦手なのではないだろうか(というかそういう志向自体がないのでは)。良一が世間に訴えようとする内容は空疎なのだが、これを良一の言葉が空疎であるという設定で行っているのか、やってみたら空疎に見えちゃったのか、ちょっと判断がつかない。あんまり言葉や文脈で表現しようとしない方がいい人なのかな。宮澤賢治の引用も、そこにシンパシーを感じたのはわかるが本作の内容とはちょっと趣旨が違う(というか本作がそこまで追い付いていない)感じで取ってつけたみたい。
 反対に、優等生タイプの良一が世の中を悟ったような兄に対して抱えているコンプレックスや、自由人ぽい弟へのイラつき等、家族の中での違和感や不協和音の方が実感でていたように思う(兄が小難しいことしゃべりはじめるととたんに嘘くさくなるが)。こういう、もやっとした部分の方にもっとスポットが当たると良かったのに・・・。
 モノローグ、ダイアローグともに弱いが、主演の瑛太の力と、撮影の良さで画面がもっている。ロケ地は最上だそうで、雪の山中はものすごく寒そうだが美しい。ロケ地に助けられているなと思った。瑛太が寒い中すっぱだかで自家製シャワーを浴びているシーンがあるのだが、頑張るな~。




『ミスター・ツリー』

 第12回東京フィルメックスにて鑑賞。監督は『ワイルドサイドを歩け』のハン・ジェ。ジャ・ジャンクーがプロデューサーを務めている。鉱山のある村に住み、自動車修理工場の作業員をしている青年シュウ(ワン・バオチャン)。しかし目を傷めてクビになってしまう。学習塾を経営している旧友を頼りに、近隣の都市で雑用係として働くようになるが、マッサージ店で働くシャオメイに一目ぼれし、結婚を申し込む。
 中国の地方の村が舞台だが、急速な都市開発の為、村全体が移住を促されている。またシュウの友人達は経済発展の波に乗り、そこそこ成功しているらしい。シュウはその流れから取り残されている。経済の急成長と同時に経済格差が広がっていく様子が窺えるが、これが他人事に思えず、ヒリヒリする。
 同時に、そもそもシュウは仲間内でも微妙に浮いた、なじみきれない存在である様子だ。シュウの行動には、兄の死が大きく影響しているらしい。彼の兄は警察のやっかいになったことで父親の怒りをかい、父親に木に吊るされたのだが、事故で木から落ちて死んだのだ。その父親も今はいない。シュウは徐々に兄や父の幻影を見るようになり、どんどんあちら側にひっぱられる。ひっぱられすぎて預言者扱いされてしまうのがおかしいのだが、どんどん目の前のものを見なくなっていくのだ。彼が目の事故で失職し、社会からはぐれていくというのがまた象徴的だ。
 シュウの名前は中国語では「樹」。彼のあり方を象徴する名前だ。樹木は自分では動けず、環境の影響をもろに受け揺れ、最終的には倒れる。彼の右手はいつも所在なさげに動かされている。動き方が心もとない。人の手を強く握る癖があるらしいのは、自分が倒されそうで不安だからかもしれない。彼の姿はどうにも痛々しい。彼のうまくいかなさ、間の悪さといったものが、経済的な状況と合わせて、自分のことのようでいたたまれなくなる。
 映画上映後に監督へのQ&Aがあったのだが、これに本作の理解をかなり助けられた。中国の地方がおかれた状況や文化背景に詳しくないとわかりにくいかもしれない作品だ。シュウの兄は欧米文化が急速に流入し開放的な雰囲気になった、80年代に青春を謳歌している。しかしそこには陰もあり、上の世代とのギャップは深刻なものがあったようだ。兄が父親の怒りをかった原因は、自由な恋愛に関わる問題。父と兄の間の断絶を見たシュウは、双方に引っ張られ葛藤しているのだろう。そして、シュウの弟は90年代に育っており、そういったギャップを目の当たりにしていない為屈託がないと。父子の問題に、中国のジェネレーションギャップが反映されているそうだ。




『カウントダウン』

 第12回東京フィルメックスにて鑑賞。冷酷な借金取り立て屋のゴンホ(チョン・ジェヨン)は癌で余命3カ月の診断を受ける。助かるには10日以内に肝臓を移植するしかない。ゴンホは死んだ息子の臓器が移植された相手なら、自分に適合するはずと考え、ドナー候補を探す。たどり着いたのは「ミス韓国」の異名をとる女詐欺師ハヨン(チョン・ドヨン)。ハヨンは移植に同意するが、自分が刑務所に入る原因となった男を捜し出すことを条件にしてきた。監督はホ・ジョンホ。これが初長編だそうだ。
 冒頭、駐車場で車のナンバーを確認し、非情な取り立てに至る一連の流れがスリリング。この雰囲気から、ドライなサスペンス劇なのかなと思った。おそらく当初は取り立てやと詐欺師、やり手同士が騙し騙される軽妙な作品というプランだったのではないかと思う。
 しかし、ゴンホと死んだ息子の関係、ハヨンと娘の関係が明かされるにつれ、どんどんウェットで情念に満ちてくる。映画が分裂しているような不思議な印象を受けた。主人公であるゴンホ自体が、息子を亡くしてから人が変わったようになったという、ある意味分裂した人物なので、そこに引っ張られたのかなとも思う。しかし、1本の映画としてはちょっとトゥーマッチな感じ。そんなになにもかも詰め込まなくてもいいのになぁ。
 ゴンホの、息子の死にまつわる記憶が徐々に明らかになるという、ミステリ的な要素もある。これはこれで面白いのだが、ゴンホの息子への思い、悔恨を盛り上げすぎだったように思う。息子への疎ましさと罪悪感には共感できるだけに、もったいない使い方。終盤は別の映画みたいなスーパーマン的活躍だし・・・。ラストもひっぱりすぎ・盛りすぎで正直興ざめ。サービス精神のたまものなのだろうが、鼻についた。もっと洗練された作品にできたと思うのだが。それとも、情念部分で盛り上げないと韓国では人気が出ないのだろうか。




『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』

 第2次世界大戦中のアメリカ。愛国心に燃える青年スティーブ(クリス・エヴァンス)は、軍人になって国を守ろうと志すものの、病弱で小柄な為に入隊テストに何度も落ちていた。ある日、軍の研究者アースキン博士の実験に協力することになった彼は、実験の成果により強靭な肉体を手に入れる。しかし、博士はナチスの一派ヒドラ党に暗殺され、計画は頓挫。スティーブは軍のマスコットキャラクター “キャプテン・アメリカ”として宣伝活動に明け暮れるが。監督はジョー・ジョンストン。
 ヒーローが戦地に赴くのかと思ったら延々ドサ回りやらされていて笑ってしまった。が、このご時勢に愛国心に燃えて国の為に尽くすアメリカのヒーローなんて、タイミングが悪いにもほどがある・・・。もっとも、本国ではそこそこいい興行成績だったそうで、やっぱりアメコミ原作映画は景気に関わらず手堅く集客できるのかしら。ただ、原作の知名度がさほど高くない日本ではさすがに厳しかったらしく、シネコンでは上映するスクリーンがどんどん小さくなり上映回数もいきなり減っていたりして、ちょっと気の毒だった。『アベンジャーズ』を作りたいが為に無理やり作ったような感がなくもないが、メカや背景美術等デザイン面がレトロSF風味で味わいあり、それなりに楽しいのに。
 ただ、あまり時代にそぐわないヒーローだなという印象は否めない。スティーブは善人で、彼の愛国心は非常に素朴なものだ。そういう素朴さは現代ではあまり共感を得ないのではないかなと思う。何で自分の国が正しいと信じることができるのか、という部分で、今見ると随分と無邪気な設定に見えてしまう。実際の戦争を背景にしていることで、製作側もずいぶんとやりづらかったんじゃないだろうか。職人肌のジョー・ジョンストン監督だから上手いこと纏められたのではという気も(この監督は作品の方向に一貫性がないんだけど、何撮ってもあんまり下品にならないのがいい所だと思う)。
 本作に続く『アベンジャーズ』で競演するのが、神様だから人間を守るよ!仲間も守るよ!なマイティ・ソーや、基本発明家であり商売人なアイアンマン=トニー・スタークという妙にキャラが立った人たちなので、比べると余計に立ち居地が難しいなと思った。ナイーヴな正義漢スティーヴくんは、能天気かつ自己中な神様とおっさんに耐えられるの?!現代社会に馴染めるの?!今から心配だ。




『霊長類』

 「フレデリック・ワイズマンのすべて」にて鑑賞。「フレデリック・ワイズマンのすべて」にて鑑賞。1974年の作品(モノクロ)になる。ヤーキーズ霊長類研究所で行われている実験の数々を撮影したドキュメンタリー。ヤーキーズ霊長類研究所は、霊長類に関する生物医学的、行動学的研究における先駆的な施設として知られていたそうだ。
 本作、見ていてどうにも居心地が悪くなる作品だった。カメラが映すのはサルを使った様々な実験なのだが、どの実験がどういう目的で行われているのか、一切説明はない。テロップやナレーションによる解説は一切なく、ただただその場が映し出されるというのがワイズマン作品の特徴だが、本作では特に、実験の内容がわかるような手がかりは、意図的に排除されているように思う。
 その為、人間がどういう理由でサルをいじっているのかわからず、時にサルを虐待しているようにも見える。本作は「動物を使った実験は残酷だよ!虐待だよ!」と声高に訴えるものでは全くないし、研究者を悪者扱いするようなものではない。しかし同時に、それらの実験によってもたらされる科学技術の素晴らしさを歌うものでもない。ただ、サル側に共感、というと言いすぎなのだが、若干同情させるような編集になっているのではとは思った。例えばワイズマン監督作品でも『肉』は、最初から「商品」として家畜を撮っており、個々の生物という視点は薄かったように思う。しかし本作では、(数の絶対数が違うし種類も様々という面もあるが)意思のある生物としてサルにカメラを向けているように思った。サルの顔のクロースアップが結構多いのも、個体としてのサルを意識させる。
 本作公開当時は、本作が研究所を貶めたと非難する人々と、生体実験に反対する人々との間で激しい論争が起きたそうだが、それも頷ける。一見フラットな見せ方をすることで、背後にあるものが現れてしまったような作品だと思う。




『少年裁判所』

 「フレデリック・ワイズマンのすべて」にて鑑賞。フレデリック・ワイズマン監督、1973年(モノクロ)の作品だ。題名の通り、少年裁判所にやってくる少年少女や、そこで働く裁判官、検事、弁護士、ソーシャルワーカーらの姿を映す。監督の作品は全てそうだが、音声・字幕によるナレーションや解説、撮影対象へのインタビュー等は一切ない。
 舞台が裁判所だからというわけでもないが、ミステリ映画っぽさもあってとても面白い。被告の証言が正しいのかどうかは、作品内でわかるわけではもちろんない。しかし、ミステリ的にはこうだろうなー等、色々深読みしたくなる。特に児童レイプ事件の被疑者は有罪か無罪か、気になった。
 判事をはじめ、スタッフの姿勢は一様にクールだし厳しい。少年裁判所なので当然未成年が相手なのだが、かける言葉はさほど優しいものではない。かといっていい加減というわけでも相手をいびるというわけでもない。スタッフにとっては仕事の一貫、しかし仕事としてちゃんとやる、というプロの姿勢だ。そういう職業人としての姿勢の中にも、ふっとその人個人の性格みたいなものが垣間見える瞬間があって、そこが面白い。特に判事はなかなか面白いキャラクターなのではないかと思う。
 児童相談所ではなく裁判所なんだよなぁと強く感じたのが、最後に出てくる強盗に関する裁判。被告の少年は、自分は脅されて強盗犯の運転手をしただけだと主張する。しかし、彼が犯罪に加担したということは事実だ。少年の認識が甘すぎるんじゃないかという部分もあるのだが、どういう事情であれ罪は罪だと判断される。
 弁護士も、仮に控訴しても有罪は免れないと判断し、判事・検事と合意の上で少年院へ送るという方向で話を進めるというのが興味深かった。弁護士の「君はずっと私を恨むだろうが」という言葉も重い。控訴し、成人として裁判しなおすよりも少年院に行った方が処分としては軽いのだが、パニックを起こしている少年にはそれがわからないのだ。裁判所側の冷静さと対称的(親もちょっと諦めている感じなのが何ともいえない)。




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