3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2011年10月

『安全な妄想』

長嶋有著
特定テーマなしの著者の随筆集を読むのは初めて読む。著者の小説を読んでいても思ったが、言葉の使い方の細かいところに意識がいく人なんだなと思った。言葉を仕事道具にする作家なんだから当然といえば当然なのだが、著者の場合は特に、細部の言い回しや固有名詞等に対して、なぜこの言葉を使うのか、という点が非常に自覚的だと思う。ただ、随筆だとそこに拘る著者の自意識が前に出てくるので、若干クドい。文章がくどいのではなく、そこで言い表されている著者の人柄がクドい(笑)。「ご飯が出来たわよ」という言葉に対するこだわりなど、わからなくはないがそこまで言いますか?!と。もちろんこれは「作品」として書いているからかなり誇張はしていると思うが、でも多分そういう人なんだろうな・・・と思えてしまうところが著者の業というか人徳というか・・・。すごく面白い人だと思うけど、身近にいたら面倒くさいだろうなー。いや逆に面白いとも・・・やっぱり面倒だわ。




『フランス映画どこへ行く ヌーヴェル・ヴァーグから遠く離れて』

林瑞絵著
ヌーヴェル・ヴァーグともてはやされたのははるか昔、今やフランス映画斜陽の時代と言われて久しい。フランス映画はなぜ元気がなくなったのか、製作体制にどのような問題が生じているのか、現地フランスでの状況を解説する。映画そのものが批評されることはあっても、現地での興業状況や製作の現状などが語られることはあまりなかったと思う。今のフランス映画界を知る資料として、面白く読んだ。フランスといえばアート系の良作が~、というのは一昔前の話で、今やTV局出資(ただし、フランスでは元々TV局に映画への出資が義務付けられている。アルテやカナル・プリュスのようにあえて作家性の強い作品中心に出資する局もある)のフランス版ハリウッド映画(残念ながら本家に質は及ばないみたいですが・・・)が興業ランキングの大半を占め、シネコンが幅を利かせ(日本とは反対で都市部に集中しているらしい)、制作費は超大作と低予算作との2極化が進み・・・ってあれ?これどこかで聞いたような・・・。日本映画にも共通する問題が提示されており色々参考になるかもしれない。アルノー・デプレシャン、ブリュノ・デュモン、セドリック・クラピッシュ、クロード・ミレールといった早々たる面子へのインタビューが掲載されているのには驚いたし、それぞれのスタンスが見えて興味深い。




『少女』

アンヌ・ヴィアゼムスキー著、國分俊宏訳
ロベール・ブレッソン監督による、映画『バルタザールどこへいく』(1966年)に主演した女優アンヌ・ヴィアゼムスキーによる、当時の撮影を振り返った自伝的小説。当時のヴィアゼムスキーは18歳で、ブレッソンは66歳。少女から見た巨匠は最初は巨大な存在で、彼女は圧倒されてしまう。が、徐々に、少女から女性へ、そして俳優へと自覚を覚え、ブレッソンと時に対等にやりあい、時に共犯者として振舞う。アンヌという、映画に出演することになった特定の少女の物語であると同時に、普遍的な、少女が大人の女性に変化していく瞬間を描いている。著者自身の物語であるからか若干ナルシズムは感じられるが、それ以上に「私」を客観視しているので、普遍的な「少女」として成立するのだろう。ブレッソンをはじめとする実在の人物が多数出演する。ブレッソンがどのように映画を撮っていたのか、スタッフとの関係や演出方法などが垣間見られて、現場の熱気が感じられる。もちろんフィクションの枠に落としこんであるので、キャラクターとしてのブレッソンであり、実像とは異なるところもあるのだろうが、撮影のやり方の記述は具体的で、臨場感がある。




『ステイ・フレンズ』

 NYでヘッドハンティングの仕事をしているジェイミー(ミラ・クニス)は、LAのアートディレクター・ディラン(ジャスティン・ティンバーレイク)を転職させようとLAに招待する。意気投合した2人は仲の良い友人同士になり、やがて恋愛感情なしのセックスフレンドになろうということで合意する。セックスの相性もばっちりな2人だったが、徐々に関係に微妙な変化が。監督はウィル・グラック。あ、エンドロールは最後までご覧ください。
 冒頭、カップルが電話で話している思いきや、あれ・・・?という展開でひきつけられた。ディランとジェイミーの出会いに至るまでの流れといい、序盤の展開のテンポが軽快で、引き込まれる。冒頭でふった小ネタを終盤で回収しており、構成がいい。いわゆる王道、ウェルメイドなラブコメだと思う。
 映画ネタ(ジョージ・クルーニーのアメリカでの位置づけってどういうことになっているんだ(笑))やポップミュージックネタが随所にちりばめられている。私は音楽はそんなに詳しくないのでぴんとこないネタも多かったのだが、詳しい人には楽しいのではないかと思う。また、「流行ってたけど今となってはダサい」ものがネタとして頻出しており、アメリカではこういう感じの受け止められ方なのかと興味深かった。さすがにハリー・ポッターの刺青はないだろう~とは思ったが。ネタといえば、こぎれいでアート好きな男性はゲイ認定されるというのがお約束なんだろうか。ハリポタが好きな男性というのも、ゲイっぽいと思われることがあるの?このへんのニュアンスが強引な気がした(アメリカでは鉄板なのかもしれないけど)。ゲイの同僚をお約束的に出してくるのもちょっとなぁ・・・。
 ジェイミーとディランは、今までの恋人との関係のわずらわしさから、甘い言葉やムード抜き、スポーツ感覚のセックスフレンドでいようと誓う。しかし段々、恋愛対象としてお互いを意識しだし気まずくなってしまう。・・・だったら普通に付き合えばいいのに・・・と言ってしまうと実も蓋もないのだが、2人が恋人に移行することを躊躇する理由の作り方が、ちょっと弱いように思った。お互い、家族の事情があって・・・、という部分もあるのだが、これも蛇足(特にディランの家庭の事情は、シリアスな問題を軽妙に扱っていて上手いのだが、それだけになぜこの作品の中で?という気がした)感がある。途中、何でこの人たちこんなにめんどくさいことしてるの?とそもそもの発端を忘れそうになったし、映画が終わった後も、そういえば途中何で仲たがいしてたんだっけ?と。個々のシチュエーションは楽しいが、2人の感情の流れが若干強引だった気がする。
 ともあれ、すごく楽しい作品で、もっと大々的に宣伝されていてもいいのになと思った。セックスフレンドなので当然セックスシーンは多いが、そんなにきわどくはない(きわどいことはやっているが、見せ方はそうでもない)。ミラ・クニスがお尻は見せるのに胸はがっちりガードしているのは、何かのポリシーなんだろうか。なおティンバーレイクもお尻をばっちり見せています。




『ベニスに死す ニュープリント版』

 静養の為にベニスを訪れた作曲家のアシェンバッハ(ダーク・ボガード)は、滞在先のホテルで美少年タジオ(ビヨルン・アンデルセン)に心奪われる。ルキノ・ヴィスコンティ監督、1971年の作品。原作はトーマス・マン。
 学生の時に授業の一環で見た以来、スクリーンでは初めての鑑賞。前に見た時は途中で睡魔に襲われたのだが、今回も前半、ベニス(この呼び方も懐かしいな)に着くまでに睡魔が・・・。でもそれ以降は、前に見た時よりも映画のアウトラインがはっきりと見える感じがした。
 名作と名高い作品だが、どこか奇妙だ。アシェンバッハは有名作曲家のはずなのに妙に小物感があり、ホテルマンにも店員にも小バカにされている感じがする。アシェンバッハの振る舞いが、いまいち自信なさげでオロオロしている。コンサートが酷評された後という設定はあるものの、貫禄がない。彼は老人という設定だが、老人の落ち着き、あるいは老人の弱弱しさもなく、中途半端な感じだ。
 中途半端といえば、アシェンバッハが滞在しているホテルも、セレブが集うそれなりのホテルなはずなのに、朝食の風景等が妙に安っぽい。込み合っている時は猥雑な雰囲気すらある。現代の視点から見るとそう見えるのか、ヴィスコンティが意図的に安っぽくしているのかわからないが。慇懃無礼なホテルマンや芸人一座等は、あえて下卑た表現を使ってきている気はした。高級・高尚なはずだと思っているものが引き摺り下ろされるみたいだ。
 アシェンバッハは美は正しい、調和が取れたものだという芸術観を持っており、同業者に批判されたりする。基本的に生真面目で融通がきかない人なんだろうなぁ・・・。そういう彼がタジオという即物的・表層的な美(タジオと彼が若い頃に買った娼婦が似ている。ああいう顔が好みなのか)に心奪われ、目で追ってしまう自分を取り繕ったり、あたふたしたりする姿は滑稽でもある。終盤の若作りメイクなどトチ狂っているとしか思えないのだが、あそこまで「もういい!美少年眺められるならもういい!」みたいなことをされると、いっそ清清しい。もっとも、最初からそういう境地に至れる人だったら、あのような顛末はたどらなかっただろう。この役を受けたボガードも偉いなぁ・・・。あと舞台であるヴェネチアも。リゾートのはずなのに全然美しく見えず、挙句の果てには疫病が蔓延している設定なのに(笑)。




『ヘヴン』

川上未映子著
クラス内でいじめを受けている「僕」と同級生のコジマは、手紙をやりとりするうちに絆を感じるようになる。コジマは、自分達が苦しい思いをしているのは「しるし」なのだ、苦しみには全て理由があるのだと言ったが・・・。自分達は特別なんだというコジマの主張は、そうでも思わないと生き延びられないという切羽詰った状況の裏返しだろう。コジマの「全てに意味がある」という主張を「僕」もよりどころにするわけだが、いじめる側の同級生・百瀬は、それを粉砕する。彼は物事に理由などない、やりたいからやるんだと言う。「僕」は百瀬に上手く反論できないし、そもそも2人が違う平地に立っているのでかみ合うはずがない。しかしコジマも百瀬も自分に都合のいいように世界を解釈しているだけだ。彼らの主張を読んでいるととにかく空しくなり、やってられんなーという気分に。具体的な理由などないいじめの雰囲気とか、それに対抗できない感じとか、ほんと読んでいて疲れる・・・ということは上手くかけているということなんだろうが。いじめそのものというよりも、自分では処理しきれない事態への対峙(解決ではない)の仕方のサンプルを描いた、という感じがする。




『競売ナンバー49の叫び』

トマス・ピンチョン著、佐藤良明訳
新潮社版で読んだ。カリフォルニアきっての大富豪となったかつての恋人から遺産を託された人妻エディパ。なぜ自分が選ばれたのか、遺産とは何なのかさっぱりわからず、彼女は動転する。調査に向かった彼女の前に現れたのは、ハンサムな顧問弁護士と大量の切手コレクションだった。そして、謎の組織の存在が浮かび上がってくる。エディパが女探偵を務めるサスペンス的な部分があるかと思うと、延々と薀蓄・引用(しかも本当なのかどうかよくわからない)を垂れ流したり話が横道に逸れまくったりで、文章に引きずり回されるみたいだった。誤謬・ニセモノ・誤解がモチーフのひとつになっており、駄ジャレも連発されるが、翻訳は至難の業だろうな・・・。言い間違い、書き間違い等が現れる度、文脈が横にスライドするような不思議な移動感覚があった。読んでいるうちに、スタート地点がどこだったかわからなくなってきた。しかし読みこなすにはまだ私の知識・読解レベルが低すぎる・・・。もっと色々な仕掛けがしてあるはずなのに~。




『真夜中の探偵』

有栖川有栖著
「探偵」が禁止されたもう一つの日本。少女ソラの両親は探偵だったが、母親は失踪し、父親は逮捕された。高校を中退し一人、大阪で暮らし始めたソラは、良心の後を継いで探偵になると決意する。母親の行方を探るうちに、父親に探偵仕事を仲介していた人物と面会できた。しかし後日、仲介者の屋敷に出入りしていた元探偵が遺体で発見された。『闇の喇叭』に続く、パラレルワールド日本を舞台としたミステリ。本作のような管理社会設定は、私はどうにも怖くてですね・・・。均一な空気の圧力に押しつぶされるような息苦しさが。「探偵」という職業に象徴されるのは知りたい・調べたいという欲求、物事を疑う気持ちでもある。それが禁じられている(というより「自粛」する空気がある)世界はつまらない。しかし警察側の理論も分からなくはない(その方が合理的に統括できるというのはわかる)し、探偵側の主張が必ずしも正しいとは頷けないところもあり、もやっとしながら読んだ。そのもやもやと対称的に、ミステリの謎解きは(ソラはの仮説という形だが)クリア。図でもつけてくれたらよりわかりやすく古典テイストが増して嬉しかったのだが。まだシリーズは続くが、ソラ一家の幸せな未来はどうにも描けなさそうな気がして、この先が不安。タイトルも前作は「闇」だし今作は「真夜中」で、暗い路を行くイメージがついている。確かにソラが目指す路は、本作の世界だと暗い路にならざるを得ないのだが。




『リミットレス』

 作家志望のエディ(ブラッドリー・クーパー)はスランプ中だった。原稿は一枚も進まず、実質資金源だった恋人にはフラれた。そんな折、偶然会った元妻の弟から、脳を活性化させる新薬をもらう。半信半疑で服用したエディは、傑作小説を書き上げていた。もっと薬を手に入れようと、エディは元妻の弟を訪ねるが、彼は何者かに殺されていた。隠されていた薬を持ち帰り、薬の力で経済界に乗り出しどんどん出世するエディだったが。監督はニール・バーカー。
 エディは最初、実質ヒモ状態。薬を使っても最初はもったいない使い方で、なにやってんのと突っ込みたくなる(口八丁でセレブのバカンスに便乗して大はしゃぎ)。本が売れたらあっさりトレーダーに鞍替えして金儲けに精を出す。作家志望じゃなかったのかよ!結構軽薄で調子のいい人なのだ。そもそも、せっかく頭が良くなったのなら最初に薬の出所を調べて供給ラインを確保しておくべきだろう(というか、薬のストックがどのくらいまでもつのか、そっちの方が先に気になるよな~普通)。そもそも元義理の弟は殺されてるんだからもっと危機感持って!と色々と突っ込みたくなる。薬を使うと確かに頭の回転が超高速になり、学習能力も異常に上がるのだが、いわゆる「頭の良さ」は上がらない、思慮深くなるわけではないという、バランスが面白い。愚か者は頭の回転が速くなっても愚か者なんですね・・・
 なお原作は『ブレイン・ドラッグ』だと思うのだが、ラストの展開は違ったように記憶している。映画の方がよりブラックなんじゃないだろうか。ハッピーエンドといえばハッピーエンドかもしれないけど。
 脳の処理能力が早くなっているという表現が、自分が複数いる(かのようにスムーズに物事を処理できる)とか、空から文字が降ってくる(かのように執筆できる)とか、わりとベタなのだが分かりやすくて楽しい。世界が急に輝いて見えるようになるところなど笑ってしまう。ブラッドリー・クーパーの個性が薄く整った顔でそれをやるので、また出来すぎな感じがしておかしかった。頭がよくなったら、世界の悲劇まで深く広く考えが及んでしまったりしないのかしら・・・とも思ったが、楽天的で自信過剰になる効果もあるのかな。エディの呆けた顔を見るとそんな気がしてくる。
 



『横道世之介』

吉田修一著
80年代、九州から大学進学の為に上京した横道世之介のふらふらした青春。吉田修一版『三四郎』みたいだなー。もっとも世之介は特に志が高いわけでもやる気に満ちているわけでもない。なんとなく大学に入学しなんとなくサークルに入会し、なんとなくバイトする。しかし、彼自身は知らないうちに、周囲の人々の人生の(後になってふりかえるとわかる)決定的な瞬間に立ち会う。誰かの人生のちょっとした手助けとなっているのだ。過去である80年代がメインだが、現在である00年代のエピソードが所々に挿入され、あっこれはあの時のあの人だったのか!とはっとする。世之介が関わるある事件は、数年前に実際にあった事件が元になっている。著者がどの時点であの事件を本作に織り込もうと考えたのかわからないが、その行為に対する解釈(最後に世之介の母の手紙という形で提示される)が、こういう風に思えたら人間まだ大丈夫と思えるもの。世之介ははどちらかというと頼りない、しょうもない男なのかもしれないが、彼の世界との相対し方(無自覚なのだろうが)には勇気づけられるものがあるし、だからこそ、彼は他人の人生の背中を押す(これもまた無自覚だが)ことになったのだろう。自分も誰かにとって世之介のような存在になれていれば、と思わずにはいられない。『悪人』書いて本作も書ける著者の力量・幅の広さを実感した。今回は人間の良き部分にスポット当てた感があってほっとする。80年代以降の日本の雰囲気を読むという側面もあり面白い。バブル期を体験した人にはより感慨深いのでは。




ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ