3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2011年10月

『一命』

 三池崇史監督初の3D映画だが、私は2Dで鑑賞。特に支障は感じなかった。ここは3Dにした時の見せ場なんだろうなというカットはいくつかあったが、かといってこれを3Dで見たいかというと・・・。昔の日本映画や、水墨画を思わせる、いわゆる「日本の美」的なビジュアル。海外から見た「日本の美」ぽいので、海外配給をかなり意識しているのではないかと思う。満島ひかりが蚊帳の中にいる様子など、幽霊画のようだった。満島は相変わらず薄幸な役ばかりやっているが大丈夫なのか。
 大名・井伊直孝の屋敷に、津雲半次郎(十一代目市川海老蔵)なる浪人が現れ、切腹のために玄関先を貸してほしいと申し出た。世間では、貧乏侍が大名屋敷で切腹させてほしいと頼み、迷惑がる屋敷の者から金品をせしめるという、狂言切腹が流行していた。津雲も同じ手合いと見た家老の斎藤勘解由(役所広司)は、かつてこの屋敷で狂言切腹を試み、本当に切腹する羽目になった若い浪人・千々岩求女(瑛太)の末路を話して追い払おうとする。
 求女は悲惨な最期を迎えるが、そもそも彼の計画はずさんだし甘いしで、かわいそうなのだが斎藤側にしてみれば自業自得。武士としての理論では斎藤側が正論なのだ。なんとかなると思っていた求女は、もう武士の枠からははみ出ていたのだろう。生活する分には、多分その方が彼にとって幸せだったろうし何ら不自由なかったはずだ。それが斎藤側によって、無理やり武士の枠内に戻される。
 斎藤の武士の理論と、武士の理論からはみ出した津雲の理論はどこまでいっても平行線で交わらない。津雲は斎藤側をおかしいと言うわけだが、自身も武士としての体面を捨てることができるわけではない(捨てることができたらあんなに困窮しなかったろうし)。だからクライマックスは、2つの概念が対立して~、というよりも、津雲が行き場のない怒りを暴発させるという意味合いが強かったように思った。人間、暴れる他にやりようがない時というのがあるんだよなと思わせられる。
スキャンダルでマイナスイメージが強かった海老蔵だが、歌舞伎役者としては流石に華があるし迫力があることがわかる。平常時の芝居は、声が篭りがちで若干大根ぽいが、いざキメ場となると非常に映えるし動きのキレもすごくいい。とことん、派手な舞台に強いタイプなんだろうと思う。対して瑛太は、安定して上手い。平常時芝居の発声は彼の方がクリアだし通るのでセリフは聞き取りやすい。切腹場面はもうほんとに痛そうで痛そうで・・・。




『スリー・パインズ村の無慈悲な春』

ルイーズ・ペニー著、長野きよみ訳
スリーパインズ村のR&Bに泊まりに来た女性ジャンヌは、占い師だった。村の面々は彼女に、悪しき思い出のある旧ハドリー邸で降霊会を開いてもらうことにする。しかし降霊会の後、不審な死亡事件が起きる。ケベックを舞台としたガマシュ警部シリーズの第3作。人の心に機微が細やかに描かれたシリーズで、キャラクターの造形も重層的で面白い。今回は、嫉妬・羨望という感情がキーになっている。そして、ガマシュのある弱点が浮き彫りになる。彼は他人の心の動きには敏感だが、他人が自分をどう思っているかという部分には妙に鈍感だ。特に、自分に向けられた悪意に対して無頓着だ。これは、ある登場人物と共通の特性で、それが事件の鍵となっている。ガマシュの鈍さは彼の善良さ、優秀さ故だと思うのだが、そういう態度はある種の人の神経を逆なでするのだろう。ガマシュが警察内で睨まれている原因も徐々に明らかになり、相変わらず不穏さは絶えない。




『カウボーイ&エイリアン』

 19世紀末のアメリカ、アリゾナ州。男(ダニエル・クレイグ)は目覚めると荒野にいた。持ち物はなく、裸足で、腕に奇妙な腕輪がはめられている。何とか町にたどり着くと、そこは牧場主ダラーハイド(ハリソン・フォード)が牛耳っていた。ダラーハイドの息子の横暴を諌めたせいで、ダラーハイドに睨まれる男だが、その夜、奇妙な光が現れ町を襲ってきた。その時男の腕輪が作動し、襲ってきた奇妙な物体を撃退する。男は記憶と町の人を取り戻す為、ダラーハイドらと共に奇妙な物体を追跡する。監督はジョン・ファヴロー。
 好きなもの2つを突っ込んだらこんな感じになりました!的映画。お話としては非常にシンプルかつ直線的で、予告編から想像していたよりも小ぢんまりとしている。地元の町と、その隣町くらいの規模のスケールの話ではないだろうか。腕輪が変形して武器に!というギミックが一番キャッチーな部分で、意外と緩急のない、のっぺりとした印象を受けた。もっとも、異なる陣営だった奴らが結束して共通の敵に戦いを挑むという展開は少年漫画ぽくて燃えた。エイリアンの強さがどの程度のものか、パワーバランスがいまいちわからないところも少年漫画的だと思う。エイリアンの設定は、デザイン含めかなり大味。この野暮ったさはわざとなのか?西部劇とのバランスを取る為?
 はぐれ者が町にやってきて、町を救い、去っていくという構造は、正しく西部劇なのではないだろうか。犬と子供もちゃんと出てくるし、悪徳牧場主もちゃんと出てくる。ダニエル・クレイグはイギリス人だが、カウボーイスタイルも似合う。何より、得体の知れない人っぽい顔をしている。記憶をなくして自分の正体もわからない男としては、ぴったりな人選。何より、アクションをこなせる体(動くし、見栄えがする)をしているのが強みだ。決してスタイルがいいわけではないんだが、動くとほんとかっこいいんだよな~。町を牛耳る偏屈な牧場主を演じるのが、ハリソン・フォードというのが意外。こういう、終始ムスっとしている憎まれ役のような役もやるようになったのかと思うと、感慨深い。




『ブリッツ』

 ロンドン市警の刑事ブラント(ジェイソン・ステイサム)は、仕事への情熱と過剰な正義感で、強引な捜査や暴力沙汰で問題を起こしがち。ある日、警官ばかりを狙った連続殺人事件が発生する。一方、犯人の声明らしき電話を受けた新聞記者ダンロップは、犯人がワイス(アイダン・ギレン)なる男だと知る。ブラントは新任の警部補ナッシュ(パディ・コンシダイン)と共に犯人を追う。監督はエリオット・レスター。原作はケン・ブルーウンの小説。読みたいけど邦訳は出てないのかな・・・。
 イギリス版ダーティーハリーのような、手段を選ばない男が主人公の刑事ドラマ。舞台がロンドンというだけで、やっていることは似ていてもハリウッド映画とは違う味わいが出てくるから、舞台の力というのはバカにならないなーと思う。泥臭いしこじんまりしているのだが、そこがいい。主演のステイサムはともかく、その他の警官たちが美男美女ではなく、本当にそのへんにいそうな、地に足の着いたルックスをしているところもよかった。苦労が顔に出ている感じがする。
 ブラントは正義感が強いが、正義を行う為には法や職責の越脱も辞さない、徹底して私的正義の人。冒頭の若者たちとのやりとり(というか彼が一方的に「やる」んですが・・・)などやりすぎで、これで「警官は俺の天職だ」と言われても、ちょっとぞっとしない。ただ、上司やマスコミには嫌われるブラントだが、同僚からは人気がある。保守的で「パソコン使うのは女の仕事だろ」と言って女性警官に操作を頼んだりするのだが、彼女はまんざらでもなさそう(笑)。女性に対してもゲイに対しても偏見はあるが、憎しみはない。偏見を正されるととりあえず受け入れる。こういう部分があると愛されキャラになるのか~と妙に感心しながら見た。
 予告編だとステイサムの独り舞台のようだが、案外脇役たちがいい。特に、ブラントと一緒に行動するナッシュに魅力があるので、バディものとしても成立している。ナッシュはキャリア組だがゲイである為職場内で嫌がらせを受け、ブラントがいる署に左遷されてきた。この手のパターンだと、新任のキャリア上司はイヤな奴か無能のヤツというパターンがありがちだが、ナッシュは仕事は出来るし情熱もある。性格も好みもブラントとは真逆だが、仕事に対する情熱が2人に共感を生むのだ。その他にはあまり共通点がないところが、仕事上の相棒という関係性をくっきりとさせていたと思う。一緒に仕事をして上手くいく相手との関係って、案外こんな感じだよなと思った。




『蔵書まるごと消失事件 移動図書館貸出記録1』

イアン・サンソム著、玉木亨訳
憧れの図書館司書になるため、ロンドンからアイルランドの田舎町タムドラムにやってきたイスラエル。しかし図書館は閉鎖され任されたのは移動図書館の運営。しかし、15000冊の蔵書は残らずなくなっていた。嫌々ながら蔵書探しを始めるイスラエルだが。図書館がらみの題名に惹かれて読んでみた。一応、ミステリとして書かれていると思うのだが、ミステリと言うにはあまりに展開が行き当たりばったりで、論理的な筋を作ろうという意欲はあまり感じない。アクの強い村人たちに翻弄されるイスラエルのおたおたぶりが見所だ。ただ、このイスラエル、大変な読書家だが読書好きすぎて生活・実務能力は著しく低いという、読書家にとってはなかなかイタいキャラクターだ。読書家であることと頭がいいことは必ずしも直結しないという好例だ。おバカな主人公を面白がれる読者ならいいけど、図書館ミステリを期待して読むとイライラしそう。




『スリーピング・シックネス』

 第24回東京国際映画祭にて。ウルリッヒ・ケイラー監督作品。白人ドイツ人医師のエボは、「アフリカ眠り病治療プログラム」責任者として長年カメルーンに赴任していた。妻のヴェラは外国での暮らしに疲れ、ドイツの寄宿学校にいる娘の為にも帰国を望んでいた。しかしエボはアフリカでの生活と離れがたい。3年後、コンゴ系フランス人医師ヌジラは、エボのプロジェクトの査定の為、カメルーンを訪れる。
 エボはカメルーンでの生活を満喫しており、妻や娘にもすごくいい所だぞ!とアピールする。しかし娘にとっては馴染みがなく退屈な土地だし、妻は駐在外国人間の付き合いに疲れている。前半は、エボの熱意の空回りが目立つ。また、彼はカメルーンはいい所だと言うが、それは特権的な位置にいられてこその「いい所」。警備員に守られ、「金を持っている白人」として振る舞いながらカメルーンへの愛着を口にする彼の姿を見ていると、どうも居心地が悪くなる。自分が特権的に振舞っているという自覚があまりなさそうなので、余計にムズムズする。加えて、彼のカメルーン愛アピールの裏には、今更ドイツに戻ってもなじめないのでは、という恐怖が見え隠れする。
 2部構成の作品で、後半はフランス人医師のヌジラの視点から。ヌジラはアフリカ系ではあるがフランス生まれで、もちろんカメルーンを訪れるのは初めてだ。彼が目にするエボは疲れきっており、この土地を愛しているようにも見えない。エボはカメルーンに根をおろすことも、思い切って母国に帰ることもできずにいる。部外者として見ていたら素敵な場所だったかもしれないが、一旦その土地の社会に組み込まれると、ロマンもへったくれもなく、不自由な日常が続くだけだ。おそらくヌジラには、なぜエボがカメルーンに留まっているのか分からなかったろう。エボにも最早分からなかったのかもしれないが。
 ちなみに、カメルーン人がヌジラがコンゴ系であることを知り、「コンゴのヤツなんて」といった発言をするところがあった。カメルーンから見ると田舎者みたいな扱いなのか?この辺のニュアンスは地元の人じゃないと分からないんだろうな~。




『メカス×ゲリン 往復書簡』

 第24回東京国際映画祭にて。アメリカにおける実験映画の重鎮、ジョナス・メカスと、日本では昨年公開された『シルビアのいる街で』が好評だったホセ・ルイス・ゲリン。年齢も国籍も異なる2人の映画作家が交わしたビデオ・レター。ゲリンの『シルビアのいる街』では見た(すばらしいです)のだが、メカス作品は恥ずかしながら見たことがない。しかしそれでも、本作はすごくいい感じだなと思った。
 ゲリンは旅先(自作が映画祭等で上映され、招かれたときには必ず出席するというミッションを課したらしい)で撮影したモノクロの映像。その地の風景や、出会った人たちへのインタビューが主だ。その国々での映画業界の状況がうかがわれる部分も(撮影後、亡くなられたことがわかった人もいてショックだった)。『シルビアのいる街で』を見た時も思ったのだが、風の音や鳥・虫の声などのノイズ的な音をすごく意識している人なのではないかと思う。いわゆるサウドトラックとなるような音楽は殆ど使われていなかった。
 対してメカスは、カメラの動きが自由奔放というか、かなり乱暴。その場でカメラを掴み上げて向きを変えたり自分を撮影したりと、よく動くしブレる。しかし、明らかに「映画だ!」というショットになるところがとても面白い。自分のスタジオで若いスタッフがいきなり踊りだすショットの鮮やかさが焼きつく。なお、スタッフが皆いい感じの人たちで、職場の雰囲気がいいんだろうなぁと思った。スタジオには猫もいるのだが、この猫を撮影したショットがまたチャーミング。音楽もよく使っており、生き生きとした生活感がある。撮影場所が、メカスのスタジオ内やその周辺といった生活圏内だからかもしれない。これに比べると、旅先でだからかゲリンの映像はどこか寂しげだ。
 最後のゲリンによる映像、小津安二郎の墓で獲物を運ぼうとしている蟻たちの様子は、撮りはじめたら止められなくなっちゃったのかもしれないと思わせる、妙に緊張感のあるシークエンスだった。蟻が作業しているだけなんだけど、思わず手に汗握り息を呑む。その前に出てくるメカスの鳩のショットに誘発されたのかしらとも思った。




『明日を継ぐために』

 第24回東京国際映画祭にて。ヒスパニック系の移民・カルロスは、友人のトラックに便乗して植木屋をしている。友人は国に帰ることになり、カルロスにトラックと道具を買わないかと話を持ちかけてきた。カルロスは息子の将来を考え、妹から借金してトラックと道具を買い、自分で商売を始めようとするが。監督は『アバウト・ア・ボーイ』のクリス・ワイツ。
 とても真面目に、折り目正しく作った作品という印象だった。オーソドックスで丁寧だが、それゆえ色々なフラグがあからさまに分かりすぎる。もっとも、物語の王道を踏まえている感はあって好感は持てる。また、少々生真面目すぎるきらいも。シリアスな問題を扱っている作品なだけに、真面目すぎるとちょっと息苦しいなとも思った。
 移民問題を扱っているが、同時に、異なった背景を持つ父子の物語が軸になっている。カルロスは南米(多分メキシコ)から不法入国し、10数年間LAで生活してきた。息子はアメリカ生まれのアメリカ育ち。ヒスパニック系で、父親とメキシコ語(多分)で話すこともできるが、多分自分の認識としてはアメリカ人だし、英語の方が身についている。町で日雇い仕事を探す移民たちを見て、息子は自分とは違う存在としてバカにするが、カルロスにとっては正に自分の問題でもある。そういう意識の違いがちょっとしたところから浮かび上がってきて、世代間のギャップを感じた。
 また、これは移民云々に限ったことではなく普遍的なことだと思うが、子供は親がどういう風に生きてきたかっていうことは、普段はあまりぴんとこないんだよなと。息子から見ると、日々の仕事に追われるカルロスはかっこ悪く、あんな働き方つまらない、ギャングにでもなって派手に儲けた方がいいと思っている。しかし、カルロスはそれこそ不法入国して20年近く地味にこつこつ働いてきたわけで、そういう働き方が出来るということの貴重さが身にしみている。こういう「貴重さ」というのは、多分実際働いてみないとわからないんだろうな、と、世のお父さん達を思ってしんみりとした。物語後半では思わぬ事件により、息子はカルロスが持っているタフさに気付いていくのだが、これはカルロスが特にタフだというのではなく、大人になるにつれ身についてくるタフさ・・・だと思いたい。




『カンパニー・メン』

 大手総合企業GTX社で、30代で部長となり前途洋洋だったボビー(ベン・アフレック)だが、所属している造船セクションが廃止されることになり突然リストラされる。妻子を養う為に再就職を目指すがなかなか上手くいかず、焦りを隠せない。一方、創業時から在籍している役員のジーン(トミー・リー・ジョーンズ)はリストラ案に反対していたが受け入れざるを得なかった。造船現場から叩き上げのベテラン、フィル(クリス・クーパー)にもリストラの声が掛かり、呆然とする。監督はジョン・ウェルズ。
 「今」のアメリカ映画だなぁとしみじみ思う。ボビーはMBAも取得した将来の幹部候補で、おそらく仕事は出来る。いわゆるエリートだ。そんな彼でも、再就職は困難で、むしろ高学歴・高収入だったことが足を引っ張る。また、ジーンは長年造船事業に関わってきた為リストラに反対だが、彼自身が会社の株主でもあるので、あまり強く出られない。実際、リストラをすると株価は持ち直すのだ。社長が「会社は社員ではなく株主のもの」と明言するあたりが、とてもアメリカ的。リストラしても、役員報酬は減った様子がないあたりとかも。
 ボビーが自分のプライドを捨てられずにあがき、しかし徐々に捨てていく様は、滑稽でもあるし苦くもある。家計が逼迫することが実感できず、ゴルフ会員権や2台目の車を手放せない姿には苦笑してしまうが、面接を受けても受けても採用されない様は、全く他人事とは思えず見ていると胃が痛くなりそうだ。仕事が出来る人でもこんななんだから私なんて・・・。過去の栄光(笑)を捨てられないボビーに対して、妻と長男はかなりのリアリスト(妻はすぐに自分の勤め先を探し始める)なところが面白い。妻はともかく、長男が家計の心配をする様子が健気だ。
 ちなみに、リストラされても当面は給与が出るのだが、かなり早い段階で経済が逼迫してきて、貯蓄等。ローンに充てなくてはいけない部分がかなり大きいみたいで、アメリカがローン社会であることが垣間見える。
 八方塞のボビーはやむを得ず、自営の工務店をやっている妻の兄の元で働くことになる。兄は、ボビーとは対称的な叩き上げのブルーカラーでお互い嫌い合っている。しかし、地道に仕事をする義兄と働くことで、ボビーは今までの働き方に迷いを感じるように。
 ただ、本作は大企業のあり方に疑問は投げかけるが否定するわけではないし、ボビーのいままでの働き方を否定するものでもない。彼はやはり「カンパニー・マン」であって、今更他の働き方は出来ないし、「カンパニー・マン」であることが性に合っているのだ。会社員として生きることもそれ以外の道も、両方否定しない配慮があった。




『いろんな気持ちが本当の気持ち』

長嶋有著
小説家である著者の随筆集。これが随筆集としては1作目になるのかな?日常のエッセイだけでなく、文庫解説に寄稿したものや、CDの紹介文なども含まれている。本著の題名は、角田光代の作品への書評のタイトル。書評系の文章がなかなか良くて(特に伊藤たかみ「ミカ!」の解説がいい。若い読者を想定して書いたそうだが、むしろ大人からの評判がよかったとか。確かに大人の琴線の方に触れそうだった)先日出版された『安全な妄想』よりも真面目(笑)。その言葉が何を指すのか、何を思い起こさせるかという部分への厳密かつちょっと粘着質な拘りは相変わらずだ。他のエッセイではあまり登場しなかった著者の母親の話が何度か出てくるが、お母様、素敵な方っぽいな~。あと、著者のエッセイで他の作家の方が登場するものはハズレがないように思う。本著では芥川賞授賞パーティでの、選考委員それぞれの言動が読者の期待を裏切らないもので、面白すぎる。特に島田雅彦は世間のイメージを忠実に踏襲した立ち居振る舞い。




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