3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2011年07月

『失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」

マルセル・プルースト著、高遠弘美訳
光文社古典新訳文庫版で読んだ。主にその長さでとっつきにくく思われている本作だが、新訳であればすこしは読みやすいかなと思って。で、実際に読んでみたところ、そんなに読みにくくはないし、予想外にユーモラスだった。本パート「スワン家のほうへ」は、語り手が眠りにおちていくところから始まり、過去の記憶がよみがえってくるという構成。人が何かを思い出す時は、順序だてて時系列通りに思い出すわけではなく、一つのものから連想して次のイメージへと飛んでいくが、本作の文章はその記憶の飛躍の仕方を再現しようとしているように思った。決して文脈が整っているわけではないのだが、イメージ自体は連鎖しているので、その流れに乗ってしまえば意外に読みやすい。人物造形にちょっと悪意があり、時にこれちょっと下品だよなぁというところも。叔母・祖母たち年配女性のかしましさには作中の男性陣ならずとも辟易とする。感謝の意を間接的に伝えようとして間接的過ぎて伝わらないくだりなど最早ギャグである。当時のフランスが歴然とした階級社会である様子がかなり色濃くでているのも興味深い。




『マイティ・ソー』

神々が暮らすアスガルドの地。城内に敵対する巨人国・ヨトゥンヘイムの兵士が現れた。王の息子ソー(クリス・ヘムズワース)は腹を立て、王の命に背きヨトゥンヘイムへ仲間と攻め込む。これを知った王オーディン(アンソニー・ホプキンス)は怒り、ソーを国外追放した。ソーが飛ばされたのは地の国ミッドガルド。つまりは地球だった。ニューメキシコ州の砂漠に落ちたソーは、宇宙物理学者ジェーン(ナタリー・ポートマン)の車にぶつかる。監督はケネス・ブラナー。
原作はアメコミだそうなのだが、北欧神話を下敷きにしている。かつて地上で神と巨人族との大戦があり、巨人族はヨトゥンヘイムに追いやられて神々ははるかな地アスガルドへ・・・という壮大なプロローグがあるのだが、プロローグが壮大な割りに、本編はこじんまりとしている。早い話が神様の国のお家騒動、親子喧嘩兄弟喧嘩であり、それに地球が巻き込まれている。地球人大迷惑である。さらにアスガルドはともかく地球での舞台ばニューメキシコの田舎町だし、ショボいと言えばショボい。ストーリーも大味で、特に新鮮味があるわけでもない。
しかし本作、それなりに見ていて楽しかったし、イヤな気分にはならない。予告編の段階では、ソーの傍若無人っぷりや、顔があまり自分の好みではない(笑)ことから乗り気ではなかったのだが、見ているうちに、だんだん楽しくなってきた。主人公のソーが、何かいい奴なのだ。王子様というよりも、社長のドラ息子的で、ちょいワルな仲間を引き連れて暴れまわっているボンボンという風体なのだが、なにしろ育ちが超お坊ちゃまなので根がいい子(笑)。地球にやってきてからも、風習が違うから乱暴に見えたり無作法に見えたり(あ、乱暴なのは本当にそうなんだけど)するが、礼節はわきまえていて実に素直だ。この、「ドラ息子だがいいとこのボンボン」というテイストが効いていた。お育ちがいいから周囲の嫉妬や計略にも無頓着だし自分が悪意を向けられるということがわかってないのね~と納得できる。
ジェーン役のナタリー・ポートマンも学者バカ的なキャラクターがかわいかったし、アシスタント役の子もキュートだった。予想外にキャラクターにかわいさのある作品に仕上がっていたと思う。ただ、ケネス・ブラナーってこんなに大味な作風人だったっけ?とは思った。




『偽のデュー警部』

ピーター・ラヴゼイ著、中村保男訳
1921年、元奇術師で現在は歯医者のウォルターと、彼と愛し合うようになった花屋の店員アルマ。しかしウォルターの妻である女優のリディアがハリウッドへ行くと言い出し、ウォルターの歯科医院も売り払ってしまった。ウォルターとリディアはアメリカへ向かう客船を利用してリディアを殺害する計画を立てた。しかし航海中、見知らぬ女性が遺体で発見された。ウォルターは名刑事のデュー警部と勘違いされて事件解決を期待されてしまう。名作と名高いのも納得の面白さ。本格ミステリとしてのプロットの良さ(あれはどうなっているんだろうと思っていたら最後にあっ!と)はもちろんなのだが、各キャラクターの造形がいい。いわゆる普通に「いい人」は全然出てこず、日和見だったり思い込みが激しかったり、とにかく自分勝手な人が多くてお近づきになるのは遠慮したくなる。人間のよくある欠点ばかりを辛らつ(特に女性の造形は辛らつ)に書いているが、ユーモラスで下品にはなっていないところが強みだと思う。ミステリとしては、本筋部分だけでなくちょっとした挿話の部分までしっかりひろっていくので、充実感あり。名匠の技。




『さよならまでの三週間』

C.J.ボックス著、真崎義博訳
念願の養子を迎えて9ヶ月、幸せに暮らしていたジャックとメリッサ夫妻だったが、子供の実父という高校生とその父親である判事が、親権を主張し、法に基づくと3週間後に子供を手放さなければならない。家族を守る為、ジャックは彼らの過去を探り始める。『ブルー・ヘヴン』に引き続き、DIY精神が底辺にある、現代の西部劇的な味わい。どちらも、家族(的なもの)を守る為自らの正義を行使する男たちが主人公だ。なぜこの子供でないとだめなのか、という部分が(両陣営において)ちょっと弱いかなーと思ったが、一気に読ませる。主人公たちの「オレがやってやる」精神、ヒロイックでカタルシスはあるのだが、一歩間違えるとかなり危険だ。本作も独りよがりかどうかちょっとギリギリな気がするな・・・。なお『ブルー・ヘヴン』同様、アメリカの田舎町について妙な先入観ができてしまいそうだ(笑)。いくらなんでも。という気はするのだが、アメリカではこういう設定は一定の説得力を持つのだろうか。それはそれでいやだなぁ。




『ブルー・ヘヴン』

C.J.ボックス著、真崎義博訳
12歳のアニーと弟のウィリアムは、森の中で殺人を目撃する。犯人はロサンゼルス市警の元警官4人組で、目撃者を消す為にアニーたちを探し始める。誰も頼れない中、姉弟が逃げ込んだのは老牧場主ジェスの牧場だった。アイダホ州北部を舞台としたハードボイルド。現代の西部劇とでもいった雰囲気。周囲からも自分でも時代遅れだとわかっているジェスが、幼い姉弟を守る為に再び銃を手にする。映画化したらイーストウッドが演じそうな、頑固で気骨あるキャラクターだ。彼の行動は無謀とも言えるのだが、息子との関係に残している後悔が、幼い姉弟との関係に一歩踏み込むことを後押しする。ジェスだけでなく、アニーとウィリアムの母親や、ジェスの旧友など、色々な人たちがもう一度踏み出していくところが清清しい。本作、田舎町が舞台なのだが、段々その裏に隠れた姿が明らかになる。黒幕は早い段階で明らかになるのだが、その包囲網が怖い!アニーとウィリアムが追い詰められていく過程はスリリングだ。映画化したら面白そうな作品。




『メタルヘッド』

 母親を亡くし、父、祖母と暮らす少年TJ(デヴィン・ブロシュー)。彼の前に正体不明の男ヘッシャー(ジョセフ・ゴードン・レヴィット)が現れ、家にいついてしまった。マイペースなヘッシャーの行動にTJは振り回される。監督はスペンサー・サッサー。
 四次元ポケットのないドラえもんというか、凶悪なオバケのQ太郎というか、とにかく異質な存在が居候しに来る話のバリエーションの一つだと思う。題名も原題は「HESSHER」だし。ヘッシャーはヘヴィメタル愛好家らしく、出で立ちも上半身裸に長髪に刺青とメタル野郎のお約束に準じている・・・のだが、演じてるのが小柄な優男のゴードン・レヴィットなので妙にちぐはぐでユーモラス。長髪似合わないし、刺青にいたってはサインペンで落書きしたようにしか見えない。メタラーとしても胡散臭いことこの上なしだ。これがもし、本気でがっつりメタルを聞き込んでいるような風貌の人だと、却って面白くない。ゴードン・レヴィットの起用は大正解だったと思う。行儀は悪いがおばあちゃんのことは尊重したり、意外と空気読むかわいさのあるキャラクターに仕上がっている。
 TJは母親を、彼の父は妻を事故で亡くした。2人とも愛する者の死から立ち直れずにいる。特に父親は重症で、薬の量は増え、仕事にも行かずソファから動こうとしない。TJの辛さや、2人を心配するTJの祖母の気持ちにまでは気が回らない。一方で、近親者を亡くした人の会に出席した後、「俺はあいつらみたいな負け犬じゃない」と嘯いたりもする。TJはTJで、母親との思い出がある車を取り戻そうと必死だ。父子は、同じ悲しみを抱えているが、全然かみ合っていない。そもそも2人で母親のことを話そうともしない。
 近しい人を亡くしたという設定が出てくる映画を見るとよく思うのだが、人によって悲しみ方の深さや早さ、表への出方は全然違う。悲しみをわけあう、というと聞こえはいいが、根本的には分かち合えないものだと思う(だから最後、棺と一緒に走り出す父子の姿によけいにぐっとくるのだ)。TJと父親は、それぞれの悲しみの中に閉じこもってしまう。それを無理やりこじ開け引っ掻き回すのがヘッシャーだ。ヘッシャーにあおられて、TJはようやく怒ることができるし、父親もつられて動き出す。ヘッシャーという、一種のファンタジーを介することで、家族の死を消化していく過程を鮮やかに描いていると思う。




『東京公園』

 カメラマン志望の大学生・光司は、都内の公園をめぐって家族写真を撮影している。ある日撮影していると、1人の男がいちゃもんをつけてきた。その男・初島(高橋洋)は光司に、ある女性(井川遥)を尾行し撮影してほしいと依頼してきた。監督は青山真治。原作は小路幸也の小説。
青山監督は私にとって、当たる時は大当たりだけど外れた時も大きいという印象。本作は・・・なんだかなぁ。キャストだけ見るとアイドル映画だが、アイドル映画としては華やかさに欠ける。中心になるのは光司と3人の女性、義姉の美咲(小西真奈美)、幼馴染の富永(榮倉奈々)、そして尾行対象で光司の亡き母に似た百合香との関係だ。美咲と富永との存在感はリアルさを伴うものだが、百合香だけは非日常的で、物語から浮いている。初島の依頼も百合香も、この映画の中では異物のように感じられた。
公園がひとつのキーワードとなっているのだが、これも上手く機能していると思えない。公園自体があまり魅力的に撮れていないというのもあるが、ストーリー内に無理やり「~って公園みたいだよね」というフレーズをねじこんだように見えた。公園が出てくる必要性がないのだ。少なくとも、美咲や富永との関係においては。これは映画としての本作の問題というよりも、原作の問題なのではないかという気もするが(原作未読なので推測ですが)。
基本的にメルヘンぽく、バーのマスターや富永の存在などは少女マンガを思わせる(パーフェクトな幼馴染キャラ!)。そんな中、妙な生々しさを発揮しているのが美咲役の小西だ。これ、他の登場人物の造形とのバランスを考えると、実際はもうちょっとほのぼのした雰囲気になる予定だったのではないかと思うのだが、小西の女の業背負っています的なオーラがじわじわ迫ってくる。




『ラルジャン』

 父親から小遣いをもらえなかった高校生のノルベールは、クラスメイトのマルシアルが作ったニセ札を使って写真店で安い額縁を買い、お釣りをもらう。写真店の主人はニセ札に気付くが、、ガソリンの集金に来た青年イヴォンにそのニセ札を使う。ニセ札と知らずにカフェの支払いに使おうとしたイヴォンは、気付いた店員に通報され、逮捕されてしまう。潔白を証明しようと写真店からの支払いに使われた札だと説明するが、写真店の主人はイヴァンに見覚えがないと言う。監督はロベール・ブレッソン。1983年の作品となる。
 『スリ』と同じくニュープリント版上映となったので見てきたが、これまた素晴らしい。『スリ』よりも更に骨っぽく、余計なものを排した作品になっていると思う。骨しかない!という感じ。どちらも本職の俳優は使っていないそうだのだが、出てくる人が皆いい顔をしている。
 前半は、1枚のニセ札から連鎖していく群像劇で、そのドミノ倒しのような流れが鮮やか。発端である少年はお咎めなしで、何も悪いことをしていないイヴァンが割を食う。それも、写真店主人のちょっとした保身心の為にだ。後半はイヴァンを中心に話が展開していくが、その容赦のなさ、残酷さにうなった。彼は不運により人生が一転してしまうが、それに対するフォローは全くない。イヴァンは行くところまで行ってしまう。彼をその境地まで追いやったのは、特に大きな悪意ではなく、ちょっとした出来心のようなものだった。人生なんてちょっとしたことで、本人の意思とは関係なく変わってしまうという実も蓋もない話なのだ。これを真正面からやられるとなかなか堪える。
 『スリ』も残酷な映画ではあったと思うが、まだ人の愛による救いや、主人公の中にニヒリスムに徹しきれない部分があった。しかし本作には愛はなく、人間の意志によって何かが変えられるという信念や、あるいは信仰による救いもない。イヴァンの変容をただ見つめるだけだ。まなざしがとても冷徹で、誰に対しても肩入れをしない。彼をこういうものにしてしまったのは何なのか、単に運の善し悪しといってしまっていいのか、考え込んでしまう。
 セリフはあまり多くない作品だ。登場人物は、自分の気持ちをあまり表面に出さない。そのかわりに、手が雄弁だ。人物の手がクロースアップされるシーンがとてもドラマティック。






『スリ』

 ロベール・ブレッソン監督、1960年の作品。今回ニュープリント版上映となったので見てきた。貧乏学生のミシェル(マルタン・ラサール)はスリ行為で逮捕されたものの、証拠不十分で釈放される。友人のジャック(ピエール・レーマリ)やミシェルの母親の世話をしているジャンヌ(マリカ・グリーン)は彼を心配するが、ミシェルはスリの世界にのめりこんでいく。
 余計な装飾をしない、実にシンプルな映画という印象。とにかく無駄がなくてかっこいい。セリフもナレーションも多くはない。その代わり、スリの技の数々が饒舌。エレガントと言ってもいいような手の動きに魅せられた。1人だけではなく数人で組んでやる技の数々、特に駅と列車内での大技はスムーズすぎて笑ってしまうくらいだ。ゲーム性が高いから、罪悪感と言われてもなんだかなぁとミシェルも思ったのかもしれない。
 ミシェルは、自分のスリ行為は違法だが許されるべき、特別なものだと主張する。彼の自分は特別でありたいという思いは、彼と友人や家族とを隔ててしまい、時に滑稽でもある。しかし、現状の自分への満たされなさが非日常的な行為に走らせるというのは、若者っぽい(若くなくてもかもしれないけど)なぁと思う。何者にもなれない自分と折り合っていくのは、やはり辛いことでもある。
 ストーリーの落とし方が道徳的なところは退屈という声もあるかもしれないが、最初から刑事モノ、犯罪映画ではないよというエクスキューズがされている。もっと普遍的な青年の成長物語だろう。だから、彼が妙な幻想から覚めるまでのお話と思えば、これでいいのかな。




『軽蔑』

 新宿で遊び暮らしているカズ(高良健吾)は兄貴分に言われてバーを強奪、恋していたポールダンサー・真知子(鈴木杏)を連れて実家へ戻る。田舎ではかつての不良仲間が迎えてくれたものの、ダンサーだった真知子への周囲の目は冷たく、真知子はカズとのギャップを感じ始める。原作は中上健二の小説。監督は廣木隆一。
 原作は未読なのだが、映画としてはわりとよく纏まっているんじゃないかなーと思う。予想の範疇を超えないも言えるが。地方の旧家のぼんぼんというカズを取り巻く環境は、現代ではあんまりぴんとこないんじゃないかなーと思ったが、実際真知子が、今時そんなのあるの、みたいなことを口にする。今でも地方によってはこんな感じなのだろうか。
 元ダンサーの真知子のことを、地元の人間は白眼視する。真知子は自分なりに、カズの伴侶としてやっていこうとするが、周囲からの目、特にカズの両親からのプレッシャーに耐えられなくなり、自分の居場所はここにはないと感じる。この真知子が感じている違和感に、カズは無頓着だ。自分が特別扱いされていることが普通な人には、その特別さって分からないんだろう。真知子が「五分と五分ではいられない」と言うのも、カズにはあんまりピンときていないのかもしれない。地元では自分が守られているということを意識していなさそうだし、そもそも真知子が自分と対等でいたがっているということを良くわかっていないっぽい。わかってたら、親のマンションに住まわせたり地元の仲間とばっかりつるんで自宅に出入りさせたりとかしないだろう。
 カズは最初から考えなしの甘ちゃんとして登場するが、話が進むにつれ、甘ったれ度がどんどん加速していく。もしカズが「五分」の意味をちゃんとわかっていたら、もうちょっと強い人だったら、2人の運命は違うものになっていただろう。でも甘ちゃんで弱い男だからこそ真知子はカズを愛したのだとも言える。どっちにしろ先の見込めない2人だ。映画を見ている側にはそれが歴然とわかるので、最後まで見るのが少々苦しくもある(もうちょっと尺が短ければなーと思った)。
 真知子役の鈴木杏はミスマッチという声を聞くが、決してモデル体型とはいえないスタイルが却って生々しくて、本作の趣旨には合っていたんじゃないかと思う。本気でモデルなルックスだと、逆にうそ臭くなりそう。そもそも男の田舎についてこないだろうと。対してカズ役の高良健吾は、顔がとりえの男役というのであれば適役。セリフ回しがボソボソして聞きにくいのが難点だった。なお、2人とも相当体をはって頑張っているのだが、セックスシーンがぎこちなくて逆に見ていて恥ずかしかったです・・・。




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