3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2011年07月

『きんぴらふねふね』

石田千著
四季折々の食べ物の話が楽しい随筆集。著者の随筆は、地味な食べ物(煮豆とか卵焼きとか・・・)が本当においしそう。主に外で食べるごちそうではなく、家で作って食べるものとか、ごく身近な人がつくってくれたものが多いのも身近に感じられる。いわゆるグルメエッセイではなく、日々のご飯でありおつまみである。お酒も好まれる方なのだが、こちらは私はわからないんだよなぁ。お酒好きの人が読むと、また違ったおいしそう加減が味わえるのかもしれない。またスイカ割りエピソードのような、会社員(多分)時代のエピソードがずいぶん楽しそうなので、ちょっと羨ましくなった。一昔前の会社仲間の様子という感じがする。今まで読んだ著者の随筆集と比べると、ちょっと湿度が高いというか情緒的に水分過多かなという気がしたが、今はいない人へのノスタルジーが含まれているからか。




『オッド・トーマスの霊感』

ディーン・クーンツ著、中原裕子訳
南カリフォルニアの町ピコ・ムンドでダイナーのコックをやっている、20歳の青年オッド・トーマス。彼は死者の霊を見、時に死者が伝えたいことが分かる、また災厄の予兆である悪霊を見ることができるという特殊能力の持ち主。その能力を使って警察に協力することもあったが、基本的には能力を隠し、静かに暮らしている。しかしある日、大量の悪霊を目撃。オッドは町に災厄が起きると考え防ごうとするが。オッドは災厄を防ごうと奔走する行動的な面と、ピコ・ムンドから出ずコックとして細々と生活している変化を退けようとする面の、2面性を持っている。自分に与えられた力を全うしなければならないという意識はアメコミヒーローぽくもある後者の要素が本作を一味変わったものにしている。オッドは地元愛が強いわけではなく、能力と育ち方故に変化を恐れており、動けないのだ。彼をひっぱっていくのは恋人と、死者や悪霊たちなので、「無理やりヒーローやってる」感がある。本作ではオッドの家族関係の出し方が唐突だった印象だが、シリーズものだそうなので後々までひっぱってくるのかな。




『埋み火』

日明恩著
公務員という安定した身分の為に消防士になり、早く事務方にまわりたいとぼやく大山雄大。彼の管轄で老人世帯の失火による火災が相次いだ。ひっかかりを感じた雄大は捜査を開始するが、事件の真相には意外な人物が絡んでいた。『鎮火報』に続く大山雄大シリーズ2作目。前作同様、お仕事小説としてもとても面白いのだが、何より、キャラクターそれぞれの(端役にいたるまで)描き方がいい。この人のこういう部分は、こういう見方もああいう見方もできる、というような多面的な描き方をくどいくらいにしている。人間は一色ではなく曖昧で割り切れないという見方が一貫していると思う。本作では特に、人と人との関わり方の多面性にスポットが当たっているように思った。雄大がある少年との関わり方に悩むところは、雄大の誠実さを感じるし、ひいては作家の真面目さ、誠実さが見える。主要キャラクターの背景も少しずつ明らかになってくるので、更に続編が読みたい。




『トワノクオン 第2章「混沌の蘭舞」』

 犯行場所に花の絵が残されるという連続殺人事件が起きた。サイボーグ部隊WTOCのイプシロン(鳥海浩輔)は事件に興味を持ち、独自に捜査を進めていた。一方、クオン(神谷浩史)も“能力者”が事件に絡んでいるのではと考える。その頃クオンに助けられた少女キリ(早見沙織)は、花壇を踏み荒らす少年カオルを見かけて気にかけていた。シリーズ第2作。監督は飯田馬之介。
 第1章ではアクションの華やかさで魅せたが、今回は内面のドラマに比重が寄っているように思った。クオンたちは異能者の子供を保護し育てている。それは彼らが迫害されないようにという意図なのだが、保護された異能力者の子供達の間でも、必ずしもお互いに共感があるわけではなく、差別や無理解が存在している。そんなにつっこんだ描写ではないのだが、さもありなん、という感じ。こういう描写があると、クオンの「全員守りたい」という指針はあまりにも困難だし、いかにもきれいごとに見える。その困難さを無理に乗り切ろうとするクオンの危うさも垣間見える回だった。傷がすぐに回復していく様をいちいち見せるのもエグい。
 花をモチーフにしたクリーチャーデザインが、それほど捻っているわけではないが怖い。花は小さいからかわいくきれいなのであって、そもそもの形はグロテスクなのかもしれないと実感した。特に蘭科の花は、巨大化すると生殖器官であることがあからさまになりすぎて怖い!
 ちなみに作中、中野サンプラザに似た建物が出てくるのだが、あの周辺をモデルにしているのだろうか。




『水曜日のエミリア』

 弁護士のエミリア(ナタリー・ポートマン)は事務所の上司で既婚者のジャック(スコット・コーエン)と恋に落ち、晴れて結婚・出産。しかし生まれたばかりの娘イザベルは突然死し、傷は癒えないままだ。更にジャックの連れ子で8歳のウィリアム(チャーリー・ターハーン)とは衝突ばかりだった。監督はドン・ルース。
 エミリアとジャックがあっさり不倫してあっさり離婚・再婚という流れや、ウィリアムの送り迎えを離婚後も今日はパパ、今日はママと当番制になっているところに、アメリカっぽいな~と妙に関心した。元妻からジャックを奪ったアメリアが(元妻に対しては)罪悪感を持ったりしていないのも割り切れていていい。これはお国柄というよりもアメリア個人の性格によるところが大きいのだと思うが。
 アメリアにしろジャックにしろウィリアムにしろ、ちょっとした部分の言い方で失敗して、相手を傷つけてしまう。悪気はないが言い方を間違えてしまうのだ。特にエミリアとウィリアムは本来はそんなに相性が悪いわけではない様子が窺えるだけに、「うっかり」感が強まる。そしてぽろっと出た言葉の方に本音が出る(ないしは相手に本音と思われる)ことが往々にしてあるので始末が悪い。私もこの手のうっかり発言はよくやるのでひやっとした。あ~その言い方はダメ~!言わなきゃいいのに~とハラハラ。言葉を使うのはほんと難しい。
 エミリアはジャックから「君は愛する人に厳しい(日本語としてもあまりしっくりこない表現なので、原語がどうだったのか気になる)」と言われるのだが、見ていてそんな感じはしなかった。むしろ強く感じたのは、死者を悼む気持ち・悲しみの共有できなさだ。そのギャップが「厳しい」と思えるのかもしれない。家庭内の死によってバラバラだった家族が再び絆を取り戻す、というパターンの物語は多いし、もちろんそれは間違ってはいない。しかし、全員が同じように、同じ度合いで悲しむのかと言うと、そうではない。エミリアは自分の娘を亡くしたことを悲しみ自責の念に駆られている。ジャックももちろん悲しんではいるのだが、彼にはウィリアムという子供もおり、ウィリアムの心配もしなくてはならない。ウィリアムにいたっては妹ができたという実感も薄く、具体的な悲しみだって沸きようがないだろう。
 エミリアにとっては、ジャックは冷たいと思えるのだろうが、ジャックにしてみればエミリアはもう立ち直ってもいいのに(確かにエミリアは過去の感情を引きずりやすいタイプみたいなのだが)・・・となる。悲しみの深さ・速さは人それぞれで、分かち合うことは実は難しいのだ。また、エミリアは友人に誘われて、亡くなった赤ちゃんの追悼ウォーキングに参加するが、分かち難さのことを思うと非常に皮肉だ。案の定(子供のことが直接の原因ではないが)エミリアは怒りを爆発させて企画は台無しになってしまう。
 人と人とが関わりを深めていくことの困難さをさらっと描いている作品だと思う。わりとドライで、しめっぽくヘヴィーになりすぎないところがよかった。ただ、エミリアの娘の死に関する事情については、明らかにしすぎで惜しい。曖昧な状態、ないしは逃げようのない状態でそれをどう消化していくのかと言うことの方が物語にとって大事だったんじゃないかと思う。




『蜂蜜』

 山の中、養蜂家の父と母と暮らす少年ユスフ。しかし森の蜂が姿を消し、父親は巣箱を置く場所を探す為に家を出た。監督・脚本はヤミフ・カプランオール。ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作。
 撮影、録音が素晴らしい。冒頭、森の奥から男と馬が姿を現し、男が木に縄をかけるまでのカメラを固定しての長回しに、一気にひきつけられた。また、室内などのシーンはかなり薄暗いのだが、輪郭がぼんやりとした状態での絵が妙にいい。舞台は殆どが山の中、山の合間で風景を眺めているだけで嬉しくなった。また、風で木の葉がこすれる音や枝がきしむ音、虫や鳥の声など、森の気配みたいなものが濃厚に感じられた。ユスフの世界は家庭と学校(あんまり居心地よくなさそうなのが見ていて切ない)の行き来を中心にできていて、決して広いわけではないのだが、彼が暮らす森の奥行きが感じられて、閉塞感はない。
 ユスフと父、母、級友らの関係が、セリフ以外の部分でも丁寧に描かれている。特に父親との関係は濃密だ。2人は同じ世界を共有しており、同じ言葉で話す。父親がユスフの牛乳をこっそり飲んであげるところなど、共犯者めいてもいる。父親が知人の子供に優しくしているのを見てユスフが嫉妬するところなど、本当にお父さん子なんだなーとおかしくなる(この「知人の子供」とユスフの関係も後にわかりなるほど、と思った)。対して、ユスフと母親の関係は、そこまで濃密ではない。母親とはもちろん家族であり、お互い愛情があるのだが、一緒に暮らしてはいても、父親とのように魂を共有しているという感じではない。  母親がいる世界はより現実的な「生活」に根ざしたものだ。父親が姿を消してから、徐々に母親との距離を縮めるユスフの姿は、彼の成長を感じさせるが、同時に一抹の寂しさも感じる。半分「あちら側」にいるような子供の時代は終わってしまったのかなと。
 ユスフがどういう子供なのか、どういう暮らしをしているのか、学校ではどういうポジションなのか等、あえて説明はしないがちょっとづつ見えてくるという設計の仕方が上手いなと思った。




『ラスト・ターゲット』

 スウェーデンで休暇を過ごしている様子の男女。しかし雪原で銃声がするなり男は狙撃手を射殺し、自分が同伴していた女性もまた射殺した。その男・ジャック(ジョージ・クルーニー)はプロの暗殺者。何者かが彼をねらってスウェーデンまで追ってきたらしい。急遽ローマへ飛んだジャックは連絡係と接触。田舎町に身を隠せと指示されるが、指示された町とは別の小さな町に身を隠す。狙撃ライフル製作の仕事を請け負い、静かに暮らすジャックだったが。原作はマーティン・ブースの小説。監督はアントン・コービン。
 コービン監督の前作『コントロール』は、元々写真家なだけに映像にははっとするようなところがあったが、少々冗長でダレるなぁと思った。しかし本作は原作つきというところがよかったのか、脚本の手腕がよかったのか、地味ながら緊張感のある好作になっている。
 暗殺者が主人公ではあるのだが、潜伏中ということもあり、やっていることは至って地味。ライフル製造に必要な素材を集め、音を出さないように地道に作業に勤しみ(大きな音が出る作業は、教会の鐘の音にあわせて行うなどすごく慎重!)、収納用ケースも自作する。この一連の作業が、、そういう素材から作るんだーという意外性も含めて、お仕事映画的で面白い。おそらく原作にある描写なのだろうが、作業のディティールの拾い方が丁寧なのだ。また、この職業だからこういう立ち居振る舞い・所作になってしまう、というジャックの職業病のような部分も面白い。お仕事映画というジャンルでもいいくらいだと思う。
 暗殺者としての仕事の様子と平行して、職業を離れた、1人の中年男性としてのジャックの生活が映されていく。話し相手は神父となじみの娼婦くらいの静かな生活だ。ジャックは徐々に、田舎での生活に馴染み、「普通の人」としての生活を思い描き始める。彼は仕事で一つの転機を迎えているのだが、それだけではなく、年齢的にも人生の岐路に差し掛かっている。ジャックの職業はかなり特殊だが、ある年齢でふと我に帰る感じは普遍的なものではないかと思う。年齢的に、職業人としても1人の人間としても残り時間が見えてきているだけに、ここから人生変えられるのか、そもそも変えていいものか、というジャックの迷いが切実なのだ。
 ジャックがある決断を下し計画を実行していく様は、ある終わりへとゆっくり進んでいくようで、見ていて心が落ち着かなくなる。しかし、ジャックは計画の成功・失敗とは別問題として(もちろん成功するにこしたことはないが)もう終わりにしたい、という気持ちが根底にあるように思えた。潮時を知った人の姿が渋く、どこかやるせない。
 ストーリーは大変地味、キャストもクルーニー以外は地味なのだが、舞台となるイタリアの田舎町の風景が美しく、華やかさを添えている。坂と細い路地が入り組んだ、可愛らしい町並みだ。また、ジャックが移動する時に度々挿入される、自動車が周りに何もない田舎道をずーっと走っていくロングショットや空撮も、幕間としてのアクセントになっていて良かった。『コントロール』ではこういう間の部分の作り方があまり上手くなかったんじゃないかと思う。




『エステルハージ博士の事件簿』

アヴラム・デイヴィッドスン著、池央耿訳
19世紀末のスキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国を舞台に、法学博士、医学博士、哲学博士その他諸々の博士号を持ち名高い貴族でもあるエステルハージ博士が、不思議な事件に挑む。短編集だが、殊能将之による解説にもあるように、通して読むことで架空の国の姿・歴史が浮かび上がってくる。この三重帝国は、オーストリア、セルビア、ルーマニア、ハンガリーに囲まれているという設定。このエリアの歴史や文化に詳しければより面白く読めるのだと思う。私は勉強不足で、本作に書かれている虚実入り混じっているであろうペダントリィの半分もおもしろがれていないんじゃないか(面白さの要素に気付いていないんじゃないか)と思う。年をとらない少女や人魚をめぐる幻想的な奇譚がある一方で、これは幻想小説というより奇人変人譚、ホラ話といった面持だなというものも。エステルハージ博士がひょうひょうと何でも受け入れていくので、読んでいるうちに何が起きても別に不思議じゃないなーという気になってくる。




『別離のとき』

ロジェ・グルニエ著、山田稔訳
人生のちょっとした残念さや残酷さを、ユーモアと諦念をまじえて描く短編集。ペシミスティックだが明るいペシミストといった感じで、湿っぽくない。随筆集『ユリシーズの涙』を読んだ時も思ったのだが、作品との間に適切な距離感があって、感情を過剰に乗せてこないところが読みやすい(人によっては却ってとっつきにくいと思うかもしれないが)。戦時下のすれ違い恋心を描いた「別離の時代」は、そっちの別離かよ!とシリアスさを思わせる題名に突っ込みたくなるトホホ感あふれる物語。やはり苦い初恋を描いた「あずまや」も、これ当人にとってはトラウマになりそうだよな・・・というシチュエーションで、決してかっこよくはない。ただそのトホホ感には人生達観した感があって、あまり切実ではないというか、まあそんなこともあるさと受け流していける雰囲気がある。著者が高齢になってからの作品だからということもあるか。記者時代の体験をネタにしたらしい「その日、ピアフとコクトーが・・・」は仕事をしている人なら皆ギャー!となりそうなシチュエーションを含むが、ストーリーの落とし方は年の功かなと思った。




『鋼の錬金術師 嘆き(ミロス)の丘の聖なる星』

 TVアニメとして2度シリーズ化され、映画化されるのも本作が2度目となるハガレン。原作は荒川弘の漫画で、最近めでたく完結した。本作は今までのアニメハガレンからスタッフを一新して挑んだそうだ。監督は村田和也。脚本をミステリ作家の新保裕一が担当したことでも話題になった。
 錬金術の禁忌とされる人体練成を試みた代償として、体の一部を失ったエドワード(朴ロ美)と体全てを無くし魂のみ鎧に定着させているアルフォンス(釘宮理恵)のエルリック兄弟。体を取り戻す為に必要だという“賢者の石”の正体を知った2人は、別の方法を探し旅を続けていた。ある日、脱獄犯メルビンが見慣れない練成陣を使っているのを見た2人は、彼を追って西部の町テーブルシティへ向かう。
 ハガレンの世界観を踏まえつつ、今までのTVシリーズや映画とは、作画の面でまた違った方向性を目指した意欲作だと思う。原作を含め、ハガレンは線がシャープで、特に劇場作品1作目は美麗な印象だった。今回は線のシャープさ、美麗さというよりも、動きそのものの面白さを目指しているように思った。なので、キャラクターの絵はよくみるとそれほど精度が高くない(笑)。ただ、動くととても魅力が出てくる。動画の主線もちょっと手書きっぽくムラがあるというか、やわらかい感じのタッチだ。 ハガレンは一貫してBONESが製作しているが、BONESらしからぬ、どちらかというと往年の日本名作アニメとか、ジブリアニメのタッチに近い印象だった。アクション面でも、アルがコナン走り的なものをやったり、これはカリオストロか!みたいな雰囲気だったりと、楽しい。この“活劇”的な楽しさは、ハガレンシリーズの中では初めて見たような気がする。
 で、動画面では今までとはちょっと赴きが異なるし、ストーリーも独立していてシリーズを見て(読んで)なくても大丈夫。しかし、作品の核にあるところは間違いなくハガレンであるという、スピンアウトとしては理想的な出来だった。奇しくも、劇場版1作目と同じく「ここではないどこかなどない」というテーマが根底にある。TVシリーズにしろ劇場作品にしろ、芯にあるものが原作からズレず、なおかつ毎回違った魅力を打ち出すことができた、原作付きアニメとしては稀有な例だと思う。




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