3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2011年06月

『My Son,My Son,What Have Ye Done』

 ヘルツォーク傑作選2011にて。ヴェルナー・ヘルツォーク監督、2009年の作品。デヴィッド・リンチがプロデュースしている。実際に起きた実母殺人事件を題材に、さらにギリシア悲劇『オレステイア』を下敷きにしている。しかし舞台はアメリカ南部の、おそらくメキシコ国境にも近い地域。妙なミスマッチ感がある。
 ウィレム・デフォーが出演していることでも話題になっていたようだが、刑事役のデフォーはむしろ傍観者の立場でそんなに見せ場はない。存在感があるのはやはり、母親殺しの主人公となるマイケル・シャノンだ。一見わりと普通そうに見える風貌(デフォーは一見があまり普通じゃないと思う(笑))だし、当初はごく大人しい人物とされているのだが、だんだん狂気のようなものがにじみ出てくる。ちなみに婚約者(クロエ・セヴィニー)からは南米から帰ってきてからおかしくなったと言われるのだが、ヘルツォークの南米に対するイメージって、そんなに混沌としてエネルギッシュなのだろうか。
 しかし息子に輪をかけて、母親が怖い。そもそも母親がおかしいよ!と突っ込みたくなる。婚約者を交えての食事の席の、言動のちぐはぐ感とか息子に対する過剰な思い入れとか、もはやギャグの域だ。実際、「ジェリー」の登場では噴出している観客がいた。期待を裏切らないですねお母さん!こんな母親だったらそりゃあ殺したくなるわ・・・と納得させてしまう鬼気迫るものがあった。
 息子の「母親殺し」の妄想は具現化され、それで息子は解放されるはずなのだが、母親が最後に残したという言葉を聴くと、ちょっと違ったかなと思った。本作の母息子の場合、息子の妄想に最終的に母親が乗っかってしまっている期がするのだ。だとすると、母親殺しをしたけれども母親に背く・独立する行為としての母殺しは成立しない。いつまでも母親に捕らえられたままなのでは。




『光のほうへ』

 酒びたりの母親に代わって、生まれてまもない弟の世話をするニックと弟。しかし2人が目を離した間に赤ん坊は死んでしまう。そして10数年後、母親の葬儀で兄弟は何年かぶりに顔を合わせる。ニック(ヤコブ・セーダーグレン)は暴力事件で服役後、行き場ない人向けのシェルターで暮らしていた。ニックの弟(ペーター・プラウボー)は妻に先立たれ、幼稚園に通う息子マーティンを一人で育てていた。監督はトマス・ヴィンターベア。
 舞台は冬のコペンハーゲン。空はうす曇でどんよりとした風景が続き寒々しい。しかし透明感がある。色彩のトーンが映画の内容をそのまま反映しているように思った。冒頭、子供時代の兄弟のエピソードが終わってからは、ニックのパートと弟のパート、2部に別れている。徐々に、2人がこれまでどうしていたのか、いつ母親が死んで葬儀がいつあったのか、お互いの時間軸がかみ合い全体が見えてくる。死んだ赤ん坊の記憶が2人の枷になっているのだ。弟に電話をかけたニックが、子供の声を電話越しに聞いて電話を切ってしまい、その後何度も電話機を殴りつける(弟側がどういう状況だったのか後でわかるところが上手い作りだなと思った)。赤ん坊を思い出しての悲しみ、弟への嫉妬(あんなことがあったのになぜお前だけ)もあるだろう。対して弟は、息子に対してよき父であろうとする。赤ん坊をなくした悲しみから、今度こそ完璧な保護者であろうとするが、それは彼には荷が重い。ニックも弟も、赤ん坊を亡くしたことがずっと瑕になっており、その表出の仕方が対照的だ。
 ニックも弟も、あり方はそれぞれだが、基本的にやさしい、善良な人間だ。息子をかわいがる弟のやさしさは一目瞭然だし、一見ぶっきらぼうなニックも、友人のイワン(モーテン・ローセン)をそれとなく助けたりする。しかし、強い人間でも器用な人間でもない。ニックはアルコール依存症らしいし、弟は薬物依存症で生活費にことかく状態だ。そして、彼らは他人の為に動いて更に困った状況になってしまう。ニックが友人を守ろうとするやり方はあまりに愚直(そもそも彼が良かれと思って悲劇を引き起こしてしまった側面もある)だし、弟が息子の為に始めた商売はまさに泥沼への第一歩だ。2人とも、誰かの為にと思ったやったことに足を引っ張られてしまう、そしてその行為に耐えきれるほど強くない感じがするところがやりきれない。
 ただ、ヴィンターベア監督は、兄弟の善良さを一貫して肯定し続けている、「君は悪くない」と言い続けているように見える。彼らが酒やドラッグに溺れるのは、全面的に誰かのせいということにはならないだろう。しかし赤ん坊だった弟の死、彼らの友人の不幸は、彼らのせいではない。優しくて弱いということを否定的には描いていないと思う。
 ところで、ニックは名前で呼ばれるが、弟は、「ニックの弟」か「マーティンの父親」として登場し、固有名詞がない。誰かに所属する存在として登場するのだ。だから息子を取り上げられた彼には戻る場所がなくなってしまう。また、ニックが怪我した手を放置しているのが不自然だなーと思っていたのだが、まさかそんな伏線に使われるとは・・・。これは結構強引だったと思う。




『バビロンの陽光』

 2003年のイラク。フセイン政権が崩壊して3週間がたっていた。12歳のクルド人少年アーメッド(ヤッセル・タリーブ)はアラビア語を殆ど喋れない祖母(シャーザード・フセイン)と共に、戦場で行方不明になった父親を探しに旅に出る。目的地はバグダッドから900キロ離れたナシリア。刑務所に父親がいるらしいと知らせが入ったのだった。監督はモハメド・アルダラジー。
 子供と老女のロードムービーというところでは『セントラル・ステーション』を思いおこすところがあった。前半では老人が子供をリードし、徐々に子供が老人をリードしていくようになるところとか。ただ、本作は実の祖母孫であること、何より背景に戦争の傷跡があることが大きく異なる。イラクでは度重なる戦争状態により、過去40年で約150万人の行方不明者が出ており、その大半は未だ見つかっていない、遺体が発見されても身元不明という状態だそうだ。アーメッドの父親もまた、徴兵され行方不明になっている。
 アーメッドと祖母が向かうのは刑務所、そして集団墓地なのだが、この集団墓地の様子には唖然とした。敷地に墓標が立てられているわけでもなく、誰がどこに埋まっているのかわからないのでシャベルカーで掘り起こしてしゃれこうべを探すのだ。個人の特定なんて到底できるとは思えない状況。また、フセイン政権崩壊直後くらいなのだが、バグダッド市内では明らかに埃ではない煙があちこちで上がっているし、当然アメリカ軍が駐在しており検問で道路封鎖されたりする。当時のイラクの空気感が何となく伝わってくる。
 アーメッドと祖母はクルド人だ。フセイン政権下ではクルド人の村の焼き討ち等もあったそうで、特に祖母はその記憶が強い様子。旅の途中で、2人は1人の男に助けられる。しかしその男は、過去に兵士としてクルド人を襲ったことがあった。強制されたこととは言え、祖母は男を責め、許さない。しかし男の方も、自分がした行為によって傷ついている。彼がアーメッド達の世話をなにかとやくのは、心配している以上に、その行為によって自分の過去の行為の償いがしたいからだろう。おそらく、当時(今もか)のイラクにはこういう人がたくさんいたのだと思う。この男とアーメッドの祖母の関係がどうなっていくのか、そこに監督の願いがこめられているように思った。許していくことは本当に難しいと思う。が、そこを通過しないと新たに踏み出していくことができないし、悲劇を予防することができない。
 ベルリン国際映画祭アムネスティ賞・平和賞を受賞したそうだが、それも納得。アーメッドたちを最初に車に乗せてくれる運転手や、タバコ売りの少年とバスの乗客たちなどに象徴されるように、人間の善意を信じる心が根っこにある作品だと思う。




『隻眼の少女』

麻耶雄嵩著
巫女装束に身を包んだ少女探偵・みかげが、寒村の名家で起きた連続殺人に挑む。麻耶はデビューしてから一貫して、本格ミステリにおける探偵の役割を追求する作品を書き続けていたように思うが、本作ではかなりきわどいところまで攻めている。ぱっと見、美少女探偵というキャッチーなパッケージングをされた作品のようなので、そのギャップがまた味わい深いというか何というか・・・。バカミスぎりぎりのラインで勝負する著者の意欲には頭が下がる。これ1冊じゃなくて毎回毎回だもんなぁ。初期の作品は見た目からしてすごーい!という印象だったが、最近のものは一見ライトだけど実は、という方向になってきているように思う。本格ミステリの「仕組み」とがっぷり組み合っている。






『ユリシーズの涙』

ロジェ・グルニエ著、宮下志朗訳
題名のユリシーズは、ギリシア古典『オデュッセイア』で愛犬の姿に涙した英雄ユリシーズの挿話より。そして著者の愛犬の名前もユリシーズだった。文学の中の犬、身近な友人としての犬など、犬にまつわるエッセー集だが、愛犬家はもちろん、犬が苦手な人(私のことですが)にもお勧め。著者は愛犬家なのだろうが、犬への愛情がべったりとしたものではなく、観察の対象、文章の題材として見ているほどよい距離がある。著者の友人でもあった作家ロマン・ギャリと著者の愛犬ユリシーズについての話は、人生の不思議を感じさせた。著者のギャリとユリシーズと、両方に対する愛情が伝わるエピソードだった。両者とも(そして本著に登場する人・犬たちの多くも)既にこの世にはいない存在だからよけいに哀切なのかもしれない。ただ愛情は伝わるが、だだ漏れではなく、そこに溺れない冷静さと知性(あと教養・・・)が、本著をただの愛犬エッセイとは一線を隔したものにしている。。




『処刑剣 14BLADES』

 明王朝期の中国。皇帝に仕える秘密警察のような組織・錦衣衛はその強さ・冷酷さから恐れられていた。ある日金衣衛のトップ・青龍(ドニー・イェン)は部隊を引き連れて謀反の疑惑のかかっている大臣宅へ向かう。しかし、陰謀に巻き込まれて自分が追われる身に。潔白を証明し謀反を防ぐ為、青龍は反撃を決意する。監督はダニエル・リー。
 サブタイトルの14BLADESは、青龍が持っている武器(見た目は箱)のこと。箱の中に14の武器が仕込んであるのだ。作動するときに歯車がカタカターっと作動する(わざわざCGで歯車見せてくれるあたりがうれしい)だけでワクワクする。率直に言って武器が14つの必要は全くないのだが(笑)、このあたりのセンスは少年漫画的でとっても楽しい。欲を言えば武器の一つ一つを「説明しよう!」的に音声とテロップでやさしく図解&全ての武器に見せ場がほしかった。どうせ漫画的ならそこまでやってくれたほうが燃える。
 ストーリーは非常に大味で、伏線をうまいこと仕込もうとか繊細な心理ドラマを盛り上げようという意欲は感じないのだが(ヒロインとのロマンスが王道なのだが展開はしょって唐突なので、笑ってしまった)、アクションシーンが見所のスター映画としては、ベタ中のベタで正解なのだと思う。途中、砂漠の盗賊として脈略なくイケメン俳優が出てきて、しかも結構おいしいところを持っていくのも、スターを楽しむ為の映画だと思えば納得だし、やはり出演者に華があるなと思った。
 主演のドニー・イェンはさすがの貫禄で、アクションも見ごたえある。『イップ・マン』の時とは全く異なる、冷酷で無粋な男役なのだが、こういうのもいい(長髪はあまり似合わないが)。アクションに華があって、やっぱりスターなんだなーと実感。他の俳優のアクションも、飛び道具系だったり、妖術系(美女が残像拳を使うのです)だったりと、かなりマンガっぽいのだが、武器のギミックと合わさってそこが楽しい。
セットにしろロケにしろ、お金がかかっていることがわかる、多分中国では大作級なんだろうなとわかる作品だった。大々的なロケができる作品はやっぱり見ていて楽しい。




『少女たちの羅針盤』

 新進女優の舞利亜は、数年ぶりに故郷の町に帰ってきた。廃墟となったホテルを利用したネットシネマの撮影があるのだ。しかし改定されたシナリオは彼女には渡されていなかった。彼女が急遽犯人役となり、臨場感を出す為に改定したものを1枚ずつ渡すというのだ。そして控え室には不気味な落書きが。彼女は4年前に起きた事件を思い出す。当時、女子高生4人で結成された羅針盤という劇団が評判になったが、メンバーの1人が死亡したのだ。原作は水生大海、監督は長崎俊一。原作が「バラの町福山ミステリー文学新人賞」の第一回優秀作だそうで、ロケ地は当然福山。
 原作未読なのだが、ミステリ映画としても青春映画としても、手堅くまとまっていたと思う。省略すべきところは省略する(場面の飛び方が結構思い切っている)作り方がよかった。犯人の正体、犠牲者が誰なのかが伏せられたまま(後者は途中までだが)、過去と現在を行き来してストーリーが進むという構成。どちらかというと活字向きの構造で、映像化は面倒くさそうなのだが、よく頑張って映画化したなぁ。昭和の少女小説とか、ジュブナイルドラマのようなどこか懐かしい味わいがある。少女たち(特に瑠美)の視野の狭さ(あまり大人の立場とかほかの人の都合とか頭にない感じ)も青々しい。
 メインの女優4人が、成海璃子を始め、好演していた。羅針盤は伝説的な高校生劇団という設定。劇中劇の場面では、はっとするような良さがあると同時に、うーんこれが伝説?と思うところもあったのだが、見ているうちに徐々に彼女たちのポテンシャルが引き出されてきているように思った。成海は声を張ると裏返るところが気になるが、一本気で若干猪突猛進、才能あるが故の素直さと鈍感さをよく体現していたと思う。同年代の異性人気はあまりなさそうな人(本人もこの役柄も)なんだが、骨の太い感じがいい。また、演技の才能がある蘭役の惣那汐里は『マイ・バックページ』が記憶に新しいが、旬の人感がさすがにある。やさしいムードメーカーなつめ役の草刈麻有は一見地味だが後半じわじわと巻き返してくるし、ボーイッシュななつめ役の黒川智花も悪くない。
 事件の真相はなかなか陰湿で、女の嫉妬って怖いね・・・と言いたくなるが、舞台が地方都市というのも大きな要素だろう。出たくてもなかなか出られない人からすると、簡単に出て行けそうな人に対して何であなたが、と複雑な気持ちがあるかもしれない。地元ゆえのアットホームさも、犯人にとっては却ってきつかったんじゃないかと思う。




『愛の勝利 ムッソリーニを愛した女』

 マルコ・ベロッキオ監督作品。イタリアに独裁政権を築きファシズムという言葉を生んだムッソリーニ。若き日のムッソリーニ(フィリッポ・ティーミ)はイーダ(ジョヴァンナ・メッツォジョル)と出会い、イーダはムッソリーニを精神的にも経済的にも支える。やがて2人の間には息子が生まれるが、ムッソリーニには既に正妻と娘がいた。支持率を集めつつあるムッソリーニにとって、イーダの存在はスキャンダルの火種。周囲はムッソリーニからイーダを引き離し、ついに精神病院に閉じ込めてしまう。
 イーダの存在は最近まで知られていなかったそうだ。本作がどの程度史実に基づいているのかわからないが、「愛の勝利」という題名は皮肉だ。イーダはムッソリーニの為に人生を棒に振ってしまったように見える。イーダは自分をムッソリーニの妻であり、息子はムッソリーニの息子だと主張し続けるが、狂人扱いされるばかりだ。自分の言うことを誰も信じなくないという恐怖は、全然ジャンルは違うが最近見た映画では『アンノウン』でも描かれていた。集団から「正しさ」を強要されて自分が正気であるという意識の拠り所が無くなっていくのが非常に怖い。しかし彼女は自分の主張を曲げない。医者から、今騒ぐのは危険だ、退院したいなら普通の人の振りをしていろと忠告されるが、彼女は妥協しない。
 イーダの頑固さ、意思の強固さには時に辟易する。ムッソリーニもとんだ貧乏くじを引いたもんだな・・・と思わなくもない。そもそもイーダはムッソリーニのどこに惚れたのだろう。明確には描かれないもののこの映画の中では、イーダが演説する若き日の(当然まだ無名な)活動家ムッソリーニに一目ぼれし、半ば強引にアプローチしていく。イーダが惚れたのは、神は存在しないとぶち上げ、体制に反旗を翻す、華々しい男だ。イーダは「普通の人生になんて満足できない」と洩らす。彼女はムッソリーニは自分を劇的な、非日常的な世界につれて行ってくれる存在と見ていたのではないか。彼女がムッソリーニに固執するのは、彼に対する愛だけではなく、普通でいたくない、特別な存在でいたいという執着のようにも見えた。
 映画を見るシーンがしばしば出てくる。ドラマ映画もあるしニュース映画もある。イーダにとってムッソリーニは恋人であり息子の父親という身近な存在、かつ自分をも「ムッソリーニの妻」特別な存在、映画の中に出てくるような存在にしてくれる人だった。しかしムッソリーニはどんどん有名になり、彼女とは関係なく特別なスクリーンの中の人になってしまう。イーダはスクリーン上の彼を見るしかなくなる。そして最後、車中のイーダが映画の観客を見るようにカメラ視線を送る。彼女がついにスクリーンの中の人となったかのように。この車に乗るまでの一連のシークエンスは彼女の妄想のようにも思えるのだが。
 



『本を愛しなさい』

長田弘著
著者の愛する本を書いた人、本の中に出てくる人らにまつわる随筆10編。誰かから聞いた話をまた語るような文体は、歌のようにリズミカルで心地よい。本を読むこと、愛することは、その本に書かれた世界や人々を愛することだ。ひいてはその本を生み出したこの世界を愛することでもあるだろう。本は世界につながっているのだ。作家や出版者についての話ではあるが、もっと広がりを感じる。取り上げられる作家・本の幅が広いのも弥勒。やっぱり幅広い教養がある人の文章はいいなー。それをせせこましくなく、しかもそっと披露できるところがすごいのだろうけど。読書好きとしては読んでいて安心する1冊。装丁・挿画もいい。




『プリンセス トヨトミ』

 「鬼の松平」と恐れられる会計検査院の松平元(堤真一)は部下の鳥居忠子(綾瀬はるか)、旭ゲーンズブール(岡田将生)を率いて大阪へ出張してきた。実地調査を順調にこなしていく中、松平は財団法人OJOなる組織に違和感を覚える。しつこく実地調査・聞き取り調査を行うがOJO側ははぐらかすばかり。やがて松平は大阪が400年守ってきた秘密にたどり着く。原作は万城目学、監督は鈴木雅之。
 予告編でも明らかなように、大阪は実は「大阪国」だった・・・!という壮大なホラ話なのだが、そのホラを成立させる為の土台が脆弱なように思った。中井貴一が「大阪国総理大臣です」といい始めても何寝言を言っているのかと。凄みがないのだ。謎が明らかになるまでの手順がバタバタしていて、あっさりしすぎだと思った。時間の配分があまり上手くないんじゃないだろうか。映像面でも手際が悪いというか、やらなくてもいいことをやって裏目に出ている気がする。同じシーンを角度を切り替えて細かいショットで映す、という演出をたびたびやっているのだが、話の腰を折るようでうっとおしかった。かっこよさげに見えるからやってみた、という感じがするのが残念。
 本作、親子の絆、特に父から息子に受け継がれていくものというのが物語のひとつの軸になっているのだが、そこにも違和感があった。父親のあり方があまりに前時代的ではないかと思う。普段あまり話もしない父親だからこそここぞという時の言葉が残る、という趣旨なのだが、普段話さない人からいきなり重要な話をされても理解されないんじゃないかと思う。大事なことを伝えたいなら、それこそ日常的にちゃんと話してないとダメだろう。また、中井貴一演じる父親が重要な話を息子にするシーンがある。父親は「息子」に対して話しているのだけど、息子はそういう扱いを望んでいないのではないかと思う(「子」としてならわかるが、ストーリー上明らかに「息子」に対してということになっているので)。一応最後にフォローあるのだが、ちょっとした部分でデリカシーに欠けているように思った。
 本作、ファンタジーが人を支えるという物語でもあり、その趣旨は私も共感できるし、他にいくつもあるそういった映画は大体好きだ。しかし本作では、一都市の住民全員が同じファンタジーを共有している。これはちょっと規模が大きすぎて気持ち悪い。何で皆で同じ方向向いてるの?!と不安になる。クライマックスなど、むしろ大阪にとってはマイナスイメージなのではないかと思った。人を支えるファンタジーとは、基本的に個人的なものではないだろうか。




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