3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2011年06月

『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』 

川本三郎著
 映画『マイ・バックページ』の原作ということで読んでみた。原作の方は著者が週刊誌記者だった当時、サブタイトルの通り60年代から70年代初頭、学生運動末期の様子を綴った、随筆集だ。映画のように1冊で一つの物語というわけではない。いくつかの随筆の部分と、著者が当事者となってしまった事件を中心にシナリオを構成したことになる。シナリオ、良くできていたんだなぁ。マスコミのあり方が今とは大分違う、というよりもあの時代のある分野が特殊だったのかもしれない。記者と、取材対象である活動家たち、学生たちとの距離が近い。その距離の問題で著者はずっと悩み、それがある「事件」によって無理やり収束させられてしまった、というように見える。そこが痛切だし、本作を書くことが著者にとって非常に苦しいものだったろうことを感じさせる。根っこのところで、新聞や雑誌のスクープ記者には向いていない人だったのかなというところがあるし(ナイーブすぎる・・・)、著者自身もその自覚はあったのだろう。アメリカ人記者との交流の話が、記者のあり方を考える上で、日米の違いが垣間見えて面白い。日本では確かに「神に預ける」という発想は生じにくいかなと思う(運を天に任せる、というようなものはあるがこれだと倫理的な裏づけは全くないもんな)。




『神に選ばれし無敵の男』

 ヘルツォーク傑作選2011にて鑑賞。ヴェルナー・ヘルツォーク監督2003年の作品。ナチが台頭するベルリン。「千里眼」のショーで人気を博しているハヌッセン(ティム・ロス)は、ポーランドの農村からやってきた怪力のユダヤ人ジョシュ(ヨウコ・アホラ)と知り合う。
 実は本作、日本で公開された当時に見ている(当時の感想はこれ)。今回、ヘルツォーク監督のフィルモグラフィーを追う形で見てみたのだが、監督の作品の中ではかなりバランスが取れている、大人し目の作品だったんだなと思った。間口は広くなっているしわかりやすい。そして、ジョシュの夢の中に蟹の大群は、ヘルツォーク監督の動物の群れ好きによるものなのかしらと(そもそもドイツやポーランドにあんな蟹はいないんじゃ・・・)。小動物の群れ=不吉、不安の象徴なのだろうか。あまりプラスの意味では登場していない気がする。
 題名の意味は、今回の方がより痛切に響いた。ハヌッセンは選ばれたかのように振舞う男。ジョシュは能力があるがそれを使うことの自覚がない男だ。また、ハヌッセンは時代に合わせて周囲に同化しようとするが、ジョシュは逆に自分の生まれは変えようがないことを悟り、生まれついた世界への帰属を表明する。一貫して対称的な2人なのだ。神に選ばれたのはどちらだったのか、やがて明らかになっていく。が、それは彼ら2人の意思とは関係ない。
 ハヌッセンは口が達者で人を動かす力がある。一方、ジョシュは力を持っているが人を動かす言葉の力がない。ジョシュが故郷でナチスの脅威を訴えても誰も相手にしない(「まさかそんなことが」という人間の思考傾向て怖いね・・・)。2人がお互いに足りないものを補い合うことができていれば、あるいは歴史が・・・と「もしも」を思わせるところが切なかった。




『コブラ・ヴェルデ 緑の蛇』

 ヘルツォーク映画祭2011にて鑑賞。ヴェルナー・ヘルツォーク監督、1987年の作品。19世紀初頭のブラジル。元山賊“コブラ・ヴェルテ”だったフランシスコ・マヌエル(クラウス・キンスキー)は、農園の奴隷監督として働いていた。しかし主人の娘を妊娠させてしまい、奴隷商人としてアフリカのダオメーへ行くことを命じられる。奴隷売買廃止が謳われるようになってきており、難しい仕事で行ったら戻ってこられないと噂されていたが、コブラ・ヴェルデは野心から承知する。彼はダオメーの王タカパリに武器を提供し、見返りに奴隷を供給を要求する。
 奴隷商人からアフリカの総督にまでなってしまった男の伝記映画。コブラ・ヴェルデは天涯孤独で、ブラジルにいても変人扱いされるし、アフリカでは当然異邦人だ。ヘルツォーク監督はこういった、世界に対する異物的な人間、その場にそぐわない人間に愛着を持っているように思う。今回の傑作選で上映された作品の中では、なぜか本作が一番面白かったというかその時の気分に合ったというか・・・。本編とはあまり関係ないアフリカ原住民の踊りとか歌とか、賑やかで楽しい・・・と同時に躁状態が続くみたいで不穏。
 コブラ・ヴェルデは元々奴隷商人で、黒人達を買ってブラジルへ送るわけだが、いつの間にかアフリカへ渡って、いつの間にか現地の女性達でアマゾネス軍団を結成、戦い方を指導して王に対する反逆者となっている(正確には王を討とうとする甥に協力している)。この無軌道な人生には笑ってしまった。
 コブラ・ヴェルデは常に何かに怒り野心に燃えているように見えるのだが、具体的に何をどうしたいのかというところはあまり見えないし、本人にも具体的なプランはなかったのではないか。勢いで突き進むうちに妙なところに迷い込んでしまったような人だ。アフリカでの生活に疲れ「国に帰って結婚したい・・・」ともらしたりもするが、かといって結婚してもあっという間に家庭崩壊しそうだ。居場所のない人という感じがすごくするのだ。




『キンスキー、我が最愛の敵』

 ヘルツォーク傑作選2011にて鑑賞。ヴェルナー・ヘルツォーク監督1999年の作品。監督の作品5本に主演している俳優クラウス・キンスキーとの、長年の交流を描き、俳優としてのキンスキーを分析するドキュメンタリー。
 「長年の交流」というと何か心温まるものがありそうだが、ヘルツォークとキンスキーの「交流」は何とも激しい。怪優として有名なキンスキーは、プライヴェートでもいわゆる変人だったようで、人好きがするとは言い難い人物だ。ヘルツォークとキンスキーは、10代の頃たまたま同じ下宿に住んでいたそうだが、その頃からキンスキーの奇行(そして役者バカぶり)は有名だったようだ。激しやすい性格で、『フィッツカラルド』撮影中に共演者をあわや殺してしまうところだったそうだ。反対に、共演した女優たちからは、気難しいがシャイで優しいという話も出ており、乱暴さと繊細さの両面が極端に表出する人だった様子が窺える。
 ヘルツォークは彼の極端さを俳優の資質としてかったのだろうが、2人ともクセの強い人間なだけに、現場では確執が絶えなかったようだ。『フィッツカラルド』撮影中、嫌気がさして帰ろうとしたキンスキーを、「帰るなら殺す」とヘルツォークが脅した(ヘルツォーク自身の弁明によれば銃を持ち出したりはしていないそうだが)という話は有名だ。ただ、そういったごたごたが絶えず、お互い憎み合っていたにも関わらず、ヘルツォークはキンスキーを起用するし、キンスキーは最終的にヘルツォークの要求に応える。ヘルツォークが本作内で認めていたように、彼の映画にはキンスキーの狂気で完成される部分があり、キンスキーの中の狂気を最も引き出すことができるのがヘルツォークだった。2人はお互い存在で、映画監督・俳優としての敬意はおそらく双方が持っていたのだろう。
と にかく2人のエピソードが強烈すぎて、どんな愛憎物語だよと突っ込みたくもなるのだが、あくまでヘルツォーク側の視点によるドキュメンタリーなので、自分のことは棚に上げている気がしなくもない(笑)。ただ、ヘルツォークはやっぱりキンスキーに対して親愛・敬愛の念を抱いているし、こいつすごい俳優だ、という一貫してブレていないように思う。
 なお、「フィッツカラルド」に実はミック・ジャガーが出演(主演ではないですが)するはずだったという衝撃映像あり。このバージョンも見てみたかったかな~。




『アギーレ 神の怒り』

 ヘルツォーク傑作選2011にて鑑賞。ヴェルナー・ヘルツォーク監督1972年の作品。1560年末、黄金郷エル・ドラドを目指してアマゾン奥地を目指す、スペイン人探検隊隊長ピサロとその一行。途中で仲間の乗った筏が渦に呑み込まれてしまう。副官のアギーレ(クラウス・キンスキー)は本隊へ戻ろうと主張する分遣隊長を撃ち、更に奥地を目指す。
 アギーレは自分の上司も自分が所属する世界も憎み、自分が頂点となる新しい世界を作ろうとする。しかし彼の野望は途方もなさ過ぎて、現実味がない。部下達は原住民に次々に倒されていく。原住民たちの姿は殆ど見えないので、神を自称したアギーレに対する、見えない手による天罰のようにも見える。アギーレの、自分の所属する世界かズレてしまっている感は、同じくキンスキーが演じた『フィッツカラルド』の主人公フィッツカラルドと通ずるものがあるが、フィッツカラルドは根が陽性というか、途方もない野望はあるがそれは世界への呪詛から生まれたものではなく、自分がこれが好きだ!これがやりたい!という気持ちから生まれたものだ。一方、アギーレの野望は周囲を見返してやりたいという恨みから生まれたもので、どちらかというとマイナス思考から生まれた野望だ。なので、彼の中に積もり積もった怒りがじわじわ出てきて、見ているとなかなかに息苦しい。
 後半、登場人物が次々倒れていくが、やられ方があっさりしていてコントみたい。お約束の「後ろ後ろー!」的シチュエーションも当然ある。客席からも笑いが起こっていたし、確信犯なんだろうなとは思う。ヘルツォークは映画の中の人間を徹底してかっこよく撮らないというか、矮小化とはいわないまでも、たいそうなものとしては撮らない。たいそうなものなのは、常に山や密林やそこに住む原住民といった、自然(ないしはそれに近い)存在だ。ジャングルの中ではアギーレの怒りなど屁でもないのだ。
 ちなみに、後日『キンスキー、我が最愛の敵』を見て知ったのだが、本作、わざわざマチュピチュまで行って撮ったそうだ。マチュピチュの遺跡は出てこないので言われないとわからないのだが。よくやるよなぁ・・・。




『ノスフェラトゥ』

 ヘルツォーク傑作選2011にて鑑賞。ヴェルナー・ヘルツォーク監督、1978年の作品。原作はブラム・ストーカーの小説。舞台は中世のドイツ。不動産業者のジョナサン・ハーカー(ブルーノ・ガンツ)はこの近辺に屋敷を探しているというドラキュラ伯爵を尋ね、はるばるトランシルヴァニアまでやってきた。しかし地元の人間は皆、伯爵の館には悪霊が住むと恐れ、近づきたがらない。面会したドラキュラ伯爵(クラウス・キンスキー)はジョナサンをもてなし、彼が持っていた妻ルーシー(イザベル・アジャーニ)に心奪われる。
 スタンダードな吸血鬼映画で、端整なゴシックホラーという印象を受けた。ロケ地がどこなのかはわからないが、運河のある古い町並みで(昔の町がそのまま残っていてロケに使えるというのはヨーロッパの強みだよなぁ・・・)、中世ドイツの雰囲気がいい。風景や衣装、小物などの時代劇としての要素だけでも結構楽しんだ。船で野菜売ってる人とか子供の遊びとか、こまかいところまで作っている。
 ジョナサン役のブルーノ・ガンツの若さにびっくりするが、何といってもクラウス・キンスキーが演じるドラキュラ伯爵の造形がインパクトある。顔は白塗り・坊主頭で、爪は長くとがっており、ささやくような声で喋る。顔や爪は特殊メイクだろうが、特徴的な動きや声の出し方は、キンスキーの個性あってこそだろう。動きの緩慢さと素早さのメリハリがあって、動きが妙にぴしっとしている。やりすぎてちょっと面白い感じになってしまっているような気もするが。また、イザベル・アジャーニーの風貌がザ・ゴシックホラーのヒロイン!という感じでこちらも強烈。髪型といい衣装といい、ラファエル前派の絵に出てくる女性のようだ。ものすごく浮世離れしている。鏡を利用したドラキュラとルーシーの対決場面は本作中でも名シーンだと思う。
 ドラキュラ伯爵がルーシーを求めて町にやってくる際、疫病を連れてやってくる。疫病(ペスト)はネズミの大群という形で運ばれてくるのだが、本当にネズミがぞろぞろ出てくるので、これどうやって撮影(と回収)したのか気になってしまった。ヘルツォークは本当に動物の群れが好きだな・・・。ペストが蔓延した町の様子も、棺桶が次々と運び出され、そのうち広場に放置されるようになって、やけになった人たちがパーティーを始め、非日常がエスカレートしていく。悲惨な状態なのにある種の祝祭ムードになっていくところがおかしい。悲劇も喜劇もテンションがあがるという面で一緒くたにされている気がする。
 ルーシーは夫への愛の為、ドラキュラ伯爵と対決する。彼女の愛の力はドラキュラを脅かす。が、最終的に人間の愛や勇気は、人知を超えた力、自然の力の前には大して役に立たないという思想が根底にある気がする。これが原作の方向性なのかヘルツォーク独自のものなのかはわからないが。




『カスパー・ハウザーの謎』

 ヘルツォーク傑作選2011にて鑑賞。本作は1975年度カンヌ国際映画祭審査員特別賞、国際映画批評家連盟賞受賞、またニューヨーク・フィルムフェスティバル最優秀映画賞を受賞した。19世紀に実際にあった事件を元にしている。ドイツの田舎町に、カスパー・ハウザー(ブルーノ・S)という男が現れた。彼は穴倉に閉じ込められ鎖で繋がれて育ち、喋れないし常識等生活の知識も当然一切ない。人々は彼に興味を示し、教育しようとする。 
 カスパー・ハウザーの話は伝説として結構知られているそうだが、その真相は未だにわからず、本作はヘルツォークが分析してストーリー化したものだそうだ。カスパーはこの世界の者ではない存在、本人が言うように間違ってこの世界に出てきてしまった存在として描かれる。教師による「正直村とうそつき村」の設問でも明らかなように、彼は人の世の「お約束」の外で考え、行動する。ヘルツォークはそうしたカスパーにシンパシーを強く持っているのだろう。辺境にいる人の方が世界を広く・正しく見ることができるのでは?という思いがあるのではないだろうか。それだけに、カスパーの存在の特異さが、解剖され身体上の異変というレベルに落とし込まれてしまうのには、釈然としない。ヘルツォークも、なぜそこで原因を確定してしまうのか?なぜ不可解なものを不可解なままにしておけないのか?という怒りを感じたのではないかと思う。
 カスパーの正体や彼が現れた経緯については諸説あるようだが、ヘルツォークはそういった部分を描こうとはしない。彼が描くのは、彼が突然現れ、突然消えたということだ。カスパーの背景・正体ではなく、その野生児にようなあり方がヘルツォークにとってのカスパー・ハウザーなのだろう。
 鎖に繋がれているカスパーが鼻を鳴らしたりおもちゃをいじったりする様が、すごく動物っぽい。演じたブルーノ・Sという人の独特な風貌(ジャック・ブラックに似ている)が、これまた動物ぽい。よくこの人見つけてきたなー。他の人が演じたのでは本作にはそぐわなかったように思う。
 



『The Wild Blue Yonder』

 ヘルツォーク傑作選2011にて鑑賞。ヴェルナー・ヘルツォーク監督2005年の作品。ヴェネチア国際映画祭FIPRESCI受賞作品だそうだ。遠い惑星から地球に来たという男が語る、宇宙飛行士たちの旅。ヘルツォークとSFとは意外な組み合わせだが、一応SFファンタジーということになるのだろうか。
 本編内で、スペースシャトル内と思われる無重力状態の映像が出てくる。この部分はフィクションではなく、ノンフィクション、実際の宇宙飛行士の人たちと思われる。この映画の為に撮影したのではなく、既存の映像を利用したのだろうか。つなぎ方とテロップの入れ方で、本来(であろう)のものとは全然違うシチュエーションに見えてくる。どういう経緯で撮られた映像で(NASAの記録用とか?)、どういう経緯で利用できることになったのかが気になった。
 廃墟と化したショッピングモールや、人の気配すらない荒野、氷に閉ざされた湖(海?)など、終末の世界を思わせるような映像が続く。特に、無人の状態で取り残された町は怖い。なまじかつて人がいた気配があるのが怖さを煽るのか。ヘルツォークは本当に、人間がいなくなった世界を思わせる風景が好きなんだなー。氷の下の水の世界は、エンドロールから察するとこの映画の為に撮影したようだ。他の惑星という設定も頷ける神秘的な光景で、美しい。ただ、いい映像が取れたのでつい使いたくなってしまったのか、このパートがちょっと長くてダレる。切るのが勿体無いのはわかるが、もうちょっとタイトにしてほしい。本作、決して尺が長いわけではないのだが、体感時間は相当長く感じた。あんまり編集の上手いタイプの監督ではないんだろうな。
 なお、途中で出てくる科学者の宇宙の構造仮説が一昔前のSFぽかったり、オチが「トップをねらえ!」的だったりと、全般的にSF設定が古臭い印象。私はSFに詳しくないので印象なんですが・・・。ヘルツォーク、あまりSFセンスのある人ではないんじゃないかなーと思った。「ここをこうするとSFぽくなる」というツボを全部外していると思う。わざとかもしれないですが。



『フィッツカラルド』

 ヘルツォーク傑作選2011にて鑑賞。ヴェルナー・ヘルツォーク監督、1982年の作品。この都市のカンヌ国際映画祭監督賞を受賞している。19世紀末のブラジル。アンデルに鉄道を敷こうとしたが破産したフィッツジェラルド、通称フィッツカラルド(クラウス・キンスキー)は、ブラジルの奥地イクイトスにオペラハウスを建てることを夢見ていた。資金を稼ぐ為、いまだ手付かずのジャングルを切り開いてゴム園を作ろうと、船で川を進む。
 面白エピソードに事欠かないヘルツォーク先生だが、本作の製作にまつわるトラブルの数々は、あまりにも有名だろう。そもそも主演のキンスキーも、降板に降板を重ねてのやむをえない人選だったそうだ。で、私は今回初めて本作を見たのだが、確かにこれはトラブル起きるだろうなー、役者逃げそうだなーという気はしてきた。本当にジャングルの奥地に入っていくのはともかく、本当に船にあんなことさせるとは・・・。普通だったら撮影技術で何とかしそうなところなのだが。話には聞いていたけれど、これ実際に人の1人や2人は死んでいそうな感じなんだよ・・・。監督の熱意はわかるが、職場としては過酷過ぎて最悪だ(笑)。これでスタッフ内で揉め事が起きないわけがない。
 しかしその甲斐あってというかなんというか、映像には実に迫力(というか狂気・・・)がある。生ものの強さっていうのはやっぱり生じるのかもしれない(今だったら精度の高い特撮技術があるだろうから話は別だろうが。・・・でもヘルツォークは生もので撮りたがりそうだな・・・)。船がとんでもないことになっている部分よりも、船が密林の向こうから姿を現すシーンの方が幻想的な魅力を感じた。きてれつなシチュエーションそのものではなく、それを取り巻く森のうごめきみたいなものに魅せられた。
 フィッツカラルドは、一般人から見たら変人だろうし地元の社交界でもつまはじきにされている。事業にも失敗して、社会的には負け犬だろう。しかしラストの彼の表情は負け犬のものとは思えない。どういう形であれ、人生楽しんでいる人のそれだ。客観的には悲惨であっても彼にとってはこれが正解なのだろう。そこに妙に心打たれた。




『小人の饗宴』

 ヘルツォーク傑作選2011にて鑑賞。ヴェルナー・ヘルツォーク監督1970年の作品。人里はなれた教育施設で、校長や殆どの生徒が留守の間に、懲戒処分を受けた仲間を解放しろと、小人達が騒ぎ始める。留守を預かる小人の教師は、校長室に立て篭もった。騒ぎはどんどんエスカレートする。
 小人の人たちがとにかく悪ノリに悪ノリを重ねて騒いでいく。器物破損、窃盗、動物虐待、放火等等、テロというよりは学級崩壊みたいな、躁状態だ。最初は仲間の解放を要求する反乱だったはずなのだが、段々反乱すること自体が目的になってきているように見えた。ヘルツォークの映画は多分に躁気質なように思うが、本作はその典型的な作品だろうか。
社会の常識、タブーから無縁の存在として、見た目わかりやすく小人という存在を使っているのだろうが、一般的な(平均的な背格好の)人が一人も出てこないのはちょっと意外だった、比較対象がいるわけではなく最初からこういう世界なのかと。途中、外から車でやってきた女性が出てくるが、これも小人。
 反乱というよりもカーニバル的な雰囲気で、何だかやりたい放題だなーと思った。ニワトリやらブタやら、動物が妙に出てくるが、動物愛護精神は一切感じられない。人も動物も全部がなんだか猛々しい。ニワトリがネズミを振り回して遊んでいるし、共食いまでしているっぽいし、むしろ肉食獣ぽい。サルも出てくるが、十字架に貼り付けにされて本気で嫌がっているぽい(キリスト教的には多分大顰蹙なんだろうなー)。今の映画だったら、「映画の撮影の際に動物は一切傷つけていません!」というアナウンスがされるが、この映画でそれをやったら多分嘘になるな(笑)。
 小人たちは納屋の自動車やバイクを盗み出すのだが、車を使って逃亡するのかと思ったら、中庭をぐるぐる走らせているだけでどこにもいかない。このシーン、カメラも一緒に走り回って(多分途中から車の中から撮影してるんじゃないかと思う)撮る側もテンション上がりまくっている感じがする。ただ、ぐるぐる回っていて外に出て行けないのはちょっとさびしい。




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