3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2011年05月

『ゲンスブールと女たち』

 数々の名曲を生んだ作曲家であり、女性とのスキャンダルが絶えなかったセルジュ・ゲンスブール。彼が他界してから20年がたち。彼の人生をファンタジーを交えて映画化した作品。監督はバンドデシネ作家のジョアン・スファール。
 1941年、ナチス占領下のパリ。ユダヤ人家庭に生まれたリュシアン・グンズブルグは早熟で口が達者。ピアニストの父親からピアノを仕込まれるが、厳しいレッスンに辟易していた。やがて成長したリュシアン(エリック・エルモスニーノ)はセルジュ・ゲンスブールと名乗るようになり、売れっ子作曲家として有名になる。と同時に、ブリジット・バルドー(レティシア・カスタ)や2度目の妻となるジェーン・バーキン(ルーシー・ゴードン)との恋愛でも有名になるのだった。
 実話を元にしたフィクションということになるのだろうが、フィクション度合いがちょっと中途半端かなと思った。亡くなってから20年だと、まだ家族や関係者が健在だし、あまり突っ込んだ描き方は遠慮があってやりにくかったのかもしれない。良くも悪くも薄味である。いっそ、「ゲンスブールの頭の中」的に、もっとファンタジックに作ってしまっても良かったんじゃないかなー。本作、ゲンスブールを知らない人には情報不足(物語内時間が結構頻繁にジャンプするので、こことこことの間にどういう経緯が?とつまづいてしまうかも)だし、ゲンスブールを知っている人にとっては、何を今更という話にとどまっているのではないかと思う。
 彼の少年時代の造形は、なかなか面白かった。ここに時間を割きすぎてペース配分が妙なことになっているようにも思ったが。リュシアン少年は自分がユダヤ人である、ということを強く意識しており、ナチスがユダヤ人がつける「ダビデの星」を配り始めた時も真っ先に受け取りにいく。子供にしては諧謔がすぎる。そして口が達者。大人の女性を平気で口説く。美術学校のモデルを口説くやり口には笑ってしまった。「ブラジャー描くの苦手だから取ってもらえるかな?」って。口が達者で押しが強い男は結果的にモテるのだろうか・・・。
 ゲンスブールは幼い頃から、ユダヤ人であること、不細工であることにコンプレックスを持っていた。この2つの属性が、「ユダヤ人」「悪い男」とでもいう固有のキャラクターとして実体化し彼につきまとう。このへんはバンドデシネ作家である監督の持ち味だろうか。しかし、自分の中のそういうキャラクターと彼がどうやって折り合いをつけていったのか(あるいはつけられなかったのか)がストーリーからは見えてこない。ユダヤ人の方はゲンスブールが大人になる前にフェイドアウトしてしまうし、悪い男の方も、付き合いは長くなるものの具体的な経緯がないまま姿を消す。なぜコンプレックスだったのか、そのコンプレックスを抱え続けたのかというところを見てみたかった。




『劇場版神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』

 ロックバンド・神聖かまってちゃんのライブまで1週間。プロ棋士を目指す女子高生・美知子(二階堂ふみ)はアマ王座決勝戦を控えていたが、父親は大反対だし彼氏もいい顔をしない。シングルマザーで昼は清掃のバイト、夜はショーパブダンサーをしているかおり(森下くるみ)は仕事と育児でヘトヘト。その息子・涼太はかまってちゃんにハマっており保育園に行くときもパソコンを手放さず園内では問題視されていた。そしてかまってちゃんのマネージャー・ツルギは、上司と広告代理店から提示されたバンドの方向性に納得できずにいた。彼らの悩みは解決されないまま、ライブ当日を迎える。監督は入江悠。
 神聖かまってちゃんありきの映画なのだが、それにしてもドラマ、特にセリフの作り方が弱くて気になった。紋切り型で、ドラマも取って付けたようだった。美知子の父親が娘がプロ棋士に反対する時のセリフは、今時こんなセリフ言うかなーというものだし(と人に言ったら、それはあなたの周囲がリベラル寄りだからで多くの親はこんなもんだと言われたが)、更に、彼氏の「将棋やってる彼女はかっこわるい、ダンサーの方がかっこいい」という発言は、今の感覚からは大分ズレてるんじゃないかと思う。一応進学校みたいだし、むしろ将棋強かったらそれなりのステイタスになりそうだし、ならなくても面白がられそうな気がするが・・・。
 一番違和感があったのは、マネージャーの言動だ。彼はかまってちゃんをひきこもり脱出キャンペーンに起用しようという上司と広告代理店の方針に納得できず悩む。しかしなぜ、延々と悩む前になんで社内で意見を仰いだり、かまってちゃん本人と話し合いしたりしないのだろう。ついに決意を上司に伝えるときも、「そういうの違うと思う」というあまりにもふわーっとした主張の仕方。仕事上の反論としてはダメだろうそうれは・・・あっという間に反駁されてしまいそうだ。そもそも電通はさすがにもうちょっと頭いいと思う(笑)。
 これに比べると、店からそれとなく年齢的なプレッシャーをかけられるかおりの働きかたの方が、まだ実体感がある。真実味のあるところとないところの落差が大きく、クライマックスのライブに至るまでにいまひとつテンションあがらなかった。涼太が通っている保育園や園児の父兄が涼太の行動をとがめるところも、こんなやり方するかなぁと。ボキャブラリーが少ないというか・・・職業上のリアリティがあんまりなくて、しらけてしまう。
 そのシナリオの貧しさを最後のかまってちゃんの楽曲のみで乗り切ってしまうという力技だった。しかし、かまってちゃんがこういう受容のされ方をしていていいのか、ファン的には実際どうなのか、なんともわからない。幅広くアピールしていかなくても、届くべきところには届いているということか?




『恋文の技術』

森見登美彦著
地方の研究所へ飛ばされた京都の大学院生・守田が、友人や院の先輩、妹らへ手紙を書きまくる。しかし肝心な「恋文」はなかなか書けないのだった。全編書簡(主に守田による)で構成されている。もちろん書簡なので守田の主観なのだが、徐々にこの人とこの人は実はこういう関係で、この頃は実はこんなことが進展していて・・・という全体像がだんだん見えてくる。著者の作品はいくつか読んでいるが、構成力は本作が一番高いのではないかなと思う。守田の主観でありながら、群像劇を見ているような楽しさがある。また、他の作品の主人公と比べると、守田くんはかなりいい奴だしかわいげがある(笑)。もちろん森見作品であるから、青春をこじらせたような困った人な部分もあるのだが、基本的に手紙の姿勢(つまり人に対する姿勢)が方向性はともかく真摯なのね(笑)。気持ちよく読める小説だった。




『なずな』

堀江敏幸著
生後2ヵ月の姪“なずな”を預かることになった独身男性の“私”と、その周囲の人々の日々。今年上半期に読んだ小説の中ではベスト1にしてもいいかなと思う。“私”は地方の新聞社に勤める40代・独身男性。もちろん一人暮らしで育児経験はない。そんな彼が、近所の小児科医一家やバーのママらの手を借り、試行錯誤で育児をしていく。といっても別に「男性も育児を!」と声高にうたうわけではない。子供とあまり縁のなかった“私”は、なずなの日々の変化や行動にいちいち驚き、そこに面白さを見出していく。この好奇心、面白がる行為が本作を風通しのよいものにしている。赤ん坊が日常の中にいることで、ご近所の人たちや勤務先の人たちと、これまでの関係が変化し、地域社会との距離やそれを見る視点も変わってくる。世界を見る目が変化していく様が鮮やか。睡眠不足と過労でフラフラになりながらも、周囲の人たちの善意で支えられている“私”となずなの生活は、一見、ユートピア小説的であるかのように見える。しかし、なずなが育児経験皆無の“私”に預けられたのは、彼女の両親共に入院しているからだ。本来なら預かってくれるはずだった“私”の母は痴呆が始まっており父は母の世話で手一杯だし、地元の地域開発には各関係者の色気が絡んでいる。必ずしも笑えない、しかし誰の人生にも降りかかってきそうなシリアスな問題が背後にある。それを過度に深刻ぶらず、日常の一部として受け止めていくスタンスに安心感がある。あと、言うまでもないが文章がすばらしいなぁとつくづく思う。華美ではなく整っていて、読んでいてほっとする。





『ダンシング・チャップリン』

 周防正行監督作品。ローラン・プティ振り付けの、チャップリン映画をモチーフとしたバレエ作品「ダンシング・チャップリン」を2部構成で撮った。第一部は監督の関係者への取材、プティとの打ち合わせ、ダンサーたちの練習風景などを撮影した舞台裏ドキュメンタリー。第二部は「ガンシング・チャップリン」の全20演目を、13に絞って再編製したステージ。
 率直に言うと、ドキュメンタリーである第一部の方が圧倒的に面白く、正直、こっちだけ2時間見たいなぁと思った。私がバレエに詳しくないというのが大きな理由なのだと思うが。しかし、やっぱり曲者ぽいプティと周防監督との、演出をめぐる攻防(どっちも絶対譲らなそう)や、ダンサーという職業の過酷さが窺える練習風景は、1時間足らずにまとめるにはもったいない。草刈民代と、彼女をリフトする男性ダンサーとの息がなかなか合わず、リフト役を交代せざるを得ないという事態も。急遽代役で入ったダンサーとはすぐ息が合い、技術力(相性もあるのだろうが)の差が歴然とわかってしまう。はずされたダンサーがすごく複雑そうな顔をしていて少しいたたまれなくなる。現場の空気のピリピリ感が、周防監督とプティとの間のものとはまた違ったもので緊張感を増す。
 第2部のバレエは、バレエ自体の美しさ、楽しさはあるのだが、その撮り方は映画としてベストなのか?という疑問も頭をよぎる。プティの意向をかなり汲む形になっていると思われるので、映画というよりも、バレエ公演の記録という感じ(演じ方はカメラがあることを前提にしているようなのだが)。ただ、ダンサーの顔の表情までわかるのは映画ならでは。もちろん、カメラを多分に意識したものではあると思うが、普通に舞台で踊っていても、顔も演技しているのだろうとわかる。表情の美しさが際立つのは「街の灯」。本作の予告編でも使われている部分だが、盲目の女性役の草刈民代の表情がとても美しい。そして、チャップリン役のルイジ・ボニーノのまなざしが哀切。
 ルイジ・ボニーノというダンサーのことは、本作を見て初めて知ったのだが、とてもチャーミングな人だと思う。ダンサーとしての技術はもちろんだが、お茶目な人柄が窺える。他のダンサーに対する演技のアドバイスの仕方が的確で、コミュニケーション力の高い人なんだろうなと思った。




『抱きたいカンケイ』

 TV局スタッフのアダム(アシュトン・カッチャー)はひょんなことから昔なじみのエマ(ナタリー・ポートマン)と再会し恋心を抱く。しかしエマは恋愛をする気はなく、彼にセックスフレンドになろうと言い出すのだった。エマの提案どおり気楽な関係を続けようとする。一方、エマもアダムのことが気になってくるのだが。監督はアイヴァン・ライトマン。
 ポートマンが奔放な女性の役ラブコメ出演というのは珍しいなと思って見てみた。実際に見てみると、奔放なヒロインというよりも、妙なところで現実的で恋愛に幻想を持たないヒロイン。アダムとは時間の合間をぬってセックスに励むわけだが、ビッチというよりも、むしろ妙な真面目さがある。「恋愛をしないでセックスするだけの関係」を真面目にやろうとするのだ。アダムとの関係にいちいちルール設定するのには、ある種の律儀さすら感じる。そんなに会いたいなら普通に付き合っていることにしちゃえばいいのになー面倒くさい人だなー。いちいち関係を定義付けてしまうから彼との関係で悶々とするのだと思うが、そこをふっきるのは彼女にとっては大変なのね(笑)。この悶々に振り回されるアダムはいい奴だ・・・。ともあれ、主人公の2人を筆頭に、彼らの友人や同僚が皆、どこかかわいらさのあるキャラクターで、好感が持てた。それほど捻ったシナリオではないのだが、見ていて気分がいい。
 ポートマンはさばさばした現実的な女性、しかしちょっとピントがずれたところもあるキャラクターをキュートに演じている。シリアスな役柄のイメージが強いが、軽めの作品でもきっちりこなしている感じ。ヒロインのワードローブがあんまり豊富でない(笑)ところもリアルだった。服を持っていないのではなくて、コーディネートする時間がない感じ。カッチャーは、見た目も声もパーフェクトな二枚目なのだがパーフェクトすぎて逆に胡散臭いところがいい。元カノを意外な人物に寝取られてしまうのもなんとなく納得させてしまう、ぬーぼーとした雰囲気がある。




『スコット・ピルグリムVS邪悪な元カレ軍団』

 22歳の売れないバンドマン、スコット・ピルグリム(マイケル・セラ)は、一目ボレしたラモーナ(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)と何とか付き合いたい。しかし、彼女には凶悪な7人の元カレがおり、彼女と結ばれる為には元カレ軍団と戦わなくてはならないというのだ。監督は『ホット・ファズ』のエドガー・ライト。
 『ホット・ファズ』と同じく、本作も署名活動の甲斐あって日本公開されたそうだ。『ホット・ファズ』は映画に対する愛にあふれた楽しい作品だった。そして本作は、コミックやアニメはもちろんだが、特にTVゲームをモチーフにしている。しかもファミコン&アーケードゲーム。ある世代を狙い撃ちしたようなディティールの数々に笑ってしまった。オープニング部分、ユニバーサルのロゴがポリゴン仕用で音もピコピコ音なのにはニマニマしてしまうし、敵を倒すとコインが出たりバトルが始まると画面下に何か(笑)のゲージが出たり、細かいところまで手が込んでいる。
 しかし本作、個人的には、楽しいことは楽しいけれど『ホット・ファズ』のような突き抜けた幸福感は得られなかった。コミックの映画化だそうなので、原作上の問題なのかもしれないが。まず前述のTVゲームやコミックのモチーフが楽しいけれどてんこ盛りすぎで少々うるさかった。一貫した指針なしに詰め込んでいる感じがして、ビジュアルとして見難いし音もうるさいように思った。
 何より、元カレと戦うという発想にぴんとこなかった。そういうゲームなんですよ!と言われればそれまでなのかもしれないが、今カレVS元カレというのがよくわからない。彼女が元カレと戦うというのならわかるのだが・・・。彼女の昔の男がそんなに気になるのか?ラモーナの問題にスコットがしゃしゃり出てきているだけなんじゃないのかなーと腑に落ちない。
 さて、スコットは一見モテなさそうだが、実はちゃんと過去には数人のガールフレンドがいるし、今は現役女子高生と交際中。要するにラモーナとは二股である。そういうフットワークの軽さ(笑)は、プレイボーイというよりむしろ子供っぽいものだ。基本的に自分本位な人なので、見ていてあまり気分はよくない。22歳でそれか!最後に少し他人(女の子たち)を思いやれるようになれるのだが。成長物語としては成長度合いが少ないなぁ(笑)
 スコットのバンドメンバーやルームメイト、妹など、脇キャラのキャラが立っている。特にゲイのルームメイトはゲームスタート宣言役でもあるのだが、手も口も早くて実に頼もしい(笑)。彼や彼の恋人も交えて、男子数人で同じベッドに寝ているという不思議な関係性。また、アメリカでは成人が高校生と付き合うのは基本的にアウトなんですね。スコットの妹の反応で実感した。




イメージフォーラムフェスティバル Rプログラム『名前のない男』

  4月29日から5月8日(東京のスケジュール。この後京都、福岡、横浜、名古屋でも開催されます)に開催された、国内外の映像アートを多数上映するイメージフォーラムフェスティバル。今年初めて行ってみた。作品はいくつかのプログラムにわけて上映される。最後に見たのはDプログラム、『名前のない男』。本作は長編なので1本のみでの上映だった。

 ワン・ビン監督作品、96分。一人きりで穴ぐらに住む男を、四季を通して撮影した作品。2010年にヴェネチア国際映画祭に出品した『溝』と対になるスタイルで作られた作品だそうだ。
 男は全くといっていいほど言葉を発しない(中国語らしきものを発することはあるのだが、字幕は出ないので、言葉として聞き取れたものなのかどうかわからない)。また、ナレーションも字幕による説明も全くない。言葉のない作品だ。男が何者で、どういう経緯で今のような生活をするようになったのか、一切わからない。しかし言葉による説明がない代わりに、映像に妙な迫力がある。男を延々と撮影しているだけと言えばそれまでなのだが、男の動きの一つ一つからだんだん目が離せなくなり、最後まで見入ってしまった。この吸引力は何なんだろうなー。他人の生活(しかも自分の生活とはかけ離れた)を観察するという覗き見的面白さがあるのだろうかとは思う。
 ただ、観察される対象である男も、観察する主体であるカメラも、双方が堂々としていて、不思議な関係。ドキュメンタリーだと撮影対象がカメラに向かって話したり、カメラが撮影対象に言葉を投げかけたりというやりとりがよく見られるが、本作では男とカメラとの間にコミュニケーションはほとんど感じられない。しかし、カメラがごく近くにあり、男の行動は至って自然であることから、信頼関係は成立していることはわかる。男の方はカメラがあることを意識してすらいないのでは?と思えるようなシーンも。
 男の生活をおそらく1年通して追っているので、あの時のあの行動はこれの為か!と時間差で納得するところがいくつかあった。男の生活は一見ホームレスなのだが、穴が自宅になっているので家がないというわけではない。徐々に、彼には住みかがあり、野菜を作って自給自足しているらしいとわかってくる。穴の中は平たく言えば汚く、夏場は相当臭いそうだし、自炊している食べ物もかなり危険そう・・・。食事前後にはご覧にならないほうがいいかもしれない。




イメージフォーラム・フェスティバル Dプログラム 超日常の映画

4月29日から5月8日(東京のスケジュール。この後京都、福岡、横浜、名古屋でも開催されます)に開催された、国内外の映像アートを多数上映するイメージフォーラムフェスティバル。今年初めて行ってみた。作品はいくつかのプログラムにわけて上映される。3番目に見たのはDプログラム。

『東京浮絵百景』
五島一浩作品、15分。東京の風景を次々と見せていく、とてもリズミカルで目に楽しい作品。音楽のツボが分かっている人が作った作品だなと思った。この音の時にこう動いて、この音でショットが切り替わると気持ちがいい、というような体感レベルでの楽しさがある。きれいにまとまりすぎているという声もあるかもしれないが、エンターテイメント性が高くて間口が広い。実際に行き来している場所が次々と出てくるという楽しさもある。

『全ては本』
萩原朔美作品、15分。様々なものに「本」の焼き印をつけていくパフォーマンス作品。ユーモラスだが、「本」の持つ役割を再確認させられる(と同時に、じゃあ書物って何?ということも)。読み取る、という行為を考えた一作。焼き鏝を押す行動そのものが、不穏であると同時に妙にユーモラスというところも面白い。

『離散の歌』
黒川芳朱作品、37分
ショット同士の関係がよくわからなかった。なぜこのショットが選ばれてなぜこういう繋ぎ方になっているのか?指針が見えてこない。音が全くない状態での上映だったのだが、いわゆる娯楽作品でなくても、音・音楽の使い方というのは映像作品にとってすごく重要なんだなということを痛感。作家の舞台挨拶によれば、本来は楽器演奏のパフォーマンスにあわせた作品だそうで、納得。単体での上映は不利だったろう。

『garden』
島田量平作品、9分。似通ったモチーフを反復させるという方向性の作品は他にもあったが、本作は圧倒的にセンスがいい。なにがいいって音楽のセンスがいい。やっぱり音楽の使い方って大事だわー。庭園の奥へどんどん入っていくような混沌としたアニメーション。ただ事ではない感じが。

『DREAMS』
田名網敬一+相原信洋作品、6分。このコンビの作品は過去に見た記憶があるのだが、もう大御所ポジションの方だったんですね・・・。サイケデリックでエロティックな作風は正直今の時代に即しているとは思わなかったのだが、生命力の強さが感じられる。若手の作品がいかにお行儀いいかってことになるのかなぁ(苦笑)。なお相原氏は本作上映を控えた4月30日に急逝されており、本作が実質的な遺作となる。



イメージフォーラムフェスティバル Mプログラム アニメーションセレクション1秘密の機械

4月29日から5月8日(東京のスケジュール。この後京都、福岡、横浜、名古屋でも開催されます)に開催された、国内外の映像アートを多数上映するイメージフォーラムフェスティバル。今年初めて行ってみた。作品はいくつかのプログラムにわけて上映される。2番目に見たのはMプログラム。

『シャドウ・カッツ』
マーティン・アーノルド作品、5分。ディズニーアニメの1コマを使った作品なのだが、アニメーションの「コマの連続」としての特性が浮かび上がる。しかし素材の選び方にはそこはかとない悪意を感じるわー(笑)。このキャラクターじゃなければそんなに不気味じゃないと思う。

『シークレット・ライフ』
レイノルド・レイノルズ作品、10分。植物と若い女性の生活。色鮮やかな箱庭的世界が美しく怖い。植物は本物の植物なんだが、早送りにすると植物が独自の動きをしている(実際しているのだろうが普通はゆっくりすぎて気付かない)ようで、何か別の生き物のうごめきのように見える。植物の動きと女性の動きがリンクしているようだ。ある種の性癖を持っている人のツボを直撃しそう。長回しが多いのだが、どういう撮影しているのかなー。セットの構造も気になる。

『シークレット・マシーン』
レイノルド・レイノルズ作品、16分。これまたフェティッシュな・・・。『シークレット・ライフ』は植物の世界だったが、本作は機械や書物などに囲まれた女性が中心、様々なやり方で体を検査?されていく。『~ライフ』より健康的でない方向にエロティック。人間が体を機械のように扱われていく。うわっもしかして痛いのでは?!とゾクっとするところも。ポール・デルヴォーの絵画の雰囲気にちょっと似ているかもしれない。

『シークレット・イージー・サービス』
レイノルド・レイノルズ作品、10分。前2作と同じ女性達が出演しているみたいだが、本作は割とコミカルで下世話?フェティシズムは低めで分かりやすくエロティックかと思う。作家のフェティシズムがわりと分かりやすく現れているシリーズで、結構サービス精神もあると思う。「アートフィルム」よりは「(いわゆる)映画」に近いような。

『マスク』
ブラザーズ・クエイ作品、24分。待望のクエイ兄弟新作。私はこれが見たくて本フェスに来たようなものです。原作は『ソラリス』のスタニスワフ・レムによる小説。暗殺者用機械人形として生み出された“女”が暗殺のターゲットに恋をしてしまい、2つの人格の間で引き裂かれていく。そして、それを観察する何者かの顔の存在が不吉。悪夢のように美しい作品だった。クエイ兄弟の作品は本作に限らず、セットがどうなっているのか本当に不思議。実際はごく小さいセットのようなのだが、大規模な舞台のような広がりを感じる。不思議な撮影だなー。暗殺機械はカマキリみたいで美しく不気味。




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