3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2011年05月

『甘い罠』

 ピアニスト志望のジャンヌ(アナ・ムグラリス)は、ふとしたことで自分の出生にまつわる秘密を知る。病院で同じ日に生まれた赤ん坊と取り違えられた可能性があるというのだ。ジャンヌは自分の実の父親かもしれない、ピアニストのアンドレ(ジャック・デュトロン)とその再婚相ミカ(イザベル・ユペール)を尋ねる。アンドレの前の妻は交通事故で死亡しており、一人息子ギョームが残されていた。アンドレからピアノのレッスンを受けるようになったジャンヌは、ミカが魔法瓶のココアをわざと床にこぼすのを見て不審に思う。
 クロード・シャブロル監督、2000年の作品。セレブな2つの家庭が舞台となるサスペンスであり、一種の悪女ものでもあるだろう。しかし、本作の悪女・ミカは、悪を為す動機がはっきりしない。恋愛がらみだったり、資産狙いだったりするのなら分かりやすいのだが、彼女には具体的な動機がないのだ。好意を持っている風な相手であっても、単純に邪魔な相手であっても、同じく殺意を示す。メリット/デメリットの問題ではなく、良かれ悪しかれ相手に対しての特別な感情の発露として殺意が沸いてくる、というふうなのだ。侵入者であるジャンヌに対してはともかく、ギョームに対してなんて、むしろ父親であるアンドレよりも親身な同情があるように思うのだが。
 ミカにとっては侵入者であるジャンヌも、ただの美少女ではなく度胸と抜け目のなさ、ある種のずうずうしさがある。彼女に比べるとミカの方がまだ繊細に見えるかもしれない(笑)。私はムグラリスのルックスがすごく好きなのだが、本作の彼女はふてぶてしくて実にいい。
 アンドレがピアニストという設定もあって、ピアノ曲が多く使われているのだが、音楽の使い方がすごくしっくりきていいなと思った。アンドレとジャンヌがレッスンする曲がリストの『葬送』というのはあからさまに不吉すぎるのだが(笑)。音楽を使うタイミングが上手いなと思った。
 舞台はスイスらしい。アンドレ夫妻の自宅として使われている、丘の上にある邸宅が素敵なのだが、これはデヴィッド・ボウイが所有していたこともあるとか。なお、原題は「ありがとうチョコレート(ココア?)」みたいな意味。ミカはチョコレート会社の社長なのだ。




『最後の賭け』

 クロード・シャブロル監督、1997年の作品。親子ほどに年齢の離れた詐欺師コンビを、イザベル・ユペールとミシェル・セローが演じる。2人はホテルを転々とし、泊り客をターゲットとする地道な詐欺師。しかし、マフィアの資金を持ち逃げしようとしている男と知り合ったことで、大きな勝負に出る決断をする。邦題は何やら物々しいが、原題の「Rien ne va plus」はカジノのディーラーが賭けをストップするときの決まり文句だそうだ。「これ以上はダメですよ」程度の意味。
 今まで見たことがあるシャブロル作品が、どれも不穏な空気に満ち満ちていたので、本作のコメディぽさは意外だった。冒頭、ホテルのバーで男をナンパするユペールを、ホテルマンの格好をしたセローがじっとりと見ている。ユペールは明らかに怪しい出で立ちなので(笑)、セローはもしや彼女に目を付けた警備員ないしは警官?!と思っていたら、まるでコントのように詐欺のパートナーであるというオチがやってくる。これが判明するまでの流れがすごく(もしかしたら本作内で一番くらいに)テンポがよくて引き込まれた。
 詐欺はするけど取りすぎないようにするとか、仕事で遠出の時はキャンピングカーで移動・寝泊りしているとか、詐欺仕事の細かいディティールが楽しい。セローが収支をきちんと計算しているシーンなど、ほんと地に足のついた詐欺師だなぁとしみじみしてしまう(笑)。そんな彼らがマフィアの金を掠め取るなど、分不相応にも見え危なっかしい。はたして逃げ切れるのか?!とドキドキしてしまう。
 キュート(ユペールにキュートという修飾語を使うとは・・・!)でちゃっかりとしたユペールと、短気でテンションの高い(喋り方が常に半どなり声みたいな感じ)オヤジなセローとのコンビネーションが抜群。2人は親子のようでもあり、恋人のようでもある。お互いの技量を信頼しているが、腹の底から信頼し合っているわけでもなさそうという関係性が、緊張感を与えている。他の登場人物も、どこかユーモラス。マフィアも厳しいんだかつめが甘いんだかよくわからないんだよな(笑)。
 パリからスイスの雪山、常夏のリゾート地と、観光映画のようでもある。スパスパと場面転換されて、編集がざっくりしているなと思った。エンドロールに歌がかぶるのだが、歌がエンドロールの途中で終わってしまい、しばらく無音の状態が続いた後にサビだけ繰り返し、その後また無音という大雑把さ。




『昼間から呑む』

 彼女にフラれたヒョクチン(ソン・サムドン)の為、酒に酔った勢いで「明日旅行に行こう!」という話になった友人4人組。しかし当日、待ち合わせ場所のバスターミナルに来たのはヒョクチン1人だけだった。後から合流するという友人の言葉を神事、友人の先輩がやっているというペンションへ一人向かうヒョクチンだが。監督はノ・ヨンソク。低予算(日本円で100万円程度だとか!)ながらロカルノ国際映画祭等で好評価だった作品だそうだ。海外でも好評だったのは、昼間から酒飲むって楽しいよネー、でも飲みすぎて失敗しちゃったりするよネーという国境を越えた共感が得られたからかもしれない・・・。私は下戸なので想像ですが。でも真昼間からダラダラしていると妙な幸福感があるのはわかる。
 主人公であるヒョクチンは、自分から何かアクションを起こすということがあまりない。状況にダラダラ流されていく、流されやすい人だ。お酒もやめておけばいいのに、強く勧められると呑んでしまう(これは文化の差とか主人公の性格というより、とにかく酒好きというのが理由な気がした)。その結果、いろいろ妙な目にあってしまうのだ。巻き込まれタイプの主人公なのだが、本人が巻き込まれていく・流されていくことにあまり反省がないというか、妙に付き合いがいいというか・・・。ぶつくさ言いつつちゃんと友人の指示通りにペンションへ行き、冬の海辺でラーメンと焼酎を飲む(ものすごく寒そうである)。自分から積極的に行動を起こしはしないのだが、流れには乗ってみるという、いきあたりばったりさだ。だから、ラストシーンの後、ヒョクチンははたしてどういう返事をしたのだろうとすごく気になる。また流れに乗ってみちゃうのだろうか。
 韓国映画というと、感情豊かで情熱的で、という先入観があるのだが、本作はむしろオフビート。のったりのったり、起伏は少ない。ヒョクチンが出会う変な人たちも、すごく変なのではなくて、ちょっと変という控えめさ。ヒョクチン本人も決して情熱的な人間というわけではなく、のんびりしている。現代の韓国の、ごく普通の若者(わりと経済的には安定している層ぽいが)の一面が垣間見られるところも面白い。タイトルロールが出るまでの流れは、ほんとに「酒の席」感が強くていいシークエンスだった。音楽の使い方も洗練されていて上手いと思う。




『生き残る為の3つの取引』

 連続児童殺人の容疑者を誤って射殺してしまった警察。上層部はこの事態のもみ消しをはかり、刑事チョルギ(ファン・ジョンミン)に取引を持ちかける。警察大学を出ていないことがネックとなって出世できずにいるチョルギだが、犯人を「逮捕」すれば昇進させるというのだ。チョルギは迷った末にその話に乗り、建設会社社長のチャン・ソック(ユ・ベジン)に協力を求める。見返りはライバル会社の不正摘発だった。しかし野心家な検事のチュ・ヤンが警察の動きに疑問を持ち始めた。監督はリュ・スンワン。
 誰も正しくない、後ろ暗いところがある三つ巴。取引は3つどころじゃないよなぁ(笑)。全員が野心の為、保身の為に取引していくのだが、それが回りまわって・・・というお話だった。取引するならもうちょっと相手を選んだ方がいいんじゃないの、もっと用心した方がいいんじゃないの、と勝手に心配してしまった。
 チョルギはまだ素朴な方で、出てくる人がどいつもこいつもギラギラしている。特に検事のチュは自信家で野心も強く、出世の為なら多少ダーティな手段も厭わない。全員が脂ぎっているので、見ていてとってもおなかいっぱいになった。いやらしい人をわざわざこれみよがしにいやらしく描いているみたいで、ちょっと口当りが重い。ただ、全員あくどいことをやっている割には脇が甘い(そんなに簡単に撮影されていいのか!とか)のはご愛嬌か。また、チュがかかえているスタッフたちとのやりとりは妙にコミカルで、映画内のコメディリリーフの役割を果たしていた。
 チョルギは有能だし警官としての誇りも持っているので、可愛そうな役回りではある。ラストの皮肉さには笑ってしまうくらいだ。捨てたはずの人情によって思わぬしっぺ返しをくうのだ。しかし韓国映画に出てくる警察って、汚職まみれで捜査がずさんというイメージばかりな気がするが、いいのかそれで。




『岳 ~ガク~』

 警察官の島崎久美(長澤まさみ)は、北部警察署山岳救助隊に配属された。彼女は隊長の野田(佐々木蔵之助)の後輩であるという山岳救助ボランティアの島崎三歩(小栗旬)と知り合う。三歩は本人の不注意で遭難した要救助者も決して責めることなく、「よく頑張った」「また山においでよ」と声を掛けるのだった。原作は石塚真一の同名漫画。監督は片山修。
 私は元々、石塚真一の原作漫画のファン。山が舞台で絵になるということ以外は、あまり映画に向いているとも思えなかったので(短編オムニバスだし、派手な山岳救助ものというわけでもないし、ヒロイズムもない)、どうなることかと心配だった。で、映画化された本作だが、まあ無難な線かな~というのが正直な感想だ。小栗は、三歩のような根っからの陽性なキャラクターのイメージが今までなかったのだが、意外と山男が様になっている。体重も増やしてしっかり体作りしたそうだが、さすが。三歩役にはイケメンすぎないか?と思っていたけれど、これはこれで悪くない。長澤まさみも、演技がすごく上手いというわけではないが、最近の出演作の中ではナチュラルにかわいく見えるし、頑張っているな(結構運動神経のいい人なんじゃないかなーと)という印象。
 原作は、山岳救助モノといってもあまりカタルシスやヒロイズムはなく、むしろ死なない・死なせない為の「見切り」の部分、助からない時はほんとに助からないよ、という部分が印象に残っている。映画の方も、基本的にそのあたりを踏まえているのでほっとした。場合によっては遺体を「落とす」という描写もちゃんとやっている。ただ、やはりそれだけでは話が盛り上がらないからか、プロの山岳救助隊ならそんな判断はしないんじゃないかな~という行動を久美やがとっていたり、とてもCGちっくな雪崩が襲ってきたりする。盛り上げないという決断が必要な映画もあるんじゃないか・・・と、ふと思った。特に、ここぞというところで無駄にスローモーションを多用、音楽をやたらと盛り上げるのには辟易した。そのスローモーションは今必要なのか!?と突っ込みたくなること数度。演出の引き算をお願いします・・・。
 舞台は北アルプスで、山の撮影はさすがに気合が入っておりきれい。空撮が多く、お金かかっているなーという印象。四季を通した姿が楽しめる。上高地にまた行きたくなった。




『ブラック・スワン』

 バレエダンサーのニナ(ナタリー・ポートマン)は『白鳥の湖』のプリマドンナに抜擢される。しかし彼女は、純真で繊細な白鳥は得意だが、妖艶な「悪」の黒鳥を演じるのは苦手だった。なかなか上手く踊れず追い込まれていくニナ。更に、彼女とは対照的にセクシーで奔放なリリー(ミラ・クニス)が代役に選ばれたことで、役を奪われるという恐怖に襲われる。監督はダーレン・アロノフスキー。
 こんなに主人公がびくびくしている映画は、久しぶりに見た(というか見た覚えがない・・・多分何か見てると思うのだが思い出せない)。ニナは強いプレッシャーにさらされている。舞台監督からの「もっと奔放に、セクシーに」という要求や、母親からのプリマドンナとして成功しろ、よい娘であれという要求。また他のダンサーからの嫉妬。ニナはそれらにいちいち反応してしまう。彼女にとっては世界全てが自分を脅かすものであり、同時に、自分を反映するものだ。自分の中の恐怖を自分を取り巻くものに投影してしまう、それによって更に恐怖が引き出されるという悪循環。鏡のモチーフが多用されているのもそのためだろう。物語は徐々に、一人称ホラーとでもいいたくなる領域に入っていく。彼女の中で起こっている・ある意味完結していることなので、周囲が手助けをすることもできないのだ。
 また、最近のアメリカ映画では珍しいくらい、我のないヒロインだった。ニナは完璧に踊ろうとするものの、そもそも自分がどういうふうに踊りたいのか、どうなりたいのか、何を持って完璧なのかというビジョンが乏しいように思った。彼女がなろうとするのは舞台監督が要求する彼女、母親が要求する彼女で、彼女自身がそういうふうになりたいのかどうかはよくわからない。必死で彼らの要求に応じようとする姿は痛々しいくらいだ。
 ニナはテクニックはあるが、プラスアルファの何かに乏しく、自分でもそれが分かっている。彼女の姿が痛々しいのは、彼女が天才ではなく、本人にもそれがわかっているからだろう。だから舞台監督の「恋愛しろ!セックスしろ!」という的確なのかとんちんかんなのかよく分からないアドバイスにも一応従ってみてしまうし、愚直に「自分を変えよう」とする。しかし前述の通り、そもそも変える自分がない人なのでどうにもならない。完璧な踊りを目指して精神と肉体を追い込んでいく様は監督の前作『レスラー』にも通ずるものがある。しかし、『レスラー』では主人公が自分のベスト状態、どうなりたいかという明確なビジョンがあったけど、ニナにはそれがなく、漠然とパーフェクトを目指す。そもそもパーフェクトなんてあるのか?という疑問が付いて回るので辛い。
 本作、母と娘の関係が非常に生々しく怖かった。ニナの母親は彼女を出産する為にバレリーナとしての道を諦めた。母親はニナにバレリーナとして大成してほしいと願い、過保護なくらい彼女を心配する。が、同時に、彼女に自分よりも成功してほしくないとも思っている。無意識にニナの脚をひっぱるので始末が悪い。そしてニナは、大成してほしいという要求、大成してほしくないという要求どちらにも(これまた無意識に)応じようとしているように思える。相反する要求のどちらにも応えようとするのだから彼女が壊れていってしまうのも当然だろう。その「いい子」さが哀しいし、「いい子」から脱却した彼女がたどる道がまたやりきれない。




『アンノウン』

 アメリカ人植物学者のマーティン・ハリス(リーアム・ニーソン)は学会の為、妻リズ(ジャニアリー・ジョーンズ)とベルリンへ来た。アタッシュケースを空港に忘れたマーティンは一人で取りに戻るが、載っていたタクシーが交通事故に遭い、気づくとそこは病院。あやふやな記憶をつなぎ合わせてホテルへ戻るが、リズは彼のことを知らないと言い、見知らぬ男がマーティン・ハリスとして彼女の夫を名乗っていた。監督はジャウム・コレット=セラ。
予想していたのとはちょっと違う方向(ダークキャッスル作品だし~と思っていた)のオチの付け方だった。大味ながらも勢いがあり、伏線も順次回収していくので(ちょっと無理に回収しすぎな気がするくらい)見ていてスカっとする。「自分が誰だか自分でわからない」サスペンスといえば『ボーン・アイデンティティ』があったが、本作は「自分が誰なのか周囲の人たちがわからない」サスペンス。パスポートや免許証なしに自分の身元を証明するのは結構大変。しかも本作の場合、自分の記憶をごく親しい人たちが次々と裏切っていく。この、自分が自分であることを否定され、また否定されという畳み掛けが予想外に怖かった。アイデンティティに関わる部分が脅かされることへの恐怖は、普通に「怖い・ドキドキする」のとはまた少し違った感じがする。あれっ、こんなに心細くなるんだと自分でも意外だった。いるのにいないことにされることへの怒りに近いのかもしれない。途中からマーティンの相方となるジーナ(ダイアン・クルーガー)は、不法入国者だ。彼女が彼に協力するのは、「いるのにいない」ことにされる境遇への共感があったからか。
 マーティンが追い詰められていく、そして起死回生を図る過程はスリリングで引き込まれる。とてもスピード感がある作品だったと思うし、リーアム・ニーソンは「96時間」でも思ったのだが、見た目によらず(すいません)スピード感のある作品との相性がいい。スピードに耐えられる肉体をしているというか。
 本作では、ジーナがタクシードライバーということもあって、カーチェイスの見せ場が結構あるのだが、ジーナはともかくマーティンの運転が上手すぎる。アクション映画ではありがちなことなのだが、本作に限っては「上手すぎる」ことがちゃんと伏線になっていてなるほどと。また、ブルーノ・ガンツ演じる元東ドイツの警官だった探偵が、いい味を出していた。映画ファンにとってはボーナス的なうれしさかもしれない。




『星を追う子供』

 山の中の小さな村で、看護士の母と2人暮らしの中学生アスナ(金子寿子)。彼女の楽しみは山の上で父の形見の鉱石ラジオを聞くことだった。ある日アスナは、奇妙な動物に襲われたところを、不思議な少年シュン(入野自由)に助けられる。翌日また会おうと約束するアスナだが、彼は現れず、シュンらしい少年の遺体が見つかったという噂を聞く。監督は新海誠。
 昭和30~40年くらいの時代設定なのかな?と思ったが、軍事機器とか海外?の描写とかを見ると、時代設定や国の設定は曖昧ぽい。そのへんのリアルさは追求していないのかなーと思った。例によって背景美術の書き込みは細かく家屋や室内は具体的なので、曖昧さと具体性との兼ね合いが不思議な感じだった。
 本作では、今までの新海監督の作品とはキャラクターデザインの方向がちょっと変わってきていて、もっと児童映画的なライン、ぶっちゃけていえばジブリ的なデザインを登用している。正直、そんなにぐっとくるデザインではないのだが、あえてこの路線できたことに、日本で「ファンタジーアニメ映画=ジブリ」というイメージが定着しているか実感。アニメーションを相当量見る人にとってはそうでもないのだが、時々アニメ見ます、という程度の人にとっては、ジブリアニメ=ファンタジーなんだろうなと。長編ファンタジーをアニメでやろうとするとジブリ的なるものと対峙せざるを得ないのか。で、本作はジブリ越えはたぶん無理だからジブリ的なもの全部やります!という作品に見えた。ただ、相変わらずあまり映画的な何かを感じないんだよな・・・。動きの撮り方の問題だろうか。アクションの見せ方が下手だなぁとは思ったのだが。
 また(本作に始まったことではないが・・・)脚本が弱い。序盤、中盤、終盤のバランスがかなり悪いように思えた。地下世界に入ってからの時間の経ち方がダイジェスト的で、この人たちどうやって移動しているの?どうやって雨露凌いでいるの?と気になってしまう。また、アスナの物語だったものが森崎の物語にスライドしていく。それは悪くはないのだが、「もう会えない人との決別」というテーマが、森崎には深く関わるがアスナにはそうでもないので、アスナが結局物語から浮いてしまうように思った。
 前半で、アスナのひとりぼっち感が結構上手く出ている(学校での立ち居地とか、母との関係とか)ので、彼女が地下世界へ向かったのはシンを追ってというよりも「ここではないどこか」へ行きたいという願望に突き動かされてと取れた。しかしそうするとシュンとのエピソードがこれまた浮いてきちゃう・・・。ちぐはぐ感が最後までぬぐえなかった。




『鬼神伝』

(ストーリー内容に詳しく言及した部分があります) 京都に住む気弱な中学生・天童純(小野賢章)は、学校帰りに怪物に襲われる。逃げ込んだ寺で僧侶・源雲(中村獅童)に助けられるが、気付くと時を越えて平安時代の古都に来ていた。源雲は純が封印した「オロチ」を操ることが出来る救いの御子だと考え、都を跋扈する「鬼」と戦う為に連れてきたのだ。何もかも腑に落ちない純だが、ふとしたことで「鬼」の少女・水葉(石原さとみ)を助けてしまう。監督は川崎博嗣、キャラクターデザインは『NARUTO』の西尾鉄也。原作は高田崇史の小説。
 スタジオぴえろ製作なのだが、ぴえろ総力戦とでも言うべき作画祭り映画。キャラクターデザインが西尾なせいか、あれNARUTO?みたいなところがあってご愛嬌だが、アクションシーン、特にクリーチャーデザインとその動きは見ごたえがある。序盤の鬼と陰陽師(?)たちの戦いでぐいっと引き込まれた。また、クライマックスで登場するオロチ本体の造形がとてもいい。「何で出来ているか」というところを最大の見せ場にしていく作画には唸った。
 しかし本作、肝心のストーリーにいまひとつ牽引力がない。原作小説がある程度のボリュームがある(未読なんですが)ところを、かいつまんで2時間に収めているからかもしれないが、何より、主人公の立て方があまり上手くいっていないなという気がした。確かにキャラとして立てるのが難しい主人公、そして物語背景ではあると思う。純はケンカは嫌いで戦いなどできれば避けたいし、そもそも自分が平安時代に連れてこられた経緯をよくわかっていない。自分からアクションを起こさせるのが難しい設定だ。加えて、都を脅かしている鬼が実は、元々住んでいた土地から追われた迫害される民であり、自分達の土地を取り戻す為に貴族たちと戦っていたと言う。純は貴族側にも鬼側にも友人といえる人たちが出来た為、どちらの側につくか悩む。おそらく、どちらかを悪者にはせず共存していくこと、純が「決めない」ことが物語のポイントになるはずだったのだと思うが、キャラクターや世界の背景の説明が足りず、純が単にグズグズしている(まあそういう面もあるんですが)ように見えてしまう。この世界を描くには色々なものが足りなかったんじゃないかなと残念。
 また、作品内ではスルーされているが、純が来た世界は、貴族が権力を握っていた世界の延長上にある。鬼の味方をして貴族を倒したら、歴史が変わって純の時代にも影響あるはずなんじゃないかと思うんだけど・・・。最後、純の時代に変化があったようには見えなかった、ということは、鬼達はやはり追われていったということじゃないかと・・・。じゃあ純たちは何の為に戦ったの?って思ってしまう。そこまでストーリー詰めてるのかどうかわからないが。 




『「絵」のある岩波文庫への招待』

坂崎重盛著
題名の通り、岩波文庫の中でも挿絵に魅力があるもの(ないしは絵が主体となっているもの)を紹介していくブックレビュー。まず絵入りのタイトルが結構な数あることに驚いた。有名どころで木村荘八が挿絵を手がけた永井荷風『ぼく東綺譚』あたりは知っていたが、他にも挿絵が素敵なものがぞろぞろ出てくる。小説の力を挿絵が補強することが往々にしてあるが、作家にとってはちょっと微妙だったのかなという、作者と挿絵画家との関係にも言及されていた。挿絵が大変有名な例としてはオスカー・ワイルド『サロメ』とオーブリー・ピアズリーの関係があるが、ワイルドもやっぱりビアズリーの絵は気に入らなかったそうだもんなー。特に系統だって本を紹介するのではなく、内容から連想されるものを次々に、というスタイルなので、著者の連想の流れとシンクロするような楽しさがある。また、「絵のある」というしばりなので、ジャンルが多岐にわたっている。著者も言及しているように、普段なら守備範囲外の作品が含まれてくるので、読書の幅を広げるきっかけになりそう。著者にとっても楽しい執筆だったらしく、文章が少々調子にのりすぎるところがあるのが玉に瑕。




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