3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2011年03月

『SP 革命篇』

 TVドラマの続編として制作された劇場版作品。本作は『SP 野望篇』に続く劇場版後編となる。負傷から復帰した警視庁警護課第4係は、通常任務に戻っていた。今回の任務は国会議員の警護。国会議事堂で、浅田内閣不信任案の採決が行われようとしているのだ。議員たちが衆議院棟本会議場に集まる中、井上(岡田准一)は得体の知れない危機を察知する。
 アクションシーンの見せ方は、前作よりもよかったかなという印象。いいところでちょん切られていた前作と比べれば、もう少し一連の動作の流れで見せるようになっていたように思う。でも、正直二部に分けるほどのボリュームの物語ではないだろう。1部が間延びしていたので、もうちょっと詰めて1本にまとめてほしかった。更に言うならTV放送でよかった。映画館で見た方がイベント的な楽しさはあるのだろうが、作品としては、やはりTV向きだろうなと思う(本作公開前にTVで特別編が放送されていたが、TVで見た方が収まりがいいのね)。
 サブタイトル「革命篇」だが、革命というか私怨というか私欲ですよね・・・。海の向こうでリアル革命が起こっている昨今ではむなしく響くばかり。脚本は金城一紀なのだが、この人はあまりポリティカル(でもないな本作は・・・多分そういう方向目指したかったんだろうなということで)な題材は得意ではないのではないかしら。扱うとしたら、半径5メートルくらいの身近な素材として扱う方がいいんだろうな。テロリズムがどういうもので、テロリストは何をどうしたいのか、という具体的な像が浮かび上がってこず、ふわーっとした印象。結局政治的なものとは別の動機に着地しちゃったなぁという感はある。
 とは言ったものの、ちょっと憔悴した感じの岡田くんをとっくり見ることができたので良しとする。なお、柳の下のドジョウは捕り尽すぜ!的色気が見える終わり方だが、そもそもドジョウはまだいるのだろうか。






『塔の上のラプンツェル』

 ある王国で、生まれたばかりの王女が失踪する事件が起きた。王女の髪には生命をよみがえらせる力があり、自分の美しさを保とうとしたゴーテル(ドナ・マーフィー/剣幸)にさらわれたのだ。成長した王女はラプンツェル(マンディ・ムーア/中川翔子 歌:小此木麻里)と名づけられ、ゴーテルを母親と信じ、森の中の高い塔に閉じ込められて暮らしていた。彼女の夢は、自分の誕生日に遠くの空に浮かぶ、無数の光を実際に見に行くこと。ある日、城から王女のティアラを盗んだ盗賊のフリン(ザカリー・リーヴァイ/畠中洋)が、塔に逃げ込んでくる。監督はバイロン・ハワード&ネイサン・グレド。
 ディズニー・アニメーションスタジオが贈る、記念すべき50作目の劇場用カラーアニメーションだそうで、確かに気合が入っている。お話自体はオーソドックスな「お姫さま」ものだが、お姫様のキャラクターが現代的。行動的で前向き、意思がはっきりしているのだ。彼女が「特別」でなくなっても幸せを手にするところも、「特別」になって幸せを手にするお姫様物語とは違う味わい。ただ、ガールミーツボーイの公式からは逃れられないのは若干残念。このお話、彼女の元へ飛び込んでくるのがカップルの相手となりうる人じゃなくても成立するだけに。彼女を「外」へ連れ出す存在、母娘以外の絆を結べる存在なら、そこに恋愛感情がなくてもいいのだ。
 走り回ったり飛び降りたり踊ったりという、冒険活劇としての楽しさ、ミュージカルの華やかさのある、上質なファミリー向け娯楽映画だと思う。また、ぜひ3Dで見ることをお勧めする。とても美しいです。3Dを変に意識した絵ではないところが上品。ただ、以前から耳にはしていたけれど自分ではぴんとこなかった、「画面が暗く見える」という指摘、今回初めて意識した。色彩が明るいディズニーアニメだから特に気になったのかもしれない。もっとも、大きな瑕にはなっていないと思う。私は3D吹き替え版で見たのだが、日本語吹き替えも違和感感じなかった。声質への賛否はあると思うが、しょこたん似合ってますよ。
 さて、私が印象に残ったのは、ラプンツェルとゴーデルの関係だ。ラプンツェルはゴーデルを母親だと思っているわけだが、ゴーデルは典型的な「悪い母親」、グレートマザー的なキャラクター。娘であるラプンツェルを支配し、彼女の自立心を奪っていく。そのやり口が「あーいるいるこういうお母様!」という非常に典型的かつ効果的なもの。「あなたはそんなことしなくていいの」「あなたには無理よ」全部あなたのためなのよ」「お母様と一緒にいれば安全よ」「そんなことしてお母様を困らせるつもり」等、自分を正当化し相手をそれとなく非難する、相手の罪悪感をあおるやりかた。あまりに典型的で笑いました。ラプンツェルは自由になった喜びと、母親を裏切ったと言う罪悪感に引き裂かれるのだ。戯画的な描き方ではるが、ある種の母子関係を非常にわかりやすく描いていると思う。




『機動戦士ガンダムUC episode3 ラプラスの亡霊』

 ユニコーンで出撃したものの、身柄をネオ・ジオン残党軍の拠点である衛星パラオへ拘束されたバナージ。バナージとユニコーンを奪還すべく、連邦軍はパラオ攻略を開始。連邦のスパイにより合流地点を知らされたバナージは、ユニコーンを回収して逃げ出す。
 順調に3話目劇場上映されたので見てきた。4話は今年秋ごろ公開らしいので、ちょっと間が開く。ガンダムにすごく詳しいわけでもない私が言うのもなんだが、とてもガンダム(初代)らしいガンダムだなぁという印象を一貫して受けている。キャラクターやモビルスーツのデザインというよりも、セリフ回しの節々にそれを感じた。「男と見込んで」なんてセリフ、10数年ぶりに聞きましたよ私は!アナクロといえばアナクロなのかもしれないが(今時それはないだろうという気持ちはあるんだけど)、そこが妙に楽しい。「あーそうそうこんな感じ・・・」とほっとすると言うか。
 大人(特に中高年男性)のバリエーションが多いのにも妙に安心する。本作、少年がロールモデル(あるいは反面教師)となる様々な大人と出会っていくという、正統派ジュブナイルストーリーという側面が強いように思った。大人が、わりと皆ちゃんとしているのよね(そうでもない人もいるにはいるが)。そういうところが、安心感を与えるのではないかと思う。その分主人公の個性は薄いのだが、そこが却っていいのかも。ニュートラルな主人公の方が動かしやすそうな構造の物語だとは思う。
 大人たちの姿を見て少年が成長していくわけだが、少々展開が急で、キャラクターの使い方がもったいない。バナージが何らかの感銘を受けるには、どの大人も登場頻度が低くとバナージとの関係があまり煮つまらない。なので、バナージを覚醒させるためだけにこの展開が?という、物語上の都合が不自然に目についた。もうちょっと尺がほしかったというところか。フラグが非常にわかりやすすぎるのが難。
 なお、ビジュアル面は非常に安定していてる。また、前回までは気づかなかったが、主題歌(今回はCHEMISTRY)選択も含めて音楽が結構いい。押し付けがましくない、一歩退いたサウンドトラックで見やすかった。




『湖は餓えて煙る』

ブライアン・グルーリー著、青木千鶴訳
湖にスノーモービルが打ち上げられた。それは10年前に事故死したアイスホッケーコーチのものと判明。そのコーチの元教え子である新聞記者のガスは、事件の真相を探るが、町の誰もが口を閉ざし、真相解明は望んでいないようだった。訳者解説でも言及されているが、主人公のガスは、二重の挫折を味わっている。しがない地方新聞社の記者だが、かつてはピュリッツァー賞候補になるほどのスクープをものにしかけた実力がある。しかしそのスクープに絡んだトラブルで大手新聞社を追われたのだ。そして更に以前、アイスホッケーの大事な試合で失点して試合に負け、町民からは戦犯扱いされて町を去ったのだ。前者はともかく、後者がガスに残した傷は、個人的にはいまいちイメージしにくい。試合で負けた悔しさはわかるが、それが町に居辛くなるほどの重大事件になるという地域性がイメージしにくいのだ。ともあれ、ガスが事件を追うと同時に、自分の過去と対決していく。そして、自分が見ていたはずなのに気づかなかった、見ようとしなかったものを暴いていくことになるのだ。特にタフなわけでも、逆にヘタレなわけでもないガスの葛藤は歯がゆくもあるのだが、等身大の人間として身近にも感じられた。つい色々先送りにしている感じとか(笑)。わりとよくあるパターンの作品だとは思うが、人物造形が丁寧。また、事件の真相から浮かび上がってくる地域社会の閉鎖性がもやーっとした不快感を残す。自分が一員として上手く機能していればいいんだろうけど、一回共同体からはじかれた人にとっては針のむしろだろうな~。




『平日』

石田千
東京都内を中心に、色々な町での「平日」体験を綴った短編集。「私」は男だったり女だったり猫だったり、形が定まらない。著者の随筆よりもいくらか幻想的で浮遊感がある、白昼夢のような語り口だ。しかし、舞台となる地名は実在のもので、実在する建物、通り、お店などが登場し、これはあそこね、とニヤリ。ふらふらとお散歩、小旅行に出かけたくなる。ちょっとした遠出の、そこはかとない非日常感を味わった。小説と散文・詩の間のようなスタイルだと思う。地に足のついた部分とふわふわした部分とがまぜこぜになっていて、不思議な感じ。なお、著者がかなりののんべえであることが、それとなく窺えておかしい。




『アレクサンドリア』

 4世紀末のエジプト、アレクサンドリア。巨大な図書館を有するこの町で、数学者・天文学者のヒュパティア(レイチェル・ワイズ)は弟子たちから敬愛されていた。しかし力を増すキリスト教徒達が旧来の神を信仰する市民と対立し、争いの中図書館は破壊された。数年後、さらに勢力を強めたキリスト教徒は、ヒュパティアを標的にする。監督はアレハンドロ・アメナーバル。撮影は結構凝っていて、カメラの動きがちょっとくどいくらいのところも(図書館でカメラが上下回転していくところとか)あるが、美しい。
 なかなか心意気の感じられる歴史ドラマ。アレクサンドリアの神殿や、世界7不思議のひとつに数えられる灯台、美しい町並みなど、眺めているだけでも楽しい。何より図書館が壮観!図書館好きは必見である。しかし、この町とヒュパティアの運命が、映画を見ている側にはすでに歴史上の事実としてわかっているだけに、見ているのが辛くもある。
 アレクサンドリアが築いた哲学、科学などの積み重ねが、宗教という情熱の前に敗北してしまう経緯が描かれている。これが見ていて辛かった。理性は感情に勝てないのだ。ヒュパティアは天文学に打ち込んでおり、地球の軌道に関する仮説を立てるまでに至る。しかし、キリスト教徒から見れば彼女は異教徒であり、女性が学問を治めることも快くは思われない。偏狭な情熱の前に失われるものが大きすぎる。ここでヒュパティアたちが積み重ねた学問が消されなければ、科学の進歩はもっと早かっただろう。
 ただ、本作の中ではキリスト教がなぜ広まったかという面も言及されている。ヒュパティアは自分の弟子たち(キリスト教徒もいる)に「私たちはみな兄弟」と言う。しかし、その中に下級階層民や奴隷は含まれない。「平等な人間」とみなされるのは市民や貴族という一定の階級以上の人たちで、それ以下は人間ですらないのだ。人間扱いされなかった底辺の人々がキリスト教を支持し、一大勢力になっていくのだ。
 聡明な哲学者で、科学においては固定観念を打ち払うことができたヒュパティアでも、奴隷も自分と同じ人間であるという真実にはたどり着けなかった。人間にとって、新しい考え・価値観を発見する・受け入れることはなんて難しいのか。その難しさ、悲しさが、ヒュパティアを愛する一人の奴隷の目を通して描かれた作品でもある。ただ、ヒュパティアは最後の最後まで研究を続け、新しい知を発見することを望んだ。彼女は学問で人間が良くなるということをあきらめなかったのではないか。そこにほのかな希望がある。




『コロンバイン銃乱射事件の真実』

デイヴ・カリン著、堀江里美訳
1999年4月20日におきた、コロンバイン高校における銃乱射事件。マスコミは犯人像を、成績もスポーツもぱっとしないいじめられっこの学生で、校内のエリートたちに反感と嫉妬心を抱いていたと報道した。しかしその犯人像には大きな間違いもあった。2010年度アメリカ探偵作家クラブ賞受賞作。なぜこの賞を?と思ったが、関係者の証言を集め、事件を多角的に再構築していく過程はミステリ小説のようでもある。ただ、本作には事件のの真相、犯人像の「正解」はない。関係者個々それぞれに見ている事件の様相は異なり、関係者の数だけ真実がある。マスメディアにより「こういうふうでしたよ」と規定されてしまった絵を、再度解体し、関係者個人個人のものに戻していく作業であるように読んだ。私も、アメリカのメディアで広まっていた犯人像をそのまま受け入れていたんだなーと認識改めた(本事件をモチーフとしたガス・ヴァン・サント監督『エレファント』は、間違って広まった犯人像の方を採用していると思われる。もちろん、それによって映画の価値が落ちることはまったくないが、誤解は招くかも)。実際とはずいぶんちがっていたみたいだ。事件捜査におけるマスメディアの弊害を感じた。正しい報道をしているメディアもあるのだが、より大きな声、センセーショナルな報道にかき消されてしまう。また、初動捜査の重要さを痛感。これがどの程度できるかで、その後の動きが相当変わるんだなと。




『英国王のスピーチ』

 1936年イギリス。国王ジョージ5世の逝去に伴い長男のエドワード8世(ガイ・ピアーズ)が即位したが、恋愛問題で程なく退位。次男のヨーク公(コリン・ファース)がジョージ6世として即位した。実はヨーク公は吃音症がありかねてからの悩みだった。妻エリザベス(ヘレナ・ボナム=カーター)は言語療法士のローグ(ジェフリー・ラッシュ)に治療を頼むが。監督はトム・フーパー。アカデミー賞作品賞、監督賞、主演男優賞受賞作品。
 非常に手堅くきちんとまとめられた作品。対抗馬が『ソーシャルネットワーク』だった中でのアカデミー賞作品賞・監督賞受賞は、本作を見る前にはやや意外な感もあった。しかし実際に見てみると、受賞が意外だったというのは変わらないのだが、受賞には納得。超大作というわけでもアカデミー賞狙いの決め球というわけでも野心あふれるとんがった作品というわけでもない。オーソドックスに、丁寧に作っている。また個人的には、80年近く昔の話なのに、現代が舞台の『ソーシャルネットワーク』よりも今日的な内容のように思った。
 『ソーシャル~』は完成されすぎて絵巻物的な印象になってしまった(そこがすばらしいわけですが)のだが、本作は登場人物の感情や葛藤がより生々しく、登場人物たちが愛すべき人たちで、もっと身近に感じられるかもしれない。英国王室が舞台なのに身近に感じられるというのも妙な話だが、映画との距離感の問題と言ったほうがいいか(近ければいいというわけではないです)。困難な状況に立ち向かおうとする、嫌だけれどやらざるを得ない心情は普遍的なものだろう。ヨーク公は決して天才肌、天性のリーダーというわけではなく、リーダーに不向き(だと自分では思っている)な自分をなんとか変えようと努力し、友情や家族の愛に支えられる。その姿勢に肩入れしたくなる。
 ヨーク公とローグの、徐々に歩み寄ろうとする過程、お互いに人にはあまり話したくなかったことを吐露するところなどぐっとくる。ヨーク公には吃音のきっかけとなった幼児体験があるのだが、対するローグの言語療法を志すようになった理由や、本当は俳優として身を立てたかったが成功しなかったことなど、今に至るまでが垣間見えるところも切ない。また、2人の間に友情が芽生えるが、階級差がなくなったわけではないことも窺え、イギリス社会の構造、王室のポジションを垣間見た感がある。本当に階級社会なんだなーと妙に感心した。王室ゆえの苦しみも印象深い。王室という職業の辛さは庶民の想像は及ばないところがありそう。向き不向きはまったく考慮されず、転職も退職もできない(エドワード8世のようにやめちゃう人もいるけど国民からは総スカンくらうわけで)というのは相当辛いと思う。
 アカデミー賞主演男優賞を受賞したコリン・ファースの名演はもちろん、エリザベス役のヘレナ・ボナム=カーターが、久しぶりにイロモノではない女優然とした演技で、ファンとしてはうれしい。彼女の演技で、茶目っ気あるチャーミングな王妃になっていたと思う。話し方や動作がきびきびして魅力的だった。脇役まで渋くかためられていて、キャストは見ごたえある。
 細かいところだが、ローグのオフィスも自宅も寒々としており、実際寒いのか、子供たちがえりまきしているという演出の細かさ。お金がなさそうなのが身につまされる。ローグの奥さんがごくごく普通のいい奥さんぽいところもよかった。
 
 



 

『裸者と裸者 〈上〉孤児部隊の世界永久戦争、〈下〉邪悪な許しがたい異端の』

打海文三著
金融恐慌と財政破綻が勃発、世界中が動乱状態となり、日本では内戦が続いていた。戦火により両親を亡くした海人、恵、隆の幼い3兄弟はなんとか生活していた。しかし海人は反乱軍に拉致され、少年兵にならざるを得なかった。なんとか脱走した海人は妹弟の元に戻るが、生活のため政府軍の徴兵に応じる決心をする。面白い!近未来が舞台で戦争小説でというところに苦手意識があって、評判は聞いていたもののなんとなく手を出しそびれていたのだが、もっと早くに読むべきだった。内戦状態がこういうふうに推移していくだろうというストーリーラインに説得力がある。同時に、上巻は少年の成長物語、下巻は少女の成長(というか戦闘)物語になっている。登場人物それぞれがとても生き生きと立ち上がっているところが魅力。特に女性たちの造形が、欲望に忠実かつクレバーでいい。少年も少女も、大切な人たちを守る為、手を汚してでも生き延び自分たちの持ち場を確保する覚悟をする。戦時下なので人があっけなく死んでしまうし過酷な運命に流されてしまうのだが、どこか軽やかだ。正直個人的には苦手な題材だが波に乗って読めたのは、文章の力が大きい。これが苦手という人もいるかもしれないが、リズミカルで歌のようにするする読めた。





『アンチクライスト』

 セックス中に幼い子供を事故で亡くした夫婦。妻(シャルロット・ゲンズブール)は悲しみに明け暮れ入院するまでになった。セラピストの夫(ウィレム・デフォー)は彼女が恐怖と向き合うことで立ち直るのではと、森の中の小屋で共に寝泊りすることにする。妻は「森が怖い」と言うのだ。監督はラース・フォン・トリアー。
 フォン・トリアー監督の作品は好きではないのだが、見た後にいろいろ考えさせられる、何らかの爪あとを残す映画作家ではあると思う。そして、これまでの作品(といっても全部見ているわけではないのだが)では、女性嫌悪か?というくらいの女性がひどい目にあうストーリーが印象に残っている。本作でも女性がひどいめにあう。が、これは女性嫌悪というのとはちょっと違うのかな?と認識を改めた。フォン・トリアー監督の作品はキリスト教教義を背景にしていると言われるが、女性嫌悪(のように見えるもの)はこのキリスト教観に根ざしたものだったのだろう。本作はその女性嫌悪に対する監督自身からのカウンターであり、題名通りキリスト教(あくまで監督が考えるキリスト教ですが)へのカウンターとなっていると思う。女性がひどい目にあう話というところは今までどおりなのだが、女性がより能動的に戦っているように思う。
 セックスは罪、女性がそもそも罪深い存在、という前提があるので、セックス中に子供が事故死したことで、妻の罪悪感はさらに増す。それに対して夫は、パートナーとして共に悲しむのではなく、妻を救おうという上から目線の姿勢。妻にも不遜だとなじられる。治療の為のロールプレイングでも、彼の立場はnature、人間を越えたもので妻と向き合うものではない(と彼が一方的に決める)。妻を立ち直らせるためとはいうものの、それは彼の考える助けであり、妻が必要としている助け、回復への手順ではない。
 誰かを救えるなどと言う考えは傲慢だ、とでもいうような展開で、後半は肉体的にも精神的にも痛々しい。妻の行動は、自分の意に沿わないやりかたで自分を救おうとする夫(と彼が象徴するキリスト教的なもの)への反抗とも思える。「なぜ見捨てたの」という言葉は神への呪詛なのか。アダムがエデンから逃げ出し、イブ(達)がエデンへ戻ってくるようなラストも、信仰かなぐり捨ててる感がある。




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