3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2011年03月

『再生の朝に ある裁判官の選択』

 中国で実際にあった、車2台を盗んだ青年が死刑判決を受けたというニュースに発想を得た作品だそうだ。監督はハウ・ジエ。裁判官ティエンは、娘を交通事故でなくし、妻は今も悲しみに暮れている。ある日ティエンは、車2台を盗んだ青年チウ・ウーの裁判を担当する。現行法に基づき死刑判決を下すが、近々法が改正され、新法なら死刑は免れると言う。一方、腎臓移植を待つ実業家リーは、チウ・ウーの腎臓が自分に適合すると知り、死刑後、腎臓の提供を受けられるよう手を回す。
 編集が、エリック・ロメール作品を手がけていたマリー・ステファンだそうで驚いた。また、音楽は「ミレニアム・マンボ」「四川のうた」のリン・チャン。スタッフが地味に豪華だ。映画自体も、死刑という大きな素材を扱ってはいるが、その是非を声高に問うものではない。ある死刑判決により図らずも人生の岐路に立つことになった人々の群像劇だ。抑制が効いていて、品がいい。
 何度も描かれる、ティエンと妻の食事のシーンがすごくいい。セリフはごくごく少ないのだが、2人のおかれている状況や関係の変化がとてもよくわかる。ティエンが帰ってきて、妻が料理していることに気づく場面では、それまでの2人の様子との対比で胸が詰まりそうになった。ある時から、背後でTVだかラジオだかの音がするようになったのには、ようやく日常を取り戻しつつあることを実感する。ティエンの方が料理が上手そう(凝った料理を作れそう)なところも楽しかった。料理・食事のシーンにリアリティのある映画は、それだけでちょっと満足できる。
 ティエンはあくまで法に忠実で、少々杓子定規な人だ。だが、娘を亡くして妻が悲しみ続けていることで徐々に変化していく。チウ・ウーの死刑が直接の契機というわけではないだろう。彼の変化をあからさまに描くのではなく、ちょっとしたことで、あれっと思わせる。飼い犬の未登録を警察に追及され、抵抗するエピソードは強く印象に残った。ティエンは法は厳守するべきという立場であり、それならば登録していない飼い犬を没収されてもしょうがない。以前の彼なら、おそらく警察に従っただろう。しかし彼は、犬を気持ちのよりどころにしている妻の為に、見逃してほしいと何度も食い下がるのだ。この事件で、彼と妻との関係が大きく変化している。
 それにしても、自動車2台盗んで死刑というのはあまりに厳しい。よっぽど昔に制定された法律なのか(劇中でも物価との兼ね合いなど言及されており、かなり以前の法であることには違いないらしい)、日本よりも格段に厳罰傾向なのか。一方で、、警察署長がティエンに「父を殺した(多分過失致死と思われる)男を死刑にしろ、それが人情と言うものだ」と迫っていたりと法が厳しいのかゆるいのかよくわからない。また、死刑執行の際、そのへんの川原に連れて行って執行しているのでびっくりした。一応警官が警護しているが、遠くからだと丸見えだよ!実際野次馬が集まっている描写があったし、文化の違いを実感した。




『タンゴステップ 上、下』

ヘニング・マンケル著、柳沢由実子訳
37歳の警官ステファン・リンドマンは、舌がんの宣告をされ手術を控えている。そんな矢先、かつて世話になった先輩警官が殺される事件が起きた。休暇中のステファンは事件の舞台となった田舎町へ向かう。スウェーデン警察小説の名手によるシリーズ、主人公が年配者のヴァランダーから、若いステファンへと交代した。主人公の個人的な問題と、事件が平行して進むのはこれまでと同じだ。ステファンの場合、交際している女性との関係にふんぎりがつかないこと、何よりがんの手術という大きな問題から逃避する為に、事件に積極的にかかわっていく向きがある。あまりほめられたことではないのだろうが、この逃避、先延ばししてしまう心境はよくわかるだけに苦笑。ステファンは事件の過程で、自分の父親の知らなかった一面を知ってしまう。これとどう接していくかが、今後も描かれていくのだろうか。事件の背景となる、ある思想問題は、ヨーロッパ圏では根深く残っているのだろうか。ステファンとある人物との会話が全くかみ合わない、すれ違い続けるところが恐ろしかった。ある人物の思想に全く揺らぎがない、己の正しさを確信しているというところが怖い。論理で説得することができないのだ。




『目くらましの道 上、下』

ヘニング・マンケル著、柳沢由実子訳
夏休みを楽しみにするヴァランダー警部。しかし、菜の花畑で少女が焼身自殺をするというショッキングな現場を目の当たりにする。更に、クセ者と知られた元法務大臣が斧で背中を割られて殺される事件が起きた。夏休み返上で捜査にあたるヴァランダー警部と捜査員たち。スウェーデン警察小説の金字塔と言われる本シリーズだが、ミステリであると同時に、スウェーデン社会が抱える問題についても毎回ある側面が描かれており、世相が垣間見えて面白い。本作では、警察組織の縮小と警備会社への業務一部委託のうわさが署内で囁かれる。合理化・経費削減ゆえなのだろうが、これはちょっと(警察も国民も)不安なんじゃないかなーと思った。事件の背景や犯人像は、まあ想像できる範疇だし真相も早い段階で読者にはわかるのだが、ヴァランダーたちがそこにたどり着くまで、ひとつひとつ手順を踏んでいく捜査過程に持ち味がある。これを面白いと思うかまだるっこしと思うかは別れそうだが。また、ヴァランダーという1人の人間が変化していく過程も、数作通して読み取れる。本作で彼は、父親の老いに直面する。病名は明記されていないがおそらくアルツハイマーだろう。父親が自分の知っている父親ではなくなるのではという恐れや、父親の弱弱しさを目の当たりにしてしまう悲しみが痛切。他人事とは思えなかった。ヴァランダーは決して父親との仲が良好というわけでもなく、わだかまりもある。それを消化していくラストには希望があった。殺人事件そのものは救いのないものなのだが、ヴァランダー個人の問題には、ひとつの決着がついたように思う。




『ランナウェイズ』

 1975年、ロサンジェルス。ロックスターを夢見る15歳のジョーン・ジェット(クリステン・スチュワート)は音楽プロデューサーのキム(マイケル・シャノン)に自分を売り込む。キムは女子だけのバンドを作ることを思いつき、デヴィッド・ボウイにあこがれる少女シェリー・カーリー(ダコタ・ファニング)をボーカルとしてスカウトし、ジョーンたちと組ませガールズバンド「ザ・ランナウェイズ」として売り出す。ザ・ランナウェイズは一躍ブレイクするが。監督はフローリア・シジスモンティ。エグセクティブ・プロデューサーとして元ザ・ランナウェイズのジョーン・ジェットが参加。原作はヴォーカルだったシェリー・カーリーの自伝だ。
 70年代に活躍したガールズバンド、ザ・ランナウェイズの疾走を描いた作品。ザ・ランナウェイズについてはバンド名くらいしか知らなかったので、実在のバンドとは別物の「バンド物語」として本作を見た。ただ、「バンド物語」と言うほど音楽に重点を置いた作品ではないように思う。当時の音楽を多用していて楽しいが、ジョーンやシェリーがどういう音楽をやろうとしていたか、音楽を作っていく上での葛藤みたいなものは、あまり触れられない。これは、ザ・ランナウェイズが「ガールズバンド」というコンセプト先にありきで作られたバンドだからというのもあるかもしれない。ジョーンはともかく、シェリーには「音楽をやる」という強いモチベーションはあまり感じられない。劇中でも何度か描かれるが、そもそもシェリーが好む音楽はジョーンがやりたい音楽とはぜんぜん違う。シェリーがなりたかったのはスター、ジョーンがなりたいのはロックンローラーだ。2人は方向性が違い、徐々にそれが露呈していく。デビュー前のジョーンとシェリーのキメ服が対照的なのが、それを象徴している。シェリーはセクシーなグラムロック系(普段は結構フェミニンな格好)、ジョーンはよりパンクス寄り(普段も)だ。もし同じバンドじゃなかったら、友達にもならなかった2人なのではないかと。
 彼女たちのプロデューサーであるキムは、彼女達を指導し、男たちのロックと渡り合う術を叩き込んでいく。そして演奏も歌もそう上手いわけではなく、飛びぬけた美人というわけでもない彼女達をスターにする。が、同時に彼女達を食い物にしていく。彼女たちのスタイルは、キムが考えた「ウケる」スタイルであって、男性と戦うようでいながら男性ウケも狙ったものだ(日本では女子ファンが多い描写になっていて、ちょっと面白かった。日本の雰囲気の再現度は結構高いと思う)。シェリーは「男性ウケ」の部分に律儀に適応していく。セルフプロデュース能力はあんまりない人だったのかなーという感じがして痛々しい(当時15,6歳とかではしょうがないだろうけど)。ジョーンの方が自分が何をやりたいのか、どう見せたいのかというビジョンがはっきりしていたのかもしれない。
 主演のダコタ・ファニングとクリステン・スチュワートは熱演。ファニングはまだ顔つき・体つきが幼く、下着風のセクシーな衣装がかえって痛々しい。スチュワートが予想外にロック少女がハマっている。今回はちょっともさっとした感じにわざとしていると思うのだが、入浴シーンでは顔立ちのよさが際立っていた。




『マイキー&ニッキー』

 組織の金を盗み、命を狙われるニッキー(ジョン・カサヴェテス)は、同じ組織の一員で幼馴染の親友マイキー(ピーター・フォーク)に助けを求める。『裏切りのメロディ』の題名でレンタルビデオのみリリースされていた1976年の作品が、ニュープリントで日本公開された。監督はイレイン・メイ。
 マイキーとニッキーのやりとり中心にストーリーが進むのだが、そのやりとりの中で2人の関係性が浮かび上がってくる。ニッキーが大変に困った奴で、マイキーはこれまで散々振り回されてきたということがなんとなくわかってくる。ニッキーの駄目な人加減は相当なもので、こんな幼馴染イヤだ・・・と思うことは間違いない。ただ、マイキーはマイキーで、ニッキーから金を借りていたり、女にモテて要領の良さ気なニッキーに対してコンプレックスを抱いていたりで、純粋な友情というわけでもないのだ。
 2人の関係は、友情の末期常態とでもいうか、もうぐっだぐだになっているように見える。ニッキーはマイキーの友情を試すかのように無茶ぶりに次ぐ無茶ぶりをする。マイキーはニッキーに対してキレそうになりつつ、時には本当にキレつつも、彼との縁を切れない。どちらかが裏切るまで関係は終わらず、悪循環に陥って行くように見える。こんな友人関係、私はイヤだなぁと思いつつ、迷惑だけれど全面的に否定はできない友人というのは(ここまで極端ではないにしろ)いそうではある。ニッキーの無茶ぶりは、ここまでなら大丈夫か、いやここまでならどうかという他人とのつながりの確認作業のようで、痛々しくもある(同時に大変イラつきますが)。マイキーもマイキーで、ニッキーは本当に自分を必要としているのか見定めようとしているような感じもある。どうしてここまでやらないと駄目なんだろうなーと、見ていてつらい(やっぱりイラつくけど)。2人はあまりに運命共同体すぎて、裏切ることでしか自分が助かることができないのだ。どちらが先に裏切るのか、はたして裏切りきる(という言い方は妙だが)ことができるのか、最後までスリリングかつヒリヒリする。
 おかしくてやがてかなしき・・・とつぶやきたくなる男2人のぐずぐずな友情物語。主演のカサヴェテスとフォークは、実際に大喧嘩したり仲直りしたりを繰り返してきた仲だそうで、2人の関係が役作りにも反映されたのかなとも思った。なお、ニュープリント版はかなり映像きれいになっています。




『台北の朝、僕は恋をする』

font size="1"> 舞台となるのは主に夜なんですが・・・。恋人がパリに留学してしまったカイ(ジャック・ヤオ)は本屋に居座りフランス語の参考書を読み漁る。そんな彼に、書店員のスージー(アンバー・クォ)は好意を寄せているが、パリに行くことしか頭にないカイはさっぱり気づかない。旅行資金工面の為、カイは不動産屋で町の元締めのパオに借金し、その代りに謎の小包を運ぶことになる。しかしなぜかパオの甥ホンや、パオに目をつけていた刑事に、居合わせたスージー共々追われることになる。監督はアーヴィン・チャン。最後に、監督が師事した故エドワード・ヤンへの献辞があり泣けた。
 なぜかヴィム・ヴェンダース製作総指揮だという本作。あくまで製作総指揮なので、ヴェンダースぽさはあまり感じない。女性を連れて夜の街を逃げ回る、ジャズが頻繁に流れるというところが、和田誠監督『真夜中まで』に似ているなぁと思った。アーヴィン・チャン監督ないしは脚本家が『真夜中まで』を見ているということはないと思うが。
 カイはごくごく普通の青年。正直、キャラが薄い。これはスージーに関しても同様。演じるアンバー・クォは台湾版宮崎あおい的なかわいらしさがあるのだが、スージーがどういう女の子なのかというキャラクター造形がはっきりせずに、損しているように思った。本作で魅力的なのはむしろ脇役の面々。見るからに怪しい、しかしそれほど大物ではなさそうな顔役や、こってり系イケメンの刑事と香港映画のお約束的デブの相棒。そしてオレンジ色のユニフォームに身を包んだホンと、その仲間たち。ホンの奇矯なキャラクターが作品にアクセントをつけていた。ホンは、顔立ちは結構イケメンなのに髪型がきっちりしすぎているのと動きが微妙に気持ち悪い(笑)ので二枚目と呼ぶのに躊躇してしまう。そして、ファミリーマート(文字通り、日本のコンビニ・ファミリーマートである。台湾に出店してるのね)店員をしているカイの友人がとてもいい。ぬぼーっとした風貌で、茫洋としたいいキャラクターだった。カイの恋模様よりも、むしろ彼の片思いの行方が知りたくなるし、カイよりも彼の方を応援したくなってしまった。水餃子といい麻雀といい、彼が絡んでいるシーンは魅力的なものが多い。
 他愛のない、少女マンガ活劇とでも言いたくなるかわいらしい作品。かわいらしすぎてちょっと眠くなってしまったが・・・。もうちょっとテンポがよければなぁ。また、予告編でも使われていたダンスシーンがとてもキュートなので、前編このくらい突き抜けていてもいいのにと思った。なお、路地裏や町並みのロングショットなど、これは日本では?!とびっくりするくらい雰囲気が似ている。そういう意味では親しみやすい映画。




『トゥルー・グリット』

 14歳のマティ(ヘイリー・スタインフェルド)は雇い人のトム(ジョシュ・ブローリン)殺された父の仇を取る為、凄腕だが大酒のみ保安官コグバーン(ジェフ・ブリッジス)を雇う。賞金稼ぎのテキサスレンジャー・ラブーフ(マット・ディモン)も加わり、追跡の旅へ。監督はジョエル&イーサン・コーエン。コーエン兄弟、『シリアスマン』の次の作品がこれなのか・・・触れ幅が大きすぎる。なお本作、ジョン・ウェイン主演作『勇気ある追跡』のリメイクとなる。本作の方が原作に忠実で大分雰囲気が異なるようなので(私は『勇気~』は未見)、リメイクというよりも原作の再映画化と言った方がいいかも。
 予想以上に原作に忠実な映画だった。ジャンルとしては西部劇なのだが、いわゆる愉快な西部「活劇」ではなく、舞台が西部の荒野だという意味合いでの西部劇。景色の切り取り方、見せ方がすごくよかった。絵巻物のようにゆるゆる流れるようでいて、エピソードの割愛の仕方は結構思い切っている。たゆたうようでありつつざくざく話が進むという、時間の処理が不思議な作品だった。たゆたう、という感じは風景の荒涼とした広がりによるものもあるだろうが。終盤、コグバーンがマティを運ぶシークエンスは、どんどん神話か聖書の世界に突入していくようなスケールを感じた(おそらくキリスト教的な「幼子を運ぶ」イメージは重ねているのではないかと思う)。題名が意味するところがさらっとわかる終盤にはぐっときた。
 マティを演じたスタインフェルドが素晴らしい。本作の主役・主演は実質マティでありスタインフェルドだ。原作のイメージのマティがそのまま出てきたようだった。マティはとても気丈な、大人びた少女で大人とも互角に渡り合うのだが、時折子供っぽさが出る。少女であるが、性的なイメージが希薄で、荒くれ男達に混じっていてもあまり危うさがない。これはコーエン兄弟作品の持ち味でもあろうし(コーエン兄弟の映画の中で、色っぽい女性とめぐり合った覚えがない)、スタインフェルドの力量でもあるだろう。男女のラブストーリーへ落とし込まないよう注意されていたと思う。人としての敬意と仁義が彼らの行動の根底にある(それも愛といえば愛かもしれないけど)。また、マティと商人の会話など、マティが商人をやり込めているようなのだが、実はマティが(子供ゆえ)譲歩してもらっている部分も結構あるんじゃないかなと、なんとなく伺えるところが面白い。
 ジェフ・ブリッジスに眼帯が似合いすぎるのは置いておいて、マット・ディモンが『ヒアアフター』出演時とは別人のようで驚いた。この人、やっぱり上手かったんだなー。いわゆるなりきり・憑依タイプではなく、「このような人」に見せるテクニックに長けているという印象。クリスチャン・ベールのように徹底的な肉体改造をするわけでもないのに、現代アメリカの青年ではなくテキサスレンジャーに見える。




『映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団 はばたけ天使たち』

 北極で巨大な機械のパーツらしきものを見つけたのび太(大原めぐみ)とドラえもん(水田わさび)は、パーツを人のいない鏡面世界に持ち込み、組み立てていく。出来上がったのは巨大ロボット。大喜びするのび太だが、そのロボットは強力な兵器だった。ロボットを送り込んできたのは遠く離れた惑星メカトピア。彼らは地球人を奴隷にしようとしていた。巨大ロボットと共に送り込まれた少女型ロボット・リルルは、ロボットをのび太から取り戻すため彼らに近づく。
 「鉄人兵団」旧作はコミックのみ読んだ(映画も後に見たかもしれないが覚えていない)。大長編ドラえもんは、私はなぜか映画は見ずにコミックだけ読むことが多かった。シリーズ内でも、「鉄人兵団」は特に好きだった作品。そして、声優、キャラクターデザイン共に一新されたリニューアルドラえもんはTVシリーズもまだ見たことがなくて、本作で初めて触れた。声優に関しては全く違和感を感じない。新劇場版のシリーズは、作画にクセがあるという話を聞いていたが、キャラクターの主線が太い手書き線ぽいタッチ。線の強弱を意図的に出しているので、これがイヤだという人はいるかもしれないなとは思う。個人的には、キャラクターのやわらかさが強調されてすきです。
 この新シリーズ、キャラクターの「やわらかさ」を強調した作画・演出になっているように思う。旧作では、ドラえもんの体はあまり伸び縮みしなかったように思うのだが、今作ではよくへこむし伸びる。むぎゅっとなるのだ。冒頭、のび太がドラえもんにゴネる場面の作画が素晴らしい。ドラえもんの顔がむっぎゅむっぎゅになるのだ。ここを見て、ああ新しいドラえもんはこういう方向で行くんだな、となんとなく納得した。新しいドラえもんは、触りたくなるドラえもんなんじゃないかなと。
 前半は細かい反復ギャグを織り交ぜつつ、のんびりとした雰囲気。後半で急に話をたたみかけてくる。ペース配分に若干難があるんじゃないかなと思った。原作がそうなんだよと言われればそれまでなのだが、リルルがのび太と絡むにまでに結構時間がかかる。もうちょっと短くしてほしいなぁと思わなくもない。キャッチーな本作オリジナルキャラをということで、ヒヨコっぽい外見のキャラ・ピッポが加わっているのだが、このキャラとの絡みにペース配分をとられすぎた。他人を思う心という面では、リルルとピッポの絆を描くことは必要だったのだろうが、映画の尺の中での収まりは悪い。
 旧作が妙に記憶に残っているのは、多分、鉄人兵団を迎え撃つ時の絶望感が、子供心にもひしひしと伝わっちゃったからじゃないかなと思った。のび太ら5人で、無人の世界で大群の敵を迎え撃つというシチュエーションは本作も同じ。そして思った以上にディザスタームービーだった。無人世界とはいえ、ザンダクロスの試乗からしてばんばん破壊活動している。思わぬ結果にしずかちゃんが泣き出してしまうのも納得。
 プログラムピクチャーとしての安心感はあるし、作画オタにとっても色々楽しめる作品。挿入歌の「あなたはあなた わたしはわたし あなたはわたし わたしはあなた」という歌詞に作品のテーマが凝縮されている。これはいい演出だったと思う。そしてBUMP OF CHIKINによる主題歌「友達の唄」も合っています。




『アメイジング・グレイス』

 18世紀のイギリス。交易により財を成した家に生まれた青年ウィリアム・ウィルバーフォース(ヨアン・グリフィズ)は、聖職者になるか政治家になるか悩んでいた。「アメイジング・グレイス」の作詞をした牧師ジョン・ニュートン(アルバート・フィニー)や英国最年少首相となるウィリアム・ピット(ベネディクト・カンバーバッチ)に背を押され、政治の道を歩むことに。ピットと共に奴隷貿易廃止を訴えるが、議会の賛同はなかなか得られず、ウィリアムは心身共に消耗していく。監督はマイケル・アプテッド。本作はイギリスの「奴隷貿易廃止法」成立200周年を記念して製作されたそうだ。映画が製作されるほどメモリアルな事件だったということか。
 「アメイジング・グレイス」は、元奴隷貿易船の船長だったジョン・ニュートンが、自分の行いを恥じて作詞した歌だそうで、この歌がウィリアムたちを支え続ける。とても力の入った歴史劇で、面白い。奴隷貿易廃止に一度挫折したウィリアムが過去を振り返り、また明日へ一歩踏み出す、という現在と過去を行き来する構成なのだが、時間軸の処理がちょっとわかりにくかった。あれっ、今時間飛んだ?と戸惑うことがあった(私がぼんやりしていたからかも)。しかし、グリフィズの顔のやつれ方でどの時代かなんとなくわかるところがすごい(笑)。ヨン・グリフィズについては『ファンタスティック・フォー』のリーダーの人という印象しかなく(と言うか日本で公開されている主演作は本作くらい)、それほど上手い俳優というイメージは持っていなかったのだが、本作での彼はとてもいい。こんなにチャーミングな人だったのか!情熱と新年を持って突き進むナイーブな人物、という設定のせいもあるだろうが、何かキラキラしていてびっくりした。侮っていてほんとごめんなさい・・・。グリフィズに限らず、本作は出演者が豪華(というか渋い)で全員好演している。彼と志を同じくし、やがてウィリアムと結婚するバーバラ・スプーナーを演じたロモーラ・ガライは表情がすばらしい。ちょっと不思議な顔つきなのだが、表情が動き出すとぐぐっとひきつけられる。また、マイケル・ガンボンとアルバート・フィニーという大御所が見られるのもうれしい。特にガンボンのユーモラスなたたずまいが、作品にアクセントを加えていた。
 ウィリアムは奴隷貿易の廃止を訴えるが、彼にとって、それは直接的に利益があることではない。イギリスという国にとっても、奴隷という労働力を使った大規模プランテーションを維持できなくなる以上、国力を削ぐことになる。実際、そういった理由から、彼の提案は猛反対を受けるのだ。しかし彼は、自分の主張をあきらめない。損得の問題ではなく、人として正しいことを出来る立場にあるからやるのだ。最後に「ノブレス・オブリージュ」という言葉が出てくるが、正にそういうことなのだろう。おそらく、彼が信仰深かったというのも一因だと思う。神の後ろ盾があると信じられてこその行為だったのではと。
 ウィリアムたちの力で奴隷貿易は廃止され、同じ頃フランス革命が起きる。しかし、人間は平等であるという思想が定着、実践されるには、ここからまた200年近くかかっている。人間はなかなか聡明にはならない。なお、英仏戦争の影響で奴隷貿易反対運動が遅れたという部分にはなるほどと思った。「フランスに(奴隷を)横取りされるだけだ!」とか言われる。人権云々という話が通るのは国内情勢が安定していて、自分たちに余裕があるときだけというのがシビア。




『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』

神林長平著
FAFとジャムとの戦いを取材してきた地球のジャーナリスト、リン・ジャクスンの元へ、ジャムと結託してFAFを乗っ取ったというロンバート大佐からの手紙が届く。それは人類に対する宣戦布告だった。ジャムとの総力戦に突入した特殊戦とFAFは、人間の認識・主観が通用しない世界に直面する。約30年にわたって執筆が続けられている、もはや著者のライフワークと化しているシリーズ3作目。著者は一貫して、人間の理解から遠く離れた存在とはどのようなものか、そういった存在とコミュニケートする(戦争もコミュニケートの一種)とはどういう状況になるのか、ということを丹念に描いている。すごく我慢強いと言うか執念深いというか・・・。妙にくどくどしい文章、構成になっているのだが、後半でそれがどういう仕掛けなのかわかってきて、なるほどと腑に落ちた。しかし七面倒くさいことやるなー(笑)。1作目から読んでいると、主人公である深井零のキャラクターが変化してきていることがわかる。本文中でもブッカーにたびたび「人間だ」と言われるのだが、人間であろうとする、人間であることを覚悟していく方向へ変わってきている。これまでは愛機・雪風と同じような存在になりたいと願い、そして雪風と自分は別のものであると思い知らされた零がこんなふうに・・・と思うと大変感慨深いものがあった。ラストの力強さは今までにないものだと思う。実は東日本大震災が起きる直前から、余震の続く中で読んでいたのが、ここ最近読んだ小説の中では、個人的には一番勇気づけられた。なぜよりによって本作なのか自分でも謎だが。




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