3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2011年02月

『ロード&ゴー』

日明恵著
ベテラン消防隊員で優秀なドライバーの生田は、部署移動になり救急車の運転をしている。ある日、路上で倒れている男を収容したところ、男は救急隊員を人質にとり救急車をハイジャックした。同じ頃、警察とTV局に犯行声明が入った。犯人はハイジャック犯の家族を人質にとり、救急車に爆弾を積んでいるというのだ。著者の作品を読むのはかなり久しぶりなのだが、いやー上手くなったんだなー!本作に対しては全く事前情報持っておらず、表紙に救急車が描いてあるので、救急隊員が主人公のお仕事小説なのかなと読み始めたらいきなり和製「スピード」的展開。スピーディーに畳み掛けてくる。サスペンスとしては当然面白いのだが、救急隊員という仕事についての情報が、単なる説明ではなく小説のパーツとして活きている形でどんどん出てくる、いい職業小説でもある。救急に携わる人たちの気概やジレンマ、機構が抱える問題なども盛り込まれ、著者の熱意が窺える。よく取材してあるのだろうし、取材対象に対して誠実な書き方なんじゃないかなと。私は働くのはあんまり好きじゃない性質だが、自分の仕事に誇りを持って(現状厳しくても)とりくんでいる人たちの話は、やはり読んでいて気持ちがいいですね。




『製鉄天使』

桜庭一樹著
鳥取県赤珠村に根を下ろす製鉄会社の長女・赤緑豆小豆は、鉄を自在に操る能力を持って生まれた。中学生にしてレディース「製鉄天使」の総代総長となった小豆は中国地方統一をめざし仲間と共にバイクで爆走する。『赤朽葉家の伝説』のスピンアウト小説だが、本作単品で読んでも支障ないと思う。ラノベと文芸小説の間あたりを狙って書いたのかなという気がする(私はラノベ読まないのであくまで印象ですが)。少女マンガ的でもあるが、中心にあるのは恋愛ではなく(はかないものではあっても)友情、女性同士の関係であるというところが著者らしい。本作、男性はびっくりするほど存在感がないのだ。それなりに重要なキャラクターとして登場することは登場するが、ヒロインに最後まで併走できるのは仲間の少女たちでありバイク。子供の時代を残酷なくらいかっちり区切ってしまっているのが痛々しいと思ったのだが、最後にどんでん返しがあり一気にファンタジーへと突き抜けるところに、ほっとした。これ、もうちょっと前に書いた作品だったらこういう終わり方にはしなかったかもしれないなとも思う。こういう距離のとり方ができるようになったんだなーと感慨深いものが。80年代のパロディとしても面白かった。80年代的言葉遣いにちょっとイラっとするけど(笑)。




『奪い尽くされ、焼き尽くされ』

ウェルズ・タワー著、藤井光訳
父の死がきっかけで家庭も仕事もなくしてしまった男、けだるい夏休みを過ごす少女、義父への反感を抱える少年、移動遊園地に集まる様々な人々。主に、アメリカンドリームなどとうに失われた現代アメリカを舞台に、うだつのあがらない人たちの物語が描かれる短編集。アメリカ小説もここまできたかというくらいしょっぱい話ばかりなのだが、不思議と読んでいて落ち込まない。人生はまあこんなもの、という達観にも似たからっとした雰囲気がある。また、しょっぱいが不幸のどん底というのではなく、不幸さを客観視ししょっぱさを笑えるユーモアが感じられた。『茶色い海岸』や『下り坂』の、妻に去られた男たちの未練がましさ、かっこわるさは妙に心に沁みるし、『ヒョウ』での少年の所在無さと義父への敵意は切ない。『目に映るドア』は本短編集の中では大分明るい雰囲気だが、老人のちょっとした冒険と出会いに、世界が広がる可能性が感じられるからだろう。表題作はドラゴンや呪術師と戦うヴァイキングたちが主人公。しかし他の作品の登場人物たちと同じく、うだつがあがらずダルダルで哀愁が漂う。人生こんなもん、でもまあいいかという境地に至りそう。




『死者を起こせ』

フレッド・ヴァルガス著、藤田真理子訳
ボロ館に住む、失業中の3人の青年。隣に住む元オペラ歌手の女性ソフィアが、彼らの元に相談を持ちかけた。庭に突然ブナの若木が現れ気味が悪いというのだ。青年たちは木の下を掘ってみるがなにもない。しかしソフィアは急に失踪してしまう。マルク、マティアス、リュシアンという3人の青年歴史研究家たちが個性豊かで楽しい。単にキャラを立てているのではなく、彼らの行動の特性が事件解決への糸口になっているところが面白い。途中までは大分ふわふわした謎解きものかなと思っていたのだが、終盤で一気に畳み掛けてくるところが鮮やか。マルク達は年齢30台半ばらしくびっくり。てっきり20代かと・・・。全員言動が大人気ないこと甚だしい。元警官の叔父に対するマルクのつんけんした態度など、10代の男の子そのものだ。ヒステリックに見えることがあるかもしれないけど悪い子じゃないんですよ・・・。にぎやか(といっても主にマルクが一人で騒いでいるのだが・・・)な小説。文章はちょっと読みづらかった。フランスのミステリはちょっと癖があって読みづらいものが多いように思う。






『リせット』

 ある日大停電と共に、靴や衣服をそのままに人間だけが消失した。日照時間はどんどん短くなり、電気は復旧せず電池の力も弱まっていく。緊急用の発電機を備えたバーに逃げ込んだ、消失を免れた4人の人間。闇が人間を消し、対向するには光のそばにいるしかないようなのだ。彼らは町を脱出する手立てを考えるが。監督はブラッド・アンダーソン。
 バーに見知らぬ男女が集まってモンスター(的なもの)と戦うというところは、多分オーソドックスなホラー映画のパターンなのだと思う(あまりホラー映画見ないので印象ですが)。集まったのはニュースキャスターのルーク(ヘイデン・クリステンセン)、理学療法士のローズマリー(タンディ・ニュートン)、映写技師のポール(ジョン・レグイザモ)、バーテンの息子である少年ジェイムズ(ジェイコブ・ラティモア)。職業を見るとちょっと面白い集まりなので、これが伏線になっているのかと思ったら、そうでもなかったので拍子抜け。ローズマリーが怪我の手当てを的確にできるとか、そのくらいかな・・・。ポールが映写技師というのも、映画館から物語をスタートさせたかったという理由くらいしか思い当たらない。確かに、冒頭の映画館(映写室とか、人がいなくなったモールとか)のシーンは魅力的ではあるが。映写技師は、言うなれば、暗闇に光によって物語を映し出すお仕事だから、もっと何か意味があるのかと思ったのに~(笑)。
 あまり複雑な伏線といったものは考えず、わりと場当たり的なシナリオだと思った。暗闇がなぜ生まれたのか、消えた人たちはどうなったのか、記された謎の言葉など、謎だらけではあるがなげっぱなしで、基本的に「真っ暗なのこわいよ」という人間の本能的な恐怖に訴えて押し切っている。暗闇ちょう落ち着く・・・という人にとって怖い映画たりえているのだろうか。後半になると、人の心の弱さにつけこんだ攻撃が出てくるけれど、ちょっと意味づけが中途半端で蛇足な気がする。シンプルに「暗くて何が出てくるか判らないから怖い」という地点に徹してみてもよかったんじゃないかなー。




『再会の食卓』

 上海で夫のルー・シャンミン(シュー・ツァイゲン)と暮らすユィアー(リサ・ルー)の元へ、1949年に戦乱の中で生き別れ、今は台湾に暮らす元夫イェンション(リン・フォン)から手紙が届く。40数年ぶりに帰郷の許可が出、近々上海に戻るというのだ。はるばる訪ねてきたイェンションを戸惑いながらももてなすユィアー一家。しかしイェンションはユィアーを台湾に連れ帰りたいと考えており、ユィアーの子供たちは猛反発する。監督はワン・チュアンアン。
 既に夫や子供がいるのに生き別れた元夫が会いに来る、という結構な劇的シチュエーションなのだが、メロドラマ方向に振れることもなく、一貫して落ち着いたトーンの作品だった。ユィアー、シャンミン、イェンションという3人の男女のせめぎあいに対して、突っ込んでいくのではなく、少しひいた視線だ。彼らの傍にはユィアーとシャンミンの孫娘ナナがいるのだが、孫くらいの距離の視線とでも言えるだろうか。ユィアーの娘達はイェンションと共に台湾へ渡るという母の希望に大反対だし、イェンションとの間の子供である長男は、顔も知らない父親に対する反感を隠さない。彼らに比べると、ナナの立ち居地はニュートラルであり、祖母の気持ちも母親の気持ちもわからなくはない、という立場。ストーリー上、ナナの存在はそれほど必要ではないのだが、少しひいた目線を入れるために存在したのかなとも。親と子だけだとギスギスしがちというのもすごくよくわかる。
 ユィアーは「(シャンミンには)愛はない」とあっさり言ってしまうが、彼女に特に情がないというのではなく、(特に当時の)結婚はこんなものだという前提があるように思った。恋愛と結婚は別物とはよく言うが、ユィアーとシャンミンの関係もそのようなものだったのだろう(少なくともユィアー側は)。ただ、恋愛感情がないから情がないというわけではなく、長年一緒に生活したことで生まれる絆もある。だからこそユィアーは迷う。鷹揚に構えていたシャンミンが酒の席で真意を吐露し荒れる姿からも、そう簡単に割り切れるものではないとわかる。そりゃそうだよなーと思いつつ、そんなことはわかっていながらユィアーを連れて行きたいというイェンションの思いの強さが不思議でもある。今ユィアーと一緒になっても昔のように上手くいくとは限らないだろうが、やりのこしたことに決着を付けたくなるのかなーとは思った。
 一歩間違うとドロドロした人間関係になりそうだが、一触即発ではあっても殴り合いにはならない。一緒に食事をし、歌を歌うシーンは何かを共有しているような優しさも感じる。おそらく、3人が同じ動乱の時代を生きてきたこと、男性2人が(立ち居地は違えど)どちらも元軍人である、という共通体験が、彼らをいくらか近づけているように思った。娘達が「理解できない!」というのは世代の違いというのもあるんだろうなと。




『あしたのジョー』

  昭和40年代の日本。ドヤ街育ちの矢吹丈(山下智久)は強盗、かっぱらい、ケンカに明け暮れとうとう少年院へ。丈にボクサーとしての才能を見出した丹下段平(香川照之)は院内の丈に手紙を出し続けていた。院内でボクサーの力石(伊勢谷友介)に完敗し、丹下の教えを請う。そして出所後、丈はプロボクサーとしてデビューし力石との再戦を目指す。監督は曽利文彦。
 今年のマンガ・アニメ実写映画化作品といえば『STARBATTLESHIPヤマト』(正確には昨年末からだけど)、『GANTZ』があり、そして本作。全て清く正しい映画ファンにはどうなのよそれ・・・という目で見られていたが、個人的には本作が一番、(映画としてなのかどうか微妙なんだけど・・・)成功しているのではないかと思う。本作の原作は梶原一騎・ちばてつや『あしたのジョー』。むしろアニメの方が有名だと思うが、かなりの長さのある原作から力石戦をピックアップして無難にまとめていると思う。曽利監督は『ICHI』があまりにもあんまりだったので、本作どうなることかと思っていたが、ひとまずほっとした。
 ボクシングが素材となっているが、スポーツ映画ではなく漫画映画、少年漫画映画として作られていると思う。見得を切るようなアクションシーンのショットもストーリーの盛り上げ方も、少年漫画の文法に則っているのでは。ウルフのジョー攻略特訓で足元に練習相手のボクサーが死屍累々となっていても、力石の減量方法が死にそうでも、ジョーのノーガード戦法が戦略上ありえなさそうでも、少年漫画的にはOKというわけ。リアリティよりは漫画映画としての着地を目指したことが吉と出たのではないかと思う。逆に、漫画的な読み取り方、アニメの見方に慣れていない人は、見ていていやになるかもしれないが。ドヤ街の人々や子供たちはあまりにマンガ的演出でちょっと冷めたし、何しろ原作は長いのでストーリーはダイジェスト版もいいところ。ジョーと力石のライバル関係がわかればそれでいいというくらい。
 ただ、役者の体作りだけは徹底されており、それが生っぽさを与えている。特に伊勢谷の体の作りこみ、減量加減は凄まじく、計量シーンはCGじゃないよね?と目を疑うくらい。試合シーンに関しては、私はボクシングに詳しくないのでなんともいえないのだが、かなり真に迫るものはあったと思う。2人ともセリフのキレが悪いのが難点だが、キャラクターの雰囲気は出ているし動きのキレもよくかっこいい。伊勢谷の目のギラギラ感は印象的だった。あと意外と香川の動き(丹下がジャブをかますシーン等多少あるのだが)のキレがいい。バンテージの巻き方も手馴れている。さすがボクシングマニア。本作、香川が無性に楽しそうで微笑ましいです。よかったなー香川。
 なお、ドヤ街のセットが意外に力作。もちろん、『ALWAYS 三丁目の夕日』みたいな、昭和テーマパーク的な漂白された雰囲気は否めないのだが、カレーライス90円、オムライス100円、洗濯機が特価で6800円など、具体的な物価や世相がわかる演出がされているところが楽しい。劇場へ行ってわかったのだが、本作、キャスト目当ての若い女性客が多いのかと思ったら、リアルタイムでジョーを読んだり見たりしていた中年~年配男性客が結構来ているのだ。そういう方たちにとっては、懐かしさを感じる演出だったかもしれない。






『五番目のコード』

D・M・ディヴァイン著、野中千恵子訳
帰宅途中の女性教師が何者かに襲われた。命は助かったものの、現場には棺の絵のカードが残されただけで犯人は逃走。そして同一犯と思われる連続殺人が起きた。新聞記者ビールドは犯人を追う。『兄の殺人者』といい本作といい、著者の描く主人公は異性関係で思い悩みがちなのだろうか(笑)。ビールドの女性に関しては優柔不断、正義感は強いがいまいち踏ん張りがきかない(今カノと別れよう別れようと思いつつ、楽な方へ流れてしまう様が妙にリアル)、若干短絡的なキャラクターが面白い。他の登場人物も、チャーミングな部分といやな部分両方の造形が上手い。シリーズ探偵を持たない主義の作家だったそうだが、1作の中できちんとキャラクター造形し生き生きと動かすことができる、そしてキャラに頼らんでもプロットが強いんだよ!という自信のある人だったんだろうなと。ある女性に対する「中性」という揶揄は辛らつ、かつ当時の男女観が垣間見られて切なくなりますが・・・。犯人はまあ順当にいけばこの人かな、という部分はわりとすぐに想像がつくのだが、主人公がそこにいきつくまでのミスリードに工夫があって面白かった。同著者の『兄の殺人者』と同じく、主人公の主観、先入観を上手くミスリードに使っている。最終的に決め手となる証拠にはなるほど!と。大技ではなく小技の連鎖で読ませる。






『家蝿とカナリア』

ヘレン・マクロイ著、深町真理子訳
人気女優から新作舞台の公開初日に招かれた、精神分析学者ベイジル・ウィリング。しかし舞台上で死体役の男が殺される事件が起きた。劇場近所の刃物砥ぎ店に何者かが押し入り、籠のカナリアを逃がした事件と関係はあるのか?ウィリングは真相解明に乗り出す。1942年に書かれた作品。精神分析学者が探偵役なので容疑者の心理分析もされるのだが、この部分はさすがに古さが感じられた。蝿とカナリアの絡み方も今となってはちょっと眉唾なのだが、これも古典作品ならではの面白さといえば面白さ。心理分析よりむしろ、本格ミステリとしてのロジックの部分、伏線のさりげなさ(一ヶ所、あーそこかー!と呻ったところがあった。ちょい見せすぎて読んだことすら忘れてたよ!)で読ませる。舞台は第二次大戦下のニューヨークで、ふとしたところで世相が現れるのも興味深かった(空襲を避ける為、窓にテープをはったりしているし点灯禁止令みたいなものも出ていたみたい)。物資が乏しくなったとは言っても劇場もレストランもちゃんと営業していて、庶民にはあんまり危機感はなさそう。食料も貧しいというほどではないみたいで余裕も感じる。




『リリア4-ever』

 16歳のリリア(オクサナ・アキンシキ)の母親は彼女を一人残して、恋人とアメリカへ行ってしまった。手持ちの金はなくなり、元々折り合いのよくない伯母にも見放され、リリアは追い詰められていく。監督はルーカス・ムーディソン。2002年の作品となる。
一部で非常に評価が高いが日本未公開の本作、北欧映画の特集上映「トーキョーノーザンライツフェスティバル2011」で上映されるというので、気になって駆けつけた。で、実際に見ることが出来たわけだが、正直なところ、絶賛とまではいかなかった。単に私の映画を見るときのツボにはまらなかっただけかもしれないので、どのへんが絶賛されているのか気になるところ。ちょっと素材を直球丸投げしすぎているんじゃないかなーと思ったので。
 リリアが母親に捨てられるところから始まり、引越しを余儀なくされるわ、お金なくなるわ、友人に裏切られるわで絵に描いたような不幸のオンパレード。最終的には、困窮した若い女性が往々にして陥りそうな状況に。典型的な女性の転落劇なのだが、ヒロインが非常に若く(まだ高校生)で、自分のことも世の中のこともろくにわからないまま状況が悪くなってしまう、自分の意思ではないところで動かされてしまうというところが、絶望感を深めている。寒さとお金のなさが生々しい(天気悪いし実際寒そうで)で気がめいる。
 リリアがどうこうというよりも、彼女を取り巻く環境、自治体レベル、国レベルの貧しさを突きつけられているようでどんより気分になった(設定上は旧ソ連那のどこかということになっており、具体的な地名は不明)。リリアが学校に来なくなっても学校側からのフォローはないし、福祉局も何もしない。福祉面で何らかの手当てを受ける方法はあるのかもしれないが、彼女がそれを知っているという様子は、映画内では見られない(学校や福祉局からのフォローもあったのかもしれないが、仮にそうだとしても受けなかったということだろう)。リリアは多分施設に入る等はしたくないのだろうが、そこは堪えればいいのに・・・と思わずにいられなかった。ないしは、国は何やってるんだよ!と。
 リリアは自立して生きようとしているが、その為には年齢も資本力も足りない。やる気が現実に及ばないのが切なかった。何をやるにも力が足りない、という無力感に打ちのめされそう。不幸が玉突き状態すぎて、ドラマとしては大分荒削りだなという印象だった。手ブレ風カメラの、ヒロインの心情を表すかのような荒々しさといい、表現したいものが先走りすぎているように思った。なお、音楽は当時のロシア・東欧地域の若者文化を感じさせるものでちょっと面白い。




ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ