3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2010年12月

『ハーモニー』

伊藤計劃著
21世紀後半、世界中での戦争により混乱に陥った後、生命保全の目的から医療福祉が発達した社会。人々は最早病気になることはなく、世界は「やさしさ」に満ちていた。そんな過剰な優しさに満ちた世界に息苦しさを感じる少女トァンは、同級生ミァハの導きにより自殺を試みるが生き残ってしまう。そして13年後、トァンは世界保健機構の生命監察機関に勤務していた。世界各国で同時に多数の自殺が起こるという事件を捜査することになるが。『虐殺機関』の後の時代の物語ということになるが、ユートピアがいきすぎたディストピアSF。思いやりや優しさは絶対に善なのか、私の身体はどこまで私のものなのか、そもそも「私」という概念は必要なのか。空気を読むことが要求される社会に中指突き立てる・・・かというと必ずしもそうではなく、この方向に進むならこうなるだろうという諦念にも似たものを感じた。この物語の中で目指された世界では、おそらく「物語」というものはもう必要ないのだろう。読んでいて辛い。こしゃくな形式で書いているなーと思ったら、なぜこの形式なのかということが最後に明らかになりまた辛い。本作が著者の遺作長編となるのだが、ぎりぎりの状態でよくここまでたどり着けたなと思う。文庫版で読んだが、解説も痛切だ。




『リトル・シスター』

レイモンド・チャンドラー著、村上春樹訳
私立探偵マーロウの元にオーファメイという女性が、兄を探してほしいと依頼にくる。しかし彼女には色々と隠していることがありそうだった。とりあえず依頼を受けるマーロウだが・・・。村上春樹版チャンドラーの3作目。本作は旧題『かわいい女』。これは原題の方がしっくりくる。3人の女性が登場するものの、「かわいい女」だと皮肉がすぎる気がする。訳者あとがきでも言及されているように、本作はチャンドラーの作品としてはあまり出来のいい方ではない。どこかいびつなのだ。女性たちが皆マーロウに惚れる(ようなそぶりを見せる)というのはお約束ではあるが、話がすぐに横に逸れ、終盤で一気に畳みかけるのでどうも無理がある。ただ、ちょっとした所で文章がしゃれていたり、マーロウが自分の職業について言及するところなど骨身にしみる部分があったりと、駄作と切って捨てるにはしのびない。女性たちのメッキが徐徐に剝がれ荒廃が垣間見えるのは痛々しかった。まあファンの欲目でしょうが・・・。




『相棒 劇場版Ⅱ 警視庁占拠!特命係の一番長い夜』

 警視庁本部内で会議室が占拠され、同席していた幹部12人が人質となった。しかし犯人からの要求も動機もはっきりしない。たまたま犯人と遭遇した神戸尊(及川光博)と彼からの連絡を受けた杉下右京(水谷豊)の奇策により犯人は元警官の八重樫哲也(小澤政悦)と判明。機動隊が強行突入した時には、反撃した幹部との乱闘の末、銃が暴発し八重樫は死亡していた。事件は終わったかのように見えたが。
 言わずと知れた人気TVドラマシリーズの劇場版第2作。1作目は意気込みが空回りしているような印象を受けたが、本作はもうちょっと落ち着いた、TVシリーズの流れを汲んだ路線。前作よりは面白いしミステリとしても結構きちんと伏線回収していると思った(影の~とかは例によってまたやりすぎだなぁとは思ったが)。スケールを広げすぎなかったのが吉と出たか。ただ、やっぱりTVドラマとして作られているなぁという印象は否めない。映画館のスクリーンで見る意義はあまり感じられなかった。映画のサブタイトルが殆ど詐欺(笑)なのも御愛嬌。警視庁占拠の後が本作の本筋だ。
 映画の出来とは別問題として、本作は「相棒」シリーズ上最大といってもいいくらいの事件が起きる。この事件によって、多分次のTVシリーズ(正式発表されてないけど多分やるでしょう)はこれまでの流れとはだいぶ変わってくると予想できる。特命係の警察内における位置づけが大きく変わるだろうし、特命係の存在自体が危うくなるかもしれない。また思い切ったことをやるなぁと思う一方で、スタッフは本気でこのシリーズを畳みにかかっているんじゃないかと思った。無駄に延命するよりはきちんと畳んでいく方がいいとは思うが、これどうやって畳むんだろう・・・。ラストはTVシリーズを見ていない、今後も見る予定がない人にはなんだこりゃ!という感じだろうが、TVシリーズのファンにとっては、非常に不穏。TVシリーズを見ている・今後も見る人のみが対象になっているという点で映画としては評価しにくいのだが(笑)。
 なんにせよ、本シリーズのファンなら見ておいた方がいいだろう。なお、サービスショットなのか神戸くんとみんな大好き大河内さんのシャワーシーンがあります。あと、窓辺にちょこんと飛び乗る水谷豊がキュート。




『クリスマス・ストーリー』

 クリスマスを前にして、ヴュイヤール夫妻の元に子供たちが集まってきた。今年は5年前に出入り禁止となった二男アンリ(マチュー・アマルリック)もやってくるというので、彼を追放した張本人である長女エリザベート(アンヌ・コンシニ)は気が重い。しかも母ジュノン(カトリーヌ・ドヌーヴ)は白血病に冒されており、エリザベートの息子ポールか、アンリからの骨髄移植が必要だというのだ。監督はアルノー・デプレシャン。デプレシャン作品の集大成的作品だと思う。
 クリスマス映画ではあるが、全く心温まる方向にはいかないのがデプレシャンらしい。不仲な人は不仲なままだし、むしろ人間関係がよりややこしくなる局面も。それで本当にいいの?と言いたくなる人たちもいる。しかし、大団円などなくても物語は進むのだ。
これは、不和もそれはそれとして飲み込んでしまう、家族という形の不思議にもよるものだろう。ジュノンとアンリがビニールカーテンごしに視線を合わせる。2人の間には相互理解があったようにも思えるが、お互いにうまがあわないままだろうし、許したわけでもないだろう。それでも家族は家族なのだ。家族であることと相手を好きか嫌いかということは、ほとんど関係なく成立している。  また、家族同士にしかわからない家族の関係というものがあるなと思った。エリザベートはアンリを蛇蝎のごとく嫌っている。アンリはお金にだらしなく身勝手で家族内でも厄介者扱い。対してエリザベートは完ぺき主義のきらいもある性格なので、そりが合わないのは頷ける。しかし家族から追放というのは過剰すぎるように思える。彼女がなぜそんなにアンリを嫌うのか、具体的な説明はあまりされない。また、アンリが過去に家族に対してしたことについてもそれほど説明はされない。そのほかの家族の来歴についても、多分こんなことがあったんじゃないかと推測される程度だ。それは家族の間でしかわからないとでもいうように、過去のエピソードの肝心な部分、具体的な部分は映画を見る側には明示されない。
 そんな中途半端な見せ方なのだが、各登場人物のキャラクターがしっかり立ち上がっていてとても面白い。ちょっとした言動に人柄が見え隠れする。特に印象深いのは、エリザベートの息子ポール。周囲となかなか打ち解けられない少年なのだが、やはりアウトサイダー的なアンリにはぎこちなくだが懐く。アンリの方も、ポールに対してはそれとなく気を遣っている。ポールが自分の居場所を見つけたと思われるラストには、ちょっとほっとした。全くの部外者として登場し、勝手に楽しんで勝手に去っていくアンリの恋人もユニーク。
 家族全員が音楽をたしなむという設定から、音楽が多用されている音楽映画でもある。音楽の幅はクラシックからジャズからアフリカンミュージックぽいものからクラブミュージックまでという広いもの。でもどれもその場面にしっくりきていて、監督の趣味の良さがうかがえた。




『フォロー・ミー』

 会計士のチャールズ(マイケル・ジェイストン)は妻ベリンダ(ミア・ファロー)が浮気しているのではないかと思い、探偵クリストフォルー(トポル)に依頼し妻を尾行させる。クリストフォルーに尾行されていることに気付いたベリンダは怪しむが、彼は彼女をそっと見守り、一緒に街を歩き回り、彼女を元気づけようとする。監督はキャロル・リード。
 午前十時の映画祭で鑑賞。結婚する前はあんなに楽しかったのに・・・というのはよくありそうな話だが、じっと見つめて黙って後を追っていればいいというわけでもないよなぁ・・・。むしろ言葉をつくした方がいいような気がするが。もっとも、相手を知ろうとする姿勢が常に必要ということだからしゃべる・黙るはあんまり関係ないか。チャールズはベリンダに色々なことを教えるが、自分自身が彼女をどう思っているのかは明言せず、彼女が何を思っているのかもきちんと考えようとはしなかった。チャールズにとってベリンダは自分が教育する相手、自分の世界に迎え入れようとする相手であって、自分が相手の世界に飛び込んでいくという発想はなかった。チャールズはイギリスの上流社会の出であり、ヒッピー経験もあるアメリカ娘のベリンダが所属していた世界は、彼にとっては多分低俗なのだ。自分がこんな人と結婚していたらそりゃあ腹立つだろうな・・・。
 ベリンダとクリストフォルーは惹かれあうが、かといって本作が三角関係かというとちょっと違う。あくまでベリンダとチャールズが別れるか別れないかなのだ。ベリンダとクリストフォルーの関係は2人が何者でもない状況での、かりそめのものだ。だからこそ2人の街歩きは楽しかったのだろう。
 根強いファンがいる作品と聞いていたが、確かに人によってはすごく大事なものになる作品なんだろなと思った。かわいらしさと切なさがある。ただ、個人的にはいまひとつ乗れなかった。物語がどうこうというよりも、クリストフォルーのしゃべり方と顔つきがべたっとしているのが気になってしょうがなく、だんだんうんざりしてきてしまった。ただ、最後にクリストフォルーが本気でベリンダに向かって語るところだけは、常に思わせぶりだった彼の地が垣間見えるようで、少し好感が持てた。



『アブラクサスの祭り』

 元バンドマンだが鬱病のせいで活動を断念、療養を経て、今は僧侶として小さな町で暮らす浄念(スネオヘアー)。高校で講演を頼まれるが、緊張のあまり大失敗し、檀家からもひんしゅくをかってしまう。落ち込んでいた浄念だが、ある日この町でライブをやりたいと言い出し、妻の多恵(ともさかりえ)や住職・玄宗(小林薫)は困惑する。監督は加藤直輝。
 スネオヘアーのちょと癖のある顔つきが、浄念の思いついたら即行動、真っすぐだが挙動不審な人柄に活かされていたと思う。一生懸命は一生懸命なのだが、過剰に集中してしまう感じがよく出ていた。本職ミュージシャンだから当然ギターもボーカルも板についており、ライブシーンも危なげない。ただ、バンド時代の音楽性と僧侶になってからの演奏とが大分方向性違うんじゃないかなという気がしたが。
 また、妻役のともさかりえがいい。『ちょんまげぷりん』の時も思ったのだが、若い子供のいる母親の役が上手い。子供と絡む演技がごく自然で、お母さんとして出来過ぎでもないし出来なさすぎでもない、丁度いい塩梅。ふがいない夫を支える役柄だが、健気という印象にはならないところに好感を持った。妻役といえば、玄宗の妻役の本上まなみもよかった。楽天的で懐の広い女性を好演していたと思う。小林薫の妻役としては若くてきれいすぎないか?とは思ったが。
 浄念は、多分身近にいたらはた迷惑な人なんだろうと思う。情緒不安定だし、思いついたら即行動で先が読めない。ただ、彼はそういうふうにしか振る舞えない。彼自身、自分の弱さに振り回されそうになりつつ、悪戦苦闘しているのだ。そんな彼が自分の居場所・あり方を確かめるまでの物語だ。ただ、個人的には浄念本人の苦しみよりも、彼の理解者だった和菓子屋の主人・庸平(ほっしゃん)のエピソードの方が立体的に立ち上がっていたように思う。カラオケの席で浄念にかけた言葉に、彼の優しさが表れていてぐっときた。その優しさ故、彼がその後選んだ道には胸を突かれる。また、お祓いの後で庸平の息子と浄念がかわす会話も、印象深い。




『エリックを探して』

 ケン・ローチ監督待望の新作。郵便局員のエリック(スティーヴ・イヴェッツ)は離婚した2人目の妻の連れ子、ライアン(ジェラード・カーンズ)とジェス(ステファン・ガンブ)と3人暮らし。離婚した1人目の妻リリー(ステファニー・ビショップ)との間に一人娘サム(ルーシー・ジョン・ワトソン)がいるが、エリックは今もリリーに未練がある。ある日、ある事情からエリックはパニック状態になり交通事故を起こしてしまう。落ち込んでサッカー選手エリック・カントナのポスターに愚痴をこぼすエリック。すると彼の前に、カントナが現れた!
 ケン・ローチといえば負け犬労働階級映画だと思っていたのにこんなにハッピーな映画だとは!どういう心境の変化があったのだろうか。そして本作、思っていた以上にサッカー映画であり、何よりカントナ映画である。監督の、そしてイギリス人のサッカー、カントナに対する愛が満ち満ちていてぐっとくる。サッカーでなくてはならない、カントナでなくてはならない話にちゃんとなっているのだ。そしてカントナ本人が妙に味があってキュート。「ノン!」講座には笑ってしまった。
 人生落ち目の男の眼の前にカントナが現れる、という突飛な設定。このカントナはどうもエリックの幻覚らしいという演出がされているものの、本物だろうが幻覚だろうが、あまり関係ない。エリックが、カントナへの敬愛を通して自分をもう一度見つけ出すというところが大事なのだ。ファンタジーが人の心を支える物語だとも言えるかもしれない。そういう物語を、やはりファンタジーである映画として見せる、というところに映画に携わるものとしての監督の意思が見えるように思う。
 エリックはダメな男というよりも、心の弱い男なのだろう。血のつながりのない息子2人を養い、仲間からも愛されているから、決してまるでダメというわけではないと思う。悪い人ではないが、重い責任を受け入れることが人一倍苦しいし、人に対して強く出られない、肝心な所で踏ん張れないタイプの人だ。彼がリリーに対して、未練はあるが強引によりを戻そうとはしないところにも、人の良さが垣間見えた。そういう面があるので、情けない男だけど見ていると応援したくなる。この匙加減が上手かった。
 ケン・ローチ監督は労働者階級の生活を描くのがやはり上手い。今回は中年男の仲間同士のやりとりが軽妙で楽しかった。ふさぎこむエリックを元気づけようと仲間が順番にジョークを聞かせにくるところとか、全員で自己啓発本の内容を実践してみるところとか。また、マンチェスター・ユナイテッドを巡るパブでの言い合いと、怒って飛び出した仲間を呼び戻すための戦略など、もうニヤニヤしてしまう。
 エリックの家族の造形も細やかだなと思った。下の息子は中学生くらいなのだが、長男と比べるとやはり幼く、ちょっとパニックになるとエリックに対する呼び方が「パパ」に戻ってしまう(笑)。2人の部屋のポスター等から趣味嗜好がちゃんとわかるところもよかった。また、元妻のリリーも、自立した女性として(自立しようと必死で頑張った痕跡が見えて)魅力的だった。
 終盤の展開がユルいといえばユルいのだが、お祭り気分で楽しかった。何より、明日もがんばろう!と思える作品。ケン・ローチがこういう作品撮るようになったのかと思うと感慨深い。これもサッカーの魔法か。




『君を想って海をいく』

 イギリスに住む恋人を追って国を出たクルド難民のビラル(フィラ・エヴェルディ)。フランスの港町カレまでたどり着くが、イギリスにわたるにはドーヴァー海峡を横断しなくてはならない。ある事情によりトラックでの密入国ができないビラルは、泳いでドーヴァー海峡を渡ろうと、スイミングクラブのコーチ・シモン(ヴァンサン・ランドン)のレッスンを受ける。ビラルの目的を知ったシモンは、無謀な企てだとやめさせようとする。監督はフィリップ・リオレ。
 フランスで密入国者をかくまうことは罪に問われるということは知っていたが、思っていたよりシビアに処罰されるのでちょっとショックだった。ボランティア活動もやめさせられたりするのか・・・。本作、原題は『WELCOME』。ビラルやその仲間にとっては皮肉極まりない題名だ。国の保安と個人の良心との兼ね合について考え込んでしまった。
 スーパーでビラルと密入国仲間とが入店を断られている様子を見て、ビラルの元妻は店員に腹を立てる。しかし、シモンがビラルを自宅に泊めており、ビラルがクルド人であると知ると、罪に問われるから助けるべきではないと彼に忠告する。シモンの元妻は決して冷たい人でも非倫理的な人でもないし、シモンのことを本気で心配している。しかし、多分これがフランスの多数派、「世間」なのだろう。もうちょっと下世話な世間としてシモンの隣人も登場するが、彼も特別意地が悪い人というわけではないのだと思う。公的な正しさと個人の良心との兼ね合いが、彼/彼女らの中でどうつけられているのか垣間見えてちょっと面白い。自分が彼/彼女の立場でも同じことをやりそうだなぁと思って居心地悪くもなる。
 シモンはビラルに、あくまで個人的に関わる。シモンはビラルの背景についてそんなに興味は示さない。彼にとっては、ビラルは難民である以上に水泳の教え子なのだ。また、シモンがおそらく社会から半ばドロップアウトしているというのも、彼がビラルに積極的に関わっていった一因だろう。シモンはかつては水泳の名選手だったが今はしがない水泳コーチで、妻は去り、友人らしい友人もいない。もし社会的な立場や、自分が所属する集団との強い繋がり、守るべき家族などがいたら、ここまで踏み込めなかったのではないか。
 フィリップ・リオレ監督は、個人の良心ができることの限界を、常に見据えているように思う。監督の以前の作品である『パリ空港の人々』も『灯台守の恋』も、心温まるファンタジックな部分がある。しかし後味は常に苦く、観客に都合のいい夢は見せない。監督の作品、私は結構好きなのだが、日本ではあまり公開されないのが残念。たしかに地味な作風ではあるが、渋くていいのになぁ。




『白いリボン』

 1913年、北ドイツの小さな村で、医者が落馬し重傷を負う事件が起きた。通り道に針金が張られており、馬がそれに躓いたのだ。翌日には小作人が男爵家の納屋で事故死した。更に収穫祭のころ、男爵家の長男が行方不明になった。監督はミヒャエル・ハネケ。2010年カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作。
 ハネケ監督はこんな端正な映画も撮るんだなと妙に感心した。むしろこちらの方が本領だったのかもしれないが、ショッキングな映画を撮るというイメージばかり先行してしまっていたので。とてもきちんとした佇まい。ドイツのある時代を舞台に、あるきざしを描いているが、人間の心性としてどの時代、どの場所にも当てはまる。たとえば現代の日本でも同じようなことは起こりうる。だからこそ怖い。
 子供たちのまなざしや、秘密めいた微笑みは不気味だし、愉快ではない。しかし最も不愉快なのは、家庭内で暴君であったり独善的であったりする男爵や牧師の立ち居振る舞いだ。特に牧師のひとりよがりな厳格さ、狭量さにはかなりうんざりした。自分は正しいと信じているところがまた嫌。
 子供は大人を見て育つ、というのは当たり前なのだが、大人が表面には出さないようにしている偏見や嫉妬、憎悪も子供は察して、そういうもの、として取り込んでいく。大人がよかれと思ってやったことが、子供にとってはたして本当に良いことだったのか、クリーンな状態と思われるものが本当にクリーンなのか、全く安易に判断できない。有害と思われるものを取り除いていくことで、却っていびつな状態にしてしまうということもある。有害「と思われる」というところが怖いのだ。妙なことは出来ないとひやりとした。男爵が犯人探し宣言をするシーンでは、あああそれをやっちゃダメ~と頭抱えそうに。
 不愉快な大人たちの中、ごくまっとうな普通の親らしき、エヴァの父親を見てほっとした。まあこういう普通の人もある「空気」に加担しちゃったりするから怖いのだけど・・・。若いカップルの存在が、陰鬱な雰囲気に生気を添えていた。ダンスのシーンやドライブのシーンなど、ハネケ作品とは思えない幸福感(すいません偏見です)がある。
 



 

『武士の家計簿』

 原作はノンフィクションであって小説ではないのだが、確かに物語化したら面白いだろうなとは思った。監督は森田芳光。江戸時後期の加賀藩。幕府の会計部署である御算用者として、代々仕えてえてきた猪山家。特に八代目・直行(堺雅人)は、そろばん馬鹿といわれるほど算術が得意でその腕をかわれて出世する。しかし出世するにつれ出費もかさむ武家社会で、猪山家の家計は火の車だった。家計の状態に気付いた直行は借金返済の為に家財を売り払い倹約生活を開始する。
不況のこのご時世にぴったりの題材なのだが、肝心の家計簿が出てくるまでに結構時間がかかる。当時の時代背景や御算用者の仕事の様子などを説明していくためなので仕方ないかなとは思う。御算用者の勤める部屋が、まさに会社の会計部署という趣で面白かった。ちゃんとお茶配ったり、墨をひたすらする係の人がいたりするのだ。物語そのものは、元がノンフィクション(猪山家の家計簿の解説)ということもあるが、それほどめりはりがあるものではないのだが、料理や食事の風景(朝夕の食事や弁当)など、生活感が感じられる部分は魅力があった。
 直行は、武士としての体面を捨てても借金返済という実利をとる、世間の目を気にしない合理的な面を持った人。しかし同時に、武士として藩に仕えるという役割を捨てることはできず、時代には乗り遅れる。個人の性格もあるのだろうが、時代が変わっていく狭間に生きた人の、時代を先取りしていた部分と保守的な部分が同居している感じが面白い。彼の息子は更に時代にのっていき、父親にもどかしさを覚えたりもする。このへんのギャップは、普遍的な父子の物語的だった。
 ところで、本作のように2世代にわたる物語だと、登場人物は当然年齢を重ねていく。同じ俳優が若い頃から晩年まで演じる場合、老けメイクをすることが多いが、老けメイクって難しいなー。途中で俳優変える方がいい場合もあるのではないかと思った。人にもよるのだろうが、堺雅人はあんまり老けメイクがしっくりこないみたいだ。妻役の仲間由紀恵は、同じように年齢を重ねる設定なのに殆ど老けメイクしていない。それなのに仲間の方が何かしっくりくるのが不思議。彼女の、ちょっと現実離れした雰囲気のせいもあるのだろうが、下手に老けメイクするよりもいい。




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