3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2010年11月

『密告者』

 第11回東京フィルメックスにて。犯罪組織の摘発に失敗し、密告者に重傷を負わせてしまったリー刑事(ニック・チョン)は罪悪感にさいなまれつつ仕事に邁進していた。新たな密告者を探すリーは、出所したばかりで妹を借金のかたにヤクザにとられた細鬼(ニコラス・ツェー)に目を付ける。細鬼は報酬目当てでリー刑事に協力するが。監督はダンテ・ラム。
 ダンテ・ラム監督作品を見るのは初めてなのだが、人気があるのもわかる。エンターテイメントとして華があるのだ。しかしその一方でかなりくどいなという印象も受けた。この濃さは好みが分かれそうだ。畳み掛けるようなアクションも濃いし、漂う情感も濃い。それは余分なんじゃないかなーという要素もてんこもりにしてあるのだ。リーと社交ダンス教室のエピソードは本筋の伏線になっているのかと思ったらそうでもなく、リーの悔恨という感情をより上塗りする、悔恨ダメ押しの為の要素だ。また、アクションシーンに関しては、廃校での一連の格闘シーンはセッティングも撮影の仕方も全てが過剰でくどいという印象。もうちょっとあっさりとして!とも思ったが、あっさり撮ると本作の面白さは半減しちゃうんだろうなー。良くも悪くもこってこてさが魅力だと思う。
 泥臭いことをフルスピードでやっているような映画で、展開は速いしすごく面白い。余韻は余り残らないが。なぜかカーアクションが盛りだくさんなのがうれしかった。ストーリー上はそんなに必要でもなさそう(むしろ肉弾戦の方が得意そうだし)なのだがなぜだろう・・・。一応、細鬼がカーレーサー志望だったので強盗の運転手に抜擢という設定はあるのだが、前半の頭文字Dばりのカーレースシーンはあんまり必要じゃないと思うんだよな・・・。
 アクションが非常に痛そうなのだが、これは正しいよなー。アクション映画やるならやっぱりこれくらいの流血・どつきあいをしてほしい。戦い方が全員かなり臆面なく汚いというか、しぶといところも面白かった。女性が積極的に戦っていくところは、その末路はともかく好ましい。
 ところで、ギャングの仕事(強盗など)には銃器、復讐や制裁には刃物というふうに獲物を使い分けていたように思うのだが、これは香港ギャング映画のルールなのだろうか。飛び道具の方が楽だろうなという場面でも刃物使っていたりするので。
 



『夏のない年』

 第11回フィルメックスにて。30年ぶりに故郷にやってきた人気歌手アザム。幼馴染とその妻と一緒に夜釣りに出るが、行方不明になってしまう。現在と過去が交錯し、彼らの記憶が紡がれる。監督はタン・チュイムイ。日本で公開されることは珍しいマレーシア映画。
 前半の現代のシーンはぼんやりとした印象(ほとんど夜の情景だからというのもあるけど)なのだが、過去の情景は鮮やか。記憶の中の方が全部はっきりと見え、生々しい。子供時代の記憶が妙に鮮明ということは実際にあるので妙に納得。この、子供時代の記憶が鮮明であるというのは、鮮明であるように自分内で演出し、上書きしているからだという側面もあるだろう。最近の記憶はあまり劇的にはならない。演出度が低いのだ。この、人間の記憶のムラのようなものを捉えようとしている作品だったと思う。
 本作は監督の故郷の漁村で撮影されたそうだ。出演者も、冒頭で出てくるメインの3人以外は村の住人。監督の親戚やその知り合いといった人たちも含まれている。監督の思い出をベースにしていることで、より人の記憶っぽさが出たのではないかと思う。日本人である私達にとってはエキゾチックな村であったり森であったりするのだが、マレーシアの人にとっては、とても懐かしい風景なのだとか。 
 実は見ている間ものすごく眠くなってしまって、ところどころ記憶がとぎれた。退屈なのではなく、心地いいのだ。音の使い方も心地よさを強めていたように思う。音楽はエンドロール曲以外は使われておらず、自然音のみなのだが、音の広がりが感じられる。ざわめきを聞きながら眠りに入っていくのが、寝ちゃいけないんだけど気持ちよくて・・・。ただ、音の使い方はかなりメリハリがあるように思った。音にインパクトを持たせる部分と、無音の部分との対比が際立っている。この、音の強さがシーンによってまちまちというのも、記憶の中の情景らしいなと思った。




『ミスター・ノーバディ』

 フィルメックスにて鑑賞。2092年、世界最高齢の120歳であり、最後の「死ぬ人間」であるニモ。病院のベッドの上で、彼は自らの人生、様々な岐路にたったこと、そしてそれぞれの岐路の行く末を思い起こす。『トト・ザ・ヒーロー』『八日目』のジャコ・ヴァン・ドルマル監督によるファンタジー大作。映画って素敵!と心底思える、映画らしい映画だった。
 ニモの頭の中で、人生の岐路に立ったとき、こうしていた場合、と、ああしていた場合、2つのパターンが再生される。そしてその2つのパターンの先の人生でまた岐路に立ったときにも複数の選択肢が・・というふうに人生の可能性を再生しまくる、とてもボリュームのある作品。時間軸、そして複数の人生が入り乱れる構成なのだが、見ていて混乱しないし、長さ(2時間越え)を感じない。編集がすごく上手いと思う。監督の話によれば、構想含めて10年くらいかかった作品だが、編集だけでもかなりの時間をかけたそうだ。『八日目』でもストーリーテリングが上手いとは思ったが、今回は構成力も際立っている。
 選択肢はいくつもあるのだが、どれを選択しても何らかの不満はいずれ生じ、やり直してもやり直してもこれがベスト!と思える道には辿り着かない。人生の可能性を提示しまくることで、却って人生の有限さ、はかなさが浮かび上がってくる。雰囲気としては『脳内ニューヨーク』と同系統いうか・・・。どの選択が正解かなんて最後の最後にならないとわからない、人生を進めるには選ぶしかないのだ。ポジティブなんだかペシミスティックなんだかわからない。
 成人したニモを演じる、主演のジャレッド・レトをはじめ、役者が皆好演している。特にティーンエイジャーのニモ役の子がナイーブそうでかわいい。ニモの父親役がリス・エヴァンスというのは意外だった。また、女優陣も魅力的。いわゆる直球の美人ではないが魅力があり、それぞれタイプが違うという人選が上手いと思った。
 ところで子供のニモに、離婚する両親が「パパとママとどっちにする?」と聞くのだが、ドラマとかではよくあるシチュエーションだけど子供にとっては酷だよな~。そんな選びようがない(選べたとしても遺恨が残る)選択を子供にさせるなよ~と思ってしまう。この質問が子供にとっていかにトラウマになるかというお話でもあったかも。




『海上伝奇』

 第11回フィルメックスにて鑑賞。ジャ・ジャンクー監督作品。『四川のうた』と同じく、インタビュースタイルのドキュメンタリーだ。本作では年齢も性別も異なる18人へのインタビューにより、上海の近代史を振り返る。共産党が人民解放した頃からの話が主だろうか。撮影がとても美しい作品。
 (本人というよりも親が)政治家や実業家などそれなりのポジションのいた人の話が多いからかもしれないが、親が暗殺されたとか処刑されたとか、結構血なまぐさい話がぽんぽん出てくる。車に乗っていたら隣に座っていた父親が射殺されたという話など強烈。革命の暗い面が垣間見える。あれだけ人口多くて国土が広いと、一気に体制変えようとすると乱暴な形にならざるを得ないのかもしれないが、無茶やるなぁという印象が強い。それをのりきってしまう市井の人々(市井とは言いにくいポジションにあった人々も出てくるが)もすごいが。
 ホウ・シャオシェン監督をはじめとする映画監督や、当時活躍した女優達へのインタビューが目立つのが楽しい。ホウ・シャオシェンへのインタビューは台湾の山を走る電車の中で行われており、風景が美しかった。台湾映画の中の風景にはいつも心惹かれるのだが、この電車にも乗ってみたくなった。
 また、ミケランジェロ・アニントニオーニ(だったと思う)が中国でドキュメンタリー映画を撮影した際の案内役だったという男性の話がちょっと面白い。当時、中国を海外に紹介するといったテーマで、大物監督が中国で撮影するという企画があったらしい。抜擢されたのがアントニオーニだったが、彼は案内役が紹介する近代的な工場や施設には関心を示さず、昔ながらの住宅や茶屋ばかり撮っていたそうだ。アントニオーニは外の目から見た中国らしさ、異国情緒みたいなものに関心があったのだろうが、現地の人にしてみたら、せっかく発展してるんだからもっといいところ撮れよ!と文句を言いたくなったのだろう。なおこの映画、中国政府の検閲にひっかかり、中国人スタッフは全員取調べを受け、当然中国国内では映画は公開されなかったそうだ。工場とか撮っていたらまた違ったのだろうか。
 上海の近代を追うというには断片的で、時代の流れや中国近代史と言った側面はあまり感じられない。しかし、映画としては構成がすごくきっちりしており、ジャ・ジャンクー監督の他のフィクション映画よりもフィクショナリーに感じられる。ノンフィクションとしてはかなり恣意性が強く、整えられすぎているくらいなのだが、そこが面白い。この人のこういう姿をとりたい、という意図が明確であるように思う。また、近年のジャ・ジャンクー監督は、中国国内で上映出来るように映画を作っているという印象があるが、本作も、このくらいなら大丈夫、という線で作られたのかなと思った。




『ブンミおじさんの森』

 第11回東京フィルメックスにて鑑賞。本作は来春、シネマライズにて公開されるそうだ。興味のある方はぜひ。農場を営むブンミは、腎臓病で余命いくばくもない。彼の死んだ妻の妹・ジュンは、ブンミに呼び出され、農園の管理を託される。ある夜、2人の前に19年前に死んだブンミの妻や、行方不明になっていた息子が現れる。カンヌ映画祭パルムドール受賞作。監督はアピチャッポン・ウィーラセタクン。
 生きた人間、死んだ人間、動物、精霊などが、お互いの世界と自分の世界をあっさりと行き来する。それぞれの世界の境目がはっきりとあるのではなく、いつのまにか、すっと移行していく。
 また、ある者から別の者にいつのまにか変容してしまうし、それがごく自然のこととして描かれている。ブンミの息子は人間の世界と相性が悪く、ある者になって戻ってくるが、彼の姿を見たジュンの言葉には吹き出してしまった。息子や妻の現れ方が素晴らしいのだが、ソレに対するブンミたちの反応もすばらしい。その程度でいいのか!でも死んだ妻が出現しても2人ともそんなに驚かないし、変身するくらいたいしたことではないのか。
 さらに、生死や人間・非人間といった境目だけでなく、時間も跳躍してしまう。過去と未来という時間軸をいつのまにか行き来し、過去のことも現在・未来のことも並列している。縦軸にも横軸にも自在に移動するというか、全部一緒くたになっているのだ。どんなに変容しても世界は存在し続けるという、タフさを感じた。
 舞台は森に囲まれた農村だったり森の中だったりするが、森の様々な気配に満ちた濃厚な空気感が、すごくよかった。森の映画といってもいい。多分音の録音や響かせ方が上手いのだろうと思うし、ロケ地そのもののよさもあるだろう。滝のシーンなども美しかった。




『義兄弟』

 ソウル市内で、北朝鮮の工作員による脱北者暗殺が図られた。いち早く情報を掴んだものの、強引な捜査で犠牲者を出し犯人も取り逃がした国歌情報局のイ・ハンギュ(ソン・ガンホ)。一方、暗殺計画に加担した工作員のジウォン(カン・ドンウォン)は辛くも逃げ切り身を潜めた。6年後、情報局を辞めて探偵となっていたハンギュは、依頼案件の調査中にジウォンを見かける。ジウォンはパク・ギジュンという偽名で工場で働いていたのだ。ハンギュはジウォンの尻尾を掴もうと、自分の探偵事務所にスカウトするが。監督・脚本は『映画は映画だ』のチャン・フン。
 韓国の警官と北朝鮮のスパイという敵対関係にある2人がなぜかコンビを組み友情らしきものまで生じてくる、というライバルものでありつつバディものでもある。中盤は案外コメディぽくて楽しかった。工作員といっても、ジウォンは若造で詰めがかなり甘く、多分、体術以外はあまり優秀な工作員ではないんではないんだろうという風なところ、またハンギュのコミカルな言動が、作品の雰囲気をやや柔かくしていたと思う。監督の前作『映画は映画だ』も対照的な立場にある男2人の物語だったが、本作の方がウェットかつ間口が広い。エンターテイメントであることを強く意識していると思う(『映画は映画だ』はメタ映画っぽかったから)。本作のラスト、これはやりすぎだという人もいると思うが、私は「娯楽映画だよ!楽しんでね!」というスタンスが窺えて好き。
 2人がお互いを出し抜こうとするが、実は出し抜いてもあまりメリットがない相手だ。ハンギュはジウォンと再会した時点では既に警察をやめており、当然機密情報など扱えないし、ジウォンは前述のとおり工作員としては多分下っ端でやはり高度な機密は持っていない。そんな相手の為に必死になってしまう2人の姿は、サスペンスとして基本シリアスに描かれているものの、滑稽でもある。2人とも組織から見放されたような存在であり、そこにも哀愁が漂う。このはみ出し物としての意識が、2人を繋いでいくようにも見えた。また、ジウォンの上司である暗殺者「影」も、終盤では組織から逸脱しているように見えた。逸脱した3人が三つ巴になるラストバトルは切ない。
 食べ物、食事の見せ方が上手いなと思った。ジウォンが作る食事がおいしそう(鶏の水炊きとか・・・)というのもあるのだが、鶏を絞めて血抜きをしていることで、ジウォンが多分農村の育ちなんだろうなとわかる(農家の子供にやさしかったし)ところとか、ハンギュの食生活が大分ひどそうなのが改善されていくことで2人の関係の変化が窺えるとか。




『長い廊下がある家』

有栖川有栖著
2軒の空家を結ぶ、地下の「長い廊下」で死体が発見された。居合わせたのはオカルト雑誌の取材陣とたまたま居合わせた学生。しかし全員にアリバイが。犯罪学者・火村が謎に挑む。4編収録の中短編集。表題作はシンプルかつ王道な、ザッツ本格ミステリ!という感じの作品。おーきたねーきたねーとニヤニヤしてしまう(笑)。ネタはシンプルだが冒頭からの引きこみ方など見せ方がいい。さすがの安定感。最初に配置された表題作が本格の直球で、2編目3編目と読み進めるうちに徐々に変化球になっていく印象。最後の「ロジカル・デスゲーム」は著者の作品としてもわりと風変わりかも。でもこれも本格ミステリには違いないと思う。犯人・探偵双方からの「遠隔」がモチーフとなっている「天空の目」が個人的には好み。しかし、著者の短編集読むと何かほっとするわー。自分の中のこれが本格ミステリだ!というものにぴたっとはまるからか。




『クロッシング』

 退職を1週間後に控えた警官エディ(リチャード・ギア)はやる気のないことなかれ主義者。若手の教育係に任命されてうんざりしていた。病弱な妻の為に引っ越したいが、子沢山な上に安給料で金策に困っているサル(イーサン・ホーク)。麻薬密売を摘発して昇進するため、家族を省みず覆面捜査を続けるタンゴ(ドン・チードル)。ブルックリンに住む3人の警官の運命は。監督はアントワン・フークア。
 しょっぱなから音楽が不吉さをかきたて、ショッキングな事件が起きる。事件はともかく、音楽が全編にわたり「これから不幸なことが起きるよ~起きるよ~」気分を掻き立ててちょっとうっとおしかった。前フリが丁寧すぎるというか、くどすぎるのだ。もっと控えめでも、映像の冷ややかさで充分に不穏な雰囲気は出ていたと思う。
 邦題の「クロッシング」は映画のストーリーとは少々ミスマッチ。確かに3人の警官のエピソードが描かれるが、彼らの運命は言うほど交錯しない。3人が実際に交差するのは1ヶ所だけで、このシーンはかなりぐっとくるのだが、それ以外ではほぼ平行線、交差したからといって事態が変わるわけでもないのだ。配給会社はポール・ハギス監督の『クラッシュ』みたいな雰囲気を出したかったのかもしれないが、作品の方向性は違うので、『クラッシュ』ぽいものを期待した人は拍子抜けするかもしれない。
 ストーリーの重点は3人の登場人物が交差することではなく、個々がどういった選択をするかというところにあるだろう。冒頭、「(人間は善人悪人にわかれているのではなく)より良いか、より悪いかだ」という言葉をある人物が言う。3人の行動は正にこの言葉に象徴されるものだった。何かの拍子でより良い側へ留まれることも、より悪い側へ足を踏み込むこともある。より良いことと思って悪いことをしてしまうことも。サルはカソリックらしく度々祈るのだが、彼がやっていることを考えると皮肉だ。悪人でも善人でもない人間の不確かさ、弱さが、警察官という職業設定により際立っていたと思う。
 イーサン・ホークは、20代の頃はアイドル的な人気があったのだが、ここ数年はダメ男、甲斐性なしの男の役があまりに板についてしまい、心配になるくらいだ。二枚目だがどこか貧相なのがいけないのか。ドン・チードルは本作の中では一番安定感があり流石に上手い。リチャード・ギアが虚無的(目に光がない・・・)で意外によかった。




『ラスト・ソルジャー』

 衛と梁、2つの大国が争い続けている戦乱時代の中国。上手いこと生き延びた梁の兵士(ジャッキー・チェン)はたまたま衛の将軍(ワン・ホーリン)を捕虜にした。将軍を梁に引き渡して褒美を貰おうともくろんだ兵士は、将軍を連れて梁を目指すたびに出た。監督はディン・ツェン。
 対照的な2人の珍道中という、時代劇ロードムービー。将軍は戦争をして国土を広げたい、兵士は褒美として土地を手に入れ、それを耕して生活できれば満足。将軍は生き恥さらすよりは名誉ある戦死をと願うが、兵士はとにかく生き残った者の勝ちと考えている、戦いに対するモチベーションが真逆の2人なので、当然道中トラブルが絶えない。とぼけた兵士ジャッキーと生真面目な将軍ワン・ホーリンのやりとりが楽しかった。将軍がだんだん兵士に感化されて友情らしきものが芽生えていく。ただ、一応史実は踏まえているのでラストはほろ苦い。兵士と将軍、お互いに感化しあってこういう結末となったというのが皮肉でもある。
 ジャッキー・チェンは中国では(日本でもだろうけど)ほんとに広く愛されているスターなんだなと実感させられる作品でもあった。最近の主演作ではハリウッド映画の『ベストキッド』を見たけれど、あの映画のジャッキーはあくまで助演でむしろ渋い味わいがあった。本作では軽妙でベタなギャグをかます楽しいジャッキーだ。彼のいいとこ取り、というほどではないが、魅力的に見えるように撮ってもらっていると思う。アクションのキレがいまだにいいのには驚かされる。若手俳優も頑張っているのだが、(そういうふうに撮っているんだろうなというところを差し引いても)ジャッキーの方が動きがシャープというか、洗練されているんだよなー。本作は時代劇だからか、ちょっと京劇っぽいアクションのつけかたで、軽さがあって楽しかった。
 ロケ地が雄大で、これは中国の強みだよなー(多分全部国内ロケなので)と思った。エキストラを大勢使えるというのも、アクション映画や歴史絵巻には有利だろう。




『冬の小鳥』

 父親に孤児院に連れてこられたジニ(キム・セロン)は、父親が迎えに来ると信じて待ち続ける。しかし迎えは現れない。監督はウニー・ルコント。ルコント監督はジニと同じく、韓国で生まれフランスで養子になった。今は韓国語はしゃべれないので、主演のセロンとは通訳を介してコミュニケーションをとったそうだ。
 導入部、父親と買い物をし、食事をするジニは楽しそうだ。彼女にとってはよそ行きの服を着てケーキを買ってもらう特別な日だった。しかしその特別が全く逆の意味で特別になってしまう予兆がじわじわとにじみ出ている。ジニの父親の顔が殆ど映されず、父親の娘に対するまなざしがどういうものかわからないところも不安だ。父親の表情がはっきりとわかるショットは1箇所だけなのだ。
 親に見捨てられた子供という設定だと、過剰にウェット、お涙頂戴的な話にもなりかねないが、本作は抑制がきいており、あくまでドライだ。ジニは確かにかわいそうではあるのだが、いわゆる可愛い子供という風ではない。頑固でかんしゃく持ちで、扱いにくい子供といっていいだろう。傍から見た子供の哀れさではなく、子供の等身大の怒りや悲しみを捕らえている。子供にとっては理不尽な状況に置かれているということになるのだが、周囲にとっては子供当人の振る舞いが理不尽で面倒くさいものであるといった、冷めた(冷たいのではなく冷静な)目線がある。ジニは時にかんしゃくを起こすが、自分の感情をどう表現していいのかわからないからの様にも見える。この感じがすごく等身大の子供ぽかった。
 ジニは孤児院で年長の少女と親しくなり、徐々に孤児院での生活に馴染んでいく。しかし彼女は父親と再会することを諦められない。彼女は友人とも離れ離れになり、自分も新しい世界に踏み出すことになるが、そのことと父親を諦めるということとはまた別で、傷が癒えることはないのだろうと思った。諦念が滲み、ほろ苦い。
 音楽の使い方がとてもいい。サントラといえるものはメインテーマが冒頭とエンドロールで流れる程度で、あとは子供たちの歌やどこかから聞こえてくる音楽という程度。ジニが父親に歌を歌ってあげるシーンがあるのだが、この歌が2回使われる。時間の経過によって感じられるものが変わってくるという対比が鮮やか。




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