3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2010年10月

『密室殺人ゲーム王手飛車取り』

歌野晶午著
インターネット上で推理ゲームの出題をし合っている匿名の5人。ただし、出題されるゲームは5人それぞれが実際に犯した殺人事件を題材にしたものだった。本格ミステリの連作短編集。これは面白かった!アリバイ崩し、密室トリック、犯人当てなど本格ミステリのパズルとしての側面が強い作品。推理ゲームという設定なので、どの事件もある程度フェアで読者にも推理可能。こういうところがオーソドックスな本格ミステリぽい。そしてゲームの枠の外で、連作である意味がちゃんとあるところもいい。著者はトリッキーな作品も得意だけど、基本的に小説力が高いんだよなー。読みやすかった。本格ミステリとしては、タイトルがやっつけ仕事的オマージュではあるが「生首に聞いてみる?」がベストかと思う。






『わたしを離さないで』

 第23回東京国際映画祭にて。寄宿学校ヘールシャムで共に育った、キャシー(キャリー・マリガン)、ルース(キーラ・ナイトレイ)、トミー(アンドリュー・ガーフィールド)。キャシーとトミーの間には通じ合うものがあったが、トミーと恋人同士になったのはルースだった。18歳になった3人は学校から外の世界へ出る。しかし、彼らには一般人とは違う、特別の役割があった。カズオ・イシグロの同名小説をマーク・ロマネク監督が映画化。
 原作に対する敬意が感じられる、原作付き映画としてはかなりの良作。原作の世界の雰囲気が再現されていると思うし、脚本を変にひねらなかったところもいい。特にロケーションが素晴らしく、ヘールシャムの校舎などイメージそのもの。イギリスの田舎や海辺の風景が美しく見惚れた。
 とはいっても、原作では徐々にベールがはがれていくような語り口だったが、本作では彼らの人生に関する「秘密」はかなり早い段階ではっきり明かされているという違いはある。彼らの運命のいきつく先が最初から提示されていることで、彼らの青春はより際立ち、切なさも強まっていた。終わりが見えるので、3人の間に生じてしまう取り返しのつかなさ、一瞬の貴重さが、より身を切られるように感じられるのだ。
 語り手はキャシーなのだが、あまり美人ではないことで微妙にコンプレックスをもっており、しかしそのコンプレックスに対して自分の中で微妙にエクスキューズを作っている、ルースに対する嫉妬や怒りは直視しようとしない感じ(3人の関係が変わってしまうは、彼女のこの態度も一因だと思う)とか、身につまされ切ない。演じるマリガンが上手い。いわゆる美人ではないがキュート。キャシー役選びに難航していたところ、サンダンス映画祭で『17歳の肖像』を見たプロデューサーが、彼女だ!と確信したとか。それも納得。
 トミー役のガーフィールドもとてもいい。ルックスもキュート。『BOY A』で見た時、ずいぶん上手い子だなと思ったが、本作でもナイーブさが感じられる演技。この2人と並ぶとキーラ・ナイトレイが若干割を食った感はあるが、役柄的にもこのくらいの地味さで丁度良かったのかしら。あと、校長役でシャーロット・ランプリングが出ていてびっくり。似合っている。
 それにしても、つくづく残酷な話(というか設定)だと思う。原作も本作も、いわゆる生命倫理を問うものではなく、あくまで青春物語、恋愛物語としての側面が強いのだが、その目的の為だけに人間を生むことが正しいとは思えない(そう考えると、校長の人生がどんなものだったのかも気になってくる)。明らかになる「ギャラリー」の目的など、冗談じゃないと。




『エッセンシャル・キリング』

 第23回東京国際映画祭にて。アフガニスタンで米軍兵士を殺し、捕らえられたモハメド(ヴィンセント・ギャロ)。ヨーロッパ北部らしき拘置所に送還されるが、護送車が事故を起こしたのに乗じて逃げ出す。そこは雪の深い山の中だった。追っ手を振り切り、モハメドは逃げ続ける。監督はイエジー・スコリモフスキ。
 ヴィンセント・ギャロのほぼ一人芝居、しかも舞台が極寒の山の中という色々な意味で初期設定がギリギリな作品なのだが、そこをねじ伏せていくあたりは流石スコリモフスキ監督といったところか。この監督は絵に妙な力強さがあって、ストーリーに起伏がなくても目が離せない。特に登場人物の移動の撮り方が面白い。今回は長回しは殆どないのだが、ロケ地が山林で撮りにくいからだろうか。
 砂漠地帯でモハメドが米兵を殺し、逃げ、捕らえられ、拷問を受けといった流れは、案外普通の映画っぽい。『アンナと過ごした4日間』では、映画が始まるなり何か異形のものを突きつけられたような感があったが、そういった特異な感じは、最初はしなかった。ハリウッド映画だと言われればそうですか、と頷いてしまいそうなくらいだ。しかし、モハメドが逃げ出して森に入ると、徐々におかしな雰囲気が漂ってくる。
 モハメドは逃げる為に民間人も兵士も犬も殺す。それにつれ、徐々に生きている人間の世界から逸脱していくように見える。生きるために殺しもいとわなかったのに、生き残るというよりも死者の世界、ないしは人間以外のものの世界に入っていくように見えた。彼がその世界のどこまで行ってしまうのか、そこに引きつけられた。彼にとっては世界の果てまで行ってしまう方がいいのか、それとも留まる方がいいのか。人間の世界に引き止めた(というように私は見た)のはスコリモフスキ監督の優しさなのか厳しさなのか。
 山の中だから、というわけでもないだろうが、やたらと動物が出てくる映画だった。動物と心通う、というようなことは全くなく、単に動物であるのだが。なお、魚を奪うシーンが自分の笑いのツボにはまってしまい困った。だって遠くからたったったったって走ってくるんだよ・・・。ここだけでなく、妙なところで笑いを誘われた。ヴィンセント・ギャロへの無茶振りさがすごいので、撮影現場を想像するとそれだけで愉快な気持ちになります。ギャロ、気難しそうなイメージがあるんだけど、よくやったなー。極限状態なのに顔の色艶がいいのが難だが、そこにリアリティを求めるタイプの映画でもないか。




『僕の心の奥の文法』

1963年のイスラエルを舞台とした作品。少年アハロンは絵画や文学に興味を持つが、両親は理解を示さない。周囲の友人達はどんどん成長していき、アハロンは距離を感じるようになる。
アハロンは英語の文法に「今~している」という現在進行形があることに感動し、「今」を充分に楽しみたいと願う。ただ、彼が置かれている環境は、彼に早く大人になることを要求しており、子供としての「今」は取り上げられそうになる。それに対する反抗として、彼は無意識に(体が大きくならないのを気に病んでいたりする)肉体的に成長するのをやめてしまう。彼は成長していないのではなく、両親・社会が要求する成長の筋道に彼の成長の仕方が合っていないのだ。アハロンがこの家庭ではなく、あるいはこの時代以外、この国以外に生まれていたら、もっと楽に生きられたかもしれないし、すんなりと大人になれたかもしれない。彼の両親・社会は、息子に(肉体的に)強い男であること、異性のパートナーを早く得ることを要求する。こういう要求に上手く乗っかれる子はいいのだが、そうじゃない子にはキツい。アハロンがなりたい(なるであろう)大人は、親の要求するものとは多分違う。子供は環境選べないんだよなーとしみじみ。
 アハロンの母親は、親戚や近所に対する体面から苛立ち、「なんで大きくならないの」と彼を責めてしまう。彼女は息子を愛してはいるが、息子の世界を共有することができない。彼の理解者となりそうな存在として、近所に住む、音楽や絵画を愛する女性がいる。アハロンはこっそり彼女の部屋に忍び込んで本を読んだり音楽を聴いたりする。しかし、彼女との交流の可能性は、アハロンの父親によってつぶされてしまう。また、アハロンが想いを寄せる少女も、彼の絵を気に入ったりバレエが好きだったり、ビートルズ(当時のイスラエルでは敵国音楽的な見られ方だったようだが)に憧れたりと、彼と世界を共有できそうではあるのだが、彼女の方が外の世界に目が向いており、アハロンとその周囲の世界からは出て行ってしまう。身近に理解者やモデルとなる大人がいれば、アハロンの生活はまた違ったものになったのではないかと思うとやるせない。
 当時のイスラエルの一般家庭の様子が垣間見えるという点では、貴重な作品かもしれない。つかの間の平和な時期だったようで、建国記念日のお祭り等も華やか。一方で、徐々に経済状況が悪化し、青年団やガールスカウトが農作業に借り出されたり、アハロンの姉が徴兵されたりという、不安の兆しも見られる。




『ジャック、船に乗る』

 第23回東京国際映画祭にて。NYでリムジンサービスの運転手をしている、さえない中年男ジャック(フィリップ・シーモア・ホフマン)。ある日同僚のクライドの紹介で、クライドの妻ルーシーの同僚・コニーと知り合う。彼女と出会い好意を抱いたことで、ジャックの生活は変わり始める。
 フィリップ・シーモア・ホフマン初の監督・主演作品。俳優としてはもちろん名優クラスの人だが、監督としても才能ありそう。意外とオーソドックスで、奇をてらったところがない作品なのだが、却って趣味のよさを感じさせる。若干スマートすぎてイヤミといえばイヤミかもしれないけど(笑)。
 映画としてのたたずまいはスマートだが、登場人物たちは決してスマートではない。主人公であるジャックは見た目はぱっとしないし、機知に富んでいるわけでもないし、お金があるわけでもない。個人的にはどちらかというと見ているとイライラしてくるタイプの人物だ(シーモア・ホフマンが観客をイライラさせようとしているとしか思えない上手な演技で・・・)。料理が失敗してパニックになる様子など、いるわこんな人!そして自分の中にもこんな人がいるわ!といういたたまれなさに満ち溢れていて、シーモア・ホフマンの観察眼の鋭さというか意地悪さを感じた。コニーも、不美人ではないが奥手で大人しく、若干自意識過剰。やはり人によってはイライラさせられるタイプの人物だろう。彼女の「モテ慣れしてないオーラ」や余裕のなさは、身につまされすぎて正直ちょっときつかった。ものすごくやるせない気持ちになる(笑)。
 しかし、その冴えない2人が出会うことで、ちょっとづつ変化していく。ジャックは「ボートに乗りたい」というコニーの為に水泳を習い、更に彼女に作る為の料理を習う。ジャックのコニーに対する態度、彼女の為にやろうとすることは、発想があまりに少年ぽいというか、女性慣れしていなさすぎるのだが、徐々に一生懸命さが可愛く見えてくる。コニーも若干とんちんかんなのだが、だんだん好ましく見えてくるのが不思議だ。
 1組の男女がひかれあっていく過程が主軸となっている一方、夫婦として長年つきあってきたクライドとルーシーの関係は危機を迎えている。一見円満そうなのだが、お互いに浮気をしているらしく、ルーシーの気持ちは離れつつあるし、クライドはそれを上手く引き止めることができない。カップルの始まりと終わりを平行させることでバランスがとれていた(若干取り過ぎな気もしたが)と思う。



『素数たちの孤独』

 第23回東京国際映画祭にて。障害のある妹を、幼い頃置き去りにしたことがトラウマになってりう少年(ルカ・マリネッリ)と、事故で片足に障害が残った少女(アルバ・ロルヴァケル)の、時に交差し時に平行する人生を描いた作品。原作はパオロ・ジョルダーノのベストセラー小説、監督はサヴェリオ・コスタンツォ。
 原作小説は未読なのだが、小説とは時系列が異なっている(小説は時代の流れに沿っているが、映画はスラッシュされている)そうだ。映像化する際には時系列を入れ替えたほうが効果的では(原作既読者にとっては目新しいし)、という監督の考えだそうだが、確かに子供時代から順番に描くよりは、映画の場合は効果的かなとは思った。ただ、組み立てがあまり上手くなく、単にとっちらかっているように見えてしまった。少年の人生における決定的な瞬間と、少女の人生における決定的な瞬間がリンクしている部分の緊張感が募っていく様はよかった・・・というか募りすぎでうぁ~っとなりました。特に少女の方。
 素数たち、とされているのは、少年も少女も家族の中でも学校でも浮いている、周囲に馴染まない存在だからだ。素数的な存在である彼/彼女は、それゆえに惹かれあう・・・かというとそこがはっきりとはしていないところが面白い。少女は少年を気に入り、(一方的に)パーティーに誘ったりキスを迫ったりするのだが、2人の仲は進展しない。お互いに好意は持っているが、大人になっても決定的な何かは起きない。起きそうになると、何かしらの事情により2人が遠ざかってしまう。お互いに傍にいて欲しい人、必要な人だという部分がもっと前面に出ていれば、よりストーリーの流れにダイナミズムが出たんじゃないかなという気がするが、引き合い方もなんとなくな感じでいまひとつ緩慢だった。
 少年、少女とも両親との関係があまり上手くいっていない様の描き方が割といい。少年はかなり直接的に、母親がこんなはずじゃなかった、生まなければ良かったと漏らすのを聞いてしまう。少女は、父親とは一見仲がいいのだが、両親の夫婦関係が危うくなっている。また、少女が遭う事故は、そもそも強引な父親のせいとも言える。子供時代のエピソードは分解され、ぽつりぽつりと出てくるのだが、なぜ彼らが現在のような大人になったのか、という根っこの部分が垣間見えるエピソードだったと思う。幼少時代から一直線に同じ道を来た感のある少年に対して、少女は元々元気のいい子だったのが怪我により引っ込み思案になり、また活発に、という波があるが。少女の同級生で女の子たちのボス的な子がすごくかわいかった。彼女は少年と少女を2度にわたって(自覚なしに)結びつける役割を果たす。
 色彩とか、音楽とか、字幕(舞台となる年代が表示される)のフォント・色とか、個々はわるくないのに全体的にはちぐはぐな印象を受けた。脚本もなのだが、少々とっちらかっている。




『ビューティフル・ボーイ』

 第23回東京国際映画祭にて。離婚を考え始めた中年の夫婦。ある日、18歳の一人息子が在学する大学で、銃の乱射事件が起きる。息子の身を案じる夫婦だが、電話は通じず不安は募るばかり。ようやく自宅に訪れた刑事が告げたのは、夫婦の想像を絶する内容だった。監督はショーン・クー。
 題材にしろ、撮影手法にしろ、特に目新しさがあるわけではないが、丁寧に、そして節度をもって作っているという印象を受けた。実際に起きた事件を題材にしていることは明らかだが、ショッキングな事件だけに見せ方によっては下世話になったり、過剰に「泣ける」展開になったりしそうだ。しかし本作は一貫して一歩引いた目線で描いている。撮影自体はドキュメンタリータッチの臨場感あるものなのだが、登場人物に(心情的に)近寄りすぎない。カメラの動きが劇的である、あるいはカメラが映し出す状況が劇的であっても、それを見ている視線が感情的でないように思った。あんまり感情移入をうながすタイプの映画ではないのね。この冷静さが好ましかった。音楽も使い方が控えめで良い。一ヶ所だけ、ちょっとやりすぎだなぁと思ったところがあったのだが、私は音楽かなり控えめの映画を好む傾向があるので、気にしすぎたかもしれない。
 主人公夫婦は当初倦怠期にあり、夫は自分が別居する為の部屋を探している。しかし、事件が起きたことにより夫婦の絆が逆に再生するというところが皮肉だ。しかしその絆もまた、もろく崩れてしまう。夫と妻は事件を消化しようとする方向も、悲しみの表し方(あるいは隠し方)も異なる。息子との思い出にひたる妻に対し、マスコミ対策やら家の処分やらの現実的な諸々をやることによって苦しみを麻痺させようとする。妻から見ると夫は冷たく、夫から見ると妻は逃げているように見える。夫婦2人が別の人間であり、簡単にお互いを共感、理解などできないことが顕になる。結局、お互いのことが本当にはわからない。
 そのわからなさは、息子についても同様だ。彼が何を思って行動したのか、夫婦には最後までわからないし、多分この先もわからない。警察やマスコミはあれやこれやと言うのだろうが、当事者にとってみれば全て的外れだろう。両親にとっては「大人しいがいい息子」であったし、それは確かに彼の一面ではあった。
 そもそも、主人公夫婦は関係は冷めているとはいえ、まあごく普通の夫婦だし、両親としても特に大きな問題があったわけではないように見える(妻が劇中で「(私達より)もっとひどい両親は大勢いる」と口にする)。事件が起きるような要因は、特にないように見える。本当のところはわからないのだ。夫婦はずっと「なぜ息子が」「なぜ私達が」と問い続けることになるのだろう。最後、わずかな希望が見えるのものの、わからなさがずっと夫婦をさいなむことになるのかと目の前暗くなるような気がする。




『わたしの可愛い人 シェリ』

 1906年、アルヌーヴォー文化花盛りのパリ。ココット(高級娼婦)たちが社会的な地位を持っていた時期でもあった。元花形ココットのレア(ミシェル・ファイファー)は、元同業者で友人のマダム・プルー(キャシー・ベイツ)の息子・シェリ(ルパート・フレンド)を預かる。シェリは19歳にして放蕩の限りを尽くし、母親を困らせていたのだ。レアはつかの間の恋人のつもりでシェリと生活を共にするが、いつの間にか6年の月日が流れていた。そしてシェリに結婚話が持ち上がる。原作はコレットの小説、監督はスティーヴン・フリアーズ。
 フリアーズ監督の作品は全部はみていないのだが、見た限りではさくさく話が進んで見やすいという印象がある。暗い話でもあまり湿っぽくならない気がする。少なくとも本作に関しては、直球メロドラマでありながらあまり甘ったるくならず、意外とドライだ。情感の盛り上がりをあまりひっぱらずすぱっと切るところがいい。
 女性が主人公、主な登場人物もシェリ以外はほぼ女性(特にもう若くはない、元ココットの女性)の作品だ。そして女性たちが大変しっかりしている。主人公であるレアは、美貌も教養も兼ね備えた女性であり、自分でひと財産を築き、それを運用している。独立した女性という存在は、おそらく当時では珍しい存在だったろう。「ココットは同業者以外の女性と友達になれない」とレアはいうのだが、他の女性とは別の存在、一般女性からは理解できないという立ち居地だったのだろうか。
 独立した人間であるレアと対比すると、シェリはなんとも頼りない。彼のとりえは美貌と体だけのように見えてしまう。若者を甘やかしたい女性、甘えたい男性、という構図に収まっているうちはいいが、独立した人間同士で恋愛しましょう、という段になると、シェリの甘ったれ具合が露呈してしまう。大人同士で恋愛するとなると、当然相手の嫌な部分も見えてくる。しかしシェリはそれを許容しない。彼が求めるのはあくまで完璧なヌヌーン、どんな自分でも受け入れてくれる優しい女性なのだ。で、自分には欠点は多々あるわけである。全くフェアではない。
 レアは、シェリを甘ったれのままにしてしまったのは自分の責任と考え身を引くのだが、そのレアの思いをシェリが受け止められなかったというところが、悲恋たるところかもしれない。
 ミシェル・ファイファーをスクリーンで見るのは久しぶりな気がする。さすがに年をとったなとは思うが、本作の役柄にはその加齢した部分こそが必要だったろうし、いい年のとりかたではないかと思う。声が色っぽい。また、キャシー・ベイツのわかってる感溢れる演技には笑った。自分の立ち居地を心得ている人だと思う。ファッションにしろインテリアにしろ、当時の風俗が色々と描かれていてコスチュームプレイ好きには楽しいだろう。レアの部屋着やドレスが東洋風味なところに当時の流行が垣間見える。




『REDLINE』

 宇宙最速を競う、5年に一度のカーレース・レッドライン。八百長レースに加担して予選落ちするはずだったJP(木村拓也)は、棄権者が出た為にレッドライン決勝に出場することになった。子供の頃からレーサーを夢見ていたソノシー(蒼井優)や無敵の帝王・マシンヘッドら、手ごわいライバル達が武器満載の改造車と共に集う。しかし開催地は、軍事国家ロボワールド。レッドライン開催に反対する大統領は武力行使でレース妨害に乗り出してきた。
 監督は小池健。原作・脚本は石井克人。石井克人監督の『PARTY7』のアニメーション部分を小池が監督したことが縁となったのか。石井監督は正直言って脚本が上手いタイプではないと思っていたので、どうなることかと心配だったが、これが予想外に熱血少年マンガ的で面白い。なお脚本は石井の他、榎戸洋司、櫻井圭記が手がけている。アニメーション制作はマッドハウス。去年から今年にかけてのマッドハウス作品の充実振りは尋常でないな。
 本作は手描き動画で10万枚以上だというが、手描きだからすごいというより、カーアクションの見せ方として新しい、かっこいいと思う部分が大きかった。特に加速に伴って重力がぐーっと掛かっていく感じがしっかり出ていていい。単純にアクションアニメとしても見ごたえがある。均一でない線の太さや、極端なフォルムのデフォルメ、漫画で言う所のベタのような極端な陰影など、絵が意外に太いというか、ダイナミズムがある。カーレースだがノリはスーパーロボットものっぽい荒唐無稽さ、なんでもOKな大らかさが好ましい。
 本作、予告編などではスタイリッシュなアニメとしてのアピール、アニメファン以外の人にも見て欲しいという意欲(その為のこのキャスティングだろうし)が感じられたが、実際のところ、ある程度アニメーションを見ている人、動画に快感を感じる人の方が本作を気に入るだろう。ストーリー重視の人にはちょっとアピール力弱い(お話の組み立ては大雑把なので)のではないだろうか。もし「キムタク主演なんでしょ~?」みたいな理由でアニメファンに敬遠されているとしたら勿体無い。もちろん普段アニメーションを見ない人にも観て欲しいのだが、ある程度素養がある方がより楽しめる類の作品であるとは思う。
 主人公のJPが一見リーゼントの不良風なのだが、根が由緒正しい「男子」でキャラクターとして非常にかわいい。通り名では揶揄をこめて「やさしい」と称されるのだが、実のところ本当に優しいというところが、逆に新鮮だった。こういうタイプの主人公は最近案外見なかった気がする。演じる木村拓也も予想外に好演。彼は声優業だと結構いい演技をすると思う。声のみだと、キムタクというキャラが薄くなってニュートラルに男の子っぽさが出るのがいいのかもしれない。その他声優については、ソノシー役の蒼井優がびっくりするくらい上手い。声の演技が声優の演技なんだよな~。『鉄コン筋クリート』でも思ったけど、蒼井優おそるべしです。




『エクスペンダブルズ』

 ベテラン傭兵のバーニー(シルベスター・スタローン)は、ナイフ使いのリー(ジェイソン・ステイサム)やマーシャルアーツの達人ヤン(ジェット・リー)らから成るチーム「エクスペンダブルス」を率いている。ある日チャーチ(ブルース・ウィリス)なる正体不明の依頼人から、南米の島ヴィレーナの軍事独裁者を暗殺してほしいという依頼が入る。
 監督・脚本・主演をスタローンがこなし、往年のアクション俳優が勢ぞろいした。豪華は豪華なのだろうが、この豪華さは80年代のアクション映画を熟知していないと味わえないんだろうなぁ・・・。スタローンは『ランボー』のようなゲリラ戦だといいんだけど、サシの肉弾戦などはあまり撮るのが上手くない。近年主流になっている、臨場感を増す為にやや手ブレ風カメラ、更にカットを細かく割りすぎていてアクションシーンが細分化されてしまい、一連の流れを楽しめない。カーアクションも頑張っている割に撮影が下手なので不完全燃焼。勿体無い。アクション映画としての面白さは正直あまり感じなかった。
 ただ、だから本作がつまらなかったかというと、そうでもない。スタローンをはじめとするおじ様方、そしておじ様方に囲まれたステイサムがとにかく楽しそう。生き生きと破壊活動にいそしんでいらっしゃるので、とても和む。この面子の中だと若者扱いなステイサムにも和む。スタローンさんたちをニコニコを見守る為の映画だと思うので、そのへん思い入れのない人にはかなりキツいだろうが。
 ストーリーが緩慢に見える要因としては、各キャラクターにちゃんと見せ場を作ってあげようという配慮が裏目に出たということがあるのでは。スタローンは多分優しい人なんだろうな・・・。本作ではメンバー全員のお父さん的なポジション。息子的なステイサムとの掛け合いがかわいかった。ヒロインに対しても、どちらかというと父親的なスタンスで望むところが面白い(キスでなくてハグなのね)。
 なお、ブルース・ウィリス、アーノルド・シュワルツネガーがゲスト出演しているのだが、シュワルツネガーのスターオーラが著しく失われている。もう政界の人なのか。対してウィリスのスター現役感が半端ない。正直主演のスタローンより全然現役ぽい。それをそのままフィルムに映し出してしまうスタローンは、やっぱりいい人なのかも。なお、一部でひんしゅくをかっていた日本版オリジナルのエンドロール曲は、思ったほど違和感ない。映画、曲の双方に思い入れがないからかもしれないけどね。




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