3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2010年09月

『BECK』

 ハロルド作石の大ヒット漫画を実写映画化した作品。コユキ(佐藤健)は同級生のパシリに使われてばかりの、ぱっとしない高校生。ある日、ニューヨークから帰国したというギタリストの竜介(水嶋ヒロ)と知り合う。竜介は自分のバンドを作ろうとしており、コユキは音楽の世界に引き込まれていく。監督は堤幸彦。
 期待値をぎりぎりまで下げていたからか、案外普通・・・佐藤をはじめ、BECKメンバー役の5人がよく頑張っていて、原作キャラクターの再現率は高い。特にサク役の中村蒼はイメージに(私的には)近い。一番心配だった音楽面も手堅く作っており、それほどがっかり感はない(レッチリとオアシスをまんま起用する監督の心臓の強さにはある意味頭が下がりますが)。BECKの代表曲という設定の「evolution」も、まあこんな感じだろうなというラインからさほど外れておらず無難。
 ただ、音楽映画(というくくりに入れてしまうが)はやっぱり難しい、というか役者にとってハードルが高いということを実感した作品でもある。演奏シーンは意外とそれらしく見えており、役者のがんばりが窺える。が、問題はボーカルだ。BECKのフロントマン・チバ役の桐谷健太は決してラップが上手いわけではないのだが、チバのキャラクターがハマっていたこともあり、好演と言っていいと思う。一方コユキの声は人をひきつける、天性の何かがある、という設定。「上手い」じゃなくて「人をひきつける」というところがハードルが高い。どういう手法で表現しようが難はつくだろう。原作ファンは自分のイメージと違うとクレームつけるだろうし、原作知らない人が見ても、この程度で天性?とか思われてしまいそう。そもそも、そう都合よく演技も歌唱もハイレベルな若手俳優がいるとは限らない(そう思うと、ハリウッドスターの凄さが実感できる)。本作は、どうせ何やっても文句言われるならこれで!というかなり思い切った手法でコユキのボーカルを表現しているのだが、これ、1度だけならOKだけど何度も繰り返されると冷めるな・・・。もうちょっとなんとかならなかったのかとはがゆい。
 はがゆいといえば、「踊る大走査線THE MOVIE3」の時も思った、「映画なのにTVドラマみたいに見えるよ問題」がまた頭から離れない。本作、長編漫画(の一部)を2時間半に纏めているからか、ひとつひとつのエピソードが短く、この人がどういう心の動きを経てこういうリアクションに、という流れが分断されてしまっていたように思う。連続ドラマのダイジェスト版みたいで映画に見えなかった。TVドラマから生まれた踊る~とは異なり、本作は最初から映画として作られたし映画を作るスタッフが作っているはずなのに何でだ。クライマックスのフェス風景も、せっかくフジロックのステージをそのまま使っているのにスケールが小さい感じで勿体無い。




『緑の家 (上、下)』

M.バルガス=リョサ著、木村榮一訳
 ペルー、アマゾンの奥地を舞台に、盗賊たちやインディオの少女、修道女ら、盲目のハープ弾きなど、様々な人々が織り成す物語。ラテンアメリカ文学の傑作と言われている作品なので、岩波文庫で復刊されたのを機に読んでみたのだが、確かにこれはすごい。40年間の物語が5つのエピソードで語られる。しかし時系列はばらばらに入り組み、前触れもなく場面転換する。各パートごとに中心となる人物も時代もころころ変わるのだが、読み進めていくうちにこの人とこの人はこういう関係で、この人はあの人の未来(過去)の姿で、というように、徐々に物語が広がり厚みを増し、立体的に浮き上がって行く過程がじわじわと快感だった。中心にあるのは娼館「緑の家」とその主だが、そこから派生していく物語と謎、登場人物たちの欲と感情が小説全体にうねりを生んで最後までひっぱっていく。密度は高くねっとりとした味わい。当時の白人目線のフィルターがかかっているかのように過剰にエキゾチック、人種差別的な描写もあるのだが、どのくらい意識されていたのだろう。フィルターの部分をより誇張するように意図されているようにも思う。写実的な描写に誇張がまじって妙なゆがみが生まれている。決して自分にとって好みの作品というわけではないし、ラテンアメリカ文学との相性もいいとは思っていないのだが、迫力があるのはわかる。




『シークレット』

 刑事ソンヨル(チャ・スンウォン)は夜遅くに帰宅した妻ジヨン(ソン・ユナ)の衣服に血がついているのを見て問いただすが、ジヨンは答えようとしない。その直後、殺人事件が起きたという知らせが。被害者はマフィアのボス・ジャッカルの弟・ドンチョル。事件現場で妻のイヤリングとボタンを見つけたソンヨルはとっさに回収し、目撃者であるヤク中の青年に口止めをした。そして事件当日ドンチョルと会っていた男・ソクチョンを犯人に仕立てようとするが、同僚には不審に思われる。一方、ジャッカルも独自に犯人探しを始め、容疑者がいたらひきわたせとソンヨルを脅してきた。監督・脚本はユン・ジェグ。
 大変おもしろかったサスペンス映画『チェイサー』のスタッフが多数参加しているそうだが、映像の雰囲気は確かに似ている。本作の方が都会っぽいかな。スピーディな展開で、ぐいぐい引っ張られていく。ミステリとしてはよくよく考えると穴が多い気がするのだが、引きの強さで見ている間はあまり気にならない。整合性が多少あやしくても強引に話を進めてしまうという力技なのだが、韓国映画はこういう力技が結構上手いと思う。
 ソンヨルは妻が犯人だと思い込んでいるが、この手のお話のセオリー通り、他に真犯人がいそうな気配もある。もし犯人でないとしたら、なぜジヨンは口をつぐむのか?実は冒頭の病院のシーンで、ジヨン、というかソンヨルに何が起きているのかということがある程度推察できてしまうのだが、ソンヨル自身がそれに思い当たっていないというところに、彼の心情が垣間見える(まどろっこしい言い方だが、ネタバレになるので)。うすうす感づいていても、最悪のことは回避して考えないようにしてしまうものだ。ソンヨルはジヨンに本当のことを話せと言うが、実際のところはどうなのだろう。ソンヨルは知りたい/知りたくないという間でゆらぎ、ジヨンは知らせたい/知らせたくないという間でゆらいでいるように見えた。しかし知ることがソンヨルの責任の取り方なのかもしれない。最後にダメ押しのように提示される結末は、彼にさらなる責任を押し付けてくる。
 なお、ソンヨル役のチャ・スンウォンはEXILEの中に混じっていそうな風貌で、韓国の俳優としてはちょっと毛色が違う印象を受けた(私があまり韓国の若手俳優に詳しくないからだと思うけど)。スーツっぽい衣装に普通なら革靴を合わせそうなところを、ハイカットのコンバースを履いているのがかわいい。




『百万の手』

畠中恵著
14歳の少年・夏貴は、自分の携帯電話から火事で死んだ親友の正哉の声が聞こえることに気づく。正哉は、火事は意図的に仕組まれた、自分達一家は殺されたのだと訴える。正哉の頼みで真相を探り始める夏貴だが。著者の現代小説は初めて読むのだが、あれ・・・?こ、こんなに下手な人だったっけ・・・?若だんなシリーズの生き生きとした描写がウソのように精彩に欠けている。医療問題を盛り込んではいるが、この素材だったらもっと上手く描ける人がいるだろうし、青春ものとしては著者の時代ものの方が断然こなれている。そもそも構成があまり上手くなく、この前半だったらこの後半いらないし、この後半だったらこの前半いらないよなというような、ちぐはぐさがある。友人が乗り移った携帯電話という設定も、途中でうまく機能しなくなってるしなぁ・・・。数年前の作品だから、今ならもっとこなれた書き方になるのかもしれないが。




『セラフィーヌの庭』

 1912年のフランス。画商のヴィルヘルム・ウーデ(ウルリッヒ・トゥクール)は、パリ郊外の村サンリスに部屋を借りて引っ越してきた。家事の手伝いをしにくる中年女性・セラフィーヌ(ヨランド・モロー)が描いた絵を見たウーデは、彼女の才能を見抜く。セラフィーヌは神の啓示を受けて絵を描くようになったと言うのだ。ウーデは絵の製作を続けるようセラフィーヌにすすめるが、第一次大戦が起こり、ウーデはフランスから離れざるを得なくなる。監督はマルタン・プロヴォスト。
 実話を元にしており、セラフィーヌはもちろん実在した画家。私はセラフィーヌの作品を見るのは初めてだったが、劇中で「素朴(ナイーヴ)派」と称されているものの、素朴というには猛々しいという印象を受けた。ウーデは前衛美術に理解があり、ピカソと親交深くルソーを発掘した画商。セラフィーヌの作風は、当時の画壇の主流からはかなりずれていたのだろう(自称美術愛好家であるウーデの大家はセラフィーヌの絵を酷評する)。独自色がすごく強い(アカデミックな絵の教育を受けていないからというのもあるだろうが)。
 セラフィーヌはおそらく周囲から変わり者と思われており、友人らしい存在は近所の少女のみ。自分の絵も、最初は他人に見せる為のものではなかった(神に見せる為のものではあったろうけど)。そこにウーデが現れ、彼女の作品を評価した。評価されれば大抵やる気が出て、より力の入った作品を作れる。が、同時に他者からの評価を得たことで、妙な自己顕示欲も出てくる。自分の作品はもっと評価されるべきだと気づいてしまったセラフィーヌの暴走は、正直イタい。もちろん、ウーデにより評価され、アドバイスと経済的な援助を受けることで花開いた部分は大きいので、それが悪いというわけではないのだが、終盤の展開を見ると、彼女にとって他者から評価されることが幸せだったのかどうか考えてしまった。評価されたいという気持ちは自然なものだと思うのだが。
 パリ郊外の、野原や林に囲まれた風景がとても美しい。セラフィーヌはウーデに、悲しいときは草木が心を癒してくれると話すが、それも頷ける。




『何も変えてはならない』

 フランス人女優ジャンヌ・バリバールの歌手活動を、ペドロ・コスタ監督が撮影したドキュメンタリー作品。こういった作品の場合、対象のプロフィールの紹介や、インタビュー映像などが挿入されることが多いと思うのだが、本作にはそういったシーンは全くない。なぜバリバールが歌手活動をするようになったのかとか、自分の音楽に対する見解とか、サポートミュージシャンの紹介とかは全然ないのだ。なので、バイバールのことを全く知らない人が本作を見ると、この人はどういう背景の人でなんでこういうドキュメンタリーが撮られているのかということは全くわからないだろう。かろうじて、この人本職は女優らしいな、ということがわかるくらいだ。
 ただ、バリバールについて知らなくても、本作は楽しめる、というか興味深い映画だと思う。極端に陰影をつけたモノクロの画面がとても美しい。暗い部分が暗すぎて人の輪郭くらいしかわからなくなる時もあるのだが、はっきりと見えないことで、スタジオに流れる空気感や音楽がより際立ってくるように思った。バリバールの表情の捉え方も、自然だがインパクトがある。本作はペドロ・コスタからのオファーで撮影することになったそうなので、コスタはバリバールに当然魅力を感じていたのだろうけど、より魅力を引き出している。前述のとおり、バリバールのプロフィールに関しては全く言及されないのだが、この人はこんな人、という雰囲気がかもし出されている、肖像画的なドキュメンタリーになっていると思う。
 オペラ歌唱のレッスンで、教師にバリバールががんがんダメ出しされるシーンは、バリバールは結構辛そうなんだけどおかしかった。苦戦しつつ「もうイヤ~」みたいな顔をするところがお茶目。バリバール自身の楽曲はロック、ジャズ寄りで、もっとラフな雰囲気なのでギャップがある。ライブシーンよりはリハやレコーディングなどのシーンが多いのだが、音楽映画としても魅力があった。バリバールは歌が達者というわけではないが、声がアンニュイでルーズな良さがある。特に最後、楽屋で即興的に演奏される「ROSE」がかっこいい。




『ようこそアムステルダム国立美術館へ』

 題名では「ようこそ」だが、実際にはまだ招きいれ出来ない状態なのです。美術館の裏方紹介ドキュメント(『パリ・ルーブル美術館の秘密』みたいな)と誤解されそうなタイトルだが、ちょっと違う。オランダを代表する美術館である、アムステルダム国立美術館の2004年から始まった大改装を追ったドキュメンタリー。監督はウケ・ホーヘンダイク。
 ドキュメンタリーだから当然ノンフィクションなのだが、下手なドラマよりドラマティックに問題が次々と生じてくる。晃司説明会をすれば、自転車移動の妨げになる(美術館の門の部分が、公共の道路となっている)と市民団体から猛反発がおき、研究・保管棟としてモダンなデザインのタワーを設計したら景観にそぐわないと自治体から突っ込みが入り、設計に妥協に妥協を重ねるうちに建築家や美術館員の熱意は当然薄れていくという悪循環。館長がややスタンドプレー的ではあるのだが、美術館員も建築家も政府も、決して無能なわけではない。各方面の意見をちゃんと聞いて話し合って決めましょう、という極めて民主主義的な方法に則ってことを進めているが為に、事態が遅々として進まないのだ。皆、別に間違ったことを言っているわけではないからこそ面倒くさい。おそらく監督には民主主義批判をする気などないだろうし、市民の声に辟易としている美術館員についても同様だろう。ただ、民主主義を突き詰めるとこういう側面もあるよ、ということが成り行き上垣間見えてくるところが面白い。
 多分、映画を撮り始めた時点と、出来上がった時点とでは、映画が目指す方向性も(現実のなりゆきに沿って)変わってしまったのだろう。結果的にそれで面白くなっているのではないだろうか。まさか、2010年現在まで美術館が閉鎖しているとは思わないもんねぇ・・・
 一方、改装騒ぎをよそに黙々と自分の仕事に打ち込む修復士(なぜか女性が多い)や、いかにもナイーブそうで館内の勢力争いには不向きっぽいアジアセクション担当学芸員の姿が清清しかった。特にアジアセクション担当が、念願の金剛力士像を前にして目をきらっきらさせる姿は日本人としてはうれしい(笑)。他にも野心まんまんぽいイケメンな17世紀美術担当や、ハイソなおじさま風18世紀美術担当など、学芸員がそれぞれ妙にキャラが立っている。また、美術館の建物そのものを愛している管理人もインパクトがあった。




『瞳の奥の秘密』

 刑事裁判所を退職したベンハミン(リカルド・ダリン)は、ずっと心にひっかかっていた過去の事件を小説にしようと決意し、かつての上司で現在は判事補のイレーネ(ソレダ・ビジャミル)を訪ねる。その事件は1974年、ベンハミンとイレーネが担当していた、銀行員の若い妻が殺された事件だった。監督はファン・ホセ・カンパネラ。本作は第82回アカデミー賞外国語映画賞を受賞している。
 殺人事件の捜査が行われていた過去が半ばベンハミンの小説として語られ、同時に現代の退職したベンハミンが再度事件と向き合うという、過去と現在が交互に描かれる構成。具体的な説明があまりないのに過去と現在のどちらなのかすぐにわかり混乱しないのは、語り口が上手いからだろう。構成が整理されているという印象はあまりなかったのだが、細かいところの演出が上手いと思う。その場のシチュエーション、気分がなんとなくわかる感じというか、言葉以外の部分が饒舌。ドアを閉めておく/空けておくというやりとりでベンハミンとイレーネの関係を描くところなど印象に残った。ミステリとしては意外にふわーっとしている(笑)ので、精緻な本格ミステリ的展開を期待すると拍子抜けするかもしれないが、犯人に限らずなぜそうしたのか、という人の心に主に焦点が当っている。
 主人公は一応ベンハミンではあるが、裏の主人公とでもいうべきなのが妻を殺された銀行員だ。2人とも、1人の女性を思い続ける、「忘れない」男性なのだ。「忘れない」ことを彼らがどのように行動に移した/移さなかったかというところがお互いを映す鏡のようでもあった。彼らの忘れなさは少々奇異(いわゆるリアリスティックなものかというとそうでもないと思う)でもあるのだが、思いの深さには打たれる。思いが深いというところでは、この2人だけでなく、ベンハミンの相棒の刑事や、上司であったイレーネも同様だ。感情の陰影が濃い作品だった。
 事件の捜査には、そんなアホなと思うような展開もあるのだが、当時のアルゼンチンは軍の独裁政権下にあったそうで、当時を知るアルゼンチン人にとっては、決して非現実的な展開ではないらしい。どれだけ何でもありなんだ軍事政権!また、裁判所に刑事が勤めているというシステムにはなじみがないので、ベンハミンがどういうポジションの人なのか最初ぴんとこなかった。日本だと、裁判所に勤めているというと大卒で結構頭良くて、というイメージだが、ベンハミンは高卒で、大卒のイレーネとの身分差を揶揄されるシーンがあった。






『ちょんまげぷりん』

 幼い息子の友也と2人暮らしのひろ子(ともさかりえ)は、ある日ちょんまげに侍装束の男・木島安兵衛(錦戸亮)と出会う。どこに帰ればいいかわからないという安兵衛を、なりゆきで居候させることになったひろ子。話を聞くにつれ、彼は江戸時代から現代にタイムスリップしてきた、本物のお侍らしいことがわかってくる。監督は中村義洋。この監督は、あまり話の規模が大きくない作品の方が手堅くまとめてくるなという印象がある。大人も子供も楽しめて、夏休み映画にはよかったのではないだろうか。
 江戸時代の侍が現代にタイムスリップしてくる、という設定はそんなに目新しくもないが、本作にはビジュアル面での妙なおかしさがあった。スーパーの前にたたずむ侍というシーンをはじめ、ここにいるはずのないものがいる、というだけでなんでこんなにおかしいのか。背景の日常感の出し方が上手いから、よけいに侍の存在が違和感を生むのだろう。組み合わせ方がよかった。
 時代のギャップによるコミカルさもあるのだが、安兵衛は意外とすんなり順応していくのが意外。精神的には基本江戸時代の人のままなのだが、男性が「内向きのこと」をこなすという価値観を飲み込み、家電を使いこなし、掃除洗濯買い物、幼稚園の送り迎えなどどんどんこなしていく。結構頭がやわらかく、元々彼の中に家事を面白がる、お菓子作りに夢中になる資質があったのだろう。そのまま江戸時代にいたら体験できなかったであろう「あったかもしれない人生」を、彼が現代で生きていくところが新鮮で、同時に少しほろ苦い。江戸時代で順当に生きていたら、多分彼は自分の適性を知らないままだったろう。演じる錦戸亮が予想以上に好演しており、生真面目な雰囲気をかもし出している。アイドルでしょ?と敬遠している人がいたらもったいない。
 また、キャスティングでは、働く若き母親役のともさかりえが、強気だけど所々至らない、ごく普通のシングルマザーを演じていて、なかなかいい。若いお母さんぽさがすごく良く出ていた。ご本人もお子さんいらっしゃるからかもしれないが、子供の扱いに手馴れている感じがする。ひろ子は過去に、仕事を続けることを認めていたはずの夫が結局家事分担をしてくれずにキレて離婚している。家事と仕事の両立はきついとわかっているはずなのに、安兵衛がパティシエとして仕事に熱中し友也の相手がおろそかになると、つい当ってしまう。安兵衛が見失っていたものは、自分が見失っていたものでもある。自分のことは棚に上げてしまう軽率さとか、母親としての至らなさとかが、却って普通の女性らしくていい。仕事はしているけどいわゆるキャリアウーマンというタイプではないところがリアルだと思う。夕飯やお弁当が冷凍食品ばかりなのも大変リアルです(笑)。




『カラフル』

 あの世でさまよう魂に、プラプラ(まいける)なる少年が声をかけてきた。あなたは抽選に当った、人間界に戻って再チャレンジするチャンスが与えられたという。魂は自殺した中学生・真(冨沢風斗)の体に「ホームステイ」し、真として半年間生活することになる。真には友達はおらず、美術部で絵を描くことだけが心の支えだった。そんな日々が続く上、母親の不倫、同級生の少女の援助交際に追い討ちをかけられ、真は自殺を図ったらしい。監督は原恵一、原作は森絵都の同名小説。
 原作よりも更にトーンを押さえ、地に足の着いた作品になっている。華やかではないが、丁寧に作られていると思う。特に、舞台となる街並み(等々力、二子玉川エリアが出てくるがそのリアルさたるや)や、真の家の設計・内装などの設定のきめ細かさが素晴らしい。どういった街に住んでいて、どういう家屋で、どういう家具や小物が室内にあるのか。そういった要素によって作品世界に手ごたえが生まれ、この人はどういう人なのか、どういう家族なのかという部分が立ち上がってくる。ここまでリアルなら実写にすればいい(本作はコンテ、演出も実写映画に近い)という声もあるだろうが、むしろ造り手がコントロールできる部分がより大きいアニメーションでないと難しい技(少なくとも一定予算内では)だと思う。また主な登場人物が子供の場合、アニメーションの方が安定した演技力を持つキャストを起用しやすいというメリットはあるか。
 キャラクターの演技の付け方が上手い。いわゆるキャラクターを打ち出すタイプのアニメーションとは演技の種類が違う。これはキャラクターデザイン込みでの効果なのだろうが、前作『カッパのクゥと夏休み』よりは若干キャッチー、でも決して「かわいい」わけではなく微妙さを残すライン。特に母親の、ベースは若く見えるかわいいお母さんだが疲れ感が出ているところとか、上手いと思う。プラプラのみがやや、いわゆるキャラっぽい造形だが、この世の人ではないから差異化されているのだろう。声優も概ね好演。本職の声優でないと違和感感じるという人も多いと思うが、キャラクター造形がリアル寄りの本作の場合は、ややぎこちなさが残る声の演技の方が、個人的にはしっくりくる。ブス演技が冴え渡る宮崎あおいはもちろん、母親役の麻生久美子も予想を上回る安定感。更に驚いたのは、南明奈が予想外に上手いこと。彼女に関しては大変申し訳ないが宣伝要員でねじこんだのだと思っていた。声の出し方とかしゃべり方とか、ちゃんと役柄の声、喋りになっている。あまり演技の仕事のイメージのない人だったが、もっとやってみてほしくなった。
 主人公が真という「他人」として生きることで、自分や周囲の人間が客観視され、近すぎてわからなかった彼らの様々な面が明らかになり、またそれを許容できるようになってくる。人にはいろいろな面があるが、それは悪いことではない、誰かが思っているような自分にはなれないし白黒はっきりつかなくて当然、それでいいという極めて真っ当なテーマが提示されている。ただ、これがドラマティックに展開されるのではなく、小さいエピソードの積み重ねで表現されているので、カタルシスは薄いかもしれない。そこがいいところでもあるのだが。家族にしろ同級生にしろ、人と人とのかかわり方が丁寧に描かれている(個人の才能よりも人間関係の方を重視しているととれる部分も)。お菓子のやりとりや、食事のシーンが頻繁に出てくるのだが、特に家族の食卓の剣呑なこと。母親の作った食事に対する態度に、真の身勝手な潔癖さが現れていて、実にローティーン的。




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