3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2010年09月

『劇場版機動戦士ガンダム00 A wakening of the Trailblazer』

 西暦2314年。私設武装組織ソレスタル・ビーイングの活躍によりかろうじて平和を取り戻した地球。しかし、大昔の木星探査船が発見されたことが契機となり、人類最大の危機が訪れた。ガンダムマイスター達は再び終結するが。
 TVシリーズから直結した完結編となる劇場版(TVシリーズのみでもちゃんと終わってはいる)。監督はTVシリーズと同じく水島精二。TV版では2部構成だったが、劇場版は若干尺が長いとはいえ1本でまとまっており、分割方式が増えてきた中では好印象だった。
 申し訳ないが私はガンダムの良いファンとはお世辞にも言えず、本作もTVシリーズはふわーっとした印象でしか見ていなかったもので、恥ずかしながら今だに設定の細部(特に組織・人物相関図)をよくわかっていない。なので、本作を見て釈然としないのが自分の理解度のせいなのか映画の造りのせいなのかがよくわからないんですよ・・・。TVシリーズもなのだが、描こうとしていることのスケールが製作側のキャパを超えているんじゃないかなーという印象は受けた。
 ただ、設定の整合性等あまり気にしなければ、そこそこ面白く見ることはできる(多分ガンダムよく知らなくても)。特に戦闘シーンは派手で結構楽しんだ。多少何が起こっているのかわからなくてもいいからスピード感重視でいこう、という意向なのか。賛否割れそうだが私はありの方向で。また、TVシリーズに出てきたキャラクターを極力出してあげようというサービス精神は旺盛。そんなにがんばらなくてもいいなーとちょっと思ったが。
 「わかり合う」ことをテーマとしたシリーズだが、本作の展開からすると、共通の強大な敵が存在しないと、ないしは全人類が同時に強烈な宗教的体験でもしないと人類が人種・国家・文化を越えて手を携えるのは無理なんじゃないの?というところに着地してしまっているように思うが、これは製作側の本意なのだろうか。それとも結果的にそういう印象を与えるようなものになってしまったのだろうか。




『彼女が消えた浜辺』

 友人同士のちょっとした旅行で、家族ぐるみでカスピ海沿岸の別荘地を訪れた一同。その中には初参加のエリという女性もいた。しかし予約していたはずの貸し別荘は満室で、海辺の古い空き家に寝泊りするハメに。それでもキャンプ気分で楽しんでいたが、休暇2日目、海で子供が溺れ、何とか助かったものの、エリの姿が見えない。一同は必死で探すが、彼女は荷物を残したまま姿を消してしまった。監督はアスガー・ファルハディ。
 グループは3組の夫婦とその子供、兄弟によるもの。その中でエリだけがほぼ初対面なんだなということが、徐々にわかってくる。そして、グループの中心であるセピデー(ゴルシフテェ・ファラハニー)が自分の義弟とエリとのお見合いの為に旅行をセッティングしたらしいということもわかってくる。しかし、それにしてはエリは何かを気にしているようだしセピデーは別荘の予約の件にしろ、やたらと強引に物事を進めようとするしで、なんとなく不穏な空気も漂う。ドキュメンタリータッチであまり具体的な説明はないのだが、物語の中の情報を小出しにしていく手順が上手い。小出しにしていくことでストーリーにフックが生まれ、地味な作品ながら見ていて最後まで引っ張られた。
 また、感情、特に不安感の盛り上げ方に妙に気合が入っていたように思う。特に、子供がいないことに気づいた時の大人たちの反応の描き方は、胃に穴が空きそうなストレス感。ストーリー的にはこの後エリの失踪が明らかになってより混乱していくのだが、小集団がうわーっと焦り始めるというか、パニックに陥りそうな状況が後半ずっと続くので、見ていてなかなかにストレスフルだった。ストレス感じると言うことは、描かれている様が真に迫っているということなのだろうが。
 実はエリには隠していたことがあり、それが明らかになったせいで慌てているのだが、少なくとも日本人から見ると、何でそんなに焦るの?というようなもの。イランの文化・習慣についてある程度知っていないとぴんとこないかもしれない。同時に、女性が大学に行って就職して、男女混合で旅行にも行けるようになったのに、この一線を越えたらだめ、というラインがありありと見えてしまって、ちょっと呻った。
 もっとも、エリの事情を差し引いたとしても、彼らの対応はまずいだろう。ウソをつくなら最初に示し合わせて一貫したウソをつけ!と突っ込みたくなった。全員場当たり的すぎる。なおウソに関しては「コーランに誓って本当だ!」と言いつつライトにウソついていたりするので、一般的なイラン人の信仰に対する感覚はこういう程度なのかしら、と気になった。
 事態が混乱していくのは、セピデーのせいでもある。ただ、彼女に悪気はない。全員セピデーを責めるのだが、彼女の夫がもらすように、彼女は何でも任されすぎなのだ。グループの中心であっても、リーダー的存在を背負いきれるほど実は能力はない、にもかかわらず過剰に期待に応えようとしてしまう。こういう人、往々にしているものだけれど、やはり見ているとイラっとするなぁ(笑)。




『トイレット』

 ロボットプラモデルオタクのレイ(アレックス・ハウス)、ひきこもりのモーリー(デイヴィッド・レンドル)、勝気な大学生リサ(タチアナ・マズラニー)の3兄弟は、母親の死後、母親が日本から連れてきた「ばーちゃん」(もたいまさこ)、そして猫のセンセーと同居することになった。全く英語が通じないばーちゃんと3兄弟との、ぎこちない生活が始まった。監督は荻上直子。
 監督の前作「めがね」は、あまりに選ばれた人々のユートピア感が強すぎて若干ひいてしまったのだが、本作は程よく地に足がついているように思った。何よりユーモアとペーソスが増しているところに安心した。それにつけても日本のトイレは実に偉大だ。エンドロールでTOTOにでかでかと謝辞が寄せられているのにも納得。
 3兄弟は全員、決して特別にしっかりしているわけではなく、むしろ至らない人間だ。モーリーは、パニック障害のせいで外出が出来ない、ピアノの才能があるのにコンテストに出られないという結構な問題を抱えている。まともに社会人をやっているレイも、自分が冴えないオタクであることに密かにコンプレックスがあるし、一家の責任が全て自分に降りかかってくるとイライラしている。リサはわりと普通の子だが、片思いのイケメン同級生(ナルシスティックな詩を授業で発表)に、「君はフェイクじゃないの?」と言われて言葉に詰まってしまう。彼らは自分がスタンダードな道からちょっと外れているんじゃないか、そのことで何となく損しているんじゃないかと思っているのでは。授業中、いかにもなモテ服に身を包んだ同級生の詩の発表(これがまた凄まじくてですね・・・)を見るリサと友人の表情がいい(リサの服はモノトーンでややロックテイスト)。
 拠り所である母親がいなくなったことがきっかけで、彼らが抱えていた不安やイライラがより膨れてしまった。そんな彼らが一歩踏み出すきっかけになるのが、ばーちゃんの存在だ。ばーちゃんは英語をしゃべらないので、孫と意思疎通が出来ているのか定かではない。しかし、ここぞというところで無言の思いやりを示してくれる。演じるもたいまさこは、今や荻上映画のミューズといってもいいが、何かを超越した存在のようになってしまっていた「めがね」と異なり、本作のばーちゃんは、多少貫禄がありすぎるが普通の人なのだろう。デリバリーのスシにため息をつき、キャットフードを買いに出て道に迷い、孫たちの言動に戸惑う。超然としているように見えるが、ばーちゃんは娘が死んだことに傷つき、孫たちを心配し、力になりたいと思っていたのではないか。彼女がただ一度発する言葉の力強さにぐっときた。
 心が落ち着くと、自分についても他の人についても、これまで思い込んでいたのとは別の面が見えてきて、世界は少し風通しがよくなる。「君、実はいい奴?」というセリフには笑ってしまった。レイは友達いないいない言っているけれど、客観的に見るとこのセリフが向けられた相手とは既に友達みたいなのだ。




『ナイト・トーキョー・デイ』

 築地の魚河岸で働くリュウ(菊地凛子)は、殺し屋というもう一つの顔を持っている。ある日、石田(榊英雄)という男が、スペイン人男性ダビ(セルジ・ロペス)の殺害を依頼してきた。リュウはダビが働くワインショップを訪れ、食事、セックスをする仲になるが、彼に本気で惹かれ殺すことが出来ない。監督はイザベル・コイシェ。
 リュウの友人である音響技師(田中泯)がナレーターとなっているのだが、カメラ自体は音響技師の目というわけではなく、彼が知りえなかったはずのことも映す。音響技師はリュウのことは殆ど知らない、と最初に言っているのだが、そのナレーションは彼女をよく知っていると思われるもの。だったら「天の声」的なナレーションにしてしまえばよかったように思うが。そのちぐはぐさが気になった。コイシェ監督は映画の構造をわりときっちり作ってくる(どの視点なのかブレない)タイプのような気がしていたので、本作のようなユルい・・・じゃなくて雰囲気重視な作品を撮ったのは意外だった。
 冒頭、いきなり女体盛が登場したり、もろに昔の任侠映画を彷彿とさせるショットがあったりと、これは例によって外国人監督による「フシギの国、ニッポン」ものなのかと思ったら、見ているうちに段々違和感を感じなくなってきた。すごく違和感を感じる人もいるだろうとは思うが、私にとってはそういえば東京はこんな感じでもあるな、と腑に落ちたからだと思う。日本人キャストが普通に日本語しゃべっているからかもしれないが。町の風景や風俗はそんなに妙には思わなかったけど、リュウの最寄駅前の広場で行われていたワークショップみたいなものは、そこだけ黒沢清の映画みたいで時空がひずむかと思った。
 コイシェ監督は、人の心の動きは描くが、なぜそうなったのか、というところに関してはあまり言及しないように思う。本作でもリュウがなぜダビに惹かれたのかは全く言及されていない。ダビがリュウに惹かれたのは、自殺した恋人の補完(恋人は菊地の二役)と思えるのだが。2人がなぜ恋に落ちたか、ではなく、2人の間に流れる、東京の町や音を含めての何がしか、の方が監督にとっては大事なのだろう。とりとめもない、監督の作品にしては割と軽い作だが、娘に自殺されて娘の恋人であったダビを恨む長良(中原丈雄)とその部下である石田の苦しみは、これまでの監督の作品を思わせるものだった。




『ベンダ・ビリリ! もう一つのキンシャサの奇跡』

 コンゴ民主共和国の首都キンシャサ。、“スタッフ・ベンダ・ビリリ”は、リーダーであるリッキーを筆頭に、ホームレスやストリートチルドレンらによって結成されたバンドだ。2004年、彼らと知り合ったフランス人映像作家のルノーとフローラニは、彼らのアルバムとドキュメンタリーを作ろうとする。しかし様々な事情によりレコーディングは中断され、なかなか完成しない。2009年にハルバムが発売されるまでの数年がかりとなったレコーディングと、ワールドツアーを追ったドキュメンタリー。
 バンドのメンバーの多くはポリオで半身不随になっており車椅子(自転車を改造したもので、手でペダルをこぐような感じ)生活。そんな彼らが「子供にポリオのワクチンをうってくれ」と歌うのでやたらと説得力がある。この歌に限ったことではなく、寝床となるダンボールの歌や、子供たちにギャングにはなるなよと呼びかける歌等、彼らの歌の歌詞は自分達の生活に根ざしたものだ。そういう歌詞の背景となっているコンゴの社会問題やホームレスの生活をもっと前面に出すことも出来ただろうが、本作はあくまで音楽映画、音楽に相対する人たちの映画として作られているところが潔い。社会背景をもうちょっと知りたいなと思うところはあったが、それは見た人各自でお勉強してね、ということだろう。
 彼らの音楽はコンゴの大衆音楽がベースとなっているそうだが、とてもダンサブルで力強い。路上生活を歌った歌詞であっても音が軽快なので愚痴っぽくなく、カラっとしている。とにかく踊れる音楽という感じで、ラブソングの中には、JBへのオマージュが込められているらしきものも。音楽そのものも力強いが、バンドメンバーの音楽で生きていく、人生を変えるという情熱の強さを感じた。リーダーであるリッキーが、バンドのマネージメントをかなり考えているらしいところ、自分に何かあったときもバンドが立ち行くようにと考えているらしいところが印象に残った。
 優れた音楽映画には魔法のような瞬間があるが(もちろん普通の映画にも魔法のような瞬間はあるが、音楽映画のそれはより強烈だと思う)、本作では、スタッフ・ベンダ・ビリリ初の海外公演、フランスの野外フェスでのステージが強烈だった。バンドメンバーにロジェというサトンゲ(一弦ギター)奏者の少年がいるのだが、彼がステージの上で化ける。彼は13歳でバンドに加わり、一度実家に帰って再度加入しているので、心身も演奏技術も成長しているのが自然ではある。ただ、このステージの上ではそれを上回る、これを表現したい、こういう表現がしたいという情熱が一気に爆発したようなパフォーマンスを見せている。自分の音楽を見つけた瞬間だったのではないかと思い、鳥肌が立った。
 彼らは現在もワールドツアー中で、日本にもやってくるそうだ。公演が成功することを願う。




『イキルキス』

舞城王太郎著
中学生の女子生徒のみが連続死する事件に直面した少年を主人公とする表題作を含む、全3編を収録した中編集。ストレートな青春、というか思春期小説だ。この作家はデビュー当初から愛を叫ぶことに全く躊躇がなくてすごいな(笑)。本作でも男女のであったり、友人のであったり、家族であったりの愛が描かれる。表題作は中学生の恋なのか欲望故の勘違いなのかよくわからないテンションがあるある感満載でかわいいし笑えた。女子の妙な結束は正にあるある!で怖いのだが。『鼻クソご飯』は題名があんまりにもあんまりなのだが、愛と暴力の中毒性みたいなものは一番濃く出ている。主人公にもその彼女にも、いやそれまずいんじゃない?!と突っ込みたくなるのだが、どうも切ない。『パッキャラ魔道』は3編の中で一番好きだ。家族が解体し、また(元の構成員とは違うかもしれないけど)再編されていく過程が、その契機はハリウッド映画みたいだけど以降は結構地に足がついた風に描かれる。特に両親の別離とそれぞれの新たなパートナーとの顛末が、ほどよくショボくてニマニマしてしまった。子供たちは当然そのとばっちりをくっていくのだが、人生はそれでも続き、そう悪くもない、というちょっとした安心感がある。ラスト、父親のスピーチがわりと陳腐なのもよかった。人生が陳腐で何が悪い!という腹の括り方。




『獣の樹』

舞城王太郎著
西暁町で、14歳の状態で雌馬から生まれた成雄。人間としての生活に慣れてきたころ、蛇に乗った少女・楡と出合う。そして町内では奇妙な連続殺人事件が起きていた。講談社ノベルズから出ているということで、ミステリ寄りの作品。でもミステリとしての構造はそんなに強くなく(相変わらずすっとんだトリックだけどわりと大味)、ハードカバーで出していたような少年少女の成長ものとしての側面が強い。ただ、今までは愛だろ愛!という感じだったが、今回は少年が自分の中の衝動に耳を傾けていく(彼が森の中にひかれていくのもそうか)。「考えろ」というフレーズが多用されているが、考えてもそんなに事態が好転せず衝動的にやったことの方が事態を動かすことになっているような(笑)。争いを選ぶ方向の物語は著者の作品の中では初めてなように思う。




『死体絵画』

アストリット・パプロッタ著、小津薫訳
ピエロのような化粧が施されたホームレスの死体が立て続けに発見された。捜査にあたったイナ・ヘンケル警部は、犯罪報道番組の看板女性キャスター・デニーゼとの関連を疑う。ドイツ・ミステリー大賞を受賞した作品で、パトリシア・ハイスミスの再来とも言われている作家だそうだ。ハイスミスほどの底の見えなさは乏しいものの、確かに全体に漂ういや~な(笑)雰囲気は似ているかもしれない。ハリウッド映画風にどんどんストーリーが展開するアメリカのミステリとは異なり、作家個人の資質なのかドイツミステリの特徴なのか(多分前者だろう)、事態はなかなか動かず登場人物の心理の流れに比重が置かれている。イナはバリバリ仕事はこなすが捜査中に容疑者を射殺してしまった過去がトラウマになっており、精神的には不安定。その不安定さにストーリーがひっぱられてふらふら停滞しているようにも見える。彼女がなんとか自分を立て直そうとしている姿はもどかしい。もっとも、捜査の進まなさは却ってリアルで、実際はこんな感じでイライラするんだろうなーという感じもするのだが(笑)。複雑そうに見えた事件が非常にシンプルな動機により終息するのが印象に残る。




『酔眼のまち ゴールデン街 1968年~98年』

たむらまさき、青山真治著
映画キャメラマン、たむらまさき。彼のキャリア、映画界の動きを、新宿ゴールデン街を主な舞台に映画監督・青山真治が聞き取りした一冊。青山によれば、たむらはインタビュアー泣かせだそうだが、本著では自分の生い立ちからキャメラマンとなったきっかけや、様々な監督とのエピソードを披露しており、聞き手の上手さもあったのだろうなと思う。あの頃の日本映画界、また新宿の街は熱気があった、という懐古趣味な話になりそうなところがそうはならないところがいい。当時の映画人コミュニティの記録をちゃんと残しておきたい、という意欲がそれを上まっている。日本映画史における証言として貴重なのでは。映画の現場ってこういう感じで動くのか~という面白さも。



『愛と憎しみの新宿 半径一キロの日本近代史』

平井玄著
新宿で生まれ育った著者が、自分の青春時代を交えつつ、1960~70年代の文化史を映画、文学、ジャズを中心に考察する。日本の文化史ではあるが、サブタイトルにもあるように、あくまで新宿のごく限られた地域を中心に語られているところが、新宿に親しむ身としては面白かった。街を通して日本が見えてくる。特に著者は新宿で商売(洗濯屋の息子だそうです)している家で育ったからか、視線が(経済的にはあまり豊かではない)暮らしに根ざした、底辺からのもので、生活感と一体であるように思った。著者は新宿高校の出身だが、余所から通ってくる学生の立ち位置とはやはり少し違っていたようだ。「愛と憎しみの新宿」という題名は大げさだがこの街に暮らしてきた人だからこそ、説得力を持って付けられる題名であると思う。著者の語り口も少々くどいが、当時の熱気が伝わるし、あの時代を語るにはふさわしいかもしれない。新宿好きならずともお勧め。映画好きとしては、冒頭にとりあげられていたゴダールがフックになったし、若松孝二の作品がいかに衝撃的だったか、ようやくぼんやりとわかった。








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