3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2010年08月

『配達あかずきん』

大崎梢著
首都圏のチェーン系書店を舞台に繰り広げられるちょっとした謎に、書店員の杏子と勘の鋭いアルバイト・多絵が挑む。古本屋や専門書店ではなく、ごくごく一般的な大型書店というところが意外に新鮮。ミステリとしては小粒な「日常の謎」ものだが、書店ならではのトリックが好ましい。ただ、それゆえちょっと苦しいなというところもあるのだが。むしろ書店の営業がどのように行われているかというところを見ることができて、お仕事小説として読める。利用は頻繁にしているが、書店のシステムは意外に知らないなと。書店員さんが全員読書家というわけではないというのは、頭では分かっているし実体験としてもわかっているのだが、やはりちょっとがっかりしてしまうのよね、読書好きとしては・・・。なお、妙に少女マンガテイストがある作風だなと思っていたのだが、コミカライズされているんですね。漫画化との相性は良さそうだ。




『煙の樹』

デニス・ジョンソン著、藤井光訳
元アメリカ軍大佐フランシス・サンズとその甥でCIAのウィリアム・サンズを中心に、アメリカ人ベトナム人ともにベトナム戦争の波に飲み込まれていく群像劇。登場人物が大勢いて、偽名をそれぞれが使うこともあるので、わざと混沌とさせていくような構成とも相まって、読んでいて混乱しそうになった。人物一覧表が欲しかったなー。戦況は混迷していき、敵地へ潜入するスパイたちでなくても、自分がどちらの側にいるのか、敵ははたして誰なのかが曖昧になっていくように見えるし、そもそも真の敵は誰なのかなどどうでもいいようにも思えてくる。サンズ元大佐は徐々に誇大妄想にとりつかれたかのようにふるまい、「赦される」ことについて語るがそれはうすっぺらく響く。全般的に、この人たち何やってるんだろうというむなしさがぬぐえない。戦争という行為のむなしさはもちろんなのだが、それぞれの人物が自分がやっていることに確信がもてない、ないしは妄想めいた確信を持ち過ぎているからか。特にサンズは最後までなにやろうとしてるのかわからなかった・・・。群像劇というと、個々の人々の姿がリンクし合い、徐々に全体像が見えてくるパターンが多いが、本作は多くの部分が断片的にしかわからない。全体の流れが見えないので不安だが、それはほとんどの登場人物が感じる不安さでもあるのだろう。




『ボート』

ナム・リー著、小川高義訳
生後間もなく、ボートピープルとしてベトナムからオーストラリアへ渡ってきた作家による短編集。しかし最初に収録されている「愛と名誉と憐れみと誇りと同情と犠牲」は、出自を小説の題材にしまいとする作家の卵であるベトナム系青年と、過去について多くは語らない父親との葛藤の物語。ラストにはひっぱたかれるような軽いショックが。言葉では表せないものがある、小説ごときでは表せない体験があるということか。その「書けなさ」を小説の中に書くことの苦みが余韻を残す。他の作品は作者本人の出自とは関係なく、「ヒロシマ」のように取材と想像力の力を十分に発揮した、作者のどや顔がなんとなく浮かんでくる(笑)ものもある。しかしどれも、どこか喪失感や決定的な何かが変わってしまった瞬間を感じさせる。そして、最後に収録された表題作は、作者の出自をそのまま題材に使ったような、難民ボートに乗り込んだ少女の物語。踏ん切りがついたのか。




『夜と灯りと』

クレメンス・マイヤー著、杵淵博樹訳
主に旧東ドイツを舞台とした短編集。著者は東ドイツ出身で、デビュー作は「東ドイツ版トレインスポッティング」と称されたそうだ。本作を読むと、それもなんとなく納得できる。登場する人々はいわゆる「負け組」で社会の底辺にいる、今後もそこから這い上がってくる見込みが薄い人たちだ。悲哀がにじみすぎて、読んでいてわが身に置き換え鬱々としてきた。共感したくないところばかり共感できる・・・。希望がわずかに見えたかと思うとまた突き落とされるような、「犬の馬のこと」のラストなどどんな駄目押しかと。ただ、底辺の人生にも美しい瞬間や喜びは当然ある。美しさと悲しみがないまぜになった「おれたちは旅する」「通路にて」が良い。文体はあっさりとしていてそっけないが、対象に対する著者の共感が深く、突き放しきった感じはしない。読んでいて物悲しいけど親しみが湧いた。




『占領都市ベルリン、生贄たちも夢を見る』

ピエール・フライ著、浅井晶子訳
第二次大戦直後のドイツ。アメリカ、ソ連、フランスに分割占領された街で、金髪のドイツ人美女のみを狙った連続猟奇殺人事件が起きる。ドイツ人警官ディートリヒは、非協力的な米軍にひるむことなく捜査を続ける。事件を追う警官とアメリカ軍のパートと、被害者女性たちの背景が交互に描かれる。お互いわずかに交差する女性たちの人生が、それぞれ生き生きと描かれている。皆ちょっと美人すぎ(美人を選んで殺しているという設定だから当然だけど)、セクシーすぎなきらいはあるが、魅力的に描かれており、だからこそ彼女らの死がくやしい。全員、人生で大切なものをようやくつかみかけたというところで殺されるので、いやらしいといえばいやらしいストーリー展開なんだが(笑)。ミステリとしてはちょっと単調なのだが、当時のドイツの人たちの生活や風俗などが詳しく描かれていて面白い。特に、ナチスが台頭していく中変化していく国民の気分、また物資の足りない様、それをどういった方法でやりくりしていたかというような部分はよく取材してあると思う。ただ、硬派な時代物ミステリというよりはパルプフィクション的なノリ。セックスが占める部分が結構あるというのも(笑)。表紙もいい意味でお安い感じ。




『もぎりよ今夜も有難う』

片桐はいり
もともと女優としての著者は好きだったのだが、『わたしのマトカ』『グアテマラの弟』という2冊のエッセイで、文筆家としてもぐぐっと好きになった。そんな著者の新作は、『キネマ旬報』で連載されていた映画エッセイ。著者は学生時代、銀座の映画館(今のシネスイッチ銀座。当時はまだミニシアターではなかった)でもぎりのバイトをしていたそうだ。その頃の体験や近年のシネコンや地方の独自色強い映画館など、映画館と映画にまつわエッセイだというから、映画好きにはうれしい。映画だけでなく映画館(むしろこっちか)に対する著者の愛情、思い入れが嫌味なく伝わってくる。いきあたりばったりで旅に出て、旅先で映画館を探すなんて、素敵だ!あの存在感で既に有名人なのに立川のシネコンでもぎりやってた(当時何かの記事で読んだ覚えがあるが)なんて、素敵だ!著者の人柄の良さと映画館への愛が窺える好作。独立系映画館も、シネコンも、地方の劇場も、等しく愛するおおらかさがいい。




『キャタピラー』

 太平洋戦争中の日本。出征したシゲ子(寺島しのぶ)の夫・久蔵(大西信満)は、顔は焼けただれ手足を失い戻ってきた。「軍神」として村の中で祭り上げられた久蔵を戸惑いつつも世話するシゲ子だったが、2人の関係は徐々に変化していく。監督は若松孝二。
若松監督の作品は「実録・連合赤軍 あさま山荘への道」しか見ていないのだが、編集の思い切りがいいという印象がある。本作でも、直線的ではあるのだがスパスパ進んでいくのが気持ちいい。
 戦争によって運命を狂わされた夫婦を描くことで戦争の悲惨さを訴える・・・はずなのだが、それ以上に男女の間のパワーバランスの逆転に次ぐ逆転が迫力ありすぎて、戦争の部分を忘れそうになる。迫力がありすぎるというのは、寺島しのぶの力も大きい。手足をなくした夫を見る目、面倒くさそうにセックスに応じる時の表情や口ぶりなど、堂に入りすぎて怖い。村の生活になじんでいるようでなじんでいないとか、夫に対する複雑な表情とか、微妙な表現が抜群にうまい。
 夫が戦場で手足をなくし「軍神」と祭り上げられたことで、シゲ子は体の不自由な夫から逆に逃げられなくなり、貞淑かつ献身的な「妻の鑑」をやらざるをえなくなる。ここまでは、奥さんも運が悪いな~とか、戦争さえなかったらこんなことには・・・とか思っていた。しかし、彼女がこの「軍神の妻」という設定に乗っかってくるところからぞくぞくしてきた。模範的な妻という形で夫を丁寧に扱っているようでいて、実は見世物扱いをしており、夫を支配するようになる。以前は久蔵がシゲ子を支配し暴力をふるっていたが、それが逆転し、シゲ子が復讐をしているように見えるのだ。夫と妻の関係だけでなく、冒頭に久蔵が戦地で行っていた行為からすると、女性全般から復讐されているような構図に。暴力をふるう側とふるわれる側が逆転している。その逆転が、戦争という大きな暴力の下で起こっているという、暴力が裾野の方まで連鎖して広がっているような構図がおそろしい。ただ、男女のぶつかり合いがあまりに迫力あって、戦争云々は見ているうちについ忘れてしまったのだが。
 ただ、仮に戦争が起こらず久蔵が戦地へ行かなかったら、多分シゲ子は久蔵に殴られ続ける人生だったろう。そう思うと複雑だ。シゲ子が手足を失い会話もろくにできない久蔵と、わずかに「夫婦」らしく見えるやりとりをする所にも胸を突かれた。映画自体はわりとスパスパ切っていく作風なだけに、夫婦の割り切れなさが印象に残る。




『ぼくのエリ 200歳の少女』

 12歳のオスカー(カーレ・ヘーデプラント)は、学校でいじめにあっており友達もいなかったが、母親にはそれを言えずにいた。ある夜オスカーは、団地の中庭で風変わりな少女エリに出会う。エリ(リーナ・レアンデション)はオスカーの家の隣に越してきたのだ。オスカーとエリは毎晩外で会い、部屋の壁越しにモールス信号を送りあうようになる。一方、町では凄惨な連続殺人事件が起きていた。原作はヨン・アイヴィデ・リン ドクヴィスト『モールス』、監督はトーマス・アルフレッドソン。リンドクヴィストは脚本にも参加している。
 耽美さがかすかに漂うゴシックホラげー。もっとも、ホラーというほどには怖くないが。原作を少々はしょっており、消化しきっているとはいえないものの、かなり忠実。ストーリーラインそのものというよりも、作品全体に漂う静謐な空気感が近い。原作のファンにも(というかファンには)お勧めできる。音の使い方、というよりも音のない部分の使い方が上手くて感心した。ハリウッド映画や日本の大作映画だと、ここまで思い切って音楽なしにはできない。音楽を使うところでは盛り上げ、使わないところではすっぱり使わないという姿勢が潔かった。この潔さは説明の少なさにも表れている。原作を読んでいない人は、バーで集まっている大人たちのエピソードなどには取ってつけたような違和感を感じるかもしれない。エリと同居している男性との関係や、オスカーの同級生らの背景も、具体的には説明されず、見る側が提示された情報から解釈していくという向きが強い。それを負担に思う観客もいるだろうが、個人的にはこのくらい控えめな説明で丁度いいと思う。ハリウッドでのリメイクが決まっているらしいが、ハリウッド的親切設計にすると、本作の良さがなくなってしまう気がする。
 ただ、情報を解釈という点から言うと、一か所ボカシが入ったのは痛恨。これを映像的にちゃんと見せないと、エリが背景に持つ意味合いがあいまいになってしまう、ないしはミスリードされてしまう。日本では仕方ないんだろうけど惜しい。
 オスカーとエリの行き場のなさ、世界から疎外されている感じが彼らを近づけていく。特に、最初から異形の者として登場するエリはともかく、普通の少年であるオスカーの孤独は、同じような気持ちでいる子供が大勢いるだろうなと思わせる。別居している父親との、一見親密だが何かの拍子で父親が遠のいてしまう感じが子供目線でリアル。同級生のいじめにあらがえない無力感もイタい。子供の世界の狭さが息苦しいのだ。
 無音のタイトルロール、ほのかに血の色となるエンドロールをはじめ、色彩加減がとても美しい。病室やプールのシーンなどおそろしくも静謐で印象が強く残る。この部分は原作のイメージに特に近かった。




『ゾンビランド』

 ゾンビ化するウイルスが全土に蔓延し、ゾンビ王国となってしまったアメリカ。引きこもりだったおかげでゾンビ化せずにすんだ大学生コロンバス(ジェシー・アイゼンバーグ)は何とか生き延び、故郷の町を目指していた。旅の途中でゾンビハンターのタラハシー(ウディ・ハレルソン)、美人詐欺姉妹のウィチタ(エマ・ストーン)とリトルロック(アビゲイル・ブレスリン)と出会い、ゾンビがいないという遊園地「パシフィックランド」を目指す。監督はルーベン・フライシャー。
 楽しかった!ゾンビ映画のセオリーに基づいているのかどうかはわからないが(私あまりゾンビ映画見たことないので)、映画愛に満ち溢れている。多分、過去のゾンビ映画を踏まえているのだろうし、後半あるハリウッドスターの邸宅に忍び込んでからの会話は、映画好きならニマニマしてしまうもの。映画愛に溢れた作品だ。リトルロックがある有名映画を知らなくてコロンバスがショックを受けるところなどもおかしい。TVで見るとかないのかな~。日本の子供は結構知っているような気がするが。
 最近妙に需要が伸びている童貞主人公映画としてもいい。外に出ないからゾンビ化せずにすんだという設定が無茶で笑ってしまった。寮でのエピソードを見るところ、強くはないが危機回避能力は意外に高そうなので、引きこもっていたから生き延びたというわけでもなさそうだけど(笑)。コロンバスは慎重に慎重を重ね、「32のルール」を遵守してゾンビから逃れる。あまり融通がきかず臆病な彼が、タラハシーやウィチタに触発され、徐々にルールを破り、あるいは新しいルールを加えて一歩踏み出していく。ちょっと自由になっていく感じがすごくよかった。「ちょっとしたことを楽しめ」というタラハシーのルールは聞きようによっては皮肉にもなるが、本作ではそれが素直に聞ける。
 ウディ・ハレルソン演じる、過剰にマッチョな男・タラハシーも、詐欺師姉妹も、共に(騙しあいつつ)旅をすることでほんのちょっと自由になっていく。また、4人の間に擬似家族のようなつながりが生まれていくところがほほえましかった。冷静に考えるとお先真っ暗のディストピアものなのに、妙に幸福感が残るのはそのせいかも。
 タイトルロールやルールの見せ方等、文字の使い方がユニークで楽しいのも好印象だった。特にタイトルロールはゾンビ・ゾンビで大変景気がいい。




『音もなく少女は』

ボストン・テラン著、田口俊樹訳
第二次大戦後のボストン。耳が聞こえない少女イヴは、暴力的な父親と父親に逆らえない母親の元に生まれた。彼女と母親に手を差し伸べたのは、ドイツからの移民である女性フラン。イヴは写真の才能を発揮し成長していくが、麻薬に溺れた父親の暴力は増していく。著者は戦う男たち、何かの衝動に駆られ破滅へと向かっていく男たちを描いてきたという印象があるが、主人公が女性だと、同じ戦うということにしてもがらりと趣が異なる。彼女らは好んで戦うのではなく、戦わざるをえないから戦う。また、これまでの作品の主人公であった男性たちには、彼らを愛し支える女性たちがいたが、本作の女性たちは女性同士で連帯し、男性、ないしは男性が作ったものと戦う。これは物語の舞台が現代ではなく'50~'60年代だからという時代の違いもあるからだろうが、愛し合っても共闘できない感がドライだ。大変面白く女性たちは力強い。しかし一方で、肉体的・精神的に体に染み付いた暴力に対する恐怖に勝てない無力感が生々しくて、読んでいてぐったりするところも。基本的には目には目を思想の作家なのかなとは思う。暴力憎悪イコール暴力否定ではないのね。最後はちょっとヒロイックすぎるきらいもあるが、いい小説。




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