3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2010年05月

『パーマネント野ばら』

 離婚したなおこ(菅野美穂)は、一人娘を連れて故郷の港町に戻ってきた。母・まさ子(夏木マリ)が営業している美容院は、町の女たちでいつも賑やかだ。なおこの幼馴染のみっちゃん(小池栄子)やともちゃん(池脇千鶴)もよく顔を見せる。「再婚しないの?」と問われるなおこだが、高校教師のカシマ(江口洋輔)と密かに付き合っていた。
 監督は『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』『クヒロ大佐』の吉田大八。前2作とはうってかわった、しっとりと、淡々とした雰囲気の作品になっている。『クヒオ大佐』の時、クヒオよりもむしろ彼をとりまく女性達の造形の方が上手いと思ったのだが、女性造形の上手さが本作では活かされていると思う。
 本作の原作は、西原理恵子の同名漫画。西原作品は過去何作かが映画化されているし、最近では本作と舞台背景が似ている『おんなのこ物語』。ただ、映画化としては、本作が一番成功しているのではないかと思った。原作とはストーリーが若干異なるが、本作が、女性の気持ちに一番沿っているように思う。また、主演の菅野美穂が予想以上に好演していたというのも一因だ。彼女をとりまく母親や友人たちも、いいキャスティングだった。そして江口洋介がやたらとかっこいい。ちょっとかっこよすぎないか?と思ったが、彼の役柄上、これで正解なのだと見終わって納得した。
 監督の作品には一貫して、あまり男運のよくなかったり、イタい人だったり、苦労人だったり、決して世間で言うところの勝ち組ではない女性たちが登場する。そして造形が上手い。この特質が西原作品と相性が良かったのではないかと思う。本作でも、離婚したなおこを筆頭に、浮気性の夫と刃傷沙汰になるみっちゃん、DV男やギャンブル狂ばかりつかんでしまうともちゃん、そして男とくっついたりはなれたりとアグレッシブな港のおばちゃんたち。対男性というところに関しては似たようなタイプばかりなのが気になるが、だからこそ、なおこが若干異色であることが際立つ。
 西原作品が描く女性は女としてたくましすぎて、個人的にはあまり共感することがないのだが(作品は面白いし好き。面白いかどうかと共感するかどうかは別物)、本作は女性の視線に沿っていながら、やや距離を置いたスタンスなのでそんなに気にならなかった。女性達への微妙な距離感は、子供の母親に対する視線が取り入れられたことによって生じているように思う。子供から見られることによって、「母」としての役割に引き戻される。恋愛にひたりたくてもそれは許されない。この引き戻しが、子供時代のなおこから、なおこの娘へと引き継がれているところにひやりとした。ただ、なおこの場合は、子供により引き戻されることが生のベクトルへと戻ることにもなっている。ラストは菅野の表情と相まって「帰ってきた」感がある。






『レギオン』

 砂漠のダイナーで働くチャーリー(ケイト・ウォルシュ)は父親が誰だかわからない子供を妊娠していた。ダイナー店主の息子(ルーカス・ブラック)はチャーリーに思いを寄せており、自分が父親になると申し入れるがチャーリーには拒否される。12月23日、店に見慣れない老婆がやってきた。その老婆は化け物に変貌しチャーリーに襲い掛かる。それを助けたのはミカエル(ポール・ベタニー)と名乗る男。彼によればチャーリーが妊娠している子供は「人類最後の希望」で、襲ってきたのは人間に失望した神が送り込んだ「天使」たち。ミカエルは天使だったが、神を裏切り、チャーリーと子供を守りに来たのだ。監督・脚本・製作はスコット・スチュワート。
 こんな映画どこかで見たなーというような設定。聖書をモチーフにしたホラー、スリラー映画は定期的に生産されているイメージがあるが、コンスタントな需要があるのだろうか・・・。決して出来の良い映画というわけではないが、老婆が牙をむいて襲ってきた時点で心つかまれた(笑)。天使は人間の体を乗っ取って襲ってくるのだが、老若男女分け隔てなく乗っ取るところがさすが天使。子供も容赦なく襲ってきます。そういう意味では悪趣味だが、悪趣味に躊躇がないことで面白くなっている。アイスクリーム売りの変身など、低予算感も相まって味わいがあった。荒野のダイナーに閉じ込められた人たちが外からやってくるモンスターと戦うという設定も定番だろう。意外と奇をてらったことはやっておらず、王道のスリラーという印象。各種フラグは非常にわかりやすいが、わかりやすい故の楽しさはあり、案外満足度は高い。安っぽいのもご愛嬌だ。ただ、王道だけになぜ今このネタを?とは思わなくも無い。監督が脚本・製作もかねているところを見ると、よっぽどこの手の映画がすきなのだろうか。
 天使ミカエル役のポール・ベタニーだが、この人天使というよりは悪魔寄りの顔つき(すいません・・・でもファンなんですよ)なんじゃないのと思っていた。だが人間離れした雰囲気があるという意味では、天使でもそんなに違和感ない。案外スタイルが良くてアクションが映えるというのもある。とりあえずベタニーのファンなら見て損はないだろう。銃器を振り回して存分に活躍してくれる。なおミカエルと対決する天使としてガブリエルが登場するのだが、本作の天使は全員おっさんなのね(笑)。武闘派すぎて吹いた。




『処刑人Ⅱ』

 殺し屋「セイント」にイタリアンマフィアのボス、ジョー・ヤカベックが殺されて8年。「セイント」であるコナー(ショーン・パトリック・フラナリー)とマーフィー(ノーマン・リーダス)のマクナマス兄弟、そして2人の父親である天才殺し屋エル・ドゥーチェ(ビリー・コノリー)はアイルランドの田舎で隠遁生活を送っていた。しかし殺され古巣のボストンで神父が殺され、死体にセイントの犯行を思わせる細工がされるという事件が。兄弟はボストンに戻り、犯人を探し始める。監督・脚本は前作と同じくトロイ・ダフィー。
 本作を見る前に、TV放送していた1作目を見てみたのだが、フラナリーとリーダスが案外老けてなくてびっくりした。1999年公開の前作から、実に11年ぶり(日本では10年ぶり)の第2作公開。1作目のキャストが勢ぞろいというファンにはうれしい作品となっている。そもそもトロイ監督、ここ10年間で本作以外の映画撮ってないんじゃないのか?!どうやって生活していたんだ・・・。そんなに1作目がヒットしたということなのか。ファンが2作目をずっと待っていたということは、愛された作品ではあるんだろうなあ。
 登場人物だけでなく、アクションシーンの見せ方(いざ事を起こそうとする→事は既に済み警察の現場検証→刑事の推理の中でドンパチ)も前作を踏襲している。この方式、映画の流れを緩慢にしていて(あっ、ここでCM?とか思っちゃう)少々まだるっこしいのだが、続編という面をすごく重視しているのはわかる。出演者もスタッフも楽しかったんだろうなーという雰囲気があって、映画のクオリティは正直ぱっとしないが、完成してよかったねぇとニコニコしたくなる作品。血しぶきが飛び散るほどになごむ映画というのはなかなかないと思う。
 前作はキリスト教会から猛クレームがついたらしいが、本作もやっぱりクレームつきそう。また、ジョークがより中学生男子的な下ネタに寄っていっているのは気のせいでしょうか・・・。マッチョというより男子なノリ。




『パリより愛をこめて』

 パリ駐在のアメリカ大使館職員リース(ジョナサン・リース・マイヤーズ)は、実はCIAの捜査官。しかし担当する業務は簡単なものばかり。より高度な任務に就きたいと再三上司に訴えていたリースの元に、アメリカから「相棒」ばたずねてきた。その男ワックス(ジョン・トラボルタ)は麻薬密売組織を追ってきたというのだが、捜査活動が破天荒すぎてリースはふりまわされっぱなしに。
 監督は「96時間」のピエール・モレル。プロデュースは「96時間」に引き続きジャック・ベッソン。ベッソンとトラボルタの名前が並んでいる時点でどう考えてもB級アクションだろうと思えてしまうところがある意味すごい。まさかの快作だった「96時間」には及ばないものの、期待を裏切らないいいB級だった。
 トラボルタ演じるマックスのやることは無茶すぎて、捜査として効率がいいのか悪いのかわからない。リースと上司とは電話のみのやりとりという経緯があるので、終盤の方まで、これはもしや自称捜査官で実は頭のネジが飛んでる妄想の世界の住人なんではないかしらという疑念がぬぐえなかった。リース・マイヤーズと並ぶと「ジャンル違います」感が強烈なのも一因だろう。これは観客である私の側の問題かもしれないけど・・・(リース・マイヤーズというと未だに「ベルベット・ゴールドマイン」のイメージなので、派手なアクション映画に出てると不思議な気がする)。
 ただ、この顔合わせが案外悪くなかった。トラボルタは相変わらず大味な演技(笑)なのだが、どんな無茶な展開も「まあトラボルタ(&ベッソン)だから・・・」と納得(諦めともいう)させてしまう何かがある。これも人徳というやつか。欲を言えばもうちょっと動きにキレが・・・とは思うが、典型的アメリカのマッチョが、「パリっていったらエッフェル塔でモーニングだろー」言ってたりバカラック好きだったりするところが妙に愛嬌がある。対してリース・マイヤーズは、やや線の細い面立ちが少々ロマンチストな青二才エージェント役には合っていた。なんとなく詰めが甘そうというか、女性に騙されやすそうな雰囲気が出ているところがいい。序盤のガムの件には笑ってしまった。
 ガンアクション、カーアクションはかなり派手。最近のアクション娯楽映画では、ハリウッド作品よりもむしろフランス(というかリュック・ベッソン)だったり中国だったりの作品の方が派手に銃弾と血しぶきを使っている印象があるのだが、ハリウッドの規制が厳しくなっているのか?本作の銃器の使い方はかなり能天気で、いいのか?!と突っ込みたくなるのだが(ジョニー・トー作品のような様式美があるわけでは全くなく、垂れ流し状態だし)、そこがまたいいんだろうなぁ。




『淡島千景 女優というプリズム』

淡島千景他編著
女優・淡島千景への1年にわたるインタビュー集。宝塚時代の話、代表作をピックアップして(インタビューを読むと、取り上げた作品のDVDを鑑賞しながらの聞き取りをしている)の話など読み応えがある、大変な労作。淡島千景という女優の半生や撮影のエピソード的なものはもちろんだが、当時の映画ビジネスはこうなっていたのかとか、共演した俳優たちの横顔とか、当然当時の時代背景、時代の空気感など、勉強になるところが多々あった。私は過去の邦画にはあまり詳しくない(本作で取り上げられている作品も見たことあるのは数作のみ)のだが、映画に多少なりとも関心がある人なら面白く読めると思う。何より、淡島千景という人物の人柄がすばらしい。結構さばさばしていて、そんなに考えて演技するほうではないと言う(自称だから、実際にはすごく考えているのだと思うが、多分理屈っぽい人ではないのだと思う)。物事に無闇に囚われない姿勢が魅力的だった。女性の生き方として一つのモデルケースにもなり、あの時代にこういう人がいたのだと勇気付けられる面もあった。インタビュアーもやはりそう思ったのだろう。インタビューしていくうちに、淡島に、インタビュアーにとってのモデルとなる女性の姿を重ねて見ているような所があった。そういうモデルを引き出せるのは、淡島の女優としての力でもあると思う。また、インタビュアーが自分の思いを淡島に重ねることに対して、実際はこうなんですよ言うのではなく、そんなこともあるかもしれないわねと引き受けていく
ところに、女優としての懐の深さと凄みが感じられた。




『野生の探偵たち(上、下)』

ロベルト・ボラーニョ著、柳原孝敦、松本健二訳
1975年の大みそか、前衛詩グループ「はらわたリアリスト」を率いる若き2人の詩人、アルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマは、1920年代にわずかな作品を残したという謎の女性詩人セサレア・ティナヘーロの足跡を辿り、メキシコ北部の砂漠にたどり着いた。2人はここから姿を消し、世界中を放浪する。50人余りの人々へインタビューと、1人の詩人志望の少年の日記で構成された、一風変わった小説。様々な人々の話から2人の詩人と彼らが率いた詩人グループの約20年間の変遷が浮かび上がる・・・と思いきや、詩人たちの話をしているようでどんどん自分の話になっちゃったり、この人大分妄想入ってるんじゃ・・・という人もいたりで、ベラーノとリマの輪郭はぼやけていくばかり。結局彼らは詩人らしいことをしていたのか?はらわたリアリストなるグループは何をしていたのか?情報が増えれば増えるほど曖昧になっていくのだ。くっきりと形をなすのは、彼ら2人ではなくインタビュー回答者である個々の人々の生きる姿だ。インタビューという形式なので、個々の人たち(実在の人物も交じっていてカオス状態)のプロフィールが明らかになっているわけではない。それでもこういう人なんだな、こういう人生送ってきたんだなというのがわかってくる。メキシコの社会が変容していく様と相まって、活気に満ちたうねりを感じた。南米文学や歴史をある程度知っていないと正直厳しい内容ではあるが(勉強不足で反省しました)、読み応えはある。もっとも、ここまで縦横無尽にペダントリィを発揮されるとついていけなくて情けなくなります・・・






『グリーン・ゾーン』

 イラク戦争開始から4週間が経過した。大量破壊兵器が隠されているという情報に基づき、米軍兵士のロイ・ミラー(マット・ディモン)は部下を率いてバグダッド中を奔走していた。しかし武器探索は常に空振りに終わる。提供された情報に不信感を持ったミラーは、CIAの調査官ブラウンに近づき、協力して事の真相を探ろうとする。監督は『ボーン・アイデンティティー』シリーズのポール・グリーングラス。
 本編の前にストーリーの背景、グリーンゾーンという言葉の意味が説明された。おそらく日本独自の仕様だろう。これを親切と見るかおせっかいと見るかは人それぞれだろうが、私は説明してくれて助かった。説明しすぎてもうっとおしくなるので難しいところだとは思うが、微妙に時期のずれた時事ネタ(笑)の場合は有効だろう。
 で、「時期のずれた時事ネタ」と書いてしまったが、時事ネタ映画は公開時期が難しいと実感した。本作、面白いことは面白いし、監督がやりたかったこともわかる。が、やはり今更感が否めない。製作を始めた頃はタイムリーだったんだろうけど・・・。今となっては「そりゃあそうなりますよね」「お話的にはそう落とすしかないですよね」という気持ちの方が前面に出てしまう。映画自体の出来とは別問題なだけに非常に勿体無い。アメリカでの反応はどうだったのかなぁ。
 さて、グリーングラス監督とディモンの組み合わせでアクション映画というと、もう「ボーンシリーズの新作ですか?」としか思えないのだが、全くの別作品。臨場感溢れるスピーディーなアクションシーンは健在だが、臨場感溢れさせすぎ(カメラ手ブレ演出させすぎ)で、かなり見辛くなってしまった。特にクライマックスは夜のシーンで画面が暗いので、暗い、かつカメラ動きすぎで何が起きているのかよくわからず、つい眠くなってしまった。
 ミラーは自分に下された指令の妥当さに疑問を持ち、自分が正しいと思う行動を選択するのだが、その正しさが自分配置されている見取り図の中でどういう意味合いを持っているのか、自分の行動がその見取り図にどのように影響を及ぼすのかについては、それほど読みきれていない。また、彼の努力が実を結ぶかというとそうでもない。軍や国家などの大きな組織と相対した時、個人となったミラーに出来ることはわずかだ。ミラーは右往左往するものの、彼が含まれた見取り図の中では、その右往左往は大きな変化を与えるものではないのだ。この、対組織に対する個人の無力さはボーンシリーズとも共通している(ボーンは無敵に近いくらい強いが、その目的は自分が逃げ切ることだ)。個人の力を過大評価せず、ヒロイズムを得られる方向に話を持っていかないのがグリーングラス監督の持ち味かなと思った。
 そもそも本作の場合は、ミラーは事態の当事者ですらない。彼はイラクにおいては他所から来ていつかはいなくなる人だ。通訳の男性がミラーに一言浴びせるように、真の当事者はイラクに留まらざるを得ないイラクの国民だ。ミラーやブラウンの行動がどこかむなしいのはそのせいか。でも当事者だけであれこれやっても事が治まりそうに無い・・・というところが悩ましいのだろうが。




『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』

 日本語タイトルはちょっとやりすぎ感があるが、的は得ている。ジョニー・トー監督待望の新作・・・なのだがなぜ『文雀』は日本でロードショーしてくれないんですか・・・(と思ったら邦題「スリ」でDVD出てた。アマゾンのリンク貼っておきます。ちょうおすすめ!)!パリでレストランを経営しているコステロ(ジョニー・アリディ)は、単身マカオへ赴く。マカオ在住の娘一家が何者かに襲われ、娘の夫と孫は死に、娘は瀕死の重態となったのだ。偶然殺し屋と出くわしたコステロは彼らを追い、犯人探しを依頼する。
 前作『エグザイル 絆』とやっていることはあまり変わらないのだが、本作の方がより軽やか。ブロック転がしにしろ、過剰すぎる血しぶきにしろ、一歩間違うとギャグ(というか見ていて心の中で笑っちゃうんですが)になってしまう銃撃戦なのだが、それをシリアスに切なく見せてしまう力技がすごい。様式美を極めたからこそできる業だろう。任侠というか浪花節というか、クサいが痺れる。「子供の前では殺さない」「あいつが忘れても俺達が覚えている」等、ツボをつかれまくりだった。このナルシズムに乗れるか否かで本作(というかジョニー・トー作品全般)に対する態度が変わってくるように思う。
 男達の約束と復讐にのみ集中していく姿勢が、一種のユートピア的な、世俗と切り離された(復讐は非常に世俗的ではあるのに)世界を生み出している。男子のみの世界でいつまでも遊んでいたい・・・が、当然外部の要素がどんどん入ってくるので、ユートピアを延命させ、完結するために、彼らは客観的には破滅的な道を選ぶ。そもそも彼らは生き残ることは考えていないように見える。生き残ることは彼らにとって、幸せではないのだろう。それは遊びをやめたくない、日常に戻りたくないという子供の姿にも見える。
 大人の男達が活躍する男の仁義映画ではあるが、稚気を感じさせる。遊戯を感じさせるシーンが多いので、特にそう思ったのかもしれない。空に投げた皿を打ち落としたり、自転車を狙い撃ちして走らせたり、ブロックで攻防したり。コステロ最後の勝負も、その手助けとなるのは子供がよくやるいたずらだ。
 笑いを誘うシーンも多々あり、特にラム・シュが全く持っていつものラム・シュで、「香港映画に出てくるデブ」のお手本のような行動を、言葉少なに演じている。言葉といえば、セリフが全般的に少ない。コステロと殺し屋達の共通言語が、あまり達者ではない英語だというのも一因なのだが。セリフが少なくても状況がしっかりと分かるのはさすが。




『運命のボタン』

 ヴァージニア州郊外に住む夫婦、ノーマ(キャメロン・ディアス)とアーサー(ジェームズ・マースデン)の元に、奇妙な装置が届けられた。その日の夕方にノーマの元を、顔にひどい怪我の跡を持った男が訪れる。その男リチャードは、「ボタンを押せば100万ドルが手に入るが、同時にあなた達が知らない誰かが死ぬ」と告げる。ノーマとアーサーは悩むが、金策に困りボタンを押してしまう。監督は「ドニー・ダーコ」のリチャード・ケリー、原作はリチャード・マシスンの短編小説。
 全編に不穏な空気が漂い、ああ何か嫌なことが起きそう・・・という予感が途切れることがない。金の為に知らない誰かの命を絶てるか?というあまり気持ちの良くない提案が最初にあるので、不穏なのは当然なのだが、全然不穏なはずではないシーンまで不穏に見えるところがすごい。
 ネタとしては今時これか?!と思うようなB級SFものなのだ。ただ、舞台が1976年という設定で、美術面も執拗といっていいくらいに70年代を再現しようとしているので、2010年の新作映画を見ているというよりも、昔のB級サスペンス映画を見ているような気になってきた。ネタが古びていても違和感が全く無い。名作・秀作という雰囲気ではないが、結構面白く見ることが出来た。
 本作では人間が試される、しかも結構無茶な試され方をするので、見ていて嫌な気分になる人もいると思う。実際、主人公夫婦の追い詰められ方は薄気味悪いし意地も悪い。何もそんなやり方じゃなくてもねぇ・・・。ただ、それに腹が立つかというと、個人的にはそうでもない。人間が完全に自分の意思で決められることなんてあまりないと思っているので、まあしょうがないかなーくらいにしかテンションは上がらないのだ。自分の意思でわずかでも(それが本作のように究極の選択的なものであっても)決められることがあるだけいいじゃないかと。
 ノーマは利己的な理由でボタンを押してしまうが、彼女が特に利己的な人間というわけではない。「私が押さなくても誰かが押す」と思えば、押してしまっても不思議はない。最終的に、彼女は自分以外の存在の為にある決断をするのだが、突き詰めるとその決断も、自分の満足、自分の愛の為だ。利己的と利他的が地続きのようになっているのだ。利己的ではあるが、だからこそ自分の身に置き換える思いやりも生じてくる、という側面はノーマとリチャードとのやりとりの中でも垣間見え、わずかな救いを感じる。




『いばらの王』

 感染すると石化して死に至る伝染病、メデューサが蔓延する近未来。未来に治療の希望を託し、選ばれた160人がコールドスリープすることになった。その内の1人、カスミ(花澤香菜)は、残される双子の姉シズクのことを気に掛けながら眠りにつく。目覚めたカスミが目にしたものは、施設を覆う奇妙な植物と、襲い掛かってくる見たことのない動物たちだった。
 監督は片山一良、原作は岩原裕二の同名漫画。原作の細部はうろ覚えなのだが、映画はまた別物設定になっている。原作知らずに見てももちろん大丈夫。また本作はフルCG、3Dで製作されているが、キャラクターはいわゆるアニメっぽい2Dのデザイン。3Dで作ったキャラクターの表面を加工して2Dぽい外見にしているらしいが、不自然さは殆どない(所々、「お面貼り付けました」ぽく見えるところがあるのだが)。動きもちゃんと(というのも変だが)セルアニメっぽくなっているのが、手が込んでいる。
 冒頭での情報の纏め方、見せ方がわかりやすい。やや長いかもしれないが、よく整理されていると思う。原作はもっとSF寄りだったように思うが、映画はもっとファンタジー的な方向に設定をずらしている。そのほうが時間のワクが限られた作品としては伏線の収まりがよかったというのもあるだろうし、「いばら姫」のイメージを全面的に使いたかったというのもあるだろう。反面、わりとよくある設定(笑)になっちゃったなぁという気がしなくもないが(笑)、これはこれで面白い。最近他の映画の感想でもよく書いている気がするが、ベタはやるならやりきった方がいいなと実感。中途半端にヒネるよりは成功率高くなるのではないかと思う。
 最後の方、マルコがシズクに向ける言葉が、それまでの流れからするとちぐはぐ(というか文脈からずれている)な気がしたのだが、あれは「物語」というものに向けた監督の言葉なのかなとふと思った。フィクションを愛する者にとっては実感感じられる言葉なのでは。






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