3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2010年04月

『ブラックジュース』

マーゴ・ラナガン著、佐田千織訳
 河出書房の奇想コレクションとしては珍しく、短編集である原著をまるごと訳した1冊。1編目の「沈んでいく姉さんを送る歌」は、姉が夫殺しの罰としてタールの沼に沈められるのを「ぼく」と家族が見送るという残酷なのにどこか牧歌的な物語。この作品で世界幻想文学大賞を受賞したそうだ。その世界に対する説明なく、いきなり異世界での事象が語られる。ビジュアル力が強くイメージが強烈。わりと残酷なシチュエーションの話が多いのに、妙に陽気なのは著者の個性だろうか。書き様によってはもっとじめっとした雰囲気になりそうだが。また、主人公が子供であったり、何らかの形での成長を描いている話が目立つのは、著者がヤングアダルト分野で活躍してきたからだろうか。「ヨウリンイン」のような、苦い成長の形もあるが。




『闇の奥』

ジョゼフ・コンラッド著、藤永茂訳
イギリスの小説家コンラッドが、1902年に発表した作品。著者が実際に船員をしていたころの体験を元に書かれたと言われている。西洋植民地主義への批判という文脈で読まれてきたようだが(それ以前は額面どおり、未開のジャングル紀行ものとして読まれていたようだ)、実際に読んでみると、紀行小説というよりも怪異小説、近代西洋とか未開とかいうくくりをすっとばした人間の妄想を描いているように思う。船乗りのマーロウが「私」を含む仲間に自分の体験を語るという形式なのだが、全てマーロウの頭の中で作り出されたものとも見える。密林は単に密林なのだが、人間の恐怖や狂気が、そこに何か得体の知れない恐ろしいものを投影する。そのくらい彼の語りはとりとめもなく、描かれる情景は悪夢の中の出来事のようで、紀行小説、冒険小説というよりも幻想小説のよう。マーロウが探しに行った象牙商人クルツも、彼に関する噂ばかりがふくらみ、実態がないかのような人物だ。現代の私達は、さすがに20世紀初頭のような「未開」に対する見方はしていないから、よけいにそう思うのかもしれないが。当時の読者は額面どおりに取っていたというけれど本当かなぁ・・・。著者にまんまと乗せられたという部分の方が大きかったんじゃないか。




『月に囚われた男』

 月で新しい資源ヘリウム3が発見され、地球上のエネルギー問題が解決された近未来。宇宙飛行士のサム(サム・ロックウェル)は、3年の任期でたった一人、月に駐在しヘリウム3の採掘と地球への輸送業務を行っていた。仕事を手伝い話し相手になるのはコンピュータのガーティだけ。任期が残り2週間となったある日、サムは作業中に事故に遭い気を失ってしまう。
 監督はこれが長編デビューとなるダンカン・ジョーンズ。地味な作品だが、個人的にはかなり好き。ひと昔前のSF小説のような味わいがある。しかしキャッチーな要素はかなり少ない(笑)ので、どういう経緯で日本公開にこぎつけたのか気になる。配給会社の中によっぽどSF好きな人がいたのだろうか。ジャンルとしてはおそらくハードSFなのだが、「何が起きているのか」というサスペンス部分のネタは、予告編の段階である程度割れている。が、サスペンス部分が「何が起きているか」から「これからどうするのか」という方向にあっさりとスライドするところが面白い。こういう展開だったら、あの予告編でも支障はないわけねと納得した。
 SFであると同時に、どことなく本格ミステリ的な文法を持った作品だと思う。といっても論理的に精緻である、あるいはトリッキーであるということではなく、ジャンルとしての整合性の為には多少のリアリティ(ないしは他のジャンルのフィクションで必要とされるような要素)は犠牲にしてもかまわないというような方向性が、ちょっと似ているかなと思った。
 設定にしろ作風にしろ、やや冷ややかにも見える。が、監督は意外にヒューマニスト、人間好きなのではないかなと思う。人間に対する信頼感が根っこにあるように思った。サムが何を「やらなかったか」という部分にそれが垣間見える。蛇足にも思えるラストも、サムに対して放っておけない気持ちが生まれてきちゃったんじゃないかと。コンピュータの意外な健気さも、論理上はズレた行動なだけに、よりきゅんとくる。
 ともあれ、サム・ロックウェルの一人勝ち映画であることは間違いない。この人、上手かったんだな~。あとメインテーマ曲が不安さをかきたてて、じわじわとよかった。






『雨に唄えば』

 TOHOシネマズ主催の「午前10時の映画祭」にて鑑賞。ドン・ロックウッド(ジーン・ケリー)とコスモ・ブラウン(ドナルド・オコナー)は共にブロードウェイでの活躍を夢見る友人同士。ドンはスタントの代役をこなしたことがきっかけで映画スターに。彼の相手役を勤める女優リナ(ジーン・ヘイゲン)は美人だが気取りやで、ドンの恋人ともてはやされていたがドンにその気はなかった。ある日踊り子のケーシー(デビー・レイノルズ)と出合ったドンは、彼女に惹かれていく。
 メインテーマ曲が有名すぎる、アーサー・フリード監督の代表作(1952年)。振り付けはジーン・ケリーとスタンリー・ドーネン。音楽監督はレニー・レイトン、主な歌曲の作曲はネイシオ・H・ブラウン。ミュージカル映画の名作といわれるのも納得だ。ジーン・ケリーが雨の中歌い踊るシーンは、やはり名場面。楽曲、振り付け共に映画内でも一番いい。他にはドン、コスモ、ケーシーがおはようと言い合う歌(題名わからないんでアバウトな説明で失礼します)が楽しかった。
 本作はジーン・ケリーとデビー・レイノルズの映画という向きが強いのだろうし、確かにこの2人の歌と踊りは魅力的。しかし個人的にはコスモ役のオコナーがよかった。彼のダンスはケリーのような優雅なものではないが、役柄に合った軽妙さと勢いのよさがある。そしてコメディアンの基本とでも言うべき体を張ったリアクションと顔芸の数々(笑)。やはりコメディアンは身体能力高くないと!という説得力がある。
 ストーリーの背景となっているのは、トーキーが登場してきた頃。それはもう衝撃だったのだろうということがなんとなくわかる。見る側にとっては新しい娯楽でも、それまで無声映画での経験しかなかった俳優やスタッフにとっては、職を奪われるかもしれない脅威だ。リナのように、声に難ありで職を失った俳優もいただろう。世界最初のトーキーは『ジャズ・シンガー』(1927年)だが、本作内にもそれらしき作品が出てきて、ドンらの出演作は客をごっそり取られてしまっている。本作は1952年の作品なので、当時のことをよく知っているスタッフももちろんいただろう。映画自らの歴史に自己言及しているみたいでちょっと面白い。
 本作はミュージカルとしてもラブコメとしても楽しいのだが、そういった背景を思うと複雑なものがある。特にリナの処遇には納得がいかない。確かに彼女は嫌な女ではあるが、映画業界で生き残る為にがむしゃらになるのは当然だし、少なくともサイレント映画女優としての業績はあるのだから、そんな恥をかかせるようなやり方しなくてもいいじゃないかと思ってしまうのだ。映画業界の中でも、時代に上手く乗れなかった人も大勢いたと思うのだが、そういう人達に対する思いやりがないよなと、若干嫌な気持ちになった。





『初夜』

イアン・マキューアン著、松村潔訳
この邦題にした翻訳者勇気ある(笑)。結婚式をあげたばかりの若いカップル、エドワードとフローレンスは、チェジル・ビーチを臨むホテルの一室でディナーをとっていた。初夜を控えた2人は高揚するものの、不安もぬぐえずにいる。嫌な話を書かせると世界トップクラスに君臨するであろうマキューアン先生だが、本作はさほど嫌な話ではなく、ほろ苦い程度。あーでも男性にとってはこのシチュエーションはキツいのかな・・・(苦笑)。一晩でエドワードとフローレンスの人生が決定的に変わってしまうのだが、きっかけはそう大したことではない。少なくとも、どちらかがもう少し冷静だったり、率直だったり、何より2人が生まれたのがあと数年後だったらもっと別の展開になった可能性がある(時代背景でかなり左右される要素があるので)。この出来事のせいで2人が不幸な人生を送るようになったというわけではない。わけではないが、もしあの時こうなっていたら・・・と振り返った時の苦さ、やるせなさは、多分誰もが共感できることではないかと思う。そういえば、マキューアンは、こういった「もしあの時こうしていたら~」という取り返しのつかなさを『贖罪』でも描いていた。彼らの「その後」をあっという間に語る構成が、数時間の濃密さとの対比となっていてより苦い。




『どこから行っても遠い町』

川上弘美著
川上弘美が角田光代化しているような連作短編集。舞台が東京都下のちょっと田舎っぽい住宅地というところも似ている。各話の登場人物にちょっとずつ相互関係があると、なんとなくお徳感を感じるのは私だけか。が、この人はあの時実はこんな・・・という側面がわかってしまうという怖さも。角田作品ほどぐさりとはこないが、足元が徐々に沈んでいくような不穏さがある(この本、表紙の絵がそもそも何となく不穏だ。童画調なのが却って怖い)。日常の営みの中に、人間のよくわからない部分がべろんと出てくるのだ。もっとも、そのよくわからなさによって人間関係上、気が楽になることもあるのだけれど。あいまいさの中でしか成立しない何かがある。ぐだぐだだと見るむきもあるかもしれないが、本作に登場する人たちは、そのことをよくわかっているのではないだろうか。しかし川上弘美は本当に小説が上手いよなぁ・・・




『バビロン・ベイビーズ』

モーリス・G・ダンテック著、平岡敦訳
シベリアンマフィア、GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)、新興宗教団体、科学者、暴走族らが1人の分裂症の女性マリ、正確には彼女が宿している「何か」を巡って大抗争を繰り広げる。様々なSF要素が思いっきり詰め込まれていて、SF知能指数の低い私にはちょっとついていくのが大変だった。ただ、SF度が高くて読みにくいのか、小説としてごちゃごちゃしていて読みにくいのか判断に困るところはある(笑)。ウイルスによる変革、遺伝子操作、全ての存在を結びつけるネットワーク等は近年のSFのお約束なのか?世界を広く知覚する能力はそんなに魅力的なのかな・・・。しかしそれぞれの要素がうまくかみ合っていないような・・・。そもそもなぜ分裂症?(今は分裂症という言い方はしないのだろうが)。分裂症が本作に出てくるような症状なのかはともかく、その特性が彼女が宿す「何か」の特性とどう関連づいているのかがいまいちよくわからない。ちなみにマチュー・カソヴィッツが本作を映画化しているそうだが、どう纏めたんだ・・・見当がつかない。




『第9地区』

 南アフリカ、ヨハネスブルグの上空に巨大な宇宙船が出現した。乗っていたエイリアンたちは難民として「第9地区」と呼ばれるキャンプ地に留まることになった。そして28年後。第9地区はスラム化し、地域の人間たちからの排斥運動が起こっていた。政府は民間企業MNUにエイリアンの強制移住を依頼。MUNの責任者ヴィカス(シャルト・コプリー)は軍を率いて立ち退き勧告に向かうが。監督はニール・ブロムカンプ。製作がピーター・ジャクソンだということでも話題になった。
 舞台がアフリカ、人口は増え続けるが行くあてもなく、人道支援を行っていた(発見されたエイリアンたちが病気と衰弱で不潔かつヨレヨレなのが妙にリアル・・・)政府も今や渋い顔、というとこれはリアルな難民問題が下敷きになっているというのは明らかなのだが、堅苦しさは全然なく、燃えるB級SFテイストに溢れている。とても面白かったし、終盤の展開は燃える!設定がきちんとできていて、その見せ方と、この部分は説明しなくてもいいやという見切りが上手い。さくさく話が進むので見やすかった。ただ、モキュメンタリー手法で撮られているのだが、途中で明らかにモキュメンタリーではない(誰の視点ともつかない)映像になっている。切り替えというより併用に近いのだが、これだったらモキュメンタリー風にする必要はないんじゃないかと思った。画像がある程度粗くても許されるという利点はあるかもしれないが。
 本作に出てくるエイリアンは通称「エビ」で見た目は少々グロテスク(映画が終わった後で、若い女性が「とりあえずきれいなものを見たい」と言っていた。連れの女性2人は「私たち的には超OKなんだけど、ごめんね付き合わせて・・・」と言っていた)だし、そんなに賢そうでもない(働きバチと同じようなもので、頭が悪いというよりも上官がいないと効率的に動けないという解説がナイス)。人間たちは彼らをさげすみ、平気で残酷な仕打ちをする。この特に悪意がない残酷さが見ていてきつかった。主人公のヴィカスは基本正直な「善人」なのだが、エイリアン相手だと平気で姑息な騙し方をするし、交渉の成り行きで彼らに危害が加えられても大して気にしない。本作では意図的に人間を卑小に、他者に対する想像力の欠けた存在として描いている。人間の、陥りがちな欠点を突き付けられた感じがする。
 そんな中で徐々に(肉体的な変化によるものだとしても)エイリアンを一個の人格を持った存在と認識していくヴィカス。王道の展開ではあるのだが、映画を見ている側も、だんだんエイリアンがかわいく見えてくるところがすごい。観客の感情のコントロールをしっかりやってくるなぁと感心した。ヴィカスくらいに「変化」してしまわないと異なる存在のことなどわからないよという、かなり悲観的な視線とも言えるが・・・。ともあれ小難しいことは言わず、後半は妙に派手で盛り上がるので、飛び道具イイ!とかパワードスーツちょうイイ!とかウッキウキしているうちに上手く乗せられてしまった感じもする。それはいい娯楽映画であるということなのだと思うが。







 

『嵐が丘 上、下』

E・ブロンテ著、小野寺健訳
光文社古典新訳文庫版にて。10代の頃にかなり古い訳(版元はわからないが、世界文学全集の中に入っていた)のものを読んだことがある。当時は非常に読みにくく、加えてよくわからないなりに怖かったのだが、改めて読んでもやっぱり怖い。訳文が読みやすくなっているのはありがたいのだが、それぞれの人物の怨念まで伝わりやすくなっている。理屈や良識がまったく通用しない、説得がきかない存在がこんなに怖いとは・・・。ただ、人間を描くというよりも、人間の感情のある部分をむき出して投げつけられているような印象を受けた。恋愛小説ということにされているが、そうでもないのではないだろうか。実はものすごく観念的な小説だったということがわかった。また、昔読んだときは荒地の情景がもっと強く迫ってきた記憶があるのだが、今回はそういった部分は後退していたように思う。もっと、場所の魔力みたいなものがあった気がするのだが・・・。新訳だと風がごうごう呻っている感じがあまりしない。単に昔読んだ時の刷り込みが強かっただけか?




『シャッター・アイランド』

 1954年のアメリカ。精神病を患う受刑者のみを収容したアッシュクリフ病院で、鍵のかかった病室から女性が消えるという事件が起きた。捜査の為に病院のある島、通称“シャッターアイランド”へ向かった連邦捜査官テディ(レオナルド・ディカプリオ)と新任の相棒チャック。失踪した女性は奇妙なメモを残していた。監督はマーティン・スコセッシ、原作はデニス・ルヘインの同名小説。
 公開前から大々的に「謎解き」「意外な結末」「錯覚」というキーワードを前面に押し出していた本作だが、本編上映前に例の「この線は全部平行です」の図が出てきてうんざりした。登場人物の視線や動作に注目との注意書きまで出てくるのだが、そこまで指示してやらないと観客は理解できないと思っているのだろうか。親切を通り越してバカにされているような気がする。そもそも、そこまで念押ししないといけないような超絶推理ものでも驚愕の真相でもないんだよ!途中で普通にわかるよ!というかスコセッシは明らかに途中でわかるように作ってるよ!
 そもそも本作が「謎解き」ものなのかというとかなり疑問だ。少なくとも監督が描こうとしたのは、いわゆる本格ミステリとしての「謎解き」ではないだろう。原作は確かに大仕掛けなトリックを使った「ラスト驚愕」系のミステリではあるのだが、活字による小説と映像作品では伏線の敷き方が違う。原作で行われているような謎の仕込みかたは、多分映画では出来ないだろう。スコセッシはさすがにそこのところをよくわかっているなという印象。本作は論理的に謎を解くというよりも、主人公を取り巻く、主人公にとっての世界を描くというところに重点を置いている。どこまで行っても「自分にとっての世界」という枠からは逃れられず、その世界から抜け出すには、彼が選んだやりかたしかないというのがやりきれない。
 もっとも、本作が映画、特にエンターテイメント大作として成功しているのかというと、正直微妙だと思う。地味な地獄めぐりみたいな感じでメリハリに欠ける。私がスコセッシ作品との相性が悪い(今までスコセッシ監督の映画を見て眠くならなかったためしがない。除く「シャイン・ア・ライト」)というのも一因なのだが・・・。ルヘイン作品は他にも映像化に向いていそうなものがあるのに、よりによってなぜこれをチョイスしたんだスコセッシ。ただしラスト、原作とは異なる哀感の持たせ方はすごく良いと思った。




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